『千と千尋の神隠し』を遊里史の視点から考察する

野良歴史家の歴史探偵
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『千と千尋の神隠し』と性風俗!?

『千と千尋の神隠し』は、日本で興行収入の記録を塗り替えたのはもちろん、海外でもヒットを飛ばし、アカデミー賞などの海外の賞も受賞した有名な映画です。

一説によると、『千と千尋の神隠し』には隠れたメッセージがあると言われています。

その一つが、「風俗・売春を描いたもの」というもの。

それは宮崎監督自身認めているっぽく、

「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」

「今の女性たちは売春婦が似合いそうな人がものすごく増えている」

(日本版『プレミア』の2001年6月21日号のインタビュー)

と述べています。

そのアイデアを出したのは鈴木敏夫プロデューサー、
「人とちゃんと挨拶ができないような女の子がキャバクラで働くことで、心を開く訓練になることがあるそうですよ」
と言ったところ、
「それだ!」
とひらめいたそうな。

そしてアカデミー賞受賞後、宮崎駿が一言。

「あの話(千と千尋)は鈴木さんのあの話から始まっているんだよね~」

何のこと?と鈴木氏が聞き返すと、

「キャバクラの話だよ」

と二人で笑ったという話を、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」で鈴木氏が述べていました。第三者の想像ではなく、関係者本人の証言。この映画には何かメタファー、隠された仕掛けがあるのではないかと、思わざるを得ません。

そんな隠れたメッセージ…一遊里史研究家が見た『千と千尋の神隠し』とは。

 

『千と千尋の神隠し』と遊郭

この映画のストーリーを超簡単に説明すると。

「『不思議な世界』に迷い込んだ千尋と両親。ふとしたことで両親がブタにされたので、千尋が両親を助けるために『油屋』という銭湯で働く」

というもの。

この映画の主な舞台になる「油屋」を改めて見てみると…

千と千尋の神隠しの油屋

遊郭やん!!

私の直感がそう叫びました。
この赤い外壁は遊郭の妓楼(遊女屋)の象徴。昔の大妓楼はこんな感じだったと言います。また、「油屋」の前にある灯篭も赤。夜になった時の灯篭の明かりは、赤とは言わないけどちょっとピンクがかった色。
「油屋」の前の町も、昭和初期の看板建築をモチーフにしたようですが、西部劇的な臭いもするし大阪の新世界的情緒もある「飲み屋街(?)」の提灯の色も赤。大阪の旧飛田遊郭近くの飲み屋街も、あんな雰囲気だと思いませんか。

 

そして、この映画自体があまりに赤々しくて問題にもなった事もありました。これにも隠されたメッセージが隠されている気がします。

なぜならば、赤は色街に欠かせない色だから。
今の風俗街のイメージカラーはピンクですが、戦前の遊郭はでした。

 

また、「油屋」に架かっている橋もキーポイントと思われます。
その昔、遊郭は堀や壁で囲まれた所が多かったのですが、それには理由がありました。無論、遊郭で働く遊女の逃亡防止のこともあったものの、橋は日本では遊廓という別世界と娑婆(俗世間)と区切る境界線という意味合いもありました。

今の遊郭跡も一部に堀や壁が残っており、実際に訪れてみると橋の向こうは別世界だった…という雰囲気を感じることができる場所もあります。この「油屋」の橋も「橋を渡ったら別世界ですよ」を描写するための小道具の一つかもしれない…!?

 

失われた古代遺跡のように、ほとんど誰にも知られることもない遊廓跡が、今でも当時の姿をかなり留めて残っている場所があります。

奈良県大和郡山の東岡遊郭

今は解体されて存在しませんが、某遊郭跡の妓楼…この木造3階建ての建物は、その存在感たるやものすごいものがあって、実際に目の前にすると感動の前に圧倒されて唖然としてしまうものがあります。

明治吉原遊廓東京名所写真

吉原などの大遊廓は、紅色に塗られた、このような妓楼が大通り沿いにニョキニョキ建ってたらしく、「木の摩天楼」と言っても過言ではないと思います。

 

他にピンときたのがこのシーン。

千と千尋の神隠しの一シーン

普通ならスルーしているか、きれいやなーで終わりになりそうな、川の向こう側の夜景です。

このシーンですかさず連想したのが、東京にあった洲崎遊郭のこと。
埋め立てが進んだ現在では陸地のど真ん中にある洲崎も、昔は正面が東京湾。東京ディズニーシーの遊郭版のようなウォーターサイド遊里でした。

 

明治時代、洲崎には「大八幡楼」という大妓楼がありました。
大きさについての具体的な記述はないのですが、住所は洲崎弁天町1丁目17番地、つまり地区まるごと妓楼でした。中には庭園や、今のスーパー銭湯ほどの大きさの銭湯まであったと言います。
「大八幡楼」は元々、根津という遊里にあった大妓楼でした。根津とは今の東大赤門キャンパスの真横にあたります。その後東大が作られ、根津は「学問の邪魔」という理由で強制退去させられ洲崎に移動。それが洲崎遊廓の始まりです。

その「大八幡楼」の根津時代、坪内雄蔵という東大の学生が花紫という遊女目当てに通っていました。二人は同郷なのもあって意気投合そのまま恋仲になり、いろいろすったもんだがあったものの、結局結婚出来たという実話があります。
その坪内雄蔵とは、のちの文学者坪内逍遥
そう、坪内逍遥の妻センは端的に言うたら元フーゾク嬢なのであります。

ん?待てよ?

『千と千尋』の『千』とセン

…まあ偶然でしょ。

 

「大八幡楼」の建物自体は、大正5(1916)年2月に放火によって全焼しました。ところが、その跡に30軒以上の建物が建てられたというから、ものすごい広さだったことが想像できます。
その「大八幡楼」には、大きな時計塔があったと言います。

 

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明治24年(1891)に描かれた洲崎遊郭の絵にも時計塔が描かれています。高層建物などなかった当時、さぞかしバベルの塔感が強かったことでしょう。

 

 

 

千と千尋の神隠しの画像時計台

映画の中の時計台はこんな感じ。形は似てないですが、和の上に時計台という洋を付け足すという発想は同じです。

 

東京名所州崎遊郭之遠望(明治三十五年)

「東京名所州崎遊郭之遠望(明治三十五年)」という洲崎遊郭の遠景を描いた絵ですが、遠巻きからでも時計台が確認できます。

 

千と千尋の神隠しの一シーン

『千と千尋』のこのシーンと比べてみましょう。どう感じるかは読者次第。

その昔、船から遠く洲崎を見ると、暗闇の中にまばゆいばかりの光が集まって幻想的な風景だったそうです。このシーンを見て、このフレーズを思い出しました。
明治か大正時代、海から見た洲崎遊廓ってこんな感じだったのだろうと。さすがに明治時代にネオンはないけれども。

『千と千尋』の建物描写は、無国籍的というか和洋折衷というか、一見メチャクチャなものの、それが幻想的に感じてまうのが宮崎アニメのおもしろい所。
明治から大正にかけての和洋がガラガラポンされた風景は、宮崎アニメに近い風景だったのかもしれません。

この世に実在した油屋!?

しかし、ここである疑問が浮かびます。

『千と千尋』の「油屋」みたいな5階建ての建物なんかあったのだろうかと。
今は5階建などマンションでも当たり前ですが、明治はおろか昭和初期でも5階建など「超高層ビル」のようなもの。今でも遊郭跡に残る木造3階建てでもすごい迫力なのに、5階建てなんか…
と思って調べると、吉原遊郭に

「木造6階建て」(!!)

の妓楼があったそうです。
その「6階建て」の名は、明治11(1878)年築の「金瓶楼(きんぺいろう)。当時の写真は現存しないようですが、当時を物語る浮世絵などが現代に残されています。

 

新吉原江戸町壹丁目 金瓶楼上図

早稲田大学所蔵の金瓶楼上図、歌川芳虎

早稲田大学所蔵の「新吉原江戸町壹丁目」(歌川芳虎作)という浮世絵です。階層はわかりませんが外観の一部が見えます。

 

金瓶楼の遊女と伝えられる写真

「金瓶楼」と伝えられている遊女の写真です。
遊郭は確かに端的に言ってしまうと「売春街」。金瓶楼はいくら優雅で雅でも、言ってしまえば「売春宿」です。しかし、吉原のような所は格式(ランク)があり、格式がある妓楼で遊ぶには、金はもちろん、遊ぶ方にもそれなりの教養を持っているのが前提でした。

「金瓶楼」は中に日本舞踊の舞台や中庭もあったようで、『千と千尋』の「油屋」をしのぐ6階建て、外観は不明ですが、かなりの威圧感があった明治の「木造の超高層ビル」だったと思われます。
「油屋」はもちろんアニメの世界ですが、アニメに近い「現実」が100年前の日本にあったわけで。

 

もう一つ、鎖国を廃止し開港された幕末の横浜には、海を埋め立てて造られた「港崎町」(みよざきちょう)という町があって、そこに「港崎遊郭」という、外国人のための遊郭があったそうです。吉原をコピーしたかのように造られた15,000坪の遊郭は、吉原を横浜に移植したかのような「ハマの吉原」でした。
そこに、今でも伝説になっている「岩亀楼」(がんきろう)という妓楼がありました。

 

横浜港崎廓岩亀楼異人遊興座敷之図

「横浜港崎廓岩亀楼異人遊興座敷之図」

という一枚の浮世絵が残っています。

 

横浜岩亀楼の中庭幕末日本図絵アンベール

(横浜の岩亀楼の中庭-日文研データベースより)

「岩亀楼」の中庭も、外国人が描いた絵として残っています。かなりの大楼だったことがわかります。ここは贅を尽くされた造りで、昼間には見物客が押し寄せて見物料を取ってたという話が伝わっていますが、奇しくも6年後の慶應2年(1866)の港崎遊郭の大火で焼け落ちました。

港崎遊郭は今の横浜スタジアムあたりで、そこには「岩亀楼」の灯籠が今でも残っています。

「岩亀楼」自体は遊郭が今の高島町(高島遊郭)に移り、明治9年(1876)7月に「二代目岩亀楼」が完成します。

 

岩亀楼高島町

写真の通り和装折衷の豪華絢爛な造りで、286坪の敷地に和風・洋風の部屋をあつらえていた「6層」の建物だったそうです。
写真を見るとどうしても3階建てにしか見えないのですが、写真が間違っているのか、記述(記憶)が間違っているのか、それとも真実か・・・それは私もわかりかねます。興味がある方は調べてみて下さい。

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