【前編】飛田新地(大阪市西成区)-消えた遊郭・赤線跡をゆく

大阪飛田遊廓 遊郭・赤線跡をゆく

大阪市西成区、ここに「現代の遊里」があります。

その名は飛田新地。

夜の飛田新地
夜の飛田新地。
蛍のように光るネオンに、男が一人、また一人と「楽園」の光の中に吸い寄せられていきます。そんな光景が、新地の開業以来100年余、今日も続いています。

その名前は全国区となった飛田ですが、その歴史となるとあまり知られていないのが現実です。飛田の1世紀にわたる歴史を知った時、ここは風俗街ではなくなります。

 

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■飛田新地-その設立の経緯

飛田遊郭は、大正7年(1918)の12月に開業しました。今年で開業102年、歴史だけでも1世紀なのですが、開業当時は大阪の数ある遊郭の中では新参者遊里でした。
江戸時代初期からの歴史がある新町や堀江、明治初期に出来た松島と比べると、飛田なんぞ若造どころか青二才遊郭というわけです。

その昔、今の南海なんば駅のすぐ北側に、「難波新地」という江戸時代から存在する色街がありました。
遊郭というものは「性欲のトイレ」扱いされ、たいていは郊外に作られました。難波新地も元々は郊外中の郊外。明治時代の繁華街はせいぜい道頓堀あたりまででした。
今でこそ大阪屈指の繁華街な難波駅周辺ですが、南海鉄道が開通した時はネギ畑しかなかったド郊外だったとは、今の状態を見ても想像すらつかないと思います。

その難波新地は、明治45年(1912)1月16日午前1時頃に、「南の大火」と呼ばれる大火事で全焼、廃廓となりました。
難波新地は芸妓中心の「甲部」と娼妓中心の「乙部」に分かれており、今はチンチロリンな舞妓さんや芸妓さんがいる京都の祇園も、昔は「甲部」と「乙部」に分かれていました(売春防止法で乙部が廃止、甲部だけが残った状態)。
「南の大火」の火元は「遊廓の妓楼から出火」ってのが定説となっており、『飛田百番 遊廓の残照』では「貸座敷の遊楽館」と固有名詞まで出していますが、昭和8年に書かれた『上方 第廿八号』の「飛田遊廓の沿革」には湯屋、つまり新地の溝の側にあった『百草湯』の煙突から発した火の粉が原因と書かれています。それが「二十四間放(ママ)れた『芙蓉楼』の檜肌葺の屋根」に引火、それがたちまち周りの建物に燃え移ったと。

で、大阪から紅い灯が一つ消えて…とそうは問屋が卸さないのが世の常。失業者になった乙部の業者の救済という建前で新しい廓の建設のウワサが飛び交います。
時は大正時代、遊廓を廃止せよという廃娼論がピークに達し、遊里を新規で作るのにはかなりの抵抗がありました。新遊郭建設反対運動は全国規模になり、国会でも問題になったほどだったのですが、そんな反対運動もどこ吹く風と、家一軒もなかった畑の真ん中に新しい遊郭が作られることになりました。

現代は、飛田と言えば飛田新地も含めた地域ですが、当時の地名は「堺田」。「堺田遊廓」になってもおかしくないどころか、本来なら「堺田遊廓」と名乗るべきでした。
が、何故か「飛田遊廓」になったそうな。
「飛田遊廓の沿革」には

『上方』第廿八号より「同廓の地は前にも記した通り、天王寺村大字堺田が固有の地名で、飛田と称へるのは今宮ガードから南の辻の地域だったのだが、それをどういう訳か、廓の名としたのである」
※「今宮ガード」:今のJR新今宮駅の真下のこと。新今宮駅の開業は昭和39年(1964)、当時駅は存在していません

出来てまだそんなに月日が経っていないのに、飛田が「飛田」と名乗った理由が「それをどういう訳か」、つまり”わかんない”としていることに妙な興味が湧きます。当事者に聞いたらええやんと思うのですが、当事者も”わかんない”だったのかもしれません!?
そして、「飛田」の地名は元々「今宮ガードの南の辻」、つまり今の山王近辺のであったことが、ここからわかります。

飛田に新廓を作ったキーパーソンとして、上田忠三郎、中村鼎がいます。彼らは四方八方から反対運動の矢が飛ぶ中、大阪府に盛んにサロン外交を行い、最後は当時の内務大臣一木喜徳郎、内務省警保局長(今の警察庁長官に相当)の湯浅倉平の許可を得ることに成功しました。
国のお許しをもらったらこっちのもの、大阪府や警察もノーとは言えずそのままトントン拍子に事は進みました

…が、一難去ってまた一難。遊郭作る許可はもらったのはいいけれど、今度は金がない。難波新地が焼けてからプータローの業者は貯金も底を尽き、当時の飛田新地あたりの地主を束ねて「阪南土地会社」という会社を作りました。

次に出てきた難問は人間のエゴ。
さて新遊郭設置が確定になって土地の分配になると、「俺に一等地をよこせ」「いや、俺に」「何でうちが端っこなんだよ」という業者同士のエゴがぶつかりあって一悶着、「ホンマこいつら勝手やな…」と思わざるをえない。
しかし、普通なら「俺が最優先やんけ!」と言うてもいい、飛田遊郭生みの親上田忠三郎が自分の権利を放棄して同業者に分け与え、自分は「阪南土地会社」の経営に専念するとして解決しました。
そして大正7年、松島遊廓からの合流組も含めて飛田新地が開業できたわけです。

 

オープン当時の飛田新地の住所は、西成区どころか大阪市内ですらなく、「大阪府東成郡天王寺村天王寺北・中・南堺田」と村だったのです。のちに大阪市に編入され住吉区旭町4丁目になりましたが、廓内はその通称として、

廓内を東西に通じて五カ所に区分し、大門通と中央に南は弥生町・若菜町、北を山吹町・桜木町と称へ…

『上方』第廿八号 「飛田遊廓の沿革」より

という「俗地名」があったそうです。

 

飛田遊廓の別地名

この記述と道につけられた名前と当時の地図から見た、「俗地名」の推定区分ですが、色分けしてみたら虹のようになってしまいました。
幸い、新地内は道筋が戦前とほとんど変わっていないため、だいたい推理できたりします。

 

◆飛田遊郭の急成長

飛田遊廓の変遷を数字で追ってみると、

●大正7年(1918) -グランドオープンの年-
貸座敷数:58軒
娼妓数:92名
※この年の出来事:
・松下電気器具製作所(今のパナソニック)設立
・第一次世界大戦終結

●大正11年(1922)
貸座敷数:132軒
娼妓数:1,512名
※この年の出来事:
・大隈重信国民葬
・日本共産党設立


●大正13年(1924)
貸座敷数:166軒
娼妓数:1,923名
※この年の出来事
・皇太子裕仁親王(昭和天皇)と良子女王(香淳皇后)ご婚礼
・加藤高明内閣成立

●昭和4年(1931)
貸座敷数:215軒
娼妓数:2,646名
※この年の出来事
・羽田空港が開港
・満州事変勃発

●昭和10年(1935)
貸座敷数:234軒
娼妓数:2,995名
※この年の出来事
・天皇機関説問題
・永田鉄山暗殺(相沢事件)

●昭和12年(1937)
貸座敷数:234軒
娼妓数:3,115名
※この年の出来事
・廬溝橋事件
出典:『大阪府統計書』

と、開業から数字がグイグイうなぎ上ぼりなことがわかります。
昭和に入っても衰えは知らず、あの日本一のスーパー遊廓、松島の尻尾をつかみそうな所まで追いつきます。
統計書の数字を丹念に追っていくと昭和12年が絶頂期、同じ時期の統計書の「日本の遊廓ビッグ3」こと松島・吉原・洲崎と比較すると、

飛田新地遊廓

という風に、たった19年で日本の遊廓のナンバー2にまで上っていることがわかります。こりゃもう、たまげたという言葉しか浮かばない。

それにしても、飛田がたった20年弱でこんなに急成長したのか?という疑問が浮かびます。ここで、飛田の新参者としての営業戦術が垣間見えます。

NEXT→飛田新地の斬新な経営手法とは!?

コメント

  1. 今井清賀 より:

    台湾ブログから飛んできました。初めて訪問させて頂きました。
    電話帳と地図を使っての綿密な考証に引き込まれて、飛田最後の記事まで一気に読ませて頂きました。
    私儀、飛田遊郭の成立について、1902年の大阪万博開催を理由に名護町から退去を余儀なくされた江戸期からの貧民が、堺筋を南下したところにあった「字釜ヶ崎」の木賃宿に流出。既存の宿では収容人数を抱えきれないことから、商機と見た者たちによって木賃宿が急増。集住した男たちの労働力に目をつけた資本はマッチ工場を誘致。労働者化された男たちの、滾るエネルギーと賃金(現金)の交換の場(「情」と言うものを排除して考えると「市場」)として隣接地区に設置されたのが飛田と言う認識をしております。
    ただ、店の位(くらい)付け・変遷、同業者の紐帯状況、あるいはお姐さま方の出身地・年齢・人数、出入りの状態、料金設定など飛田内での詳細事項については認識しておりませんでした。お恥ずかしながら、阿部定が飛田にいたことも…
    記事を読ませて頂き、これらのわからなかったいくつかの点について納得がいきました。ありがとうございます。

    私台湾についても興味があり、また大阪南部(難波〜岸和田あたりの泉州)にも興味を持っている、知りたがりのオヤジです。日曜日の午前、こんな面白いことを書いている方を見つけた!と、フォローさせて頂いた次第です。他の記事も読ませて頂きます。
    ※ところで、年表中「大隈重信国民層」とありますが、「国民葬」ですよね

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