東京・墨田区東向島−ーここにかつて、日本最大の私娼窟「玉の井」がありました。
結論から先に述べると、ここ玉の井は遊郭ではありませんでした。
吉原など、公娼である遊郭とは異なり、本来は存在自体が違法でありながら警察に黙認された「準遊郭」とも言える特殊な歓楽街でした。
最盛期には2000人とも3000人とも言われる女性たちが働き、規模は日本の大遊郭吉原や大阪の松島に匹敵しました。
さらに、永井荷風の『墨東奇譚』の舞台としても知られ、多くの人を惹きつけて場所でもあります。
しかし、玉の井は1945年の空襲で灰燼に帰し、その姿を消しました。
本記事では、玉の井の成立からその最盛期、戦後の赤線までの歴史を、史料を用いて解説します。
玉の井の基礎知識①ーー玉の井は遊郭ではない!
本題に入る前に、まずは基礎知識を。
特に、遊郭・赤線史に興味がある人が注意すべき点が2つあります。
戦前の)玉の井は遊郭ではない!!
これ、めちゃ重要です。
「遊郭」とは、どストレートに言ってしまえば公的機関が公に認めた売春街のこと。遊郭で働く女性は法律的には「娼妓」、一般的には「女郎」、吉原は「花魁」。「お女郎さん」「おねえさん」と敬意を持って呼ぶ所もありました。
関西では江戸時代から隠語で「姫」と言い、私も

溜まってる?ほな「姫」んとこ行って来いや!ww
ってな感じで使っていましたが、これ広辞苑にも載っている関西独特の表現だったことを最近知りました。
対して玉の井は「私娼窟」。遊廓とは対極に位置するもので、言ってしまえば違法です。
隠れ商売なため暖簾上の名前は何でもよく、「銘酒屋」「小料理屋」から「射的場」「うどん屋」まで様々。山形市の私娼窟は「中華料理屋」だったというから驚き。
そんな「銘酒店」で働く女性たちは「娼婦」、遊廓の「公娼」に対して「私娼」。遊郭のように優雅に「花魁」「お女郎さん」と呼ばれることはありません。
しかし、玉の井は規模が大きすぎて警察も黙認。「性病検査だけはちゃんとやってよ」という条件でお目こぼし状態でした。よって、私はこういう私娼窟を「準遊郭」という造語で表現します。
その「準遊郭」が、大正末期から昭和初期にかけ全国あちこちに出現しました。「違法」ゆえに法律なんて糞食らえの超法規的存在となり、遊郭を脅かす、いや宮城県石巻の新地群のように、場所によっては遊郭本体を食い潰した存在になっていくのですが、それはまた別の話。
玉の井の場所の変遷ー戦前と戦後では「玉の井」の場所が違う
まずは下の地図を。
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戦前の「玉の井」と戦後の赤線は、戦前は「大正道路」と呼ばれていた「いろは通り」を挟んで場所が全く違います。
いろは通りより南が戦前の私娼窟、北の濃い赤で塗った部分が戦後の赤線エリアです。
戦前の玉の井は、出来た順番によって「◯部」に分かれており、「1部」がいちばん古く設立されたエリアです。戦前の私娼窟としての「旧玉の井」は、後述しますが昭和20年の東京大空襲で跡形もなく焼けてしまい、現在は何も残っていません。
しかし、いろは通りより北は全く焼けませんでした。

空襲で焼けだされた業者の一部がそこで新しく商売を始め、赤線として認められたものが戦後の玉の井。
が、一部は玉の井を離れ、すぐ南のに新しい赤線を作りました。そこは「鳩の街」と呼ばれ、路面電車で都心から直通で、文化人も鳩の街の方に通い始めたため、「新玉の井」は戦前のあの知名度の割には地味な所だったそうです。
玉の井やこういう方面の歴史を調べている初心者は、「『旧玉の井』と『新玉の井』は別物」と考えた方がよろしいかと。
我々がイメージする玉の井はたいがい「旧」の方であって、「新」と記憶がごっちゃになってる人もいます。また、「新」を知らずに「旧」だけが若いころの記憶補正も加わって全面に出ることが多いため、客観的に調べる方は知識をきっちり分けないといけません。
以上、玉の井の基本知識の解説終わり。お次は本題に入ります。
玉の井の誕生ーきっかけは関東大震災だった!
玉の井は、スカイツリーラインこと東武伊勢崎線の東向島駅付近の地区のこと。
戦前の行政上の正式な名前は当時は「東京府南葛飾郡寺島村」の字の一つで、「玉の井」という名前自体は以下のように書かれています。
「旧寺島村の小字に玉の井と呼ぶ所あり。その辺に周囲20間ばかりの丸き塚あり。里人にこれを聞けどもわからず。
引用:『東京近郊名所図会』
この辺を玉の井とあれば、昔武蔵国の私党玉の井四郎助実の一類居住の地であろうか」
玉の井四郎助実は、源頼朝が平家討伐を行った時に同行した豪族で、鎌倉幕府成立後は役人として幕府に仕えたとあります。彼は幕府成立後、今の愛知県葉栗郡木曽川町に領地を獲得、そこにも「玉の井」という地名が残っています。
「玉の井」が全国区の知名度を獲得するのは、大正時代後期から。

関東大震災前の浅草には、銘酒屋街と呼ばれる一角がありました。
一見飲み屋っぽい名前ですが、酒など置いてない実は私娼窟でした。
元祖東京タワー「十二階」こと凌雲閣の下を中心に、「銘酒屋」や「射的場」や「新聞販売店」が軒を連ねていました。なぜかぎ括弧がついているかって?その営業は世間を欺く仮の姿、これらはすべて売春宿だったのです。
私は見逃してしまったのですが、2019年の大河ドラマ『いだてん』にこの銘酒屋街が少し描かれたそうです。

そんな「浅草名物」も、大正12年(1923)の関東大震災ですべて崩壊してしまいます。
その後警察の指導も入り、銘酒屋はこぞって郊外の寺島村(玉の井)に移転します。私娼窟としての玉の井の歴史は、事実上ここから始まります。
ところが、昭和3年(1928)に発行された『賣笑婦論考』には、大正7年(1918)には既に私娼がチラホラ見え始めたとの記述があります。これら娼館も、元は浅草にあった銘酒屋で、浅草に広い道を作る(おそらく今の国際通りでしょうか)ために立ち退きを迫られた業者が、新天地を求めて玉の井界隈に移転しました。
関東大震災前から玉の井に銘酒屋が集まる土壌は揃っていたということです。
そして大正12年、関東大震災で浅草を追い出された業者が、寺島村に大量に流入という流れに。
大正13年(1924)までは、寺島地区一帯に娼館がバラバラに点在していたものの、私娼をいくら取り締まっても埒があかない警察の方がギブアップ。翌年に地域を決めて営業を許可するという、事実上の黙認となりました。
『賣笑婦論考』には大正時代の、あまり知られていない玉の井創世記の数字が掲載されています。

玉の井が発展していく様子が数字だけでもわかります。
また、大正15年(1926)当時の玉の井の私娼653人の前職一覧表は以下の通り。

この玉の井がどれだけ有名だったかという一つの間接的資料を。
『全国花街めぐり』(松川二郎著)という、昭和4年(1929)発行の本があります。この本は日本全国の「遊廊」の紹介本ながら、私娼窟である「玉の井」が紹介されています。
そこには当時「玉の井」というと私娼窟の代名詞になっていたらしく、遊郭とは別にあった栃木県宇都宮の私娼窟は、「宇都宮の玉の井」と呼ばれていました。
玉の井の情景
昭和初期の玉の井最盛期の風景を、実際に玉の井通いをした一人が書いた本から、少し長いですが引用してみます。
何となく、文字から玉の井の雰囲気が醸し出されるかもしれません!?
午後四時を過ぎると、ラジオや蓄音機を鳴らすことも、花街らしい三味線の爪弾きさえ禁じられて、嫖客の下駄や靴の音、女が小窓から客を呼ぶ声だけになる。
「ちょいと洋さん、いい男ね、寄ってらっしゃいよ」
「ねえ、めがねさん、ちょいと・・・」
「鳥打帽のお兄さん、口あけだから安くしとくよ」
といった秘密めいた声や、ねずみ鳴きが交錯する。
(中略)そばに介添えの婆やがついていて、当人は恥ずかしそうに眼を伏せているものもいる。
「初見世ですよ、あがってやって下さいな」
婆やが代わりに客を呼ぶ。窓に座って一週間や十日たっても、初見世で通るのである。
(中略)そのうちあなたは気に入った顔立ちの女を小窓の中に発見して、吸い寄せられるように小窓へ近づくにちがいない。
「あがって下さる?」
以心伝心、女はあなたがその気になったことを見抜く。
「いくらだい?」
「野暮いわないで、さぁ・・・」
女はバタンと窓を閉め、すわっていても手の届く引戸を開けた。
2つの呼び込み部屋の双方に引戸があって、中に入れば土間は一つなのである。
土間を上がると、鼻の先に二階への階段がある。値段の交渉は二階へ上がってからでもいい。その結果折り合わなければ、ギザ一枚(50銭硬貨)置けば帰れるのが、昭和4,5年頃のルールだった。
階段というより梯子段といった方が近いのを上がって、二畳ほどの引付け部屋に入ると、女は茶を運んできて、安物の花梨の卓の上に置いた。
お茶といっても出がらしの番茶である。この「おぶう」を多分あなたは飲まないだろう。何となく性病のバイキンが、茶の中に浮遊しているような気がするからである。
だが、あなたは目の前の女をまじわることは、不思議に不潔感がない。
「泊りでいくら?」
「いくらならいいの?」
「君の方から言えよ」
「あんた遊び馴れているんでしょ。この間もこの前通るのを見たわ」
「はじめてだよ、ノイは」 (※「ノイ」は玉の井の略語)
「三円五十銭でどう?その代わりもうお客取らないから」
「二円五十銭」
その時期、チョンの間が1円、泊りで2円、奮発して3円なら極上の客だった。
「ケチ」
と言って、女はもう一度腕時計を見る。
終業時間は近い。それまでに泊まりの客が取れるかどうか計算したのだ。
「いいわ、その代わり先に寝ててね」
「いや、湯屋に行ってくるよ。すまないが手拭と石鹸貸してくれ。石鹸代をおまけにしてポッキリ3両」
なるほど遊び馴れている。
女にチョンの間稼げる時間を残して、しかも女から風呂道具を借りて、銭湯で一と汗流して来るなどは、相当この土地で年季を入れていなければ出来ない芸当だ。
(中略)あなたは明日の朝、日の出ないうちに起こされて、はいって来た口から寝ぼけ眼の女に送り出され、シーンとした昧爽の空気の中を、東武線玉の井駅へ寝不足の不透明な気持で歩いて行くことになる。
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いずれも1930年代前半の玉の井を写した写真です。2枚目は1932年の9月、ちょうどこの時期に流行した「アッパッパ」を着ています。
玉の井はこんな風景が迷路のようにあり、狭い路地の左右から女性に

ちょいとお兄さん…
とピンク色の声でささやかれると、気の弱いオスは全く太刀打ちできません。おそらく私もダメ。

「そんな女性たちが、店にある「覗き穴」から玉の井界隈を漂う客を誘惑するのである」とその本には書かれていました。
上の提灯には「山お」らしき文字が書かれていますが、おそらくその店の屋号でしょう。
玉の井の最期
日本は戦争への道を進み始め、国内全体に暗い空気が流れた昭和12年以降も、玉の井の繁盛が変わることはありませんでした。いや、むしろ赤紙(召集令状)で戦争に行く男たちで余計に賑わいました。「旧玉の井」の最盛期は、彼らが押すな押すなと駆け込んだ昭和12~13年という人もいます。
更に、上述した『濹東綺譚』によって玉の井の名前が全国区になり、地方からのお上りさんも増えて空前の盛り上がりを見せました。
そんな玉の井に終わりが来たのは、昭和20年3月10日の東京大空襲。
ここあたりも空襲で跡形もなく焼失、いや消失、戦前の玉の井の歴史はここで終わります。『寺島町奇譚』によると空襲直前まで営業が行われており、この漫画のクライマックスにもなっていります。

終戦2年後の写真でもこの通り。東向島駅の東側(右側)に「ラビリンス」と永井荷風が表現した魔窟があったはずなのですが、きれいさっぱりお掃除されてしまったようです。現在に残る戦前の玉の井の面影は、「お歯黒どぶ」の上にフタをするように作られた狭い道路以外全く残っていません。

焦土と化した玉の井…そこからの復活の物語!
戦後の玉の井
戦争が終わって少したった昭和21年、焼け残ったいろは通り北側を使って「赤線」が成立、戦後の玉の井の歴史はそこを中心に流れていきます。
結果的には、玉の井赤線は昭和33年(1958)施行の売春防止法で灯を消し、更に昭和40年3月1日から施行された第二次地区表示変更で「墨田町」「東向島町」となり、「寺島町」という名前も消えました。今は閑静な住宅街に町工場が点在する、ごく普通の町です。
が、「玉の井」は未だ死なず。
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今でも東向島駅の駅名標には(旧玉ノ井)と書かれており、地元の人の強い要望だそうです。
戦後の玉の井カフェー街の規模はだいたい120件くらい、戦前の全盛期の4分の1の規模くらいでした。
昭和30年6月末の警視庁の調査によると、
・店の数:121軒
引用:玉の井挽歌』大林清著より
・女性数:328人
●ショート:300~400円
●時間:500~800円
●泊まり:800~1000円
昭和32年3月、つまり「売防法」施行1年前のデータでは、
・店の数:106軒
引用:『玉の井という街があった』前田豊著より
・女性数:275人
ライバル鳩の街もほぼ同じ値段だったそうですが、上述のとおり戦後は鳩の街の方に客足が移ってしまいます。鳩の街の女性の数は玉の井より少なかったものの、客数も女性一人あたりの稼ぎもリードされ、戦前の「魔窟」の面影はどこにもなかったと本は記しています。

昭和43年(1968)の玉の井の赤線跡を写した写真を見ても、カフェーは「飲み屋」となり赤い灯は完全に消え、健全な街になったかのようです。
まとめ
【玉の井の歴史 まとめ】
・玉の井は、東京の東向島に存在した私娼窟
・遊郭ではなく、私娼窟
・関東大震災により倒壊した浅草銘酒街(売春窟)が移転したのが始まり
・最盛期には2000人以上の娼婦が働いていた巨大歓楽街
・1945年(昭和20)の東京大空襲で焼失
・戦後は焼け残った区域を使って赤線となったが、戦前ほどの勢いはなかった
👉現在の玉の井はどうなっているのか。赤線の跡が今も残る玉の井を歩いたその姿とは
『墨東奇譚』
『玉の井という街があった』
『玉の井挽歌』
『玉の井 色街の社会と暮らし』
『墨田区史』
『墨田区火災保険特殊地図(戦前)』
『東京都全住宅案内図帳 (昭和36年)』
『新評 1970年8月特大号 戦後赤線哀史 私娼解放の拠点〈玉の井〉 / 猪野健治』
『警察新報 1937年4月号』
『あざみ白書』(小林亜星著)
『荷風!Vol.27(2011.3) 玉の井を語る』
『東京人 No.186(2003.1) 色街慕情』(小沢昭一著)
『賣笑婦論考』
『寺島町奇譚』(滝田ゆう著)
『昭和史が面白い 赤線恋しや』(半藤一利他)











コメント
BEのぶ様
初めまして、天王寺駅の怪にノックアウトされた者です。
現在玉の井旧3部に居住しており、その昔は母方の叔父夫婦が同カフェー街で銘酒屋を営んでおりました。
そんな血と育ちから、古めな鉄道と遊郭跡を求めて全国を彷徨っております。
貝塚と言えば遊郭跡と水間鉄道、これからもブログを楽しみに致しております。
>東京YSさん
はじめまして。拙ブログをお読みいただきありがとうございます。
趣味が合いそうなプロフィールですね、これからどんどん更新していくので、またよかったらお読みいただければと思います。
あと、玉の井のことで何かお聞きになっていたら情報いただけたらなーと。
戦後の地図には旧京成白鬚線跡と東武伊勢崎線、それに3部西端とで囲われた辺りにも旅館が数件記載されていて、現在も遺構が1件残存しています。エリアの線引きには曖昧な面があったのでしょうか。
その点カフェー街は組合が厳しかったこともあり、そうそう散らばらずかなりの密集度だったようです。
叔父夫婦はメインストリートで「けい」(前屋号「金波」後屋号「せいこ」)という店を営んでおりました。
賑わいはメインストリートもさることながら、そこから北へ伸びる二本の路地が特に凄かったそうです(貴ブログ③の写真ですね)。
旅館「錦水」を過ぎてアールの手摺りのある大店「鹿島屋」までの間にこれでもかというくらいの店があり、さらに西へ向かう路地の更にその奥の路地のとば口に貴ブログ⑤でエアコンが飛び出ている遺構「銀月」か「うきよ」?があったわけです。
玉の井も多くの建て替えが進んでいますが、ここは今でも最もディープな一角だと思います。
>東京YSさん
最後に行ったのがかなり前だった上に、まだ遊郭・赤線史研究家の駆け出しの頃だったので、来月玉の井と鳩の街など東京の赤線跡再調査に行こうと思ったら!
コロナで断念せざるを得ません。
夏には収束していると思うのでその頃に行きたいですが、その頃には当時の建物が残っているだろうか(いやもうなくなってるか)、心配です。
その点関西は貴重な物件や街並みがまだまだ多く羨ましい限りです。
実は私も、201系の最後をチェック〜播但線で梅ヶ枝遊郭へ〜和田山駅の機関庫(まだ有りますよね?)まで足を伸ばそうと思ってましたが、やはりコロナで躊躇しています。
先が見えずに困ったもんです。