弘前寿町(北横町)遊郭(青森県弘前市)|おいらんだ国酔夢譚|

青森県弘前市の寿町北横町遊郭東北地方の遊郭・赤線跡
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北津軽の城下町、弘前の遊郭史

弘前の津軽藩では、遊女屋の設置は公には認められていませんでした。しかし、隠れ売春は常に行われえおり、ついには富田町という城から南東の位置にある町で黙認されていました。『弘前市史』によると、黙認といっても遊女屋らしい装飾は禁止で、見た目はお茶屋風にしろとのお達しがあり、遊郭のようなきらびやかさはなかった模様。
なお、富田町は現存し、弘南鉄道の黒石線弘前東高前駅と大鰐線弘南学院大前駅の間に位置しています。

その後も御法度となったり隠れ売笑婦の摘発が何度もあったものの、やはり人間の本能にダイレクトに結びついた稼業は消えず、江戸時代を通して藩と隠れ営業者とのいたちごっこが続いたそうです。

近代に入り、明治9年(1876)8月に弘前にも遊郭が作られることになりました。場所は北川端町というところで、こちらも現存する地名です。

弘前の遊郭
『青森県弘前市実地明細絵図』より

明治26年(1893)に編纂されたという地図の絵図に、当時の遊郭の姿も残されていました。
掲載されているのは、「盛観楼」「松月楼」「梅香楼」「一香楼」の4軒だけですが、偶然図書館にいた市の文化課(?)の郷土史専門家の方いわく、

当時の遊郭が4軒だけなわけがない、おそらくこの地図作成に資金面で協力してくれた妓楼だけを載せたのでしょう。

とのこと。
この地図ができた時代にいちばん近い明治27年(1894)の統計書の遊郭の欄を覗いてみると、弘前遊郭の貸座敷の数は10軒。この軒数のうち4軒だから、ほぼ半分の妓楼が掲載されているということですな。

そんな北川端町の遊廓も、明治29年(1896)夏に起こった川の氾濫によって甚大な被害を受け移転の話が持ち上がっていたところに、ある「吉報」が訪れることに。

師団設営と遊郭の移転

弘前の遊郭に転機が訪れたのは、弘前での軍隊の駐屯でした。
軍隊の誘致は当時の町おこしの一つでありました。そりゃあ何千何万ものヒト・モノ・カネが動く経済の大起爆剤、青森県に師団が移るという話が出た時も、各地で熱心な誘致運動が行われました。
弘前も当然ながら誘致運動を行った一つで、市長と市議会議長自ら陸軍省に赴き陳情書を提出、土地も弘前城蹟をほぼそのまま献上するなどの熱心さ。

その甲斐があったか、弘前に第八師団が設営されることとなり、明治31年(1898)に正式に誕生。同時に歩兵31連隊などの大部隊も弘前に遷り、弘前は青森県一の軍都として注目されることとなります。

さて。

「軍隊あるところ遊廓あり」

は近代遊里史の鉄板ですが、軍隊と遊郭は持ちつ持たれつの関係。軍隊という何千何万の兵隊を養うには、「性欲処理」も重要な「軍政」の一環となります。
ただでさえストレスが溜まる軍隊生活、オスは生命の危険のリスクがあるような極度のストレスに晒されると、子孫を残そうとする本能か、性欲が爆発的に上がります。これは女性の生理と同じで、理性ではコントロールできないオスの性かもしれません。

よって、軍側も兵隊が変な立ちんぼなんかに手を出し、性病が伝染うつって「戦闘不能」になってくれると困る。遊郭の設営も急務でありました。

そこで、洪水で壊滅的な被害を受けた北川端町の遊郭に白羽の矢が立ち、息を吹き返します。

弘前寿町と北横町の遊郭
黄色が第八師団、赤矢印が遊郭

明治30年(1897)に遊郭は北横町・寿町という新しい居場所を与えられ移転。新装開店オープンとなりました。
この移転は遊郭にとっては出血大サービスの大吉報でした。洪水後でボロボロだったのもありましたが、猫の額ほどしかなかった北川端町から広い敷地への移転。田んぼの真ん中に作られ「吉原田んぼ」という異名がついた場所だったものの、例えるなら3畳一間のオンボロ長屋から、郊外の3LDK庭付きに引っ越すようなもので、遊郭側はさぞかしヒャッハーだったことでしょう。

軍隊側にとっても、師団から歩いて行ける距離に遊郭があることは、兵隊にとってもテンションが上がったことだろうと思います。

この師団設置と遊郭新装がどれだけ「重要」だったか、市史にこんな話があります。

新遊郭地に指定された北横町の隣には、和徳小学校がありました。「ありました」といっても、弘前駅前付近に現存する小学校なのですが、その小学校が、

弘前の偉い人
弘前の偉い人

遊郭作るから出て行け!

と移転を強制されたのです。当時の校長は肺病で療養中だったのですが、びっくり仰天して病躯を押して抗議するも判定は覆らず。しかも学校の保護者にも何の説明なしだったことから、県も巻き込む大騒動に。

しかし、せっかく軍隊誘致に成功したのに、

陸軍の偉い人
陸軍の偉い人

遊郭ないの?だったら移転の話はなしね♪

となっても困る(そんなことないと思うけど)。

和徳小学校が弘前駅近くに現存することからわかるように、弘前市が、市民どもがうるせーよ黙ってろとゴリゴリの強気一転で押した結果、学校側が折れた結果になりました。

それにしても…

XXの偉い人
XXの偉い人

学校作るから遊郭どっか行け!

というパターンは、東京の州崎遊郭の前身である根津遊郭などの例があり、特に珍しいことではありません。が、その逆パターンはひとり遊郭調査兵団をやって初めてのパターンでした。そんなこともあるのねん(汗

移転直後は17軒スタートだった寿町遊郭は、翌年には11軒プラスの28軒(娼妓数136名)。新規オープンがかなり増えたようです。
明治末年(=大正元年)もさほど数に変化はなく、大正時代も全般的に貸座敷数23〜25軒、娼妓数120〜130名前後で推移しています。

さて、昭和5年(1930)の『全国遊廓案内』にはどう書かれているでしょうか。

遊廓の貸座敷数は約二十四軒、娼妓約百二十人位居る。女は近県人が多い。店は陰店制及写真制とあって、遊びは東京式廻し制度になって居る。

『全国遊廓案内』

これを昭和5年の『青森県統計書』の数字と比べてみると、『統計書』は22軒、120人となっておりほぼ正解。この本、けっこう細かいところで誤字や勘違いが多いのですが、東北に限っては筆者が直接回ったか数字がほぼビンゴなことが多いのです。山形小姓町遊廓の時は、こちらが驚いたくらい一致してたし。

貸座敷の数も娼妓数も大きな変化もなく、良くも悪くも安定していた寿町遊郭でしたが、この後にある「大きな変化」が訪れます。

遊郭の「私娼窟」化

弘前の遊郭について、いつものように統計書の数字を追っていくと、想像もしなかったある不思議な光景に行き着くことになりました。

青森県統計書青森県の遊郭
1934年『青森県統計書』より

昭和9年(1934)の統計書ですが、県内の遊郭の数字が警察の所轄署ごとに記載されています。弘前は寿町(北横町)の1ヶ所、貸座敷が22軒あり74人の遊女がいたことが、これでわかります。そして、青森県には14ヶ所の遊郭があったということも。

しかし、翌年の同じ統計書の同じ項目を見てみると…

1935年『青森県統計書』より

なんということでしょう!!

たった1年で、遊郭がきれいさっぱり消失しているではありませんか。

遊郭が1年で跡形もなくなる…そんなことがあるのでしょうか…。
これには、少し理由があります。

近代以降の遊郭の法的な正式名称は「貸座敷免許地(または指定地)」といい、警察を含めた内務省が

警察の偉い人
警察の偉い人

このエリアで貸座敷(遊女屋)を営業してもよろしい

と場所を指定し、その場所での営業を許可しました。そこが俗に、『遊郭』と呼ばれることとなります。

つまり公に認められたので「公娼」となります。

しかし、国や行政が売春を認めるとは何事か、遊郭は廃止せよという声が全国的にあがり、カフェーや私娼窟の隆盛で遊郭が時代錯誤のオワコン化となりました。
特に私娼窟は、エンドユーザー(男)から見たら、女とニャンニャンするという意味では「遊郭」には変わりありません。遊郭にとっては、カフェーと並ぶ天敵です。
しかもこの私娼窟、本来は違法なので警察が取り締まりつつも、いくら摘発してもなくならない。結果的に警察の方が白旗を揚げて「黙認」してしまうことに。

筆者
筆者

警察が認める(黙認)+私娼窟=それって実質遊郭やん

そんな意味で、私は「準遊郭」という造語で表現しています。

明治から始まった遊郭無くせ運動(廃娼運動)は、一定の効果をおさめます。
が、大正から昭和初期にかけて、廃娼運動をあざ笑うような私娼窟が日本中の至る所に発生しました。

遊郭無くせ!遊女に自由を!

とのたまっていたフェミニストも、私娼に関しては不思議なくらい何も言いません。

東北は東京を中心とした娼妓(遊女)の「生産地」ということで、廃娼論者からものすごいバッシングを受けます。山形県と青森県は「遊女生産地」としては特に多く、実際に山形県は新聞が大いに騒ぎ立て、県の遊郭の数字が大きく落ち込んで経営が成り立たなくなるほどでした。

そんな廃娼の流れで、昭和5年(1930)に埼玉県が公娼制度、つまり遊郭の廃止を決定、次いで秋田県や鳥取県なども公娼が廃止されました。実行はされませんでしたが、福島県も昭和一桁に廃止が県議会で可決されています。

青森県も、このまま公娼制度を続けるのは困難と判断したのでしょう。一次資料の裏は残念ながら取っていませんが、昭和10年から公娼制度、つまり遊郭が廃止となったと推定されます。おそらく県議会の議事録を丹念にさぐれば、記録が出てくるはず。
公娼制度がなくなって遊郭が「私」になったので、警察も公の資料に統計を記載する必要がない。だから統計書から数字がなくなったのです。

当然ながら、それで遊郭、遊女屋がなくなったわけではありません。公娼制としての貸座敷免許地はなくなったものの、営業形態を変えて「遊郭」自体は引き続き営業していました。つまり、遊郭が「私娼窟化」したのです。私の造語で表現すれば「準遊郭化」。

営業側にとっても、「準遊郭化」は

遊郭を廃止せよ!

とあれだけヒステリックになっていた廃娼論者がおとなしくなるのはもちろん、法律で自由がガチガチに固められ、警察にはガミガミご指導を受け「商売」としてのうまみ・・・がなくなり、さらに「スターを取ったスーパーマリオ」こと私娼窟という同業他社との競争もできない。

そんなわけで、遊郭の私娼窟化は、営業側にとっても歓迎する状況だったはずです。

そして、時代は戦後へ。

北横町・寿町の元遊郭も戦後は例のごとく赤線に変わります。

赤線は月見橋の近くにある北横町に十三軒四十四名。東照宮の近くにある寿町に八軒二十七名。

『全国女性街ガイド』

旧遊郭のエリアに、21軒の店があったということですな。
昭和20年代後半の資料で、旧遊郭に固まっていた『特殊料理店』リストの数を数えてみると、二つの町あわせて16軒。北横町の軒数はほぼぴったりなものの、旧寿町の店の数にけっこうな差異がある。
「どっちかが正解」ということではなく、「どちらもハズレ」という可能性もあるものの、こちらに関しては私の調査不足という可能性もあるので、敢えてペンディングとしておきましょう。

そして、後に語る「もう一つの遊郭」編で語りますが、『全国女性街ガイド』は旧遊郭と同規模ほどの「弘前のもう一つの赤線」をガン無視しているのです。色街に興味があるなら、ここを無視するわけがない…そこも謎として残っています。

そして昭和33年(1958)の赤線廃止となるのですが、その後の地図をみると「旅館」がポツポツと散見することに。転業後の赤線の姿が地図の上から若干、確認ができます。

さて、現在の北横町・寿町の姿は?実際に歩いてみました。

NEXT:現在の遊郭跡を歩く

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