双葉町遊郭(山形県鶴岡市)|遊郭・赤線跡をゆく|

山形県鶴岡の遊郭東北地方の遊郭・赤線跡

山形県の北部、荘(庄)内地方に鶴岡というところがあります。江戸時代の北前船航路で栄えた酒田と並び、庄内地方の双翼の町として有名で、2000年以降に周囲の自治体を吸収しまくったせいか、日本でも屈指の巨大な行政体となりました。Google mapで表示したくても、区域がデカすぎて今回の主役の地域が豆粒みたいになるので、今回は地図を貼るのをやめました。

鶴岡とくれば、古い関西人は南海ホークスの鶴岡一人を思い起こす人が多いと思いますが、その鶴岡と今回の鶴岡は、何の関係もありません。 ところで、鶴岡市とくれば、私がずっと不思議に思っていることがあります。

なんでここはこんなに有名人を輩出するんだ?

鶴岡出身の有名人は、政治家から芸術家、そして軍人など非常に幅広い。
知名度が全国区レベルの人を選抜しただけでも…歴史好きならぱっと思いつくのが石原莞爾。陸軍なら石原の他に服部卓四郎、海軍なら佐藤鉄太郎や大井篤、読み物好きなら藤沢周平、言論の保守派なら渡部昇一がここ出身。
そして相撲なら第47代横綱で大鵬と共に一時代を築いた柏戸や、千代の富士から若貴時代を立行司として裁いた平成の名行司第28代木村庄之助(後藤悟)、お笑いならウド鈴木や電撃ネットワークの南部虎弾などなど…鶴岡の学校出身者も入れると思想家の大川周明まで入り、もう挙げていけばキリがない。Wikipediaの鶴岡市を見ただけでも、ズラリと様々な分野の名前が並んでいます。

言っちゃあ悪いが、地方の一都市がなぜこれだけの人物を輩出したのか。それは鶴岡の歴史的土壌、江戸時代から築き上げた教育熱心な土地柄に一因があるのではないかとは思います。

鶴岡酒井家庄内入部四百年

そんな一因の一つと思われる鶴岡庄内藩が成立して、来年で400年となります。   今回は、そんな鶴岡の遊郭のお話を。

 

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鶴岡の遊郭

鶴岡の遊郭がいつから成立したのか。少なくとも庄内藩時代からあったことは確かで、文化年間(19世紀初頭)には飯盛女を置く旅籠屋が約30軒、その他「隠遊女屋」と呼ばれたヤミの遊女屋が約30軒あったと『鶴岡市史』には記されています。

鶴岡の遊郭と七日町と八間町

近世の遊里は、七日町と八間(軒)町という場所に存在していました。一方は鶴岡城下一の歓楽街、もう一方は酒田からの船が着く船着き場で、かつては八間町を「北曲輪(くるわ)、七日町を「南曲輪」と呼び、その不夜城ぶりは旅人や商人の目を見張るものだったといいます。
現在は町名が消滅していますがバス停や商店街にその名を残しています。

 

鶴岡七日町

現在の七日町は、道幅が広い商店街になっているものの、かつてここが鶴岡一の歓楽街だったという面影はほとんどありません。料亭が一軒、往事をしのばせる唯一の遺構となっており、その堂々とした和風建築が逆にもの寂しい。

大正15年(1926)には、鶴岡貸座敷組合内の規定の改正により、稼ぎの取り分が「楼主:娼妓=7:3」となり、光熱費を含めた生活費の一切を楼主側が負担することとなりました。 これは全国的に広まった廃娼の動きと、天敵中の天敵カフェーの出現、そして慢性的な不況に対する対策だと思われます。
こういった娼妓の待遇改善の動きは奈良県などでも起こりましたが、実際にこれで娼妓の生活や労働環境が良くなったのかという実感は別の問題。果たしてそれはどうだったのか。この世で証言してくれる人は既におりません。

遊郭の移転

さて、市街地に遊女屋があると風紀上の観点からうんぬん…といういつもの話が出てきます。昔の日本家屋のトイレが家の離れにあったように、要は「性欲の排泄は郊外でやれ」ということ。

七日町と八間町の2ヶ所で栄え花街や商店と混在していた遊郭ですが、大正後期から郊外へ移転の話が持ち上がってきます。
大正13年(1924)、鶴岡に二つの「そのとき歴史が動いた」が訪れます。 一つは市制の施行。全国で100番目の市として「鶴岡市」が誕生しました。 もう一つは、鶴岡駅の開業(大正8年)と羽越本線の全通。これで人とモノの流れが鉄道に移り、船の輸送で栄えた旧市内、遊郭があった七日町と八間町は衰退不可避となりました。

鶴岡の遊里史にとってもこの年が「そのとき歴史が動いた」となりました。貸座敷と料理屋、商店が混在する七日町は貸座敷(遊郭)のみ切り離し、7月に郊外の新地に移転が正式決定となりました。

 

鶴岡の遊郭の地図

新遊郭は田んぼや荒地の真ん中に作られ、まさに新地という言葉にふさわしい。それにしても、遊郭ができる前の地図のせいなのか、遊郭の位置がえらいざっくりです。

移転地の地名は「大字日枝字天池」だったのですが(地図は「稲枝」だが市史の記述に基づく)、遊郭にふさわしい新地名を公募することとなりました。「常盤町」「花園町」など応募は3000通ほどあり、審査の結果「双葉町」となりました。

鶴岡の料亭三浦屋 ところで、七日町には「三浦屋」という料亭が現存しています。 この三浦屋、市史に記載の大正11年当時の貸座敷(遊女屋)一覧に登記があり、元貸座敷だったことがわかります。 遊郭移転が正式決定された後、県は業者に対し移転の意思があるかどうかを調査します。引き続き貸座敷を営業するなら移転せよ、イヤなら営業形態を変えろというわけです。

その結果、双葉町に移転する業者は7軒、他は料理屋や待合などに転業となったのですが、三浦屋も営業形態を変え七日町に残ることを選んだ元貸座敷の一つだったのでしょう。なお、現存する建物自体は昭和13年(1938)築につき遊郭移転後のものですが、当時の隆盛がよくわかる鶴岡が誇る和風建築の粋です。

 

鶴岡遊郭の地図

引き続き貸座敷として営業する業者は、昭和4年(1929)7月末までに双葉町に移転せよというお達しが出て、貸座敷は双葉町にすべて移転、ここで再スタートとなりました。
双葉町のオープン日は明確にされていませんが、「7月末までに移転せよ」という市史の記載から、昭和4年の8月1日ではないかと筆者は推測しています。   毎度おなじみ『全国遊廓案内』には、鶴岡のことがこう書かれています。

 

鶴岡遊郭は東田川郡鶴岡市にあって、鉄道ならば羽越線鶴岡駅で下車する。 従来この町には鉄道がなく、大島川を利用して通交していたのであるが、最近羽越線が敷かれてから著しく発展した町である。 目下遊郭の貸座敷数は6軒、娼妓約30人位居る、店は陰店制及び写真制の両様である。お定まりは一泊酒肴付2円50銭位より5~6円見当で全部東京式廻し制である。本部屋は4円から。 引用:『全国遊廓案内』

この本の出版は昭和5年(1930)、つまり双葉町に移転した直後に書かれたものだろうと推察されます。 なぜなら、鶴岡市の資料にある「引き続き貸座敷業を営む業者7軒 娼妓36名」と、『全国遊廓案内』の記述がほぼ一致しているから。現実には移転申請7軒から実際に移ったのは6軒となったそうです。

それ以降のデータは、いちばん頼りになる『山形県統計書』の数字が警察署管内の数字になってしまいます。鶴岡署管内には、双葉町の他にも界隈の有名温泉である湯田川温泉などの遊郭も抱えているので鶴岡単独のデータが存在せず、単独での数字が終えないのです。

山形県の他遊郭の記事でも書きましたが、県内の遊里は昭和10年以降、謎の急激衰退を迎えてしまいます。 米沢に至っては遊郭やーめたと廃廓してしまう始末で(詳しくは米沢編をどうぞ)、鶴岡”警察署管内”の数字、たとえば遊客数も、昭和9年(約66,000人)から3年後の昭和12年には半減しています。
昭和12年と言えば、中国との戦争で陸軍が大召集をかけ遊郭に出征前の兵隊が殺到、遊郭が大もうけした年。全国的にこの年から15年(1940)にかけ遊客数と売上が激伸びしているのですが、山形県だけは全国に背を向け大激減。鶴岡も例に漏れずかなり数字が落ちたと思われます。 そして戦後に入ります。

 

鶴岡の遊郭

昭和23年(1948)の航空写真を見ると、貸座敷の数が7~8軒ほど。営業しているかどうかは別として、戦後は赤線として継続されたことが当時の新聞記事から確認できます。
詳しいことは不明ですが、赤線としての双葉町は「不夜城」として栄えたようで、昭和31年(1956)前半には約80名の接待婦がいたそうです。
売防法完全施行寸前の昭和33年(1958)3月1日時点では業者8軒、接待婦31人とあり、同じく元遊郭の山形市小姓町とほぼ同規模でした。

そして3月20日をもって廃業すると県と警察に届けを提出、30日に最後まで残った19名の接待婦と共に送別会を開き、接待婦には慰労金が送られたと地元新聞の記事に記載されています。 かくして、鶴岡双葉町の紅い灯は完全に消えることとなりました。

 

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コメント

  1. 定マニア より:

    鶴岡市の著名人には、砂田鉄こと「鉄門海上人」もおります。少なからず鶴岡市の遊廓とも関わりがございます。詳しくは、Google検索されるか、コミック「鉄門海上人伝 愛朽つるとも」を参照。本年は、上人のお衣替えの年。12年ぶりに注連寺を訪問したいところですがコロナ終息はまだ先のようです。

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