盛岡八幡宮の米内光政像と昭和史

盛岡八幡宮の米内光政像歴史探偵千夜一夜
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盛岡八幡宮の米内光政像

盛岡八幡宮

盛岡には、町の鎮守のために建てられた盛岡八幡宮があります。南部藩が盛岡に移った16世紀末に作られて以降300年間、盛岡の総鎮守として今日も町を見守っています。

 

盛岡八幡宮護国神社の明治天皇像

隣には明治時代に護国神社も建てられ、明治天皇の像が盛岡の安寧を見守っています。

八幡宮にはもう一人、ある人の銅像が建っています。

 

盛岡八幡宮の米内光政像

そ八幡宮の南端、崇敬殿の前には、岩手が生んだ海軍軍人、米内光政の銅像が立っています。
昭和35年(1960)に建立された像は、軍服ではなくスーツ姿となっています。大将にまでなった海軍軍人なので、本来銅像は軍服姿であるべきでしょう。しかし、まだ戦争の傷が癒えない頃で軍隊アレルギーが強い頃だったのと、生前の米内さんを知る友人や家族が話し合った結果、この姿になりました。

 

高橋三吉海軍大将

建立の言い出しっぺは、兵学校同期だった高橋三吉大将。
派閥抗争に明け暮れる陸軍に対し、帝国海軍は明治大正を通して比較的一枚岩でした。が、昭和5年(1930)のロンドン海軍軍縮条約の対処をめぐる対立で、対米英強硬派の「艦隊派」と、対米英との戦争は愚とする「条約派」に分裂してしまいます。これは海軍、強いては日本を滅ぼす元となり、以前ブログに書いた東京駅での浜口雄幸首相襲撃事件への要因の一つともなりました。

高橋は「艦隊派」の先鋒、対して米内は後者の「条約派」。米内と高橋、主張は真逆でしたが、プライベートでは同期の桜として仲が良かったようです。
出世では同期のトップを走っていた高橋は、兵学校の成績は決して良くなかった米内の、時折「おや?」と思わせる隠れた実力を認めていました。
そして、昭和の動乱の時代は米内がトップにならないとダメだと、同じく同期の出世頭だった藤田尚徳大将と相談し、米内が海軍トップになるよう自ら身を引いた人物でもあります。海軍では、「ハンモックナンバー」と呼ばれる兵学校卒業時成績が、出世に絶対的な影響を及ぼします。高橋や藤田など米内よりハンモックナンバーが上の人が現役でいる限り、米内がトップに立つことはあり得なかったのです。

 

米内光政銅像の台座小泉信三

銅像の台座には、「海軍と米内の大ファン」を自称する元慶應義塾塾長、小泉信三による紹介文が書かれています。

 

この米内像には、ちょっとした昭和史のドラマがあります。
この像を語るには、この人を取り上げないわけにはいきません。

米内光政内閣の陸相畑俊六

畑俊六陸軍元帥(1879-1962)です。
昭和15年(1940)1月、米内光政内閣が成立しました。畑は米内内閣の陸軍大臣に就任したのですが、それにあたり昭和天皇から直々にある「命令」を受けました。

「米内を全力で助けよ」

二・二六事件で「不祥事」を起こし大いに反省しなければならなかった陸軍は、反省どころか逆に、

俺たちに逆らったらまた二・二六起こすぞ!

と、いわゆる「カウンタークーデター」を行って露骨な政治介入を隠そうとせず、陸軍がノーと言った内閣は流産・崩壊するのが常となっていました。実際、広田弘毅内閣(1936-37)の次には元陸軍大将の宇垣一成に大命が降下しました。が、結果的に宇垣内閣は流産に終わりました。陸軍が

うちは(陸軍)大臣出さないから

と大臣を出すのを拒否したのです。理由は宇垣が気に食わなかったから。こうして「自分の気に食わない内閣は潰す」という成功体験を、陸軍は手に入れてしまったのです。

支那事変が泥沼化し、アメリカとの戦争も辞さずと日本全体の鼻息が荒かった頃、それを阻止するための最後の切り札として選ばれたのが、米内でした。
ドイツ・イタリアと同盟を結びたい、というかナチスドイツに頭がイカれてしまった陸軍(と「陸軍省外事局」と揶揄された外務省)にとって、日独伊三国同盟反対を旗印にした米内内閣は目障りなので、全力で米内内閣をつぶしに来る。それを防いで米内をフォローしろと、昭和天皇は色がない中立の畑に直接指示したのです。

しかし、畑は参謀総長の閑院宮元帥、いや、閑院宮を操り人形にし陸軍の実権を握った中堅軍人に迫られ、単独で辞表を提出してしまいます。
なら後任の大臣を出せといっても、陸軍はそれを出さない。当時の内閣制度では、後任を出さないと内閣自体が総辞職になります。陸軍もそれを利用し、気に食わない米内内閣をつぶしにかかったのです。昭和天皇が日本の舵取りを正常に戻そうと、切り札として用意した米内内閣は、これにより半年で崩壊しました。

次は陸軍大好きな近衛文麿が総理になった結果、日独伊三国同盟が締結。これによりアメリカとの関係は決定的に悪化、外交でどうにかなるレベルは終わり、戦争状態に入ったと言えます。

昭和天皇は戦後、こう述べたと言われています。

「米内内閣は続けさせたかった。(米内)内閣が続けばあの戦争もなかっただろう」

 

極東国際軍事裁判

この畑の単独辞任による米内内閣崩壊、戦後の東京裁判で突っ込まれることになります。
畑はこれが理由でA級戦犯となり、行為を裁判で追及されることになりました。死刑か否かの瀬戸際、その弁護側証人として法廷にあらわれたのが、米内でした。

並みの人であれば、いや、常識的には、自分の内閣を崩壊させた張本人の畑の「罪状」を洗いざらいぶちまけたでしょう。いや、そもそも弁護側の証人なので、証言自体を断るでしょう。
しかし、米内は畑を徹底的に庇い続けました。
米内内閣の時代、陸軍がマスコミと結託し大衆を煽り、イギリスむかつくアメリカやっつけろ、ドイツ素晴らしい的な空気が作成されていました。米内ものちに、
「我々の三国同盟反対は、ナイアガラ瀑布の上でボートを逆にこいでいるようなものであった」
と嘆いた状態でした。
陸軍の下克上も当然承知の上で、辞表は畑の意思ではない、むしろただのとばっちりだということをわかっていたのです。

米内は検察側がどんな証拠を見せてもすっとぼけまくり、最後はキレた裁判長に

You’re the most stupid Prime Minister I have ever seen !!
(てめーみたいなアンポンタンな首相見たことねーよ!!)

と罵倒されました。丁寧な表現でFxxk youと言われたようなものです。しかし、米内は蛙の面に水。
畑本人も後年、

なんだあの米内の態度は!!

と怒っていました。

しかし、彼の意図を見抜いていた人が、たった一人いました。追及した側の検事、ジョセフ・キーナンです。キーナンは

あのおとぼけは畑を庇ったのだ。その心意気に感動した

とすっかり米内ファンになり、昭和22年(1947)11月の離日パーティーに米内を招待しています。体調不良を理由に招待を何度断っても、お断りのたびにぜひ来てとキーナンも折れず、結局参加したそうです。
その時の招待状の現物と、二人が写った写真が盛岡の先人記念館に残っていますが、この時二人は何を話したのか…記録には残っていません。
米内はこの半年後に亡くなりますが、その知らせをアメリカで聞いたキーナンは、「マダム米内」1宛にお悔やみのレターを送っています。

米内の死から十数年後の、昭和35年(1960)の10月12日。
盛岡にて米内像の除幕式が行われる朝、黙々と八幡宮の像の周りの草むしりや清掃をする、腰の少し曲がった老人がいました。81歳になった畑俊六でした。
仮釈放後も米内の意図を理解できなかった畑ですが、後で気づいたか、米内に感謝したかったが本人はもうこの世にいない。そして銅像が建てられるという話を聞き、除幕式の下働きをして米内さんにお礼を示したかったと、盛岡に残る除幕式の資料に書かれています。

 

 

  1. ただし、米内夫人は対米戦争寸前の昭和16年に死去。

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