神戸大空襲と三宮駅の戦争の痕-空襲から75年目に添えて

戦争三ノ宮駅銃弾火垂るの墓 野良歴史家の歴史探偵

後述しますが、本日6月5日は俗に言う「神戸大空襲」が行われた日であり、それから75年の月日が経とうとしています。
戦争の体験した人たちも残り少なくなり、記憶も日常生活では風化しつつあります。が、実は神戸市内の中心、三宮に戦争の傷跡が残っているのです。
今回は、普段意識することのない、戦争のあとを。

でもその前に、神戸の空襲のことを復習しておく必要があります。

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中学生でもわかる神戸大空襲入門

神戸市は米軍の攻撃リストの中でも「真っ先に焼き払うべし都市」とマークされ、大規模なものだけでも3度空襲を受けています。

 

神戸大空襲焼夷弾
(神戸の街と焼夷弾の雨。米軍撮影)

大小合わせて神戸が空襲を受けた回数は、なんと128回。これは東京の130回に次ぐ日本2位の記録であり、大阪の33回と比べてもいかに多いかがわかります1。神戸はそれほど重要な都市、つまり攻撃目標とされていたのです。

 

1.第ゼロ回神戸空襲(昭和17年4月18日)

最初の空襲は、昭和17年にまでさかのぼります。

 

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空母に無理やり搭載したアメリカのB25爆撃機が、東京や横須賀などを奇襲したこの空襲は、爆撃の指揮官の名をとって「ドーリットル空襲」と呼ばれ、知る人ぞ知る米軍による日本初の空襲です。
このB25爆撃機は元の空母に着艦できるわけがなく、日本をそのまま通り過ぎ中国大陸などに不時着。墜落して亡くなったり、日ソ中立条約を盾にソ連に着陸を拒否られたりという、良く言うとかなり大胆ですが、悪く言うと相当無茶な作戦でした。「アメリカ人が考えた特攻作戦」と言ってもいい。

その上、その割には物理的な被害は少なく、ドーリットルをもじって「Do nothing」(しかし、なにもおこらなかった)だと笑いのネタにされました。

 

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この時の空襲で落とされた焼夷弾です。当時はまだ性能も低く、不発弾(=不良品爆弾)も多かったといいます。それが「アメリカ恐るるに足らず」と余計に慢心させることになったのが、皮肉なものです。

しかし、神国日本の空が鬼畜米英に汚されたという心理的ダメージは大きく、水際で防ぐべき海軍は何やってるんだと批難の声も高まりました。
これがミッドウェー海戦への伏線となったことから、太平洋戦争史のキーポイントでもあります。そういう意味では、「ドーリットル空襲」は戦術的には失敗だったものの、戦略的には大成功でした。

 

「ドーリットル空襲」は東京など関東では目撃者も多く、作家の阿川弘之も徴兵検査当日ではっきり覚えていたこともあり、エッセイにしたためています。当時東京に在住していた外国人(大使館員など)も、傍観者として記録に残しています。
それだけに、「ドーリットル空襲=東京だけ」というイメージも強いことは確かです。
ついだいぶ前になりますが、Twitterで

「横須賀で空母『龍鳳』に改装中の潜水母艦『大鯨』が、ドーリットル空襲の流れ爆弾に当たって損傷した」

と書いたら、東京しか空襲していない、知ったか乙と嘘つき呼ばわりされたほどでした。そんなおバカさんにはとりあえず一次資料でぶん殴っておきましたが、それだけ東京「だけ」というイメージが強いのです。
しかし、B25は神戸市にも来ており、爆弾を落としています。大阪より早くに空襲されていたことに、驚く人も多いかもしれません。
これが記録に残る神戸最初の空襲ですが、被害はほとんどなく、神戸市の公式記録でも空襲にカウントしておらず。どうやら「Do nothing」だったようです。

 

2.神戸大空襲予行演習(昭和20年2月4日)

「ドーリットル空襲」の頃はまだDo Nothingと皮肉れるほどの余裕があった日本も、昭和20年に入るとほとんど余裕がなくなっていました。
戦争中の体験記などを読むと、戦前は裕福だった文士も昭和19年末になると食うものも食えず、食糧事情が逼迫し始めた頃でもあります。
そんな早々、焼夷弾による爆撃が2月に行われました。

 

戦災概況神戸市昭和20年2月
(国立公文書館デジタルアーカイブ『戦災概況図 神戸』より)

濃い赤の部分が被害箇所ですが、これは焼夷弾の威力を試すための実験空襲だったことが米軍の公開資料からわかっています。場所もピンポイントで、被害もさほどでもなかったそうです。
しかし、これは翌月から起こる地獄絵図の、ほんの腕鳴らしに過ぎませんでした。

 

 

3.第一回神戸大空襲(3月17日)

概要空襲実施機数(B29):307機投下爆弾量:約2,328トン(焼夷弾が中心)

被害区域:兵庫区、林田区、葺合区、新開地、元町、三ノ宮

 

神戸空襲戦災地図3月
(昭和20年3月神戸市戦災地図。国立公文書館デジタルアーカイブ『戦災概況図 神戸』より)

東京大空襲から一週間後、神戸ははじめて大規模空爆の被害に晒されます。この空襲によって、西は現在の長田区・兵庫区、東は三ノ宮駅前など神戸市の西半分が多大な被害を受けました。
妹尾河童の傑作、『少年H』で描かれている神戸空襲は、この3月のものです。

 

 

神戸大空襲新開地
1945年3月の空襲で焼けた神戸新開地
神戸大空襲元町
空襲から一夜明け、煙が充満する中逃げる人たち(JR元町駅付近)

 

神戸大空襲神戸工業専門学校
焼夷弾の直撃を受け炎上する神戸工業専門学校(現在の長田区)

(いずれの写真も神戸市「神戸の戦災 写真から見る戦災」より)

 

 

 

4.第二回神戸大空襲(5月11日)

概要空襲実施機数(B29):92機。
投下爆弾量:約450トン(通常爆弾が中心)
被害区域:本山村、本庄村、住吉村、御影町など(現在の東灘区、灘区)

東灘区にあった航空機工場(川西飛行機甲南工場)が目標とされました。天気は曇のち雨だったと記録されています。
爆弾による精密爆撃で、当時は「本庄村」だった東灘区とその周辺が被害を受けました。

 

昭和20年5月11日神戸空襲
昭和20年5月11日神戸空襲

神戸市「神戸の戦災 写真から見る戦災」より)

 

 

 3.第三回神戸大空襲(6月5日)

概要空襲実施機数(B29):474機。
投下爆弾量:約3,079トン(焼夷弾が中心)
被害区域:現在の神戸市全体+芦屋・西宮市

3月10日の東京空襲が「東京大空襲」の代名詞のように、一般論としての「神戸大空襲」はこの日の空襲をさします『火垂るの墓』に描かれ母親が亡くなった空襲もこの日のことです。
前回の空襲で焼け残ったところすべてが対象となり、西は須磨・垂水、東は西宮まで広範囲に及びました。そしてこれは明らかに住民密集地区を狙ったもので、「焼き払え!」という声が聞こえてきそうな無差別爆撃でした。

 

既に故人ですが、神戸生まれの我が父親はこの空襲の後を覚えているそうです。
父親は奈良に疎開していたので、直接被害を受けたわけではありません。空襲直前まで神戸にいたそうですが、たまたまか曾祖母のもとに帰っていた祖母と父が、数日経って祖母と一緒に荷物を取りに帰ったら、家どころか神戸の町が「消えていた」と。
細かいことは覚えていないそうですが、「消えた」神戸市の光景だけは記憶に焼き付いていると。

よく考えると、『火垂るの墓』の節子とオヤジは同い年だったことに最近気づきました。つまり、フィクションながら節子が生きていれば、私くらいの子どもがいて、おそらくは孫もたくさんということになりますね。

 

空襲はこれだけではありませんでした。
5月3日より神戸港に機雷が投下され、7月には長崎型プルトニウム原爆と全く同じ形・重量の「模擬原爆」が、川崎車両などに落とされています。
8月5日には、「阪神空襲」と呼ぶべき、現在の尼崎市から芦屋市にかけての無差別爆撃も行われています。
その上、グラマン戦闘機による機銃掃射は、数えるのも面倒くさいほど行われていたので、「毎日が空襲だった」と言っても大げさでもなんでもないでしょう。

空襲で受けた神戸の被害は、

・戦災家屋数141,983戸
・総戦災者数
・罹災者530,858人
・死者7,491人
・負傷者17,014人
神戸市ホームページより)

となっていますが、確定資料が行政機関も持っておらず、実数はもっと多めとされています。

 

また、人口千人当たりの戦争被害率は47.4人。これは当時の五大都市(東京・大阪・名古屋・横浜・神戸)で最高を示しています。神戸は「猫の額」ほどの平地に人が密集して住んでいたので、空襲など火に包まれると逃げ場がなく、それが多数の死者を生んだ地理的要因もありました。

空襲により神戸がどれだけ焼き払われたのか、戦後のカラー映像が残っているのでこちらもどうぞ。映像、それもカラーで見ると空襲が昨日のことのようにリアルになります。

NEXT:神戸の街の真ん中に残る戦争の傷跡
  1. 空襲による都市別死者数は、広島、東京、長崎、大阪、名古屋に次ぐ6位。

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