あの会社が…倒産して今はないゲーム会社たち

倒産したゲーム会社歴史エッセイ

自分史はすなわちゲームと共にあり。ゲームをすれば寝食を忘れ時間を忘れ、そして我を忘れたゲーム少年でもありました。
現在ゲームをやることはないですが、たまにレトロなゲームが置いてあるゲーセンなどに行くと、やはり時間を忘れ夢中になっています。
こんな有様なので、プレステなどゲーム機を買うと途端に生活に支障が出てしまうのは明白。「やらない」というより「封印中」と表現した方が正解です。

そのきっかけは、やはりファミコン。
ファミコンの発売日も、スーパーマリオの発売日も覚えている、さらに初代ドラクエの発売日にお札を手に持ちおもちゃ屋へ走った世代。
我が人生、ファミコンと共にあり。そういう意味では、私の人生、いや日本の子供数千万人の人生を狂わせたファミコンの罪は深い。

今まで市場で販売されたゲームの種類は、それこそ神のみぞ知るの数量になります。自分ではかなりの数のゲームをやったつもりですが、実際は氷山の一角程度なのでしょう。ファミコンからプレステ4まで、一体いくつのゲームが販売されたのか。それをカウントした人はいるのだろうか。おそらく、世界のどこかにいると思います。

そんな星の数ほどあるゲームは、土の中に種を植えて水を撒けばできるものではありません。ちゃんとゲームメーカーというものが存在します。
ゲーム会社も、開発会社から販売会社まで星の数ほどあるのでしょうが、ゲーム業界は常に戦国時代、小さな牌を奪い合う修羅場と聞きます。
今は全く聞かないあのメーカーも、ゲーム業界から撤退しただけで会社自体は存続しているケースがほとんどですが、中には倒産・破産で跡形もなく消え去ったメーカーも多数あります。
今回はその中でも、

え?こんな有名なゲームを作っていたのに!

と驚くような、「今は亡き」なメーカーを。

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倒産したゲームメーカーたち…

ジャレコ

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ジャレコと言えば、ファミコンのあの伝説のゲームが真っ先に思い浮かびます。

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「燃えろ!プロ野球」です。

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40代以上なら、ファミコンの野球ゲームとくれば「ファミスタ」かこれを思い浮かべる人も多いと思います。
また、

さすがは落合だ、バントでホームランが打てるぜ!

という裏キャッチフレーズでもお馴染みの野球ゲームです。
私がこれを初めてやったのが中学校1年の時。同級生が買ったというのでやりに行った記憶があるのですが、Wikipedia先生によると発売日は1987年6月。自分の記憶とばっちり一致。
おっと、また長くなってしまうのでこのゲームの話はこれまでだ。

ジャレコの他のゲームと言えば、

ジャレコのシティーコネクション
(画面はアーケード版)

狂ドライビングを披露しては世界中の警察に迷惑をかけた主人公、実はかわいいおねーちゃんだったと、当時の二次元好きの萌えバロメーターを急上昇させた「シティコネクション」や、

ファミコンのゲームの忍者くん
(画面はアーケード版)

ゲーセンでもファミコンでも人気があった「忍者くん」も、ファミコン版はジャレコからでした(アーケード版は別会社ですが、それは後述)。

忍者じゃじゃ丸くん

その続編的な「忍者じゃじゃ丸くん」もありましたね~。これはファミコン中期の名作の一つでした。

ジャレコのファミコンゲームミシシッピー殺人事件

また、30年の月日を経てもいまだ内容が賛否両論、究極のクソゲーなのか名作なのか議論が続くレジェンド、「ミシシッピー殺人事件」もジャレコでした。

ジャレコのファミコンゲームうる星やつら ラムのウェディングベル

個人的には、「うる星やつら ラムのウェディングベル」というゲームも意外に面白かったのを覚えています。

ファミコン世代な方はおそらく、これらのゲームすべてを記憶していることでしょう。それほどの名作を夜に送り出したメーカーだったのです。

しかし、2000年頃に外資に買収されてからジャレコは迷走し始めます。2006年に「新ジャレコ」(謎)を設立するも数年後には事実上の休眠状態に入りました。
そして2014年、親会社の破産と共にジャレコは共倒れという形で消滅しました。
これだけの記憶に残るゲームを作った会社が、最後は誰にも知られることもなく消滅…世はかくも非情なのか。

データイースト

データイースト

データイーストは、ゲーム業界の中では老舗の一つでした。「DECO」という名でも知られていました。

この会社が世に出したファミコンでの名作と言えば、

データイーストのファミコンゲームヘラクレスの栄光

この「ヘラクレスの栄光」でしょう。

ギリシャ神話をベースにしたRPGで、基本システムは言っちゃ悪いが、ドラクエのン番目のどじょうです。 が、防具の「耐久力」が斬新でかつ結構うざかった記憶があります。
とは言うものの、RPGとしてはかなり面白かったことは確かで、続編も出てデータイーストのシリーズ作品となったことからも評判は良かったのでしょう。

ファミコン神宮寺三郎

新宿・歌舞伎町に事務所を構える私立探偵の活躍を描いた推理アドベンチャーゲーム、「探偵 神宮寺三郎」シリーズもありましたね。
…というか、神宮寺三郎はいまだ死なず。新作が12月に発売される予定の現在進行系シリーズです。データイーストが現存しない現在、神宮寺シリーズは版権を得た別メーカーが発売しています。

世界初の格ゲー空手道
(画像は大阪のレトロゲーセン『ザリガニ』にて)

ゲーセン派なら、「世界初の格闘ゲーム」という真偽不明の伝説を持つ「空手道」も、データイースト製です。

バーガータイムゲームデータイースト

また、具を脚で踏んでハンバーガーを完成させるという、リアルでやってSNSにアップすれば炎上不可避な「バーガータイム」というゲームのメーカーも、データイーストです。てっきりナムコと思っていました。

しかし、データイーストのゲームと言えば、この「珍」…いや「奇」なゲームを外すわけにはいきません。

データイーストのゲームチェルノブ

「チェルノブ 戦う人間発電所」という、なんのこともないアクションゲームなのですが、これが伝説の「奇ゲーム」と呼ばれるゆえんはそのネーミング。

このゲームが出る2年前の1986年、ソ連(現ウクライナ)で起こったチェルノブイリ原子力発電所爆発事故が起こりました。事故もひどかったのですが、大量の放射線漏れで世界中(特にユーラシア大陸)が、もう世界は終わりだとパニックとなりました。ノストラダムスの大予言はやはり本当だったとか、北斗の拳の世界が現実になるだ、世界中がテンパりました。テレビでは、当時画期的だたCGを駆使して核の冬とやらをビジュアルで再現。さんざん国民を煽っていたのは、30年後の今から見ると一体何だったのかと。

そんな矢先に出たのがこの「チェルノブ」。
これで誰の逆鱗に触れてしまったのか、チェルノブイリを、原発を茶化したと非難轟々。データイースト側は関係ないと言い訳するも誰も信じず。やっちまったデータイースト。
まあ、当時中学校2年だった私でも、直感でチェルノブイリを茶化したなと思ったほどなので…ATMIC RUNNERにチェルノブでは、中学生でも容易に想像できる。
今後も日の目を見ることができない、ゲーム界の絶賛永久追放中のゲームとして「奇」なのです。

「名」から「奇」まで、幅広いゲームを生み出したデータイーストですが、バブルで手を広げすぎたのか1990年代から経営の雲行きが怪しくなります。

経営に行き詰まった挙句、データイーストはとんでもないものに手を出します。

(画像はイメージですw)

なんですとぉぉぉぉぉ!!!!

椎茸の栽培にまで手を出してしまったのです。溺れる者は藁をも掴むとはこのことか。
そんな起死回生の(?)椎茸攻撃も空しく、2000年に負債33億円で和議成立。2003年に破産宣告して消滅しました。

ハドソン

ゲームメーカーハドソン

バァ~~イ、ハドソン!

ファミコンを朝から晩までやり尽くした1980’sキッズにとって、ハドソンは神にも匹敵する存在でした。本社があった北海道に足を向けて寝ていた人は、おそらくいるまい。

ファミコン史を語るには不可避のこんな会社が現存せず…しばらくゲームから離れていた大きなお友達のみなさんも、

ええ!ハドソンってなくなったの!!

と画面の前で唖然としている人もいるでしょう。まだどこかに「コドモ」な心を残している私も、にわかに信じられない気分だったりします。

ハドソンは、北海道の小さな無線機器屋さんだったのが、これだけではメシ食っていけないという創業者(工藤兄弟)の経営判断でパソコンソフト開発会社へと方向転換。ソフトウェア開発では日本市場の9割を占め、1970年代後半~80年代前半のパソコンマニアの中では知らない人はいないほどの存在となりました。
若き日のソフトバンクの孫正義氏も、当時の工藤兄弟のもとに転がり込んでお世話になっていたんだとか。

そして、任天堂がファミコンを発売したのですが、任天堂と仲が良好だったシャープがハドソンを任天堂に紹介。任天堂からの依頼でハドソンのソフトウェア開発力で作られたのが!

ファミリーベーシック

「ファミリーベーシック」でした。
ブランドこそ任天堂になっていますが、中身はすべてMade by Hudsonだったのです。
これが縁で、

ハドソン
ハドソン

ファミコンソフト作らせてくんない?

とお願いしたところ、あっさりOK。ファミコン界初の「サードパーティー」としてソフトを作り始めました。

今では信じられないことですが、任天堂は当時、「他社にソフトを作ってもらう」という考え、つまりサードパーティーという概念自体がなく、ハドソンがそれを任天堂に教えファミコンが無敵の繁栄を築くきっかけともなりました。
任天堂もその恩を忘れることはなく、ソフトの年間販売本数など様々な縛りを受けていた(これが後にゲーム会社がプレステに流れる原因に)サードパーティーの中でも、ハドソンはほぼ無制限の待遇を受けていたそうです。

ハドソンと言えば、やはり高橋名人

ハドソンの高橋名人
(1980年代の高橋名人)

プロゲーマーの先駆けとして海外でも有名な人です。
大人になって冷静に見れば、ただのハドソン宣伝部のサラリーマンだったのですが、ハドソンの自由闊達な社風の中、高橋名人には「仕事」でゲーム雑誌の編集部にフリーで立ち入ることを許可し、そんな大人の事情など知らないコドモたちには大人気。今で言えばHIKAKIN氏がゲーマー専門になったような立ち位置です。

高橋名人が我々コドモにどれだけの影響を及ぼしたのか。
関西は東日本と比べ高橋姓の比率が高いのですが、その例に漏れず私の同級生・同期生は高橋だらけ。そんな周囲の男の高橋姓が全員、

「高橋名人

というあだ名に変わったほどでした。彼らが名人と呼ばれる特技があろうとなかろうと、そんなものコドモには関係ない。

ちなみに、私の記憶が確かならば、コナミに毛利名人っていましたよね?

オリンピックでは現在、競技としてのゲーム、e-sportsを採用するか否かが海外で議論されているそうですが、高橋名人はその先駆けと言える人なのです。

その高橋名人がどれだけコドモたちの心を揺さぶったか、一つの証明があります。

懐かしすぎてようつべに残っていたCMを持ってきてしまいましたが、「高橋名人の冒険島」という名ゲームです。一ゲーム会社の一社員がゲームになり、そしてアニメにもなる。ハドソンの自由闊達な雰囲気だからこそできたことでしょう。

ハドソンのゲーム業界におけるもう一つの功績は、

NECとハドソンの合作PCエンジン

これです。そう、家庭用ゲーム界で無敵モードだったファミコンにあらわれた任天堂殺戮マシーン、PCエンジンです。
当時を知っている人は、こう書くとこんな疑問が浮かぶはず。

これって確か、NECが作ったんじゃ…

いえ、これCPUやOSなど中身はハドソンの自前で、販売担当がNECなだけです。
技術屋集団のハドソンには独自の販路がなく、パソコンで販路も知名度もあるNECに販売を委託したというのが歴史の事実ですが、覇王NINTENDOに真っ向からケンカを売りたくないという大人の事情もあったと思います。
今や当たり前になった円盤型ソフト(CDやDVD、ブルーレイなど)を世界で初めて作ったのも、今にして思えばハドソンでした。

そういう意味では、ハドソンはゲーム業界を変えるほどの実力を持つすごいメーカーだったのです。高橋名人?あんなの飾りです、コドモにはそれがわからんのです。

ハドソンは他にも、「ファミコン界初のクソゲー」という冠を持つ(?)

ハドソンのファミコンゲームバンゲリングベイ

『バンゲリングベイ』という移植ゲームも販売していました。個人的にはけっこう面白かったんやけどな~。

ハドソンのファミコンゲームボンバーマン

『ボンバーマン』も、

ハドソンコナミの桃太郎電鉄

現在でもシリーズ化されている『桃鉄』こと『桃太郎電鉄』など、ハード力もソフト力もあるすごい会社だったのです。

そんなハドソンにも、とんでもないアキレス腱がありました。それは財務がガバガバだったこと。
企業は通常、付き合いのある銀行を2~3つ作ります。資金融資の蛇口を増やし稼いだ資本を分散させたり、経営を安定させるためには至極当たり前なのですが、ハドソンは北海道拓殖銀行としか付き合いがなかったのです。なぜサブバンクを作らなかったのか、それはわかりません。
そのメインバンクは1998年に経営破綻。ハドソンは拓殖銀行と心中、いや拓殖が死なばもろともと道連れに無理心中する形となり破産寸前になったのですが、その技術力を買ったコナミが助け舟を出し子会社化(事実上の買収)。
2012年には会社としても解散、現在はゲームブランドも含め、ハドソンの形跡は跡形も残っていません。嗚呼、つわものどもが夢のあと。

ちなみに、ハドソンを築き上げた二人の「その後」を。

創業者の工藤兄弟、兄の裕司氏はもともと根っからの「撮り鉄」でした。会社名の「ハドソン」も、実は蒸気機関車から来ていることは知る人ぞ知る事実。ハドソン解散後は東京浅草に移住し、趣味の写真を愉しむ隠居生活を送っているそうです。

「高橋名人」はコナミによる完全子会社化(2011年)を機にハドソンを退社し、現在はe-sports促進に全国を走り回っています。
「高橋名人」はハドソンが商標登録しており1本来は使えないはずなのですが、会社に貢献してくれたのでと無料で使用認可を得て、コナミもそれを引き継いでいるそうです。

created by Rinker
コナミデジタルエンタテインメント

UPL

ゲームメーカーUPL

UPLという名前の知名度は、おそらくかなり低いと思います。はて?そんな会社あったっけ?と頭上に「??」が飛んでいる人もいるかもしれません。

しかしこの会社。

ゲームの忍者くん

かの「忍者くん」を作ったメーカーです。ジャレコの欄で既に書いたとおり、「忍者くん」のファミコン版はジャレコが販売しましたが、アーケード版はUPLです。

この会社も、バブル崩壊後の1992年3月に突然倒産しました。

元中の人が、当時の思い出を語っています。

日本物産

ゲームメーカー日本物産ニチブツ

日本物産というと、どこの海鮮問屋やねん的な名前ですが、「ニチブツ」といえば、あああそこかと気づく人がチラホラいるかもしれません。以下ニチブツにします。

こちらは1975年にゲーム界に進出したのですが、ニチブツを大手ゲームメーカーにのしあげたのが、

日本物産のゲームクレイジークライマー

『クレイジークライマー』です。

私の記憶が正しければ、インベーダーブームが終息した次に出現し、たちまちゲーマーたちの心をつかんだ名作でした。

ファミコンのゲームも作ってはいましたが、家庭用ゲームでの名作は、

ニチブツのゲームF1サーカス

『F1サーカス』というゲームです。これはファミコンではなくPCエンジンで発売されたのですが、F1ブームに乗って売れに売れ、内容も面白かったPCエンジン界の名作と言われています。

他にもセガサターンなどのゲーム製作も行っていたニチブツでしたが、バブルの頃に自社ビルを建てたりした放漫経営のツケがバブル崩壊で回ってきたのと、脱衣麻雀などエロゲーム路線に偏ってしまい、健全な社員が去ってしまったなどの要因で経営が傾き、2009年に事業を停止しました。のちに、別のゲーム会社がニチブツのオーナー社長だった人物と直接交渉し、版権を得ています。

NEXT:「くにおくん」と「ぷよぷよ」の会社も!?
  1. ハドソンの解散後はコナミが所有。
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