昭和7年(1932)5月のこと。東京の大学生調所五郎と、静岡の素封家の娘である湯山八重子が、湘南の山で昇汞水を飲み心中を遂げました。
両者は八重子が女学生の時から健全なお付き合いを続け、

結婚しよう!
となりました。ところが、

結婚には反対だ!
と女性側の両親に反対され1、結婚させまいと無理やり別人との縁談を進めた挙句、
「あの世で一緒になろう」
と自らの命を終えたというものです。
この心中は、俗に「坂田山心中(事件)」と呼ばれています。
これだけであれば、たまにある心中事件として流されるはずでした。が、3つの意味でこの事件は全国的な大騒ぎに。

一つ目は、新聞が「プラトニック・ラブ」を煽った結果、心中事件が増えに増えたこと。当時の情報ツールは新聞かラジオしかなかったのですが、ラジオはまだ庶民には高嶺の花。新聞が庶民の情報源だったのですが、それが刺激的なタイトルをつけて「純愛物語」とすることによって、庶民の感情を大いに刺激することに。
現在でも、メディア、いや、SNSでも刺激的な言葉でアクセス数を稼ごうとするのがいますが、人間の性というものは今も昔も変わりません。
そして、坂田山は一躍「聖地」となってしまい、聖地を目指せ聖地で死のうという自殺志願者が大磯に殺到、警察が手を焼いたと言います。

二つ目は、これに刺激を受けた映画監督が、事件の余韻の冷めぬうちにこれを題材にした映画『天国に結ぶ恋』を作ったこと。遺体発見が5月8日(新聞掲載はたぶん翌日)、松竹の映画関係者が

これは映画になるぞ!
とひらめいたのが13日、封切りが翌月10日という早業。
2週間くらいの突貫作業で制作したそうですが(映画って2週間で作れるものなんですな…)、まるで純水のような純粋恋愛心中ものに仕上げたせいか、映画館で涙する人が続出。それどころか、これが後追い自殺の増加に拍車をかけることに。
そんな騒動もあったものの、映画自体は映画史に残るほどのヒットとなりました。また、同名の主題歌も作られ、当時の人気歌手だった徳山璉が歌っています。現代なら星野源が作詞作曲して自分で歌うようなものですね。
3つ目は、土葬された女性の遺体が掘り起こされ、盗まれたこと。
この犯人は、新聞に煽られた65歳の男が、

きれいな死体を見たかった
という理由で盗んだものと判明しました。
が、新聞・雑誌が「彼女は純真無垢な処女だった」「犯人は死体に愛撫した」などとセンセーショナルに書いて「純愛」がさらに増幅され、「変態による猟奇的死体盗み」というお釣りまであり、「坂田山心中」に火を付ける結果に。
この死体盗み事件も含めた出来事が、「坂田山心中事件」として昭和史の1ページに刻まれています。
坂田山心中事件の詳細については、週刊文春がネット記事にしているので、こちらをお読み下さい。
上述のとおり、坂田山心中は数年にかけて心中や後追い自殺が増えたトリガーとなった…と昭和史の本には掲載されています。
しかし、それは本当なのか?
調べ魔という私の悪い癖が出てしまい、ちょっと調べてみることとなりました。
自殺者の推移…伝聞は本当か
現代の自殺者は、警察庁が統計にまとめておりネットでも公開されています。が、戦前となるとどうなのだろう?統計自体はとってあるはずなのだが…と資料の大海に飛び込んでみると、『衛生局年報』という資料を発見しました。
「衛生局」とは正式には「内務省衛生局」ですが、戦前には内務省という巨大な官庁があり、衛生局はそこの一部門でした。衛生局は、昭和13年(1938)に厚生省として独立、現在はご存じ厚生労働省となっています。
| 自殺者(人)《男/女》 | |
| 明治41年(1908年) | 8,821《5,100/3,224》 |
| 大正5年(1916年) | 9,599《6,065/3,534》 |
| 大正14年(1925年) | 12,249《7,521/4,728》 |
| 昭和3年(1928年) | 13,032《7,984/5,048》 |
| 昭和4年(1929年) | 12,740《7,915/4,825》 |
| 昭和5年(1930年) | 13,942《8,810/5,132》 |
| 昭和6年(1931年) | 14,353《9,102/5,251》 |
| 昭和7年(1932年) | 14,746《9,272/5,474》 |
そして「坂田山心中」があった翌年からは…
| 昭和8年(1933年)※坂田山心中翌年 | 14,805(9,110/5,695) |
| 昭和9年(1934年) | 14,554《9,065/5,489》 |
| 昭和10年(1935年) | 14,172《8,733/5,438》※1名性別不詳 |
| 昭和12年(1937年) | 14,295《8,923/5,372》 |
| 昭和13年(1938年) | 12,223人 (7,585 / 4,638) |
女性の自殺者は確かに増えてはいるけれど、男性はむしろ減って全体的な数字は「微増」といったところ。
さらに昭和10年以降は減っています。これは東京や大阪など都市部が「学校の授業では絶対に教えてくれない昭和初期の好景気」に見舞われ影響はあると思います。
もう一つのトリガー「三原山女学生心中」
この自殺者の増加には、坂田山の他にももう一つ、重要なトリガーが隠されていました。
それが、「三原山女学生投身自殺」と呼ばれる女学生の心中事件でした。

坂田山心中から何ヶ月も経った昭和8年(1933)2月のこと、旧制女子専門学校(戦後の短大のようなもの)の女学生A子とB子が、活火山である三原山の火口に身を投じて自らの命を終わらせようとしました。
A子はその目的を達しましたがB子は助かりのちに保護されることに。
これが報道されると、B子は別の女子、C子の自殺にも立ち会ったことがわかり、「死の立会人」として後ろ指をさされることになりました。

その精神的負担だったのでしょう。そのせいか、B子はそれから2ヶ月後、精神的ストレスにより持病が悪化し、亡くなってしまいました。
しかし、この3人の思いとは別に、三原山女学生自殺もセンセーショナルに報道され、全国から自殺志願者が殺到したと伝えられています。
ちょっとおかしい!「自殺者944人」の誤解?
この「自殺ブーム」を調べていくうちに、ちょっと気になる記事を見つけました。
かつて、大島・三原山は自殺の名所だった。1933年(昭和8年)からの2,3年のことで、37年まで続く。自殺志願者は、噴火口の縁から自ら火中に身を投じたという。自殺防止策が様々になされ、そのための人員も多く投入されたが、33年だけで944人(男性:804人、女性140人)が三原山で死んでいる。前年に比べてこの突出した自殺者数のきっかけは、21歳の実践女子専門学校の3人の女子学生の自殺だったという。
加納実紀代・著
「〈死〉の誘惑-三原山・自殺ブームをめぐって」
「21歳の実践女子専門学校の3人の女子学生の自殺」は、前述の「三原山女学生投身自殺」のことなのですが、この記事では33年だけで944人(男性:804人、女性140人)が三原山で死んでいるとあります。
ノーヒントだと、33年(昭和8年)は自殺が急増したんだ、そうなんだ…となるでしょうが、上の一次史料を見た後だと、何か違和感を感じませんか?
昭和7〜8年の数字を切り出してみましょう。
| 昭和7年(1932年) | 14,746《9,272/5,474》 |
| 昭和8年(1933年) | 14,805(9,110/5,695) |
| 増減(昭和7→8年) | +59(男ー162/女+221) |
あれれ?確かに昭和7年から8年にかけて増えてはいるけれども、増加はたったの59人。加藤氏の記述が正しいのであれば、ここは+944人以上でなければなりません。明らかに数字が乖離していますよね。
しかも、この自殺ブームは「1933年(昭和8年)からの2,3年のことで、37年(筆者註:昭和12年)まで続く」ことになっているため、翌年の昭和9年や10年も増えていなければならないのですが…むしろ減ってますやんか(笑
こちらは『衛生局年報』という、国が弾き出し残した一次史料から導き出した数字なので、間違いはありません。
こうなれば、「33年だけで944人(男性:804人、女性140人)が三原山で死んでいる」「37年まで続く」と断言した加藤氏の記述の方がおかしいことになります。
しかも、「ブーム」というほど自殺者は増えていない…「自殺ブーム」自体が昔のマスコミが新聞を売るために嘘の数字を並べた捏造じゃないかと。

それでも944人死んでいるんだ!
とおっしゃる方、私はちゃんとおソースを出したのだから、そちらもその944人のおソースを出して下さいな。
「坂田山心中」の二人は現在…

「自殺ブーム」のきっかけを作った坂田山の調所五郎と湯山八重子は、東京の多摩霊園の一角に静かに眠っています。
2人は現実的には結ばれなかったものの、墓石には八重子が「妻」となってします。実際に2人の骨が一緒に葬られているかどうかはわかりませんが、せめてあの世では…という家族の思いが込められているなと。
しかし、すでに掃苔(墓参り)に来る人もいないのか、お墓の周りは荒れ果て雑草が生い茂っており、少しもの悲しい気分となりました。
昭和初期の世相を語る記事はこちら!




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