萩の遊郭とくれば「芳和荘」!だが…
萩の遊郭とくれば、イコール「遊郭旅館」で有名な「芳和荘」を思い浮かべる人も多いでしょう。


私が泊まったのは2011年。ここがまだ知る人ぞ知る存在だった頃。
当時の宿泊客は、2日泊まって私一人の貸切状態という、今にして思えばとても贅沢な空間。
それが今や予約困難という有名な宿に。
泊まってみたい!という人もいっぱいおられるでしょうが…

2022年にご主人がお亡くなりになってしまったそうで、それ以来「臨時休業」という名の事実上の廃業状態に。
現在は、主を失った元妓楼がポツンと残るのみ。
建物はもう言葉にならないほどの素晴らしさだけに、これどうにかならないものか…萩市が税金でなんとか建物だけでも残してくれないものか…いや、クラウドファンディングで旅館として復活させたい…いろいろ複雑な思いを巡らせつつも、時間だけが虚しく過ぎる日々。
そんな切ない思いをオープニングとして出しつつ、萩にあった遊郭の話を始めます。
萩遊郭の歴史

萩遊郭は長州藩の時代から存在していました。が、芳和荘がある浮島地区ではなく、萩市街から遠く離れた越ヶ浜地区でした。
そこは漁師や海運業者が集まる萩のウォーターフロント、江戸時代には西廻り航路の商港、風待ちの港として多くの船で賑わいました。ただし、小川国治 「西廻り海運と港町の整備」(『転換期長州藩の研究』、1996年、思文閣)によると、大型廻船は山陰沖を一気に渡り萩を通過していたそうです。
人が集まり賑わうところには、自然発生的に歓楽街、遊里が形成されます。その上、海に出ると人の肌が恋しくなるそうです。
「フネが港に戻った時には、『3本足』で立ってたものさ(笑」
と回想した海の男もいました。漁師でも船員でもなく、元大日本帝国海軍中佐ですけどね(笑

越ヶ浜地区の遊郭は明治中期まで存在していたのですが、明治42(1909)年に芳和荘がある浮島地区、現在の東浜崎町の一郭に移転。弘法寺というお寺があったことから、「弘法寺遊郭」と呼ばれるようになりました。
しかし、越ヶ浜遊郭の方は、萩市街地への移転の際、貸座敷免許地の免許を返上したわけではなかったようです。
『山口県統計書』を見ると、数軒・数人だけなものの、移転後数年間は貸座敷・娼妓ともに残り、大正2年(1913)まで存続していました。同年10月より統計上の数字が切れているので、9月が越ヶ浜遊郭の真の終焉の時といってもいいでしょう。
芳和荘が作られたはっきりとした期日は不明ながら、だいたい大正初期と言われ、遊郭時代は「長州楼」という屋号でした。

和荘のご主人いわく、赤で塗った範囲が遊郭街だとのこと。そして、元遊郭の建物は芳和荘以外残っていないとのこと。残念無念。
とはいえ、芳和荘自体が良い保存状態で残ってること自体、奇跡に近い。動画に出る2階客室部分の手すりの部分は建設当時そのまま、それでもまるで10年前くらいに作られたかのような新鮮さを保ってます。よほどいい木材を使い、萩遊郭の中でも贅を尽くした妓楼の一つだったのだろうと。聞いた話によると、大工の棟梁3人に作らせ、それぞれ競わせたのだと伝えられています。
逆に言えば、もし残っていたら他の貸座敷も見てみたかったなと惜しい気持ちもあります。

現地資料による昭和初期の萩遊郭の貸座敷位置図が掲載されています。
昭和5年(1930)の『全国遊廓案内』によると「貸座敷10軒、娼妓約40人」とのことですが、内務省警保局(現警察庁)が公権力を使って調査した同時期の数字では、「貸座敷8軒、娼妓24人」。『山口県統計書』の昭和4年末の数字は「貸座敷8軒、娼妓25人」と一次資料での数字はほぼ一致。こちらの数字の方が信頼に値します。
地元資料の地図には6軒しかないですが、遊郭は出入りが激しく数字が安定しない業界な上に、資料のソースは地元の人の記憶。多少の誤差はやむを得ない。
芳和荘のご主人の言うとおり、萩遊廓跡を歩いても確かに芳和荘以外に当時の妓楼は残ってません。


芳和荘の隣にある、和風のようで2階部分の窓枠がやけに洋風な謎の建物。
芳和荘のご主人によると、これは「(遊郭と)関係ない」そうな。
久しぶりにGoogleマップストリートビューで見てみたところ、すでに空き家になっていたようでした。
が、私が訪問した2011年当時は家の前の木々が手入れされていて、生活の痕跡もありまだ人が住んでいました。

元妓楼の門に書かれていたある文字
萩遊郭には、元長州楼である「芳和荘」以外に遊郭の遺物はないとご主人も言っておりましたが、建物は残っていなくても「あるもの」が残されていました。
しかも、他遊郭跡では滅多に見られないレアなものが。

「芳和荘」の隣にあった妓楼の跡は、建物はすでになかったものの、門と塀はそのまま残っていました。
門柱に書かれた「貸座敷」の文字❗❗
この跡は、資料から元「新開楼」のものということがわかります。
私が訪問時、外壁だけボロボロになりながらも残っていました。
上の二文字は長年の風化で判別不可能でしたが、下は明らかに「敷」と書かれているのが画像からでもわかると思います。
”遊郭街+「敷」=貸座敷”と容易に推定できるのですが、推定するまでもなくほぼ当たりでしょ。
ここで解説。
遊郭の中の建物、一般的に「遊郭」と呼ばれることが多いですが、それは大きな間違い。
「遊郭」というのは、砕けた表現でいうなら『廓(くるわ)』という囲いの中にある遊び場という意味。
字面の解釈では、浦安のネズミ−ランドや大阪の全世界劇場も「敷居で囲まれた中にある遊び場」なので、立派な「遊郭」なのです。
遊郭の中にある遊び場としての建物は、「遊女屋」「妓楼」が江戸時代からの表現で、明治以降なら「貸座敷」が正式名称。
それどころか、「遊郭」すら俗称で法的な正式名称は「貸座敷指定地」です。

『鬼滅の刃 遊郭編』まで用法をめっちゃ間違えていて、こちらとしては頭痛が痛い問題となっています。
だから、萩遊郭に残っていたこの「貸座敷」と書かれた門柱も、そりゃ「遊郭」とは書かない。だって「遊郭」じゃなくて「貸座敷」なんだから。
閑話休題。

斜めから撮影した写真を拡大して見てみると、「貸」は少し崩れているものの、「座敷」はくっきり残っていますね。
しかし、ここまで引っ張っておいて悲報です。この門柱、2020年時点ですでに現存しません…Googleのストリートビューのいちばん古い記録でもすでに駐車場になっていたので、かなり前につぶされたのでしょう。
現在も残っていれば、貴重な「遊郭遺産」だったのですが、こればかりは仕方ない。




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