大阪府堺市は鎌倉時代から続く貿易都市+自治都市でした。室町末期~戦国時代の「東洋のベニス」として日本史の授業でも習ったことでしょう。
当時の堺はどんなものだったか、今風に言えばフリーポート、要はシンガポールや返還前の香港が大阪湾岸にあったというイメージしていただければ良いと思います。
そんな人とモノと金が集まる堺にも、色街は当然のごとく存在していました。
堺には一休宗純や徳川家康も遊んだと言われる乳守遊郭がありました。
本記事では、同じ堺でも海沿いに作られた「龍神」「栄橋」の遊郭の歴史と、現在の姿を解説します。
龍神・栄橋遊郭の歴史
元々、現在の南海堺駅あたりは一面の海でした。
が、18世紀前半に付け替えられ加工が堺沿岸になった大和川が運んだ土砂で海が埋まり、そこを本格的に埋め「新地」を形成しました。そこに「龍神堂」という祠を建てたのが、「龍神」という妙に格好いい地名の由来です。
そして、天保13年(1842)、堺奉行水野若狭守により私娼・岡場所が跋扈していた堺の遊里が整理され、龍神遊郭が誕生します。
栄橋も由来は江戸時代の新地なのですが、龍神が芸妓と娼妓の二枚鑑札が集まった「大茶屋」と呼ばれる置屋と揚屋がきっちり分かれた大見世が中心に対し、栄橋に出来た方は居稼ぎの「小茶屋」が中心でした。実は同じ遊廓でも営業形態が違い、そのためいざこざが絶えませんでした。
そして明治17年(1884)、栄橋が請願して龍神から独立して「栄橋遊廓」となり、堺の新地には龍神と栄橋という、二刀流のような遊里が形成されました。
このような経緯があるため、「龍神」「栄橋」と分かれていても元は一遊郭。医学的な表現では「一卵性双生児遊郭」。政治学的には「堺遊郭連邦」か「龍神=栄橋遊郭」という表現がふさわしい遊里でした。
こういうパターンはいくつかの遊里で見られ、京都の祇園も元は芸妓中心の「甲部」と娼妓中心の「乙部」に分かれていました。売春防止法で「乙部」が廃止となり、「甲部」だけが残ったのが、我々が漠然とイメージする祇園です。
龍神・栄橋遊廓も、龍神が「甲部」、栄橋が「乙部」と思えばよろしいかと。
龍神・栄橋遊廓の発展
明治32年に発行された南海鉄道の沿線案内、『南海鉄道案内』にも堺の遊郭が案内されています。その昔、遊廓は「観光地」の「歓楽街」としてガイドブックにも掲載されていることが多かったのです。
それによると、遊里は現在の南海堺駅より南、フェニックス通りより北の区域にあり、『南海鉄道案内』が発行された当時の龍神・栄橋遊郭の規模は、
「龍神町は貸座敷71戸娼妓59人、芸妓77人。去る6月中の来客の数6109人、消費額は5899円33銭5厘。(中略)其実の繁盛は、此龍神町が本市第一の遊廓です」
引用:『南海鉄道案内』(明治32年)。数字の原文は漢数字
「栄橋は貸座敷40戸娼妓240人、芸妓無。来客の数(6月中)5220人、消費高は4121円、(以下略)」
これを見ると、龍神は娼妓と芸妓の二枚鑑札、栄橋は娼妓だけの遊郭だったことがわかります。
ここに記載の「消費額」にも注目。
龍神が1カ月に消費した5,899円33銭5厘は当時としてはかなりの額でした。くれぐれも現在の5899円ではありません。
明治32年の東京での白米10kgが67銭、明治28年の大阪のきつねうどん一杯が1銭を基準とすると、1カ月に3~4000万円くらいがこの狭い区画で消費されていたということ。当時の繁盛ぶりが数字を見ただけでも想像できます。正直、今の堺駅前界隈を見ると全くもって信じられない光景です…。
そして、時は変わって大正時代。『大阪府統計書』の資料によると、
■大正5(1916)年
引用:『大阪府統計書』
栄橋→ ・貸座敷:60軒 ・娼妓数:567人
龍神→ ・貸座敷:105軒 ・娼妓数:24人
■大正11年(1922)年
栄橋→ ・貸座敷:60軒 ・娼妓数:713人
龍神→ ・貸座敷:111軒 ・娼妓数:19人
■大正12(1923)年
栄橋→ ・貸座敷:60軒 ・娼妓数:654人
龍神→ ・貸座敷:111軒 ・娼妓数:33人
大正11年と12年に大きな変化があります。貸座敷と娼妓の数は変わっていないものの、遊客数は
栄橋→ 大正11年:113,672人 大正12年:113,403人
引用:『大阪府統計書』
龍神→ 大正11年:35,132人 大正12年:5,279人
娼妓中心の栄橋はほとんど変化なしに対して龍神は激減、半分どころか7割減。
最初は統計書の数字の誤植ではないかと思ったのですが、同じ堺にあった乳守遊廓も同様の激減ぶり。大正12年に何かあった!?

そう、大正12年(1923)は関東大震災が起った年。
関東大震災、「関東」と名前がついていますが関西もかなりの揺れを記録し、大阪市内の地震計で震度4、京都では震度5を記録しています。記憶に新しい東日本大震災でも大阪府一円で揺れた(震度2~3)ので、さもありなん。
ただし、人的被害は聞いたことがないので被害はほとんどなかったのでしょう。
しかし、この激減ぶり…興味が湧いて他の遊郭の客足や消費金額を比較してみると、芸妓中心か娼妓:芸妓=1:1くらいの堀江遊郭(大阪市)や新町遊郭、そして今の道頓堀あたりにあった「南五花街遊廓」も、堺ほどではないものの、客足が相当数減少していました。
娼妓中心の松島遊郭や飛田遊郭は客足を逆に伸ばしているものの、消費金額は全体的に減少。大阪府の遊郭で売上が伸びたのは、飛田とここ栄橋のみでした。
この「逆転減少」は何故か?
私の推定ですが、関東大震災で日本全体に自粛ムードが起き、帝都が壊滅した中で遊里で芸者と派手な遊びなんてとんでもない!という自粛の空気が流れ、更に第一次世界大戦後の不況も重なり、財布のヒモがきつくなった現象が起きたと。
この現象、実は大阪だけではなく、全国各地の遊里でも同じことが起こっており、山口県下関の遊郭でも大正11年と12年の売上・客足の格差が、統計書の数字を見ると明らか。
遊郭も当時の社会現象を垣間見れる一種の鏡、たかが統計書の数字だけでも当時何があったかわかるのがまた興味深い。
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昭和初期、1930年代の栄橋遊廓の大通りを撮影した写真です。各店舗のネオンの看板が奥まで続き、その下に立つ女性たちが道行く男たちに甲高い声で声をかける声が聞こえてきそうです。自家用車かタクシーか、奥に車の姿も見えます。

こちらは昭和初期、1930年代の龍神遊郭の芸妓と男衆。
昭和初期の龍神・栄橋廓は、
「龍神は貸座敷100軒、芸妓400人、娼妓20人。栄橋は貸座敷60軒、娼妓600人で、遊廓としては全国でも相当大きい方であり、交通至便なため相当に繁盛している」
引用:『上方』26号 「堺の遊廓」
とされています。
また、
「龍神は貸座敷数十軒、娼妓約100名、栄橋は貸座敷60軒、娼妓約540名」
引用:『全国遊廓案内』
とあり、栄橋の数字はだいたい合っているけれども、龍神は芸妓中心の「甲部」のため娼妓はそんなにいないでしょう、というのが私の考察です。
なお、『全国遊廓案内』は龍神を”龍初町”と記載していますが、誤植か作者の間違いです。
戦前の南海本線の堺の中心駅は、現在の堺駅ではなく、「龍神」という別の駅でした。
堺駅もあるにはあったものの、市街地から離れた位置に作られたため、繁華街に近い龍神の方が中心の駅となりました。
駅から歩いて行ける距離に大浜海水浴場や潮湯というリゾート地があり、そこが「表のリゾート」ならば、その表と地理的に逆の位置にある遊廓は「裏のリゾート」いや、大人のリゾート的な立ち位置だったのでしょう。
こんな好立地な遊郭も珍しいと言えば珍しい。ふつうなら「性欲のトイレ」扱いの色里は、周囲の市街地化で郊外に追い払われるのが相場というのに。

龍神駅はちょうど遊郭の前あたりにあり、西へ行けば「表リゾート」の大浜へ、北へ行けば「大人の楽園」と、一粒で二度美味しいような立地でした。
上の地図を見たらわかりますが、昭和30年に現在の路線に付け替えられるまでは、南海本線は遊郭の真ん中をぶち抜いて走っていました。
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南海本線が新線に付け替えられた直後の俯瞰写真ですが、赤枠が赤線時代の龍神。白い点線が旧線ですが、色街の真ん中を縦断していることがわかるでしょう。
もちろん、19世紀はじめに成立した遊郭の方が歴史は古いのですが、よくぞ南海は廓をぶち抜いて真っ二つにするルートを強行したな、そもそも遊郭は反対しなかったのか…そんな資料は残っていません。
なお、龍神駅は付け替えとともに廃駅となったのですが、その後の二代目堺駅がなんと赤線の入口に。まるで「龍神カフェー街前」と副駅名をつけたくなるかのような位置です。
戦前でも「駅前遊郭」に等しい位置だったのに、堺駅付け替えで名実ともに「駅前遊郭」に。赤線の業者はさぞかし喜んだに違いありません。
が、その頃には既に売春防止法という魔の手が忍び寄り、その1年後には赤線廃止が正式決定…なんという運のなさ。
ところで、この旧堺駅は現在の堺駅南口バス停近辺ですが、ここが現役の堺駅だった頃を私は覚えています。覚えているだけでなく、乗り降りしたこともあります。が、当時はここ周辺が色街だったなど、6~7歳のガキが知るはずもありません。
『堺の遊廓』で興味深いのは、「乙部の栄橋が甲部の龍神を抱擁した形になっている」という記述。
栄橋遊廓は当時の住所の栄橋通1丁、住吉橋通1丁、2丁が区域であり、ちょうど龍神橋通である龍神遊郭をサンドイッチにした区画になっているのです。
この記述を地図に落とし込むと、こうなります。

サンドイッチになってるでしょ?
龍神の演舞場
大正末期から昭和初期の、慢性化しつつある不況は、遊里の経営も圧迫しました。さらに「カフェー」という新進気鋭の風俗産業に客が流れ、芸者遊女なんてオワコンという空気が社会に醸成されつつありました。
それは数字にも顕著にあらわれています。
年刊売上を見ると、娼妓中心の栄橋は爆増も爆減もなく安定しています。「風俗産業は不況に強い」と言われますが、なるほどそれが昭和初期の数字にも出ています。
対して龍神は、関東大震災の翌年は通常の数字を取り戻しているものの、そこからは右肩下がり。少し持ち直したか!?と思ったところで、昭和4年(1929)の世界恐慌とそれによるスーパーデフレ不況が重なり、大正の半分近くにまで下がってしまいました。
そんな状況を、指をくわえて見ているわけにはいかない龍神の花柳界、社運、もとい廓運(!?)を賭けてあるものを建設します。
それが演舞場。

建設構想は明治期からあったそうですが、資金不足などで絵に描いた餅と化していたところで、龍神発展の起爆剤として建設を決断、工事概要によると7ヶ月という短期間で完成させたとのことです。
もちろん鉄筋コンクリート造りの近世ルネッサンス様式、高さは約10m、マンション4階建てほどに相当します。

赤で囲んだ範囲が龍神・栄橋の廓ですが、黄矢印で示した建物、これが演舞場だと思われます、当時の住所を確認し、周囲の建物と比較してもここに間違いありません。
演舞場があった場所は現在、コンフォートホテル堺あたりですが、そこには昭和30年代に「新堺駅」(現在の堺駅南口)が建てられました…と思ったのですが!
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この堺駅の建物、演舞場の建物を流用したものだったのです1。辛くも空襲を生き延びたこの演舞場、戦後は東宝か松竹の管理になったものの、駅に流用できると踏んだ南海が建物を買い取ったとのこと。

資料には、当時の芸妓も顔と共に掲載されています。
当時の置屋(組合員)一覧もありますが、それはヒ・ミ・ツ。
統計書の数字は105件。組合員名簿掲載の97件と少し差がありますが、資料は「組合員」とあるので組合に入っていない置屋もあったのかな!?でも、現時点では7件は誤差としておきましょう。
こんな龍神に対し、「乙部」の栄橋は蚊帳の外。
といっても、龍神が不況で足踏みしていた間に栄橋は順調に足場を固めたか、昭和7年時点で遊客数・売上ともに龍神を抜いています。演舞場を急ピッチで造ろうとした龍神の意図は、同じ親のもとから生まれながら「商売敵」になった栄橋への焦りからだったのかもしれません。
その栄橋なのですが、演舞場落成記念写真集のように、資料は探せばけっこう見つかります。が、それと対称的に栄橋にまつわる話は、次章で書く空襲時の話以外ほとんど伝わっていません。
じきにアップする同じ堺の遊里、乳守の歴史を記した『堺遊里史』の著者も、栄橋遊郭の話はほとんどないと記しています。堺の遊里を専門に研究していた人(と思われます)が、「書くほどのネタがない」と嘆いているほどネタが伝わっていないのです。
よって、当ブログも栄橋遊郭について出せるものは、統計書の数字くらいしかありません。
空襲で焼けた遊郭
これだけ隆盛を極めた(?)龍神界隈も、昭和20年(1945)7月10日の堺空襲でほぼ完膚までに焼き払われました。
どれだけ焼き払われたかというと…

百聞は一見にしかず、はいこのとおり。
堺の市街地は、地元民の私が写真を見てどこがどこなのか判別不能なほど焼き払われてしまうのですが、遊里も例外ではなく、このように更地率ほぼ10割。あの演舞場(黄矢印)だけがほぼ唯一焼け残り、それが余計に痛々しさを感じさせます。
空襲の直前、3月の空襲で焼け出された松島遊廓の同業者が堺を訪れます。彼らは堺の貸座敷業者の会合でこう言ったそうです。

火ぃ消せ言われてもそんなもんほっといて、早よう、みんな逃がさんとあかんで!
松島は空襲で、ものの見事に「焼失」ならぬ「消失」しました。『松島新地誌』という書籍に空襲直後の松島廓の写真がありますが、ここまできれいさっぱりとなくなるとかえって気持ち良かったりして…と思わざるを得ない有様でした。焼夷弾の威力を身体で知ったのでしょう。
血相を変えてそう言われた栄橋の楼主たちは、実際に焼夷弾が落ちてきた時に遊女を一斉に逃がしたそうです。
地元の話として、廓を囲む川に空襲後、きれいな着物を着た女性の遺体が多数浮かんでいたという話を聞いたことがあります。
それも、(龍神の方の)芸妓さんらしく、着の身着のまま逃げた娼妓の死者・行方不明者は、当事者の記憶ながら7~8人だったと言います。ホンマか?と疑いたくなりますが、そういうことにしておきましょう。
貝塚遊郭編で述べましたが、同じ日に空襲の被害を受けた貝塚の遊廓も同じく遊女を逃がしたそうで、「女郎さんと一緒に逃げた」と当時小学生だった楼主の娘さんの証言もあります。貝塚市の公式資料でも、遊廓(地区)での死者はゼロとなっています。
推定に過ぎませんが、松島の業者は貝塚他の大阪の各地の同業者に、同じことを触れ回っていた可能性があります。
遊里から逃げた遊女たちはどうしたのか。

そのまま逃げたらええのに、不思議なことにみんな帰ってきたんですわ。働いて家族に仕送りせなあかんと思ったのでしょう。
堺市の証言集にはこのような証言が残っています。
戦後の堺-赤線時代
上述のとおり、堺の遊廓は空襲で跡形もなくなってしまいますが、戦後も赤線として、それこそフェニックスのように復活。昭和33年の売防法完全施行まで繁盛していました。戦前は「龍神」「栄橋」と分裂していましたが、戦後はどうだったのでしょうか。
毎度おなじみ『全国女性街ガイド』にもここの記載がありますが、あまりに露骨な表現が多い割には歴史的な情報量が乏しい…要はわざわざ書く価値がない(笑
しかし、当時の赤線は「66軒に234名」とあり、この本と同時期の『龍神カフェー組合』名簿の軒数は75軒。まあ9軒なら誤差としておきましょう。戦前の往事にはかなわないけれども、なかなか繁盛していたものと思われます。
戦後の赤線時代を語る、二人の人物がいます。

堺が生んだ天才漫才師、横山やすし。
彼の育ての親である「タキヨさん」がここで働いていたと、過去のブログ記事に書いたことがあります。
それが酌婦、いわゆる売春婦だったのか、それとも掃除などの賄いだったのか、はたまたカフェーの店主だったのかは、やすしの自伝でもあいまいにぼかしており不明です。
が、一つわかっているのは、「タキヨさん」がここで働いていたことをやすし本人が認めていることです。
赤線時代の堺龍神を語る上で、一人の重要な脇役が参上します。

それが元野球選手の稲尾和久氏(故人)。
「鉄腕稲尾」「神様・仏様・稲尾様」と呼ばれた西鉄ライオンズ不動のエースで、野球好きなら知らない人はいないほどの有名選手です。昭和33年(1958)の西鉄vs巨人の日本シリーズで、7戦中6戦に登板、3戦目から5連投と、ライオンズ3連敗からの4連勝という伝説の立役者。こんな登板ペースを現在の投手がやったら死ぬで。
ライオンズにはもう一人、伝説の選手がいました。

それが大下弘。
昭和20年代のプロ野球を代表する野手で、同時期に活躍した巨人の川上哲治の「赤バット」に対し、「青バット」と呼ばれ、当時のパリーグを代表する人気選手でした。
しかも、お世辞にもルックスが良いと言えない川上に対し、大下はイケメン。いや、俳優顔負けの美男子。
男しかいなかったプロ野球ファンに女子が現れたのも、大下のおかげ。球場には大下見たさに女子が殺到したんだとか。
また、「プロ野球史上最強の左打者」とも呼ばれ、三原脩監督が言ったこの言葉が有名です。

プロ野球史上最強バッターを5人挙げろと言われたら、長嶋、王、川上、中西、大下。
ここから3人選べと言われたら、長嶋、中西、大下。
一人選べと言われたら大下。
野球好き…だったかは知りませんが、落語家の立川談志師匠もこの言葉を挙げ、

俺も同意だ!
どっちかというとイチローのような安打製造器タイプだったそうです。
そんな大下は、もう一つの顔を持っていました。今風に言えば「野球界の風俗王」。
この大下、とにかく病的な女好き。
素人玄人問わず色んな女に手を出し、最後はヤクザのヒモがかかった素人女を寝取ってヤクザが家や球団にまで押しかけてきたところで、奥さんに、

素人には手を出さないで!玄人ならいくらでもいいから…
と泣きつかれてしまいました。
「玄人」とはつまり赤線の女。
懲りるどころか、奥さんから「赤線行き放題」の免罪符をもらって大喜びの大下、大手を振って全国の赤線に繰り出していました。時には赤線から球場に通っていたこともあったそうです。
大下はまた、試合後チームメイトを誘って赤線へドボンしていたそうで、大下と共にライオンズのクリーンアップを形成した豊田泰光氏も、大下に連れられて赤線に繰り出していたことを回想しています。
稲尾も、そのうちの一人でした。
おそらく南海ホークス戦の後だったのでしょう、当時ルーキーだった稲尾氏は大下に連れられ、ここ堺龍神へ。

こいつ童貞だから頼むな
と「プロ」に託し、なされるまま童貞を卒業した話が、大下の伝記に稲尾本人談として書かれています。
売春防止法が施行され赤い灯が堺から消えても、赤線の建物はバブルの頃までかなり色濃く残っていたそうです。しかし、堺駅からの立地条件の良さが逆にバブルの地上げの餌食になったのでしょうか、それ以後は急速に消えてしまったそうな。

(出典:フォト蔵 ライムライト様フォトアルバムより)
昭和53年(1978)、当時の建物が残っていた頃の龍神赤灯街跡を撮影した写真がありました。右側に「料亭 扇屋」という看板が見えますが、赤線が現役だった頃の住宅地図と照合しても該当する屋号は見つからず。赤線廃止跡に屋号を変えたものと思われます。

(出典:フォト蔵 ライムライト様フォトアルバムより)
こちらも、「三喜屋」という屋号が見えるものの、住宅地図には該当のものは存在せず。昭和50年代の住宅地図もGETしておけばよかったか…と少し悔やんだところで、隣の「金松」という屋号を発見。これで写真の場所を特定できました。


(出典:フォト蔵 ライムライト様フォトアルバムより)
こちらは「金正」という屋号が確認できます。

位置はこちらにありました。当然のことながら、現存はしていません。

こちらは赤線廃止20年経っても、まだピンク色の臭気を発していそうな雰囲気ムンムンの「旅館いろは」。ただし、外壁にかなり衰えが発生し、妓楼界の老婆といったところか。

こちらはここに存在していました。現在はマンションになっています。

(出典:フォト蔵 ライムライト様フォトアルバムより)
こちらは、上述の「金正」の通りを南方向に写したものです。たばこ屋が場所特定の大きな目印となったのですが、大和郡山の東岡町の時もそうでしたが、住宅地図から場所を特定する際、たばこ屋がけっこうな目印になることがあります。

元画像の画質が最高によろしいので、画像の奥の道を拡大して表示も可能です。
奥に並ぶ店の数々…写真は赤線の赤い灯が消えて20年後のものながら、やはり色街のお色気が残っている気がします。もちろん、今は全く残っていません。
地元民だからこそ、この時代のここを見てみたかった。
そのタバコ屋の奥に、「いかにも」という建物が見えます。

こちらは私が初めて訪問した14~5年前にも存在しており、写真にも残しています。「いかにも」って感じでしょ?

この窓がまたたまらない。
こちらは現役当時は「東金正」という屋号の店で、上に挙げた「金正」の支店のようです。赤線当時の組合員名簿にも同じ名字の方の名義となっています。
なお、商売柄赤線には電話が必須アイテムです。龍神の赤線も電話所有率が非常に高いのですが、75軒中3軒だけ電話がない店があります。「東金正」はその1軒なのですが、何かあったら向かいの本店にかけろということでしょうね。
この建物、Google mapのストリートビューによると2010年時点では残っていたようですが、2014年には惜しくも消滅。遊里跡の建物としては最も色濃く残っていたものだけに、残念です。
現在の龍神・栄橋遊廓跡は…
私が初めてここを訪れた時は、上に挙げた建物はほとんどがビルやマンションとなっていましたが、まだいくつかの建物は残っていました。
が、わずか10年ちょっとの歳月なのに、気づいたらそれらもことごとくなくなっていました。

唯一残っているといえば、これくらいでしょうか。こちらは十数年前と同じたたずまいでまだまだ残ってくれることを祈ります。
ただ、物理的にはなくなってしまっても、写真には撮っておいたので、私の画像ファイルの中にあった、過去の写真を。「こんな建物がありました」というアーカイブにどうぞ。


こちらは、赤線現役時代の住宅地図によると「むさしの」というお店だった建物。昭和30年の龍神の組合員名簿にも屋号を確認できます。ちなみに電話番号は3708番でした。
撮影した当時はそんな資料もなく、経験で培った山勘で「これは怪しい」というものを念のために撮影したに過ぎなかったのですが、その勘が当たったようです。

「旅館 ときわ」と書かれた建物です。建て方が、遊廓・赤線跡を渡り歩いた人には「いかにも」という外観ですね。
そして、こんなものもありました。

もはや何も語るまい…外観を存分にご堪能下さい。
住宅地図によると「栄福」という屋号の店だったと思われるもので、強烈な個性を放つ2階はおそらく客のための夕涼み場だったのではないかと、勝手に想像しています。

横から見るとこのとおり。

横の隙間を覗いてみたら、赤線時代の面影をなんとなく残していました。
惜しくも現存はしていませんが、実はGoogle mapのストリートビューのアーカイブで、2010年に設定すればこの建物を見ることは可能です。つまり、10年前はあったということです。
龍神・栄橋地区の赤線時代の遺構は、2014年になるとほぼすべて消えていました。2010年から4年の間に、さらなる開発が進んだのでしょう。残念ですがこれも元色街の宿命か。
神明神社の玉垣

色街跡の外れには、神明神社という神社があります。天照大御神と、その食事を担当する豊受大御神を主祭神として祀っているため、「堺のお伊勢さん」と地元では呼ばれています。
「訳あり日本一低い山」こと蘇鉄山の登山証明発行所として、斜め上な方にはお馴染みの神社でもありますが、それについてはこちらのブログ記事を。
地理的に廓とは無縁ではなかったか、ここには龍神遊郭の玉垣が残っています。

写真は一枚だけですが、「龍神廓」の見世の名前がずらりと並んでいます。神社は堺空襲で全焼したのですが(再建は意外にも平成に入ってから)、玉垣の見世の名称からして戦前のものに違いありません。なぜなら空襲で焼けた後は赤線として蘇っても、花街としては二度と復活しなかっただろうから。
で、玉垣に書かれた見世の名前を、昭和7年の組合員リストと照合すると、「長春楼」「富貴楼」「大和家」「駒屋」など一致する名前があります。
ところが、結果的に玉垣の見世の半分以上がリストにないのです…玉垣の「艶乃家」は組合員リストの「艶の家」、「鶴乃家」は「鶴の家」、「葭花楼」は「葭花」とみなしても、ざっくり計算で一致率約6割。
あとの4割はどこへ行ったの?と私に聞かれてもわかりません。せっかく組合員名簿を手に入れて玉垣とすべて一致させようとしたのに、一致どころか、なんだこの不一致ばかりはと。
補足-いづみ荘の「無実」を証明する
この地区を歩いていると必ず目に入る建物があります。

「いづみ荘」と書かれたアパートですが、入口に注目!

見よ!この神々しいばかりのタイルを!!
丸い円柱に埋め込まれた空色の豆タイル…そして写真には写っていないですが、正面玄関の横にも玄関があります。東京の赤線跡であれば、その場で遊里跡赤線文化財に指定されるほどの逸品。他の方のブログも、クロと断定しています。
が、私は少し違和感を持っていました。
外観的には確かにビンゴなのですが、場所が赤線地区から少し離れてるのです…。周囲の建物が無くなり、これだけが残ったと言われると納得しないこともないものの、なんか喉に骨が刺さったような違和感が。なので、私は10年間「クロ認定」は避けていました。
その違和感、やはり住宅地図が解決してくれました。

赤線現役時代かられっきとしたいずみ荘(いづみ荘)でした。つまり「シロ」。
さらに、プライバシーの都合でモザイクをかけていますが、周囲の家々も名前を見る限りふつうの民家であり、「いづみ荘」だけ赤線の店というのも不自然に感じます。
まあ、確かに建て方は赤線建築に特徴的なものではあるので、勘違いしても仕方なし。元々は赤線の店だったものの、住宅地図に掲載される前に廃業し「いづみ荘」になった…そんな可能性もなきにしもあらず。
遊郭赤線探索家(?)がみんな「クロ」認定している建物を、大多数に逆らって敢えて「シロ」認定したところで、今回のお話は終わります。
・『堺市史 近代編』
・『南海鉄道案内』
・『堺大観』
・『堺名勝案内』
・『上方』26号 続大阪明治文化号
・『上方色街通』
・『龍神演舞場新築竣成記念写真集』(昭和7年)
・『全国遊廓案内』
・昭和3年大阪市航空写真(大阪市所蔵)
・昭和17年大阪市航空写真(大阪市所蔵)
・『全国女性街ガイド』
・『堺市全住宅案内図帳(北部)』(昭和31年)
・『堺市全商工案内図帳』(北部)(昭和38年)
・『ゼンリン住宅地図 堺市』(昭和45年)
・『堺遊里史』
・『まいど!横山です ど根性漫才記』
他堺市立図書館所蔵の郷土資料





コメント
鉄道や街の歴史について入念に調べ上げられていて大変好奇心を惹きつけられます。記事の内容が痒い所に手が届くというか、小さな疑問にも答えてくれるまでに詳述されているので読後のモヤモヤ感が無くスッキリします。
何時もそこに在るのでこれからもずっと在るだろうと思ってしまうんですね。ある時ふと無くなっている事に気付く。街の風景は知らずの内に大きく変わってしまい「あの時なんで写真に撮っておかなかったのか」と悔やむことばかりです(特にバブル以降)。
今後ともいろんな記事を拝読させて頂きます。
はじめまして。
坂井と申します。
良く調べられておられますね。
一点だけ申し上げたいことがございます。
「旅館 ときわ」と書かれた建物で、現役時代は「さかヰ」という建物だったと思われます。
「さかヰ」は隣のマンションです。
住んでいたので間違いございません。
>坂井様
はじめまして。コメントありがとうございます。
ご指摘の部分、訂正(該当部分を削除)しました。
ありがとうございます。
ツイッターでフォローさせていただいています。
私は70年代初頭の中学生までここの校区で育ち『料亭、旅館』の同級生も何人かいました。
これまで龍神遊郭のことを書かれたものをほとんど見たことがなかったのですが、これですっきりしました。
ところで演舞場ですが、コンフォートホテル堺の位置にあったことは私も過去の航空写真を見て確認しましたが、それまでそこに演舞場建物跡があったことは記憶になく、そこは高架前の旧堺駅舎であったので1955年の開業の旧駅舎建設に伴い取り壊されたのではないでしょうか。
でも上空から見た形は確かにそっくりすぎますよね、いつも利用していた堺駅ですが1955年開業の割には子どもの頃でも古ぼけた印象しか残ってないのですが、演舞場建物を新駅舎開業に合わせて改築転用したとかは考えられないでしょうか。
>臭豆腐老公様
こんばんは。ツイッターでお世話になっています。
>演舞場ですが、コンフォートホテル堺の位置にあったことは私も過去の航空写真を見て確認しましたが、それまでそこに演舞場建物跡があったことは記憶になく、そこは高架前の旧堺駅舎であったので1955年の開業の旧駅舎建設に伴い取り壊されたのではないでしょうか。
改めて精査してみたのですが、戦後の演舞場と思っていたところは「旧堺駅」の駅舎でしたね。ご指摘ありがとうございます。本文を訂正しました。
>演舞場建物を新駅舎開業に合わせて改築転用したとかは考えられないでしょうか。
演舞場の場所は、「旧堺駅」あたりなのは間違いないと思うので(また後で精査します)、その可能性もゼロではないですね。そういう仮説は興味深いので、堺に帰ったら写真などを探してみます。
②で紹介されてる『旅館、料亭』は小中学生の頃はまだ竜神橋町、栄橋町一帯は遊郭当時そのままだったし、夜に通ると上がり框でパンツも露わに突っ伏して倒れているお姉さんを見かけたりしましたが、飛田のように客引きをしているような光景はなかったような気がしますが、何分子どもの頃の記憶なのでどうでしょうか。
あの辺って遊廓があったんですね。メンズエステのルームがあって行ったことがありますが、ある意味適切な場所なんですねえ
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