山口県小野田(山陽小野田市)は、江戸時代から塩田や新田開発で開拓された地域で、言わば「埋め立て」と共に発展した町であります。
明治以降は、炭鉱が発掘されたこともあり、さらに「セメントの町」としてヒト・モノ・カネが集まりました。
炭鉱労働者は荒くれ者が多く、金遣いも荒い。そこで彼らの遊びの施設として作られたのが遊郭。
小野田の隣の宇部の遊郭も、ほぼ同じ理由で作られています。
今回は、そんな石灰と労働者の臭いがムンムンする町の遊郭のお話。
小野田遊郭の成立
小野田の遊郭がいつできたのか。

1876年(明治9)に制定された山口県の遊女取締規則(「遊女営業概則」)の山口県の遊郭一覧に小野田の名前がないことから、当時にはなかったというのが間接的にわかります。
『小野田市史』には「中川の北側堤防近くに花柳街六十番が生まれたのは明治中期のことであった」と書かれておりますが、「中期」とは具体的にはいつか、明記はされていません。
毎度おなじみ『全国遊廓案内』には、「明治二十七年三月に遊廓の許可が下り」と書かれているので、市史の「明治中期」の記述と事実上一致してますね。
上述のとおり、遊郭ができたのは「六十番」という場所。
この奇妙というか味気ないというか、色んな意味で数ある遊郭の中でも名前のインパクトが強いこの地名。
遊郭以前のこの地名のルーツが気になって地元図書館で聞いてみると、干拓地や堤防工事区画の番号、つまり「六十番目の区画」がそのまま地名として定着したそうな。
これを「映える」表現にすると「エリア60」。UFOと野球に興味ある人なら聞いたことがある「エリア51」のような不思議な感覚され醸し出してしまいます。

この赤線の区画はかつて「六十番通り」と呼ばれており、昔の小野田の最大の通りだったと思われます。
この「六十番」、現在は地名として消滅していますが、図書館でさりげなく

六十番ってどこらへんですかね?
と聞いてみるとだいたいの場所を教えてくれたので、地元でもざっくりながら場所は把握されているようです。
小野田六十番遊郭の発展
数字から小野田遊郭の発展を見ていきましょう。
| 貸座敷数 | 娼妓数 | 客数 | |
| 明治45年/大正元年 | 2軒 | 12人 | (記載なし) |
| 大正7年 | 6軒 | 17人(芸妓30人) | (記載なし) |
| 昭和4年 | 7軒 | 41人(芸妓15人) | 8118人(22人/日) |
| 昭和5年 | 8軒 | 45人(芸妓11人) | 11873人(33人/日) |
| 昭和7年 | 7軒 | 30人(芸妓6人) | 10860人(30人/日) |

小野田六十番遊郭に「菊水楼」という妓楼があったそうですが、そこで未成年(18歳未満)に客を取らせたとして楼主が事情聴取を受けたというニュースが掲載されています。
1930年(昭和5)発行の『全国遊廓案内』記載の六十番遊郭の妓楼は、「松乃家」「常盤楼本店」「同支店」「多満留楼本店」「同支店」「藤重楼」「石福楼」の7軒。「菊水楼」はありません。その後にできら妓楼なのでしょう。
洪水に消えた?遊郭
小野田はその地形的な面から、過去に何度か高潮の被害を受けています。
その中でもひどかったのが、1942年(昭和17)8月の周防灘台風による被害。
・台風の速度が非常に遅かった
・最満潮期と最接近が重なった
・それが真夜中だった
・戦争中につき天気予報が軍事機密で、台風接近が住民に周知されるのが遅かった
という状況も手伝い、小野田の堤防が決壊、町が水浸しになりました。後述する記念碑によると、ここで死者が125名も出ています。
なお、この台風で小野田の昔の資料も失ってしまい、

このせいで戦前の小野田の資料はほとんど残っていない
とのこと。
「戦前の資料は残ってません」は、10数年前に和歌山県立図書館で「空襲で全部焼けて残ってません」と言われて以来のことです。
被害は尋常ではなかったものの、報道規制まではされなかったのか、台風後は全国から義援金が集まり、地元出身の岸信介商工相も視察に訪れています。

それに対する感謝の碑も、小野田の市街地に建てられています。
小野田には、台風後のこんな写真が残されています。

浸水した六十番通りです。まあ見事なくらいの浸水ですね。
そして、この写真のもう一つ重要なことは、ここが遊郭だったということ。

こちらも遊郭の妓楼の写真となりますが、現役で残っている六十番遊郭の写真は、おそらくこの2枚だけになろうかと思います。
遊郭もこの台風で壊滅してしまい、おそらく復活することはなかったと思われます。
戦後の昭和30年代の住宅地図を見ても、どこに遊廓があったのかなど痕跡が全くわからず、赤線として残ることはなかったのかなと。
しかし!
私は見つけてしまったのです。

昭和20年代の小野田市の資料の中に見つけた「貸席業」の文字。
そして、その中にあるどこかで見たことがある屋号…そうです、『全国遊廓案内』にあった「多満留楼」、遊女虐待でチクられた「菊水楼」の名前があるじゃないですか。
洪水で亡んだはずの遊郭は、実はきっちり生きていたのです。
これ以上の詳細はわかりませんが、赤線として残っていたのはほぼ確定。なんということでしょう。
六十番遊郭跡を歩く
六十番遊郭跡を歩いてみます。

ここがかつての「六十番通り」。今は静かな住宅街になっています。

「六十番」の地名は消えて久しいですが、公民館の名前に唯一、ここが六十番だった名残が残っています。

山陽小野田市によると、上の洪水の写真は、現在の「しまむら」があるあたりとされています。
もちろん、妓楼の跡など全くございません。
「しまむら」の向かいに、ちょっと気になる建物が。


一段高く盛り上がった上に長屋風の古びた住宅地が…何これ?と不思議がってる人がいます。
なので図書館に確認を取ったところ、ここはかつて小野田にあった炭鉱会社の社宅だったところだそう。
炭鉱はとっくに廃坑となりましたが、住宅としてはまだ残っているというわけですね。
本来は、ここから名前で好奇心がそそる「セメント町」まで向かおうと思ったのですが、訪問時はあいにくの天候不順…
他のブログを見ていると、歴史記録の好奇心がうなる風景ですが、そこまで続ける天気的な余裕もなく、今回は残念。
「セメント町」はまだいつかリベンジしましょう。

『小野田市史』
『全国遊廓案内』
『山口県警察史』
『小野田市商工鑛名鑑 昭和24年』
『ゼンリンの住宅地図 昭和37年』
『観光と産業の小野田市・山陽町1961年版
『観光と産業の小野田市、山陽町、楠町 西日本住宅詳細図 附商工名鑑 1961年版』
『昭和17年8月風水害記録写真集』


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