大阪・貝塚遊郭(近木新地)|遊郭から赤線までの変遷と現代の姿

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大阪府貝塚市にあった貝塚遊郭のブログ記事 遊郭・赤線跡をゆく
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貝塚遊郭とは

大阪府貝塚市には、かつて「貝塚遊郭」と呼ばれる色街が存在しました。
南海貝塚駅の近くにあり、泉州地域では比較的規模の大きな遊郭だったとされています。
現在はほとんど姿を消していますが、料亭建築などに当時の面影が残っています。
この記事では、貝塚遊郭の歴史と現在の跡地を紹介します。

貝塚遊郭の基本情報

まずは、この遊郭の基本情報を

項目内容
名称貝塚遊郭または近木新地
所在地大阪府貝塚市近木
最寄りの交通機関南海電鉄貝塚駅
成立江戸時代〜明治時代
移転1914年(大正3年)
最盛期貸座敷43軒、娼妓約270人
廃止1958年3月

貝塚遊郭の場所・位置

遊郭があった貝塚市は大阪府南部にある町で、江戸時代は紀州街道の宿場町、近代以降は紡績業の中心地として栄えました。

遊郭は現在の南海電鉄貝塚駅のすぐ目の前、実際は2〜3分ほど歩きますが、そんなの誤差の範囲。

貝塚遊郭の場所は貝塚駅の目の前

このように、駅前、もしくは駅から遠くないこういうくるわを、筆者は「駅前遊郭」と造語しています。
どこかの英会話学校のキャッチフレーズと響きが似てるって?気のせい気のせい(笑

貝塚遊郭の歴史ー江戸時代から昭和まで

江戸時代ー紀州街道沿いに栄えた遊里

江戸時代、貝塚周辺には紀州街道という大坂と和歌山を結ぶ重要な幹線道路がありました。貝塚は紀州街道の大阪と和歌山のちょうど中間地点にあたり、岸和田藩も経済政策として旅籠屋(旅館)を集約させました。

貝塚が宿場町として繁盛するにつれ、旅籠は「泊り茶屋」を併設、「飯盛女」という女性を置いて客にサービスする許可を藩から得て営業していました。これが貝塚遊郭の原形です。当時の史料によると、遊女は「飯盛女」でしたが「おじゃれ」「おしゃらく」とも呼ばれていました。

岸和田藩の城下町、岸和田が色街の設置を厳しく禁じた分、外れにある貝塚は大いに繁盛しました。

江戸時代後期、遊郭にお千代という遊女がいたそうです。
そんな彼女が病気を患い故郷に帰る途中のこと。貝塚から紀州へと通じる道の途中で彼女は水を欲し、川辺へ寄ると自分の顔が流水に映りました。

そこに見えた顔は、見るもおぞましい自分のやつれた姿でした。その自分じゃないような形相に彼女はショックを受け、自ら命を絶ったという伝説があります。
一人の薄幸な女の悲しい結末ですが、それをかわいそうに思った地元の人たちが、ここに彼女の墓を建てて丁重に供養したそうな。

そのお墓と伝えられるものが、現在でも残っています。詳しくは下のリンクまで。

明治〜大正時代の貝塚遊郭

時は明治に移り、貝塚は明治6年(1873)「貸座敷遊技免許地」として公認遊郭となります。明治時代の貝塚遊郭の記録は少ないですが、明治14年1月当時には貸座敷数25軒、女郎数72人という記録が残っています1

ちなみに、明治26年明治26年(1893)3月1日当時の娼妓の花代(線香代)は以下の通り。

・朝より晩まで 金70銭(14本)
・朝よりヒルまで 金30銭(7本)
・ヒルより晩まで 金40銭(8本)
・バンより朝まで 金70銭(14本)
・バンより鈴まで 金25銭(10本)
・鈴より朝まで 金25銭(5本)
・初線香 金20銭(4本)
(当時の看板の原文通り)

江戸時代の貝塚遊郭は紀州街道沿いにあったとされていますが、やはり主要幹線沿いに遊郭はふさわしくないと移転させられ、大正3年(1914)にミカン畑だったという近木こぎ地区に移りました。現在、「遊郭跡」されている地区です。

遊郭の移転となると、「けがれ」としてふつうはド郊外に移転させられます。日本家屋のトイレは、同じく穢れとして建屋の外れに置かれることがほとんどですが、遊郭が性欲という穢れとして町外れに追いやられたのも、おそらく同じ考えだろうと思います。

しかし、貝塚は展開が違っていました。明治30年に南海鉄道が貝塚駅を開業つくりましたが、遊郭の移転先はほぼ駅前。郊外どころか、逆に立地条件良好の土地に移った栄転となりました。

「駅前遊郭」の発展

その「駅前遊郭」のアドバンテージを得た貝塚遊郭は、地方遊郭ながら順調な発展を遂げます。

貝塚遊郭貸座敷数と遊女数の推移

明治、大正、昭和の貝塚遊郭の数字を抜粋してみました。順調に発展していく様子がわかると思います。
昭和12年(1937)に数字のピークを迎えているのは、盧溝橋事件に始まる支那事変(日中戦争)で一斉に召集令状が下り、「筆下ろし」のために賑わったから。
「童貞で死なせるのは忍びない」と入営する前に遊郭へ登楼させ、「おねえさん」の手ほどきを受ける…というのは当時は常識でした。昭和12年以降の数字の伸びは貝塚だけではなく、全国どこも同じ傾向だと思って結構です。

統計書の数字をまとめていると、一つの疑問が浮かびます。
『「花街」異空間の都市史』(加藤政洋著)によると、大正3年に近木地区に移転した際の貸座敷免許者数は32名、娼妓数は60名とあります。加藤氏の著書は私も参考資料にさせていただいているほどクオリティが高く、貝塚遊郭関連のブログでこの数字を引用する人も多い。

加藤氏は『大阪朝日新聞』から引用していますが、『大阪府統計書』の数字を並べるとおかしいことに気づきます。

貸座敷数は合ってるでしょうが、「娼妓60名」は前後年の数字を見ても明らかにおかしい。貝塚の娼妓数推移を明治12年から昭和15年まで60年分並べてみても、前年からほぼ半減した「60名」になった後、翌年ほぼ倍増にV字回復…という劇的な数字の変化はありません(10~15名の減少はある)。

残念ながらネット上の『大阪府統計書』が、事もあろうに大正3年度だけ存在しないのですが(なんで上手い具合にそこだけ抜けてんねん)、前年の数字は翌年の大正4年統計書から推定できます。

大阪府統計書貝塚遊郭娼妓数大正4年
(『大阪府統計書』大正4年 貸座敷及娼妓数より)

前年(大正3年末)から開業34名、廃業31名。前年比3名増の117名の娼妓が在籍…という見方になるので、大正3年は114名という計算が可能です。60名との矛盾は如何。

貝塚が発展した理由

ところで、皆さんは泉州とくれば何を思い起こすでしょうか。だんじり?水なす?いや関西空港?でも、中には「タオル」を連想する人もいるのではないでしょうか。

泉州地区は江戸時代から綿花の生産地で、近代に入り今の泉佐野市在住の発明家の手で紡績機が作られ、西洋風タオルの製造が盛んになりました。
そこで紡績業が一気に発展、10年で海外に輸出、大正はじめには日本のタオルの9割以上を占める無敵のタオル大帝国となりました。岸和田紡績や大日本紡績(ユニチカ)などもここで生まれました。

遊郭も、タオルで一儲けしたブルジョアの皆さんで毎日賑わっていただろうことは、説明するまでもありません。また、市内の置廓に頑として反対していた和歌山市の客を南海電車を通して取り込んだことも、貝塚の発展に拍車をかけました。

東洋の魔女貝塚ユニチカ

1964年の東京オリンピック、「東洋の魔女」こと日本女子バレーボールチームが金メダルを取ったことは、昭和スポーツ史の一部として現在でも刻まれています。そのチームの母体が、当時「大日本紡績」だったユニチカのチームでした。そのチームの本拠地は、実は貝塚。女子たちは貝塚の工場で鬼監督のもと猛訓練を繰り返していたのです。

泉州のタオル大帝国っぷりは、私が高校生の頃まで健在でした。

タオルに金払うなんてアホや!

昔の泉州民はそう豪語していました。泉州民の挨拶代わりは何かとタオル。タオルなんて「もう要らんわ」というほどもらいます…実際、家には一人暮らしなのにタオルだけが40枚くらい不良在庫のように。泉州タオル帝国は、我が家の中では未だ終焉を迎えておりません。

バブル崩壊後は、安い中国産や今治タオルの大躍進に押されて全く元気がない泉州タオルですが、捲土重来を狙って密かに牙を研いでいるのだろう、地元愛が強い私はそう願いたい。

またもう一つ、貝塚には重要なお仕事があったと、私はある推測を立てています。それが、「水間観音への穢れ落とし」
水間寺は厄除け観音として有名で、今でも参拝客が絶えません。私も厄年の際はここで厄除けしてもらいました。

水間鉄道

貝塚からは水間鉄道というローカル鉄道線が水間寺までの輸送を担っています。

信心深い人たちにとって、水間寺の玄関口である貝塚で穢れや煩悩を落とし、きれいな気持ちで参拝したい。そんなこともあるのではないでしょうか。

貝塚の空襲と遊郭の被害

戦争の激化と共に遊郭の営業もままならなくなり、統計書の数字も昭和14年からどんどん下がっていきます。昭和19年頃になると一部の貸座敷は海軍に接収され、隣の佐野町2にあった飛行場のパイロットの宿舎になっていたと地元の方いわく。

そして貝塚遊郭にとっての運命の昭和20年(1945)7月10日。
この日、B29が大阪府堺市・和歌山県和歌山市を空襲しました。堺にあった龍神・栄橋、乳守遊郭がこの空襲で「消失」しています。
この二つに挟まれてあまり話題にされないのが、貝塚市の空襲。死者25名を出し遊郭もこれで3分の1以上が焼けてしまったのですが、地元以外ではあまり知られていません。

しかもこの空襲、米軍の記録にもない。よって、爆弾を落とした側は

米軍
米軍

貝塚に爆弾落とした?いいえ知らない空襲ですね

となっているのです。

👉米軍の記録にもない謎の貝塚空襲については、以下の記事で詳しく解説しています。

戦後の貝塚新地-そして赤線へ

空襲で焼けてしまった貝塚ですが、そこは遊郭、フェニックスのように蘇ります。焼けた遊郭がいつから営業再開したのかなどのデータは残っていませんが、おそらくすぐ再開したものと思われます。

一部『貝塚市勢要覧』には当時の「新地組合」の名簿が掲載されています。「カフェー」と記載されているので貝塚の業務形態はカフェーだったことがわかります。

そこに掲載されていた業者(屋号)は以下のとおり。

貝塚赤線の店一覧

・幸盛
・梅の家
・竹家
・幸龍
・松家
・千歳
・深川
・花月
・上芳
・繰駒
・第二山村

また、『全国女性街ガイド』にはこう書かれています。

未亡人クラブが多く、大阪に住む女性が出稼ぎに行く。その数は百名を下るまい。(以下略

引用:『全国女性街ガイド』

この数が本当だとすると、赤線の接待婦数は遊郭時代のピーク時の3分の1くらいか。戦前の勢いそのままの紡績会社のサラリーマンが、鼻息を荒くしながら夜の貝塚の赤い灯のもとに消えていった情景が思い浮かびます。

が、ある資料に少し気になる記述が。

近年交通機関の発達と共に遊客の訪れは減少し、寂れつつあるときに売防法の施行となり速やかに解散した

引用:大阪府民生部の資料より

赤線を監視していた大阪府の関連部署の資料なので、ほのかに信憑性がありますが、道路の整備や電車のスピードアップなどで遊客の流れが変わったのかと思われます。

貝塚遊郭赤線空撮
(貝塚市勢要覧 昭和二十九年版より )

貝塚カフェー街を空撮した珍しい写真です。
右側が貝塚駅方面、左側が海です。真ん中を縦(東西)に貫く、少し幅が広い道路が遊郭・赤線の大通りで、赤い灯花盛りの頃は道の両脇に女性が並んでいたのだと容易に想像がつきます。

そして、これも貝塚にとっては運命の日である昭和33年(1958)4月1日、売春防止法適用3により店の赤い灯は消え、色街としての歴史は幕を閉じました。

その後は潜り売春が1件検挙されただけで、「旧業者はすべて土着の住民と言うべき永住者であったこと、経済力豊かな農家や他事業者、会社役員など法を犯してまで営業する必要がない」人たちだったこともあり、至って静かだったそうです。

幻の「貝塚ハイカラ街」計画

戦前は岸和田をしのぐ殷賑を極めた貝塚でしたが、売防法による赤線廃止はもちろん、工場移転などによる地場産業の衰退などにより貝塚駅前はさびれる一方だったと言います。赤線時代は、駅から赤線まで150メートルくらいの道を飲食店が軒を連ね、深夜まで賑やかだったと言いますが、それもなくなり「うらぶれた姿を晒している」と雑誌に書かれる始末。

指をくわえて衰退を見守るわけにはいかない地元は、昭和49年(1974)に貝塚復活計画を練り始めます。そこで目を付けたのが近木の旧遊郭。

当時は赤線廃止時の様相がほぼ手つかずで残っており、写真を見ると和風と洋風カフェー建築が入り乱れた、ちょっと不思議なワールドな感じでした。後述しますが、今も時間が止まったかのように、当時の建物がいくつか残っています。

が、昔はもっと残ってたのかと。たとえるならば、『千と千尋の神隠し』に出てくる「油屋」の前にある飲食店街のような雰囲気に近いと言えば近い。

今やノスタルジアとなってしまった大正の爛熟期の姿を再現し、再開発ビルの近代的な姿と対比させながらも、全体として一つのショッピング・センターとして機能させることを考案するに至ったのである。

引用:『貝塚近木旧遊郭蘇生計画』

要は遊郭の建物を利用し大正浪漫をテーマにしたショッピングモール、名付けて「貝塚ハイカラ街」。テーマは「灰色の南海沿線に『桜色の貝塚』が出現する」。伊勢の「おかげ横丁」のようなものを作ろうと言うイメージでしょうが、企画側は気合い十分、鼻息の荒さが文章からにじみ出ています。45年前の企画書なのに、読んでいるだけでものすごくワクワクしてきます。

しかし!

作られていないということは、いつか、どこかでポシャったんでしょうね(笑

お次は、現代の貝塚遊郭跡がどうなっているのか、様子を見てみましょう。

性地巡礼ー貝塚遊郭跡を歩く

南海電鉄貝塚駅。貝塚遊郭への入口

貝塚遊郭は南海本線貝塚駅から2分ほど歩いたところにあり、その利便さから「駅前遊郭」と筆者は造語で表現しています。

大阪府貝塚市近木地区の小路

貝塚駅前の区域は道筋が古いままで、悪く言えばごちゃごちゃしています。
が、その中で都市計画に基づいた人口都市のようなエリアがあります。

貝塚遊郭に限らず、遊郭は「新地」と呼ばれた新開地が多いので、明らかに周囲と区画的に浮いている…という場所が多いのです。

貝塚遊郭跡(近木新地)のメインロート、本通り。

赤線の灯が消えて62年目、令和2年(2020)の貝塚遊郭跡のメインストリート、「本通り」です。遊郭跡によくあることですが、周囲の道に比べて明らかに広い一本の道がまっすぐ走っている…それが遊郭の中心を走った旧大通り。

ここが現役だった頃、両側には和風洋風の建物が建ち並び、夜には嬌声がBGMとして賑わいの雰囲気を醸し出していたのでしょう。

大阪府貝塚市の遊郭赤線跡、近木新地の現在の街並み。カフェー建築

再開発から逃れた故の結果ですが、逆に言えば貝塚の衰退の象徴とも言えなくもないし、貝塚の60年以上前の殷賑さの面影とも言えます。

貝塚遊郭跡を語るには、まずは「カフェー建築」を語らねばなりません。

貝塚遊郭跡とカフェー建築

貝塚遊郭跡の特徴の一つに、カフェー建築の多さがあります。

カフェー建築とは戦後の赤線(特殊飲食店街)によく見られる特徴的な建築の一つです。
東京都の遊郭は、公娼廃止後は特殊飲食店(カフェー)という名目で赤線地帯となりましたが、その際に東京都からある指導があったようです。

東京都
東京都

外観で一発で「特殊飲食店」だとわかるようにしろ!

営業スタイルは「カフェー」なので、それに合わせた外観を繕い、結果的に

・派手な色のタイル張りの外壁
・アーチ窓(曲線を多用)
・昭和初期スタイルの丸窓
・なぜか玄関が2〜3つある

など、一度見たら忘れられないような独特の姿となりました。
これが、いちおうカフェー建築と呼ばれる建物の定義です。

実際のカフェー建築の例

百聞は一見にしかず。、筆者が撮影したカフェー建築の例を少し紹介します。

鳩の街赤線跡に残っていた東京のカフェー建築
東京鳩の街赤線跡にて。2008年撮影。現存せず。

小説や演劇の舞台にもなった東京の有名な赤線、鳩の街にあったカフェー建築です。
茶色と落ち着いた色合いですが、赤線というフィルターがつくとどこか色っぽい。

洲崎遊郭跡のカフェー建築
東京洲崎パラダイス(赤線)跡にて。

こちらは洲崎遊郭跡に残っていたカフェー建築。
洲崎は海沿いのベイサイド遊郭(赤線)だったせいか、青や水色のタイルを使ったカフェー建築が多かったです。
こちらは、建物自体は現存するものの、大幅リフォームされてこの姿では現存していません。

東京の赤線、玉の井にあるカフェー建築
東京玉の井赤線に残るカフェー建築。2020年撮影

上のカフェー建築は残念ながら現存せずですが、こちら東京玉の井のは5〜6年前に存在していたもの。
おそらく、今でもあるでしょう。典型的、かつ現在では残り少なくなったカフェー建築なので、見に行くなら今のうち。

東京のばかり紹介してしまいましたが、カフェー建築はその後地方へと波及し、地方の遊郭・赤線跡へ行けばまだ見ることができます。

これを基本知識に、貝塚遊郭跡に残るカフェー建築を見ていきましょう。

貝塚遊郭に見るカフェー建築

大阪府貝塚市の貝塚遊郭に残る赤線カフェー建築
大阪府貝塚市の貝塚遊郭に残る赤線カフェー建築。ピンクと黒のタイルの使い方が艶めかしい。

ピンクと黒のタイルの使い方の艶めかしさが、THEカフェー建築。

大阪府貝塚市の貝塚遊郭に残る赤線カフェー建築

建物の上に残る外灯の跡が残ります。
お前の血は何色だぁ〜!は北斗の拳の名セリフですが、赤線時代の外灯は何色だったのでしょうか。

貝塚遊郭・赤線跡のカフェー建築

リフォームされているものの、往年のカフェー建築の形を残しています。

貝塚ちょっとよってって1

こちらの元カフェー建築のお店は、月1日だけ開放されていたことがあり、その時に中身を見学させてもらいました。

内部が気になるでしょ?
そう言うかと思って、その時の様子をまとめています。

👉カフェー建築の中は一体どうなっているのか!?気になる方はこちら

結論だけ申し上げると、カフェーという洋風の姿はあくまで外観だけ。玄関以外の中は「純」をつけて良いほどの和風、つまり遊郭の妓楼そのままだったと。

貝塚遊郭跡 その他の遺構

遊郭の跡は、前ばかり見ていても見つかりません。

上を見て電柱を見てみましょう。そこには「新地」の文字が。

貝塚遊郭の電柱。「新地」の文字が。

電柱には旧町名が遺跡の土器のように残っていることがあります。今回の「新地」もそう。新地がすべて遊郭ではないのですが、遊郭跡の電柱には「新地(またはシンチ)」の文字が残っていることが多いのです。

地味でうっかり見落としそうになりますが、窓の格子に特徴がある建物です。

貝塚遊郭・赤線跡のカフェー建築
貝塚遊郭・赤線跡のカフェー建築

こちらも「まっすぐ見てるだけ」では見つからなかった建物。2階部分のアクセントが赤線だなーと思わせます。

大阪府貝塚市の遊郭跡の建物。

一見するとただの家ですが、角に二つ玄関があるのが大きな特徴。
「ふつうの民家」ならこんな玄関の作り方する必要ないですもんね。

菱形の窓が印象的なカフェー建築。こちらも以前は赤線の店だったのでしょう。

貝塚遊郭・赤線跡のカフェー建築

筆者が初めて貝塚遊郭へ訪問したのが約20年前。それから良くも悪くも変わらぬ新地跡でしたが…

2026年4月、この建物がなくなっていました。1ヶ月前の3月には無事を確認しただけに、突然の悲報に驚きを隠せません。

料亭深川

貝塚遊郭跡には、元妓楼を再利用した料亭がかつて残っていました。

料亭「深川」です。

残念ながら閉店してしまい、現在は門を閉ざしたまま放置プレイとなっていますが、10数年前にここで「一生体験しないような豪華なランチ」を堪能したことがあります。

貝塚割烹深川
貝塚の料亭深川

ここは空襲で焼けたはずなので建築は戦後のはずですが、さすがは料亭と贅を極めた内部と料理の数々は今でも記憶に残っています。

昭和30年(1955)の赤線業者リストには、料亭と同じ屋号の「深川」として登録があるので、貝塚の赤線の中でもかなり高級見世として栄えたのでしょう。

「拝観料約1諭吉」とお金はかかりましたが、こうして閉店すると内部をカメラに収めておいてよかったと感じ入ります。

👉その時の「深川」のレポートはこちらをどうぞ


貝塚遊郭のまとめ

貝塚遊郭の歴史を箇条書きにまとめます。

・江戸時代の宿場町の飯盛女が発祥
・岸和田の城下町では色街が禁じられたので、色街としても発展
・大正時代に近木町に移転、南海鉄道貝塚駅が目の前にあったため、「駅前遊郭」となった
・大東亜戦争による空襲で遊郭の一部が焼失
・戦後も赤線として栄えたが、売春防止法で昭和33年(1958)3月で廃止

貝塚は紀州街道の宿場町・寺社町として江戸時代から栄えましたが、遊郭もそれにつれて発展していきました。
近代に入っても公娼としての遊郭が栄え、「タオルと言えば泉州」と1990年代まで花盛りだった紡績業で遊郭も繁盛したことでしょう。

👉お隣の岸和田にあった花街(遊郭じゃないよ)の記事は、以下の記事をどうぞ

👉大阪の他遊郭の記事は以下のリンクをどうぞ!

  1. 『貝塚むかしばなし』より。 ↩︎
  2. 現在の泉佐野市。 ↩︎
  3. 施行は昭和32年4月1日だが、特別に適用猶予期間(1年)が設けられた。 ↩︎
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コメント

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