八幡町遊郭を歩く
八幡町は盛岡八幡宮の参詣道として整備された町だけあって、八幡宮までまっすぐ伸びる一本道が町の中心を貫いています。遊郭はこの道沿い、または一本外れた場所にありました。
戦前の遊郭時代、手前に見える「千代寿し」あたりに大門が設置されていました。明治時代には盛岡で真っ先にガス灯が設置され、遊里の夜を明るく照らしたと伝えられています。
遊女は当然、許可なく大門から外へ出ることは御法度。大門に見張りなどはおらず、出ようと思えばふつうに出られたそうですが、出ると必ずどこからか連絡が入るようで、楼主が警察に管理不行届として罰則を受けます。そして楼主から遊女へ…これ以上書く必要はないでしょう。
現在でもこの大門跡が八幡町と隣町との境目になっており、見えない遊郭の残滓となっています。
八幡町の大通り沿いには、「旅館瀬川屋」があります。ほとんどの人が見逃しがちですが、その歴史は江戸時代にまでさかのぼり、明治初期に高級料亭として非常に有名なところでした。
昭和19年(1944)の料亭営業中止命令により旅館に転業、現在に至っています。
八幡町通りを八幡宮に向けて歩いた道沿いには、『全国女性街ガイド』で名指しされている「沢田屋」がありました。建物は現存しませんが、場所は現在スナックビルになっています。
『全国女性〜』によると、ここを中心に赤線の店があったと言いますが、地元の方からの情報で「沢田屋」は戦前からの料亭でかなりの大店だったようです。
「沢田屋」跡の隣には「下田屋」があったと記録にありますが、こちらがそうだと思われます。この風貌といい外壁の色といい、強すぎるくらいの個性を放つこの建築は見る者を釘付けにさせます。
昭和40年代には、旧妓楼がいくつか残っていました。写真はそのうちの一つの元「南部楼」。屋号も残っていました。南部楼は八幡宮に残っている昭和3年(1928)の奉納札にも名前が残っている妓楼でした。
旧南部楼の跡は現在、駐車場になっています。
距離的に「沢田屋の取り巻き」というのはビミョーですが、同じブロック内には八幡町遊郭跡を象徴するような建築が残っています。
『赤線跡を歩く〈完結編〉続々・消えゆく夢の街を訪ねて』でも「異彩を放つモルタル造り」と紹介されているこの建物、遊里跡探索で八幡町まで来る人がまず目指す目的地とくればこれではないでしょうか。見るからに「なるほど…」とお察しになってしまうこの建物、まず間違いないでしょう。
赤線廃止跡すぐの地図によると、ここはふつうの民家となっていたようですが、昭和47年(1972)の地図を見ると旅館になっていました。
こちらも、八幡町遊郭とくればこれ!という建物です。欠けた月をモチーフにした窓が建物のトレードマークとなっています。昔の資料によると、ここは「かねだ」という料亭だったそうです。すぐ近くには「㐂の字」という現役の料亭もあり、ここのブロックは「遊郭」といっても花街エリアだったのかもしれません。
なお、「㐂の字」は昭和30年代の地図を見ると「倉庫」になっていたので、できたのはそう古くもなさそうです。
「㐂の字」の横には、ぱっと見ではわからない程度の小径があります。見逃した人も多いと思います。私も探索3回目で
「こんな道があったのか!」
とビックリしたほど。
Google mapのストリートビューの車も入れないような小径には、かつてバーや旅館など何軒かの怪しいお店があったようです。
八幡町育ちの岩手の偉人
ところで、八幡町とゆかりのある人物に、こんな人がいます。
海軍大将で総理大臣にもなった米内光政(1880-1948)です。
米内の経歴は省略しますが、海軍好きにとっては知らない人はいないほど有名な海軍軍人でもあり、岩手・盛岡が生んだ偉人として必ず名前が出てくる人物です。
米内に関しては、下のブログ記事をどうぞ。
米内は生まれこそ違う場所なものの、育ちはここ八幡町。中学を卒業して海軍兵学校へ進むまで、ここ界隈で育ちました。父受政の実家である豊川家が比較的裕福だったため、八幡町にあった豊川家のお屋敷を借りて光政は「ボンボン」として育ちました。ところが、受政の借金や豊川家の没落で、同じ八幡町でもお屋敷から長屋を間借りする貧乏生活へ。しかし、経済状態は悪くなったといっても「赤貧洗うがごとしというほどではなかった」(光政の姉、ヒサの証言)とのこと。
その八幡町には、米内の居宅跡碑があります。遊郭とエリアが外れているのか、そもそも米内を知らないのか、八幡町と米内光政の絡みを取り上げたサイトはないようです。
八幡町は全体が遊郭というわけではありません。
八幡宮へ進む道の途中から、車やバイクだと気づかない程度に土地が盛り上がっています。今はゆるやかですが、明治大正の頃はもっと傾斜が大きかったそうです。
写真手前の石畳は元々川だったところで、そこから奥は「坂の上」と呼ばれた、同じ八幡町でも遊郭とは関係ない区域でした。米内の実家もそこにありました。
が、遊郭の隣で育った米内が、不夜城の輝きを放った遊里のことを見ていないわけがない。どころか、家から旧制盛岡中学へは遊里道一本しかなかったため、通学には必ず遊郭を通らなければならない。
「朝帰りの客と娼芸妓と鉢合わせたら、駆け足で八幡町の通りを歩いていた」
と、田子一民(元衆院議長)の回想にあります。
そんな米内が海軍大臣だったある日、部下の副官にこんなことを言いました。
君は芸者にモテる方法を知ってるか
無口で普段はそんなことを言わない米内がいきなり何だ…と部下は驚いたものの、尊敬する上官の言うことだと話を聞いてみると。
過去を詮索しないことだよ
花柳界の女性は貧しい家庭に育ち、暗い過去を背負っていることが多い。過去を不問にして一切触れず、一人の女性として接してあげること。これが米内流「モテる男のコツ」。
米内は当時の日本人としては背が高く(177cm)、コーカソイド的な風貌もあって、芸者から一般女性、果ては昭和天皇にまでモテモテ。酒飲み友達の馴染み芸者が米内に惚れ、いわば「俺の嫁」が米内に取られてしまっても、
米内さんだから仕方ないやww
と喧嘩にすらならないほどでした。
「俺の米内がモテないわけがない」話だけでも一冊の本ができるほどですが、彼が八幡町で育ったことを知らないと、上の言葉はただのモテ男の戯言に聞こえます。しかし、盛岡花柳界には直接接していないものの、少なくても片目でその世界を見て育った米内にとっては、少年期からそれを肌で知っていたのかもしれません。
八幡町の花街は、数はめっきり少なくなってしまったものの、芸妓が現在も活躍しております。
色街としての寿命はとうの昔に尽きましたが、芸妓の街としてはまだ現役だった八幡町の物語、これにてお開きと致します。
岩手県の他の遊郭の話はこちら!
・岩手県史
・盛岡市史 近代編
・盛岡商工要覧(昭和24年 29年)
・盛岡市の商工業(昭和6年)
・もりおか物語
・新盛岡物語
・盛岡市住宅明細地図(昭和35年版)
・盛岡市住宅明細図(昭和37年版)
・ゼンリン住宅地図(昭和47年版)
・なつかしのアルバム盛岡写真帳
・写真アルバム 盛岡、滝沢、岩手、紫波の昭和
・みちのく盛岡 この街この人 新馬町、八幡町界隈
・図説盛岡四百年 下巻Ⅰ Ⅱ
・米内光政(阿川弘之)
・米内光政追想録
・海軍一軍人の生涯(松田十刻)
・岩手日報
・朝日新聞 岩手版
・読売新聞 岩手版
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