山口県宇部市。
石炭から始まりセメント・化学を中心とした山口県屈指の工業都市ですが、今回の主役の老松遊郭も、その産業から始まった遊郭でした。
今回は、そんな工業の町で生まれた遊郭の話を。

宇部老松遊郭の誕生
宇部市の郷土資料によると、ここに遊郭の設置が許可されたのは1907(明治40)のこと。
お隣の小野田遊郭設置が明治27年(1894)なので、意外に遅い。
当時、宇部は炭鉱開発ラッシュで、宇部以外から人の流入が急増した上に非合法の売春(私娼)が蔓延り、町の秩序としては無視できない事態となりました。
また、流入者は九州出身が多く荒くれ者ばかりでケンカが絶えず、それを鎮める必要もありました。
そんな中、上杉治助という人物が先頭となり遊廓設置を請願、議会を説得の上設置に至りました。
最初は「字小堀」という場所が指定されるも、翌年にその地が不適格として場所が緑町四丁目付近1に変更され、土地5500平方メートルが用地として買収されました。
そこあたりは、老いた松の木が重ね重ね生える松林だったといいます。そこで遊郭の地が「老松町」と改名されました2。
正式に開業したのは、そのまた翌年の42年のことだそうな。
宇部遊郭の妓楼
明治41〜2年に遊郭が開業し、真っ先に作られた妓楼第一号は、発起人上杉がオーナーとなった「紅葉楼」と伝えられています。
他にも炭鉱の坑夫の斡旋業の吉村作太郎の「吉原楼」、のちに宇部劇場を作り老松町の歓楽地化に貢献した「芳栄楼」など、オープン当初は5軒でスタートしたようです。
1922(大正11)刊の『宇部五十年志』には、老松町の遊廓を以下のように説明しています。
遊廓を老松町といふ。東新川緑町四丁目に在り、始め小堀の地に定められしが地位不可なるものあり、明治四十一年現今の場所に制定さる。
『稿本宇部五十年志』大正11
其の面積四千坪、妓楼十七、最近の一ヶ年統計は左の如し。
芸妓四七、娼妓七三、遊客数三二九九八、娼妓花柳病被罹者二九。
-1024x506.jpg)

同じ時期の宇部老松町遊郭の地図です。
宇部遊廓ビック3(と勝手に言ってる)「紅葉楼」「吉原楼」「芳栄楼」は大正後期でも健在ですね。
昭和5年(1930年)の『全国遊廓案内』と比べると、「紅葉楼」以外は健在です。
しかし、下のリストの左端に「火事知ラズ(液)」って何やねんと、今でも気になっています。
知っている人がいれば教えて下さい。
大正15年(1926年)9月末、遊郭のすぐそばで面白いものが登場します。
東京の動物商「有竹鳥獣店」が運営する移動式動物園が、宇部にもやってきたのです。
時期は9月25日から10月2日の1週間だけだったのですが、呼び物のカバやオットセイなどの珍しい動物が評判だと、地元新聞は記しています3。
この記憶があったのか、戦後に常設のときわ動物園が開業、現在も営業を続けています4。
宇部老松遊郭、老松町はどこにあったのか
遊郭があった老松町、現在の地図で探してもそれを見つけることはできません。なぜなら、地名には残っていないから。
では、老松町はどこにあったのか。

戦前の地図には、このように老松町の文字があります。が、道筋が現在と違いすぎてどこがどこか全くわからん状態です。
宇部市街地は後述する空襲で市街地が焼け野原になったのですが、行政はそれを絶好の機会と捉えて戦前から温めていた市街地整備を進めます。
市は「戦災復興都市計画」が練られ、町のシンボルとなる幅50メートルの「常盤通り」が整備されました。
また、常盤通りの南には新天町商店街もつくられ、碁盤の目状に町づくりが形成されていきました。
老松町は、その途中で常盤通りの拡張により吸収され消滅してしまいました。

老松町(=遊郭)は現在、100均のセリアがあるビルと、常盤通りの道の真ん中くらいにあり、常盤町二丁目のバス亭あたりまで続いていました。
ぶっちゃけ、区画整備前後で位置が変わっていない中津瀬神社がなかったら、老松町の位置の特定は不可能でした。それくらい、戦前と戦後で街並み・区画が別の町なくらい変わっているのです。

宇部空襲と遊廓
宇部は炭鉱などの工業の町、よって地方都市ながら米軍に執拗に空襲されています。
その数はなんと8回。合わせて死亡者254人、負傷者557人、行方不明者68人、罹災人員2万5,424人の被害がありました5。
その中でも市街地を狙った7月2日の空襲は、1日で宇部の空襲の罹災者の98%を占めており、戦後すぐの航空写真を見ても市街地は建物が点在するだけになっています。

戦後の航空写真を見てみると、遊郭は周囲に比べると焼けていないように
宇部の赤線は、1958年(昭和33)の売防法完全施行前の3月19日に全店が廃業、その歴史に幕を下ろしました6。
性地巡礼ー遊郭跡を歩く

宇部の遊郭は「錦町」に位置していました。

宇部新川駅前に、ちょうどいい具合に番号で振られた地図がありました。
この10〜15の位置が赤線跡になります。

宇部市に残る最古の地図を参考にすると、ここが赤線の入口だったようです。
今は全く面影がありませんが、この道の両側にお店が並んでいたようです。

宇部の赤線跡の建物のランドマーク的なここ、二階部分の外壁が市松模様のようになっています。
2026年時点では色もだいぶ褪せてしまっていますが、13年前のブログの写真を見ると、昔はこれより色が濃かったようです。

1階部分。扉自体は付け替えられていますが、二つあるのがなんとも。
シャッター部分が、おそらく昔の表玄関だったのでしょうか。

表こそ客の目を惹く模様ですが、裏へ回るとこのとおり。
地図によるとかつては隣にも同じような赤線の建物があり、裏にまで模様を施す必要はなかったのでしょう。

赤線時代、市松模様の建物の向かいには病院がありました。
かくしてその診療科は!
産婦人科
もう説明は不要ですね(笑

かつてこの市松模様の建物の隣の隣の隣には、このような建物も残っていました。
残念ながらこの建物は現存せず現物を拝むことはできなかったので、Google マップのストリートビューの画像をお借りしております。
一見、昭和30年代に建てられたような長屋風アパートに見えるのですが、れっきとした赤線のお店でした。

マップの角度的に拡大はできないですが、入口の床には暗色系と暖色系が市松模様のように敷き詰められたモザイクタイルが敷き詰められていました。
ストリートビューではだいぶ禿げてる感がしますが、こちらのブログによるとかなり艶めかしい色です。
なくなってしまったから今さらですが、やはり直に見てみたかったと少し後悔。

こちらも元赤線の建物。

通りに面した窓の枠が、昔ながらの木造になってます。
その下には電線が通っているので、昔はここにネオンの看板が立ってたんだろうなと想像できます。

同じ通り沿いにあるこの建物の、赤線時代の生き残りです。

民家とは到底思えないような立派な門構えが、当時はここが大店だったことを偲ばせます。

同じ通りには、以上の3つの建物が並んでいます。

こちらも赤線時代の生き残り、「旅館かすが」です。
赤線廃止から間もない住宅地図でも「春日」とあるので、赤線の屋号も「春日」だったと思われます。
すでに廃業されていますが、看板はくっきり残っていることから、最近まで営業していたのかしらん。
いつまで営業してたか、知ってる人がいれば教えて下さい。

店の家紋だったのか、扇の形の文様が赤線時代の面影を残してますね。

思うところがあって、スマホでの撮影をやめて本格コンデジで撮影することにしたのですが、この宇部編がデジカメの初陣。
デジカメの売りの機能「ライカモノクローム」で白黒撮影をしてみました。
カメラを持つ前は、わざわざ白黒で撮ってどないすんねんと思っていたのですが、いざ使ってみると白黒写真ってなかなかに味がある。
白黒でしか撮らないプロ写真家もいるそうですが、カメラを握って写真を撮るとなんだかわかってきました。

「旅館かすが」の隣にある飲み屋風のお店。
こちらが赤線時代の建物か、判定はビミョーですが、建て方からしておそらくそうじゃないかと思います。

昔の住宅地図によると、この裏路地のような道沿いにもお店が何軒かあったようです。
おまけー宇部の「楽天地」
昔の宇部市の地図を見ていると、赤線の近くに気になるものを見つけました。

「楽天地商店街」とな!
赤線にも近いこの界隈に、商店街と書かれた繁華街があったのでしょう。


実際に楽天地商店街界隈を歩いてみると、「それらしき建物」がいくつも見受けられます。
しかし、すでに上述したように赤線とは場所が若干離れており、赤線とは関係ないっちゃない。
事前調査していなければ私も間違えるところでしたし、場所がわかっていないと

赤線跡見っけ!
と勘違いする人がいるに違いない…。


中でも紛らわしかったのがこの建物。
玄関の造り方からして間違いなくダウト。私も一瞬確定扱いしたくらいなのですが、場所がずれているし、住宅地図で見ても違うっぽい!?
でも、これは間違いないんやけどな…でも場所がずれてる…私の頭の中でこれがぐるぐる回っております。

廃屋が並ぶこの通りも、かつては小料理屋が軒を連ねる商店街でした。
しかし、今は

ここってマジで繁華街やったんか!?
というくらい寂れきっております。
本来ならここで終わり。他の先着のブログもここで終わっているのですが、いやいやここで終われなかったのです。
宇部遊郭を巡る最後のピース
このように赤線跡を訪ねました、はいおしまい…
といきたかったのですが。実はこれで終わりではありません。いや、「終われない」のです。
その理由は…「宇部市史」に書かれた赤線の場所。
1953年(昭和28)、当局が

29年3月1日までに移動せよ
赤線の場所を通告します。猶予期間は半年。
その結果、3軒が「東新川駅前通り」に移動したと記されています。
しかも、そこを赤線区域に指定したと。
ソースは地元新聞ですが、市史に書かれているものなのでまんざら嘘というわけでもないはず。
私が引っかかっているのは、その場所。

当時の地図から常識的に考えても、「東新川駅前通」は赤線の場所ではない…。
東新川駅から道一本なので、そりゃまあ「東新川駅前通り」とも言えなくもないものの、物理的にも「東新川駅前通り」と呼ぶにはちょっと無理がある。
宇部市史とそのソースの新聞記事の記述が正しければ、宇部の赤線は「東新川駅前通」になければならない…しかし、赤丸の位置に赤線があったのは、廃止されて間もない住宅地図から明らかだし、何より現物の建物が残っている。
この矛盾は、次に山口県界隈へ向かう際のペンディングとしておきます。
これだけのために往復約25000円をはたくのは、さすがにもったいない(笑





コメント