花巻遊郭(岩手県花巻市)|遊郭・赤線跡をゆく|

岩手県花巻遊廓 遊郭・赤線跡をゆく

東北の北に位置し、日本の都道府県の中で2番目に大きい岩手県。
地図で見るとそれほどではないと思いますが、実際電車、それも各駅停車に乗って岩手県を縦断してみると、その大きさを体感することができます。

そんな岩手県のちょうど真ん中あたりにあるのが花巻市。温泉や岩手県唯一の空港があるところですが、少し前は野球の大谷翔平選手(地元の花巻東高校出身)で盛り上がったところでもあります。

現在はひっそりとしている地方都市ですが、そんな中、人でごった返している場所があります。

マルカン大食堂

マルカン大食堂です。

デパート、百貨店とくれば「デパ地下」が外国人観光客の間でも話題となりましたが、かつては階上の大食堂が風物詩でした。関西でも、梅田や神戸三宮の阪急百貨店や、難波の高島屋が名物でした。あそこで洋食を食べるのが一つのステータスだった時代もあり、私が幼い時にもそれは残っていたことを肌で感じていました。

マルカン大食堂については、ググれば優れたレビューが、それこそマルカンのメニューの数ほど出くるので私は語りません。書いても労力の割には見てくれる人が少なそうなのでw

それより私が書きたいのは、花巻にあった遊郭の話なのです。

スポンサーリンク

■花巻の遊郭

花巻の遊郭は、明治18年(1885)に裏町(現在の上町)に貸座敷免許地、つまり遊郭としての営業が認められたのですが、それまでは「殆ど百姓家ばかりしかな」かった東北のふつうの農村でした。

それに対し、現在でも南部家の家臣が開いた花巻城がある鍵町(現在の坂本町)には小料理屋が立ち並び、むしろこちらが遊郭開設にふさわしいとされていました。
が、その話を聞きつけた地元の有力者が岩手県に陳情に及んだところ、裏町が遊里開設の権利をGETし、陳情者の一人八重樫治太郎が明治22年(1889)、真っ先に「千歳楼」を開業しました。
千歳楼の繁盛ぶりを見て、様子見だった他の人も続々と開業しました。郷土史によると南は仙台、北は八戸など東北各地から美人を集め、娼妓、芸妓、酌婦が入り交じり「なかなかに繁盛した」とあります。

そこに明治23年(1890)11月に日本鉄道(東北本線)が開通、花巻駅が開業し交通の便も良くなり花巻自体の発展とともに遊郭も繁盛していきました。

ところが!

◆謎の廓!?「吹張町」

郷土史には上記のように書いており、現地史に明るくない私などは、ふむふむ…となってしまうのですが、明治期の『岩手県統計書』の貸座敷の項目を見てみると、花巻遊郭の住所は裏町ではなく「吹張町」となっているではありませんか!

裏町と吹張町は、位置が違います。

花巻遊廓吹張町
吹張町は現存し、現在でも飲食店などが建ち並んでいるので、昔も人が集まりやすい一画だったと思われます。
最初は、岩手県の当局者が場所を間違えたのか?と推測していました。が、明治24年(1891)の統計書には吹張町と裏町が二つとも仲良く掲載され、数字的には同21年(1888)に吹張町から裏町へバトンタッチ(移転)しているように見えます。
実際、裏町に遊郭を作る免許が交付された明治18年より前の統計書の数字にも「花巻吹張町」として数字が出ており、ここに遊里があったことは確かです。
が、『花巻町史』にも郷土史の遊郭の記述にも、吹張町の名前は一文字もない…。これは一体何なのか?花巻の近代史に新たな「?」が増えました。

 

◆花巻遊廓の妓楼

郷土資料によると、かつて花巻にあった妓楼は以下の通り。

花巻遊廓妓楼一覧

上記は同時に存在したわけではなく、遊郭があった57年間にあった「歴代の」でありますのでご注意を。
その間に妓楼の数は多少変化しています。統計書の数字を丹念にまとめてみると、だいたい6~10軒で推移し、やはりというかまさかというか、昭和初期にその数を減らしています。
特に興味深いのが、大正年間の妓楼数の安定さ。大正の間はずっと9軒の安定志向、末期に1~2軒増えている感じです。
が、上述のとおり昭和恐慌の波を東北がまともにかぶってしまったこともあり、そこから衰退していく有様が統計書の数字からも垣間見ることができます。

なお、『全国遊廓案内』には花巻の記述があるのですが、よく読むと「駅から西北約五里の地点にあって、花巻温泉電車で三十二分」とあります。どうもこれは郊外の温泉の方になるのですが、そうなると花巻には遊里が二つ存在していたことになります。
が、一次資料である統計書や内務省警保局(現在の警察庁)のデータにはそんなもの存在せず。温泉街の芸妓がヤミで身体も売っており(事実上の私娼窟)、著者あるいは情報提供者が遊郭と間違えたのだろうと推定されます。
『全国遊廓案内』だけをソースにしてブログを書いている人が散見されますが、この書物、細かい間違いがすごく多いので気をつけた方がいいです。ソースにしてもいいけれど、「バイブル」にしてはいけません。

◆花巻空襲と遊郭

戦争の影は、花巻にも訪れることになりました。それも突然に。

遊郭や花街は、昭和19年2月の政府命令で休業を余儀なくされました。遊郭とて商売なので営業できないのはかなりの痛手ですが、そこに追い討ちをかけたのが空襲でした。

 

1945花巻空襲写真
(米国立公文書館所蔵のものを一部加工)

昭和20年8月10日、米空母ハンコックから飛び立った戦闘機や小型爆撃機が花巻の町を襲い、市街地や駅周辺が焼失しました。死者は48名。この時、宮澤賢治の生家は焼け、東京の空襲で焼け出され花巻に疎開した高村光太郎も、二度にたび空襲の炎の中を逃げることになりました。しかし、米軍は何故軍事拠点でもない花巻を攻撃したのでしょうかね。

この時、赤丸の位置にあった遊郭も焼失しました。

焼失するだけならどこの遊郭でもそう、そこから雑草のように数日後にはバラックで営業再開…というのがいつものパターンでした。政府の営業停止命令?そんなもの知ったこっちゃねーと。そこから戦後の赤線への伏線となります。

しかし、花巻は焼失後、復活することはなかったそうです。戦争の影響で復活する体力(資金など)を奪われていたのか、それとも他に理由があったのか、それを示す資料はありません。

 

◆戦後の花巻

戦後の赤線青線は、同じ花巻でも郊外の温泉街に移ります。
赤線現役時の『岩手日報』の記事によると、岩手県下の赤線青線の業者約180軒の業種形態は以下のように分かれるそうです。

岩手県赤線青線業務形態1.旅館業法に基づいて簡易旅館の許可を得ているもの2.風俗営業法に基づいて料亭・料理屋の許可を得ているもの

3.食品衛生法による飲食点営業の許可で特殊飲食店を経営しているもの

4.芸妓、酌婦のような法に基づく営業許可を得ないで行っている置屋

戦後の花巻は、4.に該当します。
『全国女性街ガイド』には、花巻温泉は芸妓が甲乙級に分かれており、乙が酌婦という名目なものの、事実上の売笑婦とあります。昭和30年になると5~6名を除いて乙級ばかりとなり、約100名ほどが置屋から温泉宿に派遣されたそうな。宿の素泊まりの相場が400円ほどで芸者と泊まりで1500円。『岩手日報』の昭和33年の記事によると『泊まり』が1800円、女の取り分が600円とのこと。
同時期(昭和30年)の東京でのとんかつの平均価格が150円だったので1、「お泊まり」はとんかつ10食分…これは高いのか安いのか。

NEXT⇒遊里跡はどうなっているのか
  1. 『値段の明治・大正・昭和風俗史』週刊朝日編より

コメント

タイトルとURLをコピーしました