玉の井私娼窟(東京都墨田区)|おいらんだ国酔夢譚|

玉の井私娼窟遊郭赤線東京・関東地方の遊郭赤線跡

玉の井…その名を聞いて何を思い浮かべるでしょうか。

本好き小説好きなら永井荷風の『墨東奇譚』を、80歳以上のお年寄り男子(?)なら鼻息を荒くして向かったオスのパラダイスを思い浮かべるかもしれません。

玉の井は、スカイツリーラインこと東武伊勢崎線の東向島駅付近の地区のこと。戦前の行政上の正式な名前は当時は「東京府南葛飾郡寺島村」の字の一つで、「玉の井」という名前自体は以下のように書かれています。

「旧寺島村の小字に玉の井と呼ぶ所あり。その辺に周囲20間ばかりの丸き塚あり。里人にこれを聞けどもわからず。
この辺を玉の井とあれば、昔武蔵国の私党玉の井四郎助実の一類居住の地であろうか」

引用:『東京近郊名所図会』

玉の井四郎助実は、源頼朝が平家討伐を行った時に同行した豪族で、鎌倉幕府成立後は役人として幕府に仕えたとあります。彼は幕府成立後、今の愛知県葉栗郡木曽川町に領地を獲得、そこにも「玉の井」という地名が残っています。

「玉の井」が全国区の知名度を獲得するのは、大正時代後期から。
関東大震災前の浅草には、銘酒屋街と呼ばれる一角がありました。一見飲み屋っぽい名前ですが、酒など置いてない実は私娼窟でした。元祖東京タワー「十二階」こと凌雲閣の下を中心に、「銘酒屋」や「射的場」や「新聞販売店」が軒を連ねていました。なぜかぎ括弧がついているかって?その営業は世間を欺く仮の姿、これらはすべて売春宿だったのです。
私は見逃してしまったのですが、2019年の大河ドラマ『いだてん』でもこの銘酒屋街が少し描かれたそうです。

そんな「浅草名物」も、大正12年(1923)の関東大震災ですべて崩壊してしまいます。その後警察の指導も入り、銘酒屋はこぞって郊外の寺島村(玉の井)に移転します。私娼窟としての玉の井の歴史は、事実上ここから始まります。

ところが、昭和3年(1928)に発行された『賣笑婦論考』には、大正7年(1918)には既に私娼がチラホラ見え始めたとの記述があります。これら娼館も、元は浅草にあった銘酒屋で、浅草に広い道を作る(おそらく今の国際通りでしょうか)ために立ち退きを迫られた業者が、新天地を求めて玉の井界隈に移転しました。
関東大震災前から玉の井に銘酒屋が集まる土壌は揃っていたということです。
そして大正12年、関東大震災で浅草を追い出された業者が、寺島村に大量に流入という流れに。

大正13年(1924)までは、寺島地区一帯に娼館がバラバラに点在していたものの、私娼をいくら取り締まっても埒があかない警察の方がギブアップ。翌年に地域を決めて営業を許可するという、事実上の黙認となりました。

『賣笑婦論考』には大正時代の、あまり知られていない玉の井創世記の数字が掲載されています。

大正時代の玉の井私娼と銘酒屋の数

玉の井が発展していく様子が数字だけでもわかります。

また、大正15年(1926)当時の玉の井の私娼653人の前職一覧表は以下の通り。

東京玉の井遊郭遊女
スポンサーリンク

 玉の井に関する注意

玉の井や、遊郭・赤線史に興味がある人が注意すべき点が2つあります。

1.玉の井は戦前と戦後では場所が違う

まずは下の地図を。

玉の井私娼窟地図(戦前)

玉の井について書かれた本数冊をベースに、今のGoogle mapの上から編集しました。

戦前の「玉の井」と戦後の赤線は、戦前は「大正道路」と呼ばれていた「いろは通り」を挟んで場所が全く違います。
いろは通りより南が戦前の私娼窟、北の濃い赤で塗った部分が戦後の赤線エリアです。

戦前の玉の井は、出来た順番によって「◯部」に分かれており、「1部」がいちばん古く設立されたエリアです。戦前の私娼窟としての「旧玉の井」は、後述しますが昭和20年の東京大空襲で跡形もなく焼けてしまい、現在は何も残っていません。

しかし、いろは通りより北は全く焼けなかったそうです。

空中写真を見ても、戦前の私娼窟の地域は焼失ならぬ「消失」しているものの、いろは通りより北は焼けていません。空襲で焼けだされた業者の一部がそこで新しく商売を始め、赤線として認められたものが戦後の玉の井。
が、一部は玉の井を離れ、すぐ南のに新しい赤線を作りました。そこは「鳩の街」と呼ばれ、路面電車で都心から直通で、文化人も鳩の街の方に通い始めたため、「新玉の井」は戦前のあの知名度の割には地味な所だったそうです。

玉の井やこういう方面の歴史を調べている初心者は、「『旧玉の井』と『新玉の井』は別物」と考えた方がよろしいかと。
我々がイメージする玉の井はたいがい「旧」の方であって、「新」と記憶がごっちゃになってる人もいます。また、「新」を知らずに「旧」だけが若いころの記憶補正も加わって全面に出ることが多いため、客観的に調べる方は知識をきっちり分けないといけません。

2.玉の井は遊郭ではない!!

もう一つの注意点は、

(戦前の)玉の井は遊郭ではない!!

これ、めちゃ重要です。
「遊郭」とは、どストレートに言ってしまえば公的機関が公に認めた売春街のこと。遊郭で働く女性は法律的には「娼妓」、一般的には「女郎」、吉原は「花魁」。「お女郎さん」「おねえさん」と敬意を持って呼ぶ所もありました。
関西では、江戸時代から隠語で「姫」と言い、私も

筆者
筆者

溜まってる?ほな「姫」んとこ行って来いや!ww

ってな感じで使っていましたが、これ広辞苑にも載っている関西独特の表現だったことを最近知りました。


対して玉の井は「私娼窟」。遊廓とは対極に位置するもので、言ってしまえば違法です。
隠れ商売なため暖簾上の名前は何でもよく、「銘酒屋」「小料理屋」がいちばん多かったものの、「新聞販売店」「うどん屋」だったという所もあったと言います。
そんな「銘酒店」で働く女性たちは「娼婦」、遊廓の「公娼」に対して「私娼」。遊郭のように優雅に「花魁」「お女郎さん」と呼ばれることはありません。

しかし、玉の井は規模が大きすぎて警察も黙認。「性病検査だけはちゃんとやってよ」という条件でお目こぼし状態でした。よって、私はこういう私娼窟を「準遊郭」という造語で表現します。
その「準遊郭」が、大正末期から昭和初期にかけ全国あちこちに出現しました。「違法」ゆえに法律なんて糞食らえの超法規的存在となり、遊郭を脅かす、いや宮城県石巻の新地群のように、場所によっては遊郭本体を食い潰した存在になっていくのですが、それはまた別の話。

遊郭と違うところは、もう一つあります。
遊郭は法律により管理され、

ホント八釜やかましいったらありゃしない

と中の人がうざがるほど警察が目を光らせているので、統計書という公の資料に数字が出てきます。が、私娼窟は全く出てきません。出てくる数字もやたら曖昧で、警察側の調査と業者側の調査では必ず違ってきます。

そこで働いていた酌婦と呼ばれた女性の数も、人によって違ってきます。

・地元警察の資料:1,000〜1,200人

・『玉の井という街があった』:約2,000人

・玉の井私娼解放運動を行った南喜一の独自調査:2,791人

・『玉の井挽歌』:約3,000人

このとおりバラバラ、実数は神のみぞ知る。まあ、3,000人はさすがに盛りすぎだとは思いますけどね。
…と書いたのですが、色々調べてみると「3,000人」という数字はまんざらでもなさそうです。
そこあたりの曖昧さが、玉の井の「魔窟」感をさらに醸し出しています。

昭和5年、同じ時期の主な遊廊の娼妓数ベスト5は以下の通り。

・松島(大阪):3,657人
・吉原(東京):2,557人
・飛田(大阪):2,646人
・洲崎(東京):2,329人
・七条新地(京都):1,340人
・中村(愛知):1,562人
※玉の井:902人(※しかし、上記の通り実数は2〜3,000人)
(出典:内務省警保局内部資料 昭和5年6月調査)

日本指折りのBig遊郭と比較しているので「少ないやないかい」と思われるかもしれませんが、900人は、遊郭で言えば大規模遊里の下か中くらい。如何に玉の井の規模が大きかったかがわかるでしょう。
そして、実数の2千人(以上)となると、「近代史の遊郭Big4」と呼んでいる吉原・洲崎・松島・飛田の日本トップ遊郭に肉薄しています。

また、玉の井の酌婦(娼婦)の出身地のデータも残っています。

・山形:178人
・東京:94人
・福島:88人
・秋田:86人
・茨城:67人
・千葉:64人
・北海道:55人
・青森:44人
(以下略)
出典:『警察新報 昭和12年4月号』(1937年のデータ)

私娼窟は、素人から見たら「女とニャンニャンする所」としては遊郭と何の変わりもありません。経験者の話を聞いても、売春窟の代名詞として「遊郭」と呼んでいる人もいます。
また、地元では長年「遊郭」と呼ばれ、地元の人も何十年、何の疑いもなく「遊郭」だと信じてきたけれども、行政や警察での営業区分は「私娼窟」な所もあります。鳥取県の倉吉新地遊郭や、出雲大社前の柳町遊郭などが良い例で、遊郭と名前がついていてもそれは遊郭ではなく、「遊郭」はあくまで俗称です。これは警察などの公的資料を見れば、一目瞭然。

遊郭・赤線史に興味を持ち、それをブログやYoutube、そして論文などにアウトプットしたいという人は、「遊郭」「私娼窟」そして芸者の「花街」は明確に区別しないといけません。ちなみに、芸者も場所によっては「うちの市の芸者で売春していない芸者はいない(某F市の資料)」という、私娼窟と何が違うねんという場所もあるので、ややこしいっちゃややこしい。

NEXT:玉の井の名を全国区にしたある文豪の名作
スポンサーリンク

コメント

  1. 東京YS より:

    BEのぶ様
    初めまして、天王寺駅の怪にノックアウトされた者です。
    現在玉の井旧3部に居住しており、その昔は母方の叔父夫婦が同カフェー街で銘酒屋を営んでおりました。
    そんな血と育ちから、古めな鉄道と遊郭跡を求めて全国を彷徨っております。
    貝塚と言えば遊郭跡と水間鉄道、これからもブログを楽しみに致しております。

    • 米澤光司 より:

      >東京YSさん

      はじめまして。拙ブログをお読みいただきありがとうございます。
      趣味が合いそうなプロフィールですね、これからどんどん更新していくので、またよかったらお読みいただければと思います。
      あと、玉の井のことで何かお聞きになっていたら情報いただけたらなーと。

      • 東京YS より:

        戦後の地図には旧京成白鬚線跡と東武伊勢崎線、それに3部西端とで囲われた辺りにも旅館が数件記載されていて、現在も遺構が1件残存しています。エリアの線引きには曖昧な面があったのでしょうか。
        その点カフェー街は組合が厳しかったこともあり、そうそう散らばらずかなりの密集度だったようです。
        叔父夫婦はメインストリートで「けい」(前屋号「金波」後屋号「せいこ」)という店を営んでおりました。
        賑わいはメインストリートもさることながら、そこから北へ伸びる二本の路地が特に凄かったそうです(貴ブログ③の写真ですね)。
        旅館「錦水」を過ぎてアールの手摺りのある大店「鹿島屋」までの間にこれでもかというくらいの店があり、さらに西へ向かう路地の更にその奥の路地のとば口に貴ブログ⑤でエアコンが飛び出ている遺構「銀月」か「うきよ」?があったわけです。
        玉の井も多くの建て替えが進んでいますが、ここは今でも最もディープな一角だと思います。

        • 米澤光司 より:

          >東京YSさん

          最後に行ったのがかなり前だった上に、まだ遊郭・赤線史研究家の駆け出しの頃だったので、来月玉の井と鳩の街など東京の赤線跡再調査に行こうと思ったら!
          コロナで断念せざるを得ません。
          夏には収束していると思うのでその頃に行きたいですが、その頃には当時の建物が残っているだろうか(いやもうなくなってるか)、心配です。

          • 東京YS より:

            その点関西は貴重な物件や街並みがまだまだ多く羨ましい限りです。
            実は私も、201系の最後をチェック〜播但線で梅ヶ枝遊郭へ〜和田山駅の機関庫(まだ有りますよね?)まで足を伸ばそうと思ってましたが、やはりコロナで躊躇しています。
            先が見えずに困ったもんです。

error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました