福原遊郭と外国人遊客

神戸の福原遊郭と外国人関西地方の遊郭・赤線跡

遊里史の調査のため、統計書を読む機会が多数あります。
統計書、それはただ読むだけでは何の面白みもない無機質な数字の海。目的なしで読むと、こんな資料の何がどう面白いのか全くわけわかめな書物です。
が、ある目的を持ちながら読むとあら不思議。その数字の行間、いや「数間」か、を読み取ると、他の人には見えなかった何かが見えてくる「魔法の書」でもあります。

戦前の統計書には、鉄道などの交通機関の数字の他に、遊郭の数字も記載されています。基本項目はどの道府県も同じなのですが、所々に土地柄を思わせる項目があったりします。兵庫県の統計書は、さすがは国際都市神戸を抱える土地柄か、外国人に関する項目が多いのが特徴です。
兵庫県統計書の大きな個性は、遊郭の項目に外国人が記載されていること。
他の統計書にはない大きな情報でもあります。

今回は、そこに焦点を当ててみようかと思います。

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福原遊郭略史

神戸福原遊郭

まずは、福原遊郭の歴史について軽く触れておきます。

神戸は、今では想像もつきませんが、開港時点は人口数千人の寒村。そのため遊里は存在しません。逆に、港として栄えていた兵庫(現神戸市兵庫区)には佐比江新地1という元禄の頃からの娼館街があったのですが、本件とは関係ないので飛ばします。

福原遊郭が開業したのは、1868年のこと。1868年とくれば明治元年、福原は近代日本がおぎゃーと産声を上げた同年に生まれたのです。
慶応3年(1867)6月、兵庫奉行・柴田剛中が居留地開設にともなう諸対策を幕府に上申、外国人向けの旅籠屋・遊廓の設置を提案した結果でした2
なお、開設の時期は「5月1日説」と「11~12月説」の二種が存在しているのですが、8月にはすでにあったとする新聞記事があるので、5月説の方が有力っぽいです。

福原遊郭は、最初から現在の場所にあったわけではありません。当初の遊郭の場所は宇治川河口の西岸。現在の神戸駅東側、ハーバーランド周辺にあたります。
その後、鉄道敷設の用地(つまり神戸駅)とかぶった上に、明治4年(1871)の「津波」3による壊滅が移転に拍車をかけ、その年のうちに現在地の新福原に移設されました。
移転年から換算しても、福原はなんと今年で開設150周年だったりします。なんかイベントやらんのかな?

明治時代の福原遊郭の場所
明治13年(1887)の地図では、福原だけが僻地にポツンと置かれた、まさに「新地」でした。が、福原遊郭の横を流れていた湊川が埋め立てられ、そこに神戸最大、いや関西指折りの繁華街「新開地」が爆誕します。

新開地が盛り場になっていくにつれ、福原もお隣さんとして大変な賑わいを見せ、順調に発展していきました。「新開地」とは「新しく開発された地」という意味で、遊里の代名詞である「新地」と意味は全く同じです。
イメージ的には新開地ができた→人が集まる→遊里(福原)ができたと思いがちですが、実は新開地の方が「新参者」だったのです。

昭和5年の内務省警保局(現在の警察庁)の内部資料によると、貸座敷の数93軒、娼妓数は1329名、呼び込みなどの庸人が781人、遊客数577,877人。この数字は、兵庫県の遊里の中ではぶっちぎり。全国の遊郭の中でもトップ10圏内に入る規模です。

『全国遊廓案内』の福原の欄にはこんなことが書かれています。

 

「長崎県人(の娼妓)最も多く、次に熊本県、兵庫県」

引用:『全国遊廓案内』

さて、これは果たして本当か。この機会なので確かめてみました。

 

福原遊郭遊女

兵庫県の遊郭で働く遊女の出身地別数字です。
『全国遊廓案内』の発行が昭和5年(1930)なので、それに近い昭和4年(1929)12月末のデータを持ってきました。全道府県すべてにあるわけではないけれども、統計書にはこんなことまで記載されているのです。

数字を見ると、1~3位は長崎、熊本、そして兵庫県。『全国遊廓案内』の記述とおりです。お見事。
昭和4年末での福原の娼妓数は1047名。うち長崎県出身者は188名。全体の約18%を占めています。福原遊郭だけで「長崎県人会」ができそうな勢力です。
第二位の熊本県が約14%。この2県だけで福原青楼90軒、女郎1000人の3割を占め、第三位の兵庫県(64名、約6%)を大きく引き離しています。

兵庫県全体で見ると、一位と二位は変わらずで第三位は福岡県。
兵庫県の遊里に占める九州女性の割合はなんと45%。地元関西勢(13.7%)が束になっても全然歯が立たちません。
これには実は理由があるのですが、それを書くと話が長くなるのでまた機会があれば。

そんな隆盛を極めた色街も、昭和20年(1945)3月の第一次神戸大空襲によって一面焦土と化し壊滅。
しかし、戦後は赤線として栄え、昭和33年(1958)の売春防止法完全施行につき、色街としての歴史に幕を閉じ…とそうは問屋が卸さず、現在も関西有数のピンク街として存在感をキープしています。

福原遊郭の詳細については、時間をおいて別記事にしようかと思います。が、コロナで図書館が開店休業状態につき、いつになるかは不明です。

福原遊郭の外国人遊客数

大正時代以降の外国人遊客数の推移は、以下のようになっています。

兵庫県統計書の福原遊郭

これは「兵庫県全体」ですが、後述するように外国人遊客のほとんどが福原行きなので、8割が福原と思って結構です。
昔の外国人が抱く日本のイメージ、それは「エブリバディ、サムライ、スシ、ゲイシャ」。…って米米CLUBの歌ではないですが、おそらく「ゲイシャ」を見たい、できれば遊びたい…そんな下心丸出しで遊郭や花街に向かって華を咲かせていたことでしょう。「ジョロウ」は「ゲイシャ」じゃないって?外国人にとってはどうでもいいでしょう。

 

福原遊郭の外国人遊客数

そのうち、福原遊郭だけの数字を抽出してみました。昭和元年(=大正15年)から16年までの年間平均は約6,808人。1日あたりにしてみると19人、それくらいの数ならいてもおかしくない現実的な数字か。
なお、統計書は「福原町」「橘通」と分けて掲載していますが、本稿では両方合せて福原遊郭としています。

昭和史は恐慌(金融恐慌)から始まったと言えます。経済史的には真っ暗闇からスタートしたのですが、マクロ的には政府の金融政策が功を奏し急性虫垂炎程度で済んだとされています。
が、遊里の数字を見ると、客数に対して売上が全体的に落ちています。つまり客単価が安くなっているということ。遊びたいけど金は惜しい…日本国民の財布の紐がキツくなっていることが統計書の数字から垣間見ることができます。

それに対し、外国人の客数は不況なんてそっちのけで上がっていき、昭和4年(1929)には9千人台へ。大正時代後半は1000人台だったのにこの爆増ぶりは何なのか。
統計書内の様々なデータを見比べて分析してみると、ある項目が目に入りました。それは「神戸港の外国客船入港数」。大正10年(1921)まで3ケタだった客船の入港数が13年から4ケタ突入。昭和5年(1930)までだいたい1,100隻前後で推移しています。
また、「外国人宿泊者数」にも注目してみました。こちらも大正12年(1923)には5,000人弱だった数字が、翌年以降に8~9000人と急増しています。国別で見れば中華民国(中国)が5000人強とトップで、米国、英国と続きます。すべてが観光客とは言えないですが、13年から女性宿泊客が爆増しているので、純粋に観光客も多くなったと思われます。
大正13年(1924)から外国人の登楼客と同年からの客船の増加…飛行機が交通手段として未熟だった頃の、日本への交通手段とくれば船のみ。やはり何かしら関係ありと推測できます。
福原遊郭の数字だけ取ってきても、同じく大正13年から外国人客が増えています。それまで1~2000人程度だった数が、13年には4000人近くに。感覚的には1年で倍増です。翌年は5,169人、そして昭和に入ります。

昭和5年1月、やめろと散々止められていた金解禁を、浜口雄幸内閣が強行します。その結果が日本史上最悪と呼ばれるどん底不況。
調子が良かった外国人遊客もその影響を受けたか、昭和6~7年の遊客数がごっそり減少しています。外国船入港数も外国人宿泊者数もそれに比例して減っています。

地獄のようなデフレ不況も、昭和7年(1932)の金融政策により回復し、翌8年から好景気が始まります。福原遊郭の日本人客もそれにつれ回復、外国人遊客も昭和8年から戻り始め、13年(1938)まで安定した数字を見せています。
しかし、国中に「非常時」が叫ばれるようになり、現実的に享楽が取り締まられるようになった昭和14年(1939)以降は数字が下がり始めます。そしてそのまま太平洋戦争へ。
といっても4000人強いるのが神戸の風土といったところか。
残念ながら、この外国人遊客数の国別統計はないのですが、(どこの)人が登楼していたのでしょうか。

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  1. 現在の佐比江町あたり
  2. 遊廓・遊所研究データベースより
  3. と書かれてあるが、おそらく台風による高潮のこと。何かの水害が来たことは確か。

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