堺龍神・栄橋遊郭(大阪府堺市)|消えた遊郭・赤線跡をゆく|

大阪堺栄橋龍神遊廓赤線 遊郭・赤線跡をゆく

大阪府堺市は大阪府南部を代表する都市で、いちおう政令指定都市ではあるのですが、それにしてはやけに存在感が薄いなと感じるのことがあります。
が、悲願だった仁徳天皇陵が世界遺産に認定され少しは知名度が上がったかな!?故郷の民としてそう願わずにはいられません。

堺は鎌倉時代から続く貿易都市+自治都市でした。室町末期~戦国時代の「東洋のベニス」として日本史の授業でも習ったことでしょう。当時の堺はどんなものだったか、今風に言えばフリーポート、要はシンガポールや返還前の香港が大阪湾岸にあったというイメージしていただければ良いと思います。

そんな人とモノと金が集まる堺にも、色街は当然のごとく存在していました。
昔の堺の遊郭は、「高須」と「乳守」の二つが存在しており、前者はかの一休さんこと一休禅師と太夫との絡みで知る人ぞ知る存在となっています。
が、これらの遊郭については、また別記事にて書く予定につき、少しお待ちを。

 

本編の主役は、同じ堺でも海沿いに作られた「龍神」「栄橋」の遊郭です。

これらの廓は、名前のまま龍神橋と栄橋の近くにあった色街で、元々ここあたり(今の南海堺駅あたり)は一面の海でした。が、18世紀前半に付け替えられ加工が堺沿岸になった大和川が運んだ土砂で海が埋まり、そこを本格的に埋め「新地」を形成しました。そこに「龍神堂」という祠を建てたのが、「龍神」という妙に格好いい地名の由来です。
そして、天保13年(1842)、堺奉行水野若狭守により私娼・岡場所が跋扈していた堺の遊里が整理され、龍神遊郭が誕生します。

栄橋も由来は江戸時代の新地なのですが、龍神が芸妓と娼妓の二枚鑑札が集まった「大茶屋」と呼ばれる置屋と揚屋がきっちり分かれた大見世が中心に対し、栄橋に出来た方は居稼ぎの「小茶屋」が中心でした。実は同じ遊廓でも営業形態が違い、そのためいざこざが絶えませんでした。
そして明治17年(1884)、栄橋が請願して龍神から独立して「栄橋遊廓」となり、堺の新地には龍神と栄橋という、二刀流のような遊里が形成されました。
このような経緯があるため、「龍神」「栄橋」と分かれていても元は一遊郭。医学的な表現では「一卵性双生児遊郭」、政治学的には「堺遊郭連邦」か「龍神=栄橋遊郭」という表現がふさわしい遊里でした。
こういうパターンはいくつかの遊里で見られ、京都の祇園も元は芸妓中心の「甲部」と娼妓中心の「乙部」に分かれていました。売春防止法で「乙部」が廃止となり、「甲部」だけが残ったのが、我々が漠然とイメージする祇園です。
龍神・栄橋遊廓も、龍神が「甲部」、栄橋が「乙部」と思えばよろしいかと。

 

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龍神・栄橋遊廓の発展

明治32年に発行された南海鉄道の沿線案内、『南海鉄道案内』にも堺の遊郭が案内されています。その昔、遊廓は「観光地」の「歓楽街」としてガイドブックにも掲載されていることが多かったのです。
それによると、遊里は現在の南海堺駅より南、フェニックス通りより北の区域にあり、『南海鉄道案内』が発行された当時の龍神・栄橋遊郭の規模は、

「龍神町は貸座敷71戸娼妓59人、芸妓77人。去る6月中の来客の数6109人、消費額は5899円33銭5厘。(中略)其実の繁盛は、此龍神町が本市第一の遊廓です」

「栄橋は、貸座敷40戸娼妓240人、芸妓無。来客の数(6月中)5220人、消費高は4121円、(以下略)」

(『南海鉄道案内』(明治32年)より。数字の原文は漢数字)

これを見ると、龍神は娼妓と芸妓の二枚鑑札、栄橋は娼妓だけの遊郭だったことがわかります。

ここに記載の「消費額」にも注目。
龍神が1カ月に消費した5,899円33銭5厘は当時としてはかなりの額でした。くれぐれも現在の5899円ではありません。
明治32年の東京での白米10kgが67、明治28年の大阪のきつねうどん一杯が1銭を基準とすると、1カ月に3~4000万円くらいがこの狭い区画で消費されていたということ。当時の繁盛ぶりが数字を見ただけでも想像できます。正直、今の堺駅前界隈を見ると全くもって信じられない光景です…。

そして、時は変わって大正時代。『大阪府統計書』の資料によると、

『大阪府統計書』より■大正5(1916)年
栄橋→ ・貸座敷:60軒  ・娼妓数:567人
龍神→ ・貸座敷:105軒 ・娼妓数:24人■大正11年(1922)年
栄橋→ ・貸座敷:60軒  ・娼妓数:713人
龍神→ ・貸座敷:111軒 ・娼妓数:19人■大正12(1923)年
栄橋→ ・貸座敷:60軒  ・娼妓数:654人
龍神→ ・貸座敷:111軒 ・娼妓数:33人

となっています。
大正11年と12年に大きな変化があります。貸座敷と娼妓の数は変わっていないものの、遊客数は

遊客数栄橋→ 大正11年:113,672人 大正12年:113,403人
龍神→ 大正11年:35,132人  大正12年:5,279人

娼妓中心の栄橋はほとんど変化なしに対して龍神は激減、半分どころか7割減。
最初は統計書の数字の誤植ではないかと思ったのですが、同じ堺にあった乳守遊廓も同様の激減ぶり。大正12年に何かあった!?

 

関東大震災

そう、大正12年(1923)ときたら関東大震災
関東大震災、「関東」と名前がついていますが関西もかなりの揺れを記録し、大阪市内の地震計で震度4、京都では震度5を記録しています。記憶に新しい東日本大震災でも大阪府一円で揺れた(震度2~3)ので、さもありなん。
ただし、人的被害は聞いたことがないので被害はほとんどなかったのでしょう。

しかし、この激減ぶり…興味が湧いて他の遊郭の客足や消費金額を比較してみると、芸妓中心か娼妓:芸妓=1:1くらいの堀江遊郭(大阪市)や新町遊郭、そして今の道頓堀あたりにあった「南五花街遊廓」も、堺ほどではないものの、客足が相当数減少していました。
娼妓中心の松島遊郭や飛田遊郭は客足を逆に伸ばしているものの、消費金額は全体的に減少。大阪府の遊郭で売上が伸びたのは、飛田とここ栄橋のみでした。

この「逆転減少」は何故か?
私の推定ですが、関東大震災で日本全体に自粛ムードが起き、帝都が壊滅した中で遊里で芸者と派手な遊びなんてとんでもない!という自粛の空気が流れ、更に第一次世界大戦後の不況も重なり、財布のヒモがきつくなった現象が起きたと。

この現象、実は大阪だけではなく、全国各地の遊里でも同じことが起こっており、山口県下関の遊郭でも大正11年と12年の売上・客足の格差が、統計書の数字を見ると明らか。
遊郭も当時の社会現象を垣間見れる一種の鏡、たかが統計書の数字だけでも当時何があったかわかるのがまた興味深い。

 

堺栄橋龍神遊廓
(『堺市の百年』より)

昭和初期、1930年代の栄橋遊廓の大通りを撮影した写真です。各店舗のネオンの看板が奥まで続き、その下に立つ女性たちが道行く男たちに甲高い声で声をかける声が聞こえてきそうです。自家用車かタクシーか、奥に車の姿も見えます。

龍神遊廓

こちらは堺市の古い観光案内にあった明治時代の龍神遊廓。整然と並んだ置屋か待合の姿に、こちらは三味線の音が聞こえてきそうです。

 

昭和初期の龍神・栄橋廓は、「龍神は貸座敷100軒、芸妓400人、娼妓20人。栄橋は貸座敷60軒、娼妓600人で、遊廓としては全国でも相当大きい方であり」(『上方』26号 「堺の遊廓」)「交通至便なため相当に繁盛している」とされています。
また、『全国遊廓案内』によると「龍神は貸座敷数十軒、娼妓約100名、栄橋は貸座敷60軒、娼妓約540名」とあり、栄橋の数字はだいたい合っているけれども、龍神は芸妓中心の「甲部」のため娼妓はそんなにいないでしょう、というのが私の考察です。
なお、『全国遊廓案内』は龍神を”龍初町”と記載していますが、誤植か作者の間違いです。

戦前の南海本線の堺の中心駅は、現在の堺駅ではなく、「龍神」という別の駅でした。
堺駅もあるにはあったものの、市街地から離れた位置に作られたため、繁華街に近い龍神の方が中心の駅となりました。

駅から歩いて行ける距離に大浜海水浴場や潮湯というリゾート地があり、そこが「表のリゾート」ならば、その表と地理的に逆の位置にある遊廓は「裏のリゾート」いや、大人のリゾート的な立ち位置だったのでしょう。
こんな好立地な遊郭も珍しいと言えば珍しい。ふつうなら「性欲のトイレ」扱いの色里は、周囲の市街地化で郊外に追い払われるのが相場というのに。

堺遊郭写真

龍神駅はちょうど遊郭の前あたりにあり、西へ行けば「表リゾート」の大浜へ、北へ行けば「大人の楽園」と、一粒で二度美味しいような立地でした。
上の地図を見たらわかりますが、昭和30年に現在の路線に付け替えられるまでは、南海本線は遊郭の真ん中をぶち抜いて走っていました。

 

南海本線堺駅付近の路線変更図『南海70年のあゆみ』
(『南海70年のあゆみ』より)

南海本線が新線に付け替えられた直後の俯瞰写真ですが、赤枠が赤線時代の龍神。白い点線が旧線ですが、色街の真ん中を縦断していることがわかるでしょう。
もちろん、19世紀はじめに成立した遊郭の方が歴史は古いのですが、よくぞ南海は廓をぶち抜いて真っ二つにするルートを強行したな、そもそも遊郭は反対しなかったのか…そんな資料は残っていません。
なお、龍神駅は付け替えとともに廃駅となったのですが、その後の二代目堺駅がなんと赤線の入口に。まるで「龍神カフェー街前」と副駅名をつけたくなるかのような位置です。
戦前でも「駅前遊郭」に等しい位置だったのに、堺駅付け替えで名実ともに「駅前遊郭」に。赤線の業者はさぞかし喜んだに違いありません。
が、その頃には既に売春防止法という魔の手が忍び寄り、その1年後には赤線廃止が正式決定…なんという運のなさ。

ところで、この旧堺駅は現在の堺駅南口バス停近辺ですが、ここが現役の堺駅だった頃を私は覚えています。覚えているだけでなく、乗り降りしたこともあります。が、当時はここ周辺が色街だったなど、6~7歳のガキが知るはずもありません。

『堺の遊廓』で興味深いのは、「乙部の栄橋が甲部の龍神を抱擁した形になっている」という記述。
栄橋遊廓は当時の住所の栄橋通1丁、住吉橋通1丁、2丁が区域であり、ちょうど龍神橋通である龍神遊郭をサンドイッチにした区画になっているのです。

この記述を地図に落とし込むと、こうなります。

昭和初期堺栄橋龍神遊郭

サンドイッチになってるでしょ?

 

龍神の演舞場

大正末期から昭和初期の、慢性化しつつある不況は、遊里の経営も圧迫しました。さらに「カフェー」という新進気鋭の風俗産業に客が流れ、芸者遊女なんてオワコンという空気が社会に醸成されつつありました。

それは数字にも顕著にあらわれています。
年刊売上を見ると、娼妓中心の栄橋は爆増も爆減もなく安定しています。「風俗産業は不況に強い」と言われますが、なるほどそれが昭和初期の数字にも出ています。

対して龍神は、関東大震災の翌年は通常の数字を取り戻しているものの、そこからは右肩下がり。少し持ち直したか!?と思ったところで、昭和4年(1929)の世界恐慌とそれによるスーパーデフレ不況が重なり、大正の半分近くにまで下がってしまいました。

そんな状況を、指をくわえて見ているわけにはいかない龍神の花柳界、社運、もとい廓運(!?)を賭けてあるものを建設します。

それが演舞場。

堺遊郭龍神演舞場
(『龍神演舞場新築竣成記念写真集』より)

建設構想は明治期からあったそうですが、資金不足などで絵に描いた餅と化していたところで、龍神発展の起爆剤として建設を決断、工事概要によると7ヶ月という短期間で完成させたとのことです。

もちろん鉄筋コンクリート造りの近世ルネッサンス様式、高さは約10m、マンション4階建てほどに相当します。

1942堺市龍神・栄橋遊廓航空写真

赤で囲んだ範囲が龍神・栄橋の廓ですが、黄矢印で示した建物、これが演舞場だと思われます、当時の住所を確認し、周囲の建物と比較してもここに間違いありません。

龍神演舞場位置

旧遊郭の範囲は、空襲と戦後の区画整理、そして南海電鉄の路線変更などでごちゃごちゃとなり、こんな狭い範囲なのに位置特定が難しい。が、演舞場は昭和31年(1956)の南海本線路線切り替え後でもかろうじて建物が残っており、なんとか特定ができました。
演舞場があった場所は現在、コンフォートホテル堺となっていますが、過去の航空写真をたどってみると昭和56年(1981)の航空写真では存在が確認できるものの、4年後の60年(1985)にはコンフォート堺が「建設中」だったので、その間に役目を終えて解体されたものと思われます。
私が物心ついてここあたりを徘徊…もとい冒険していた時は残っていたのか…もったいないことをしたと、仕方ないにしろ後悔に似た気持ちが心の奥底から湧き出てきます。

 

堺遊郭龍神演舞場芸妓
(『龍神演舞場新築竣成記念写真集』より)

資料には、当時の芸妓も顔と共に掲載されています。

当時の置屋(組合員)一覧もありますが、それはヒ・ミ・ツ。
統計書の数字は105件。組合員名簿掲載の97件と少し差がありますが、資料は「組合員」とあるので組合に入っていない置屋もあったのかな!?でも、現時点では7件は誤差としておきましょう。

こんな龍神に対し、「乙部」の栄橋は蚊帳の外。
といっても、龍神が不況で足踏みしていた間に栄橋は順調に足場を固めたか、昭和7年時点で遊客数・売上ともに龍神を抜いています。演舞場を急ピッチで造ろうとした龍神の意図は、同じ親のもとから生まれながら「商売敵」になった栄橋への焦りからだったのかもしれません。

その栄橋なのですが、演舞場落成記念写真集のように、資料は探せばけっこう見つかります。が、それと対称的に栄橋にまつわる話は、次章で書く空襲時の話以外ほとんど伝わっていません。
じきにアップする同じ堺の遊里、乳守の歴史を記した『堺遊里史』の著者も、栄橋遊郭の話はほとんどないと記しています。堺の遊里を専門に研究していた人(と思われます)が、「書くほどのネタがない」と嘆いているほどネタが伝わっていないのです。
よって、当ブログも栄橋遊郭について出せるものは、統計書の数字くらいしかありません。

 

堺の遊郭と空襲

これだけ隆盛を極めた(?)龍神界隈も、昭和20年(1945)7月10日の堺空襲でほぼ完膚までに焼き払われました。

どれだけ焼き払われたかというと…

1946堺龍神航空写真

百聞は一見にしかず、はいこのとおり。

堺の市街地は、地元民の私が写真を見てどこがどこなのか判別不能なほど焼き払われてしまうのですが、遊里も例外ではなく、このように更地率ほぼ10割。あの演舞場(黄矢印)だけがほぼ唯一焼け残り、それが余計に痛々しさを感じさせます。

空襲の直前、3月の空襲で焼け出された松島遊廓の同業者が堺を訪れます。彼らは堺の貸座敷業者の会合でこう言ったそうです。

火ぃ消せ言われてもそんなもんほっといて、早よう、みんな逃がさんとあかんで!

松島は空襲で、ものの見事に「焼失」ならぬ「消失」しました。『松島新地誌』という書籍に空襲直後の松島廓の写真がありますが、ここまできれいさっぱりとなくなるとかえって気持ち良かったりして…と思わざるを得ない有様でした。焼夷弾の威力を身体で知ったのでしょう。
血相を変えてそう言われた栄橋の楼主たちは、実際に焼夷弾が落ちてきた時に遊女を一斉に逃がしたそうです。
地元の話として、廓を囲む川に空襲後、きれいな着物を着た女性の遺体が多数浮かんでいたという話を聞いたことがあります。それも、(龍神の方の)芸妓さんらしく、着の身着のまま逃げた娼妓の死者・行方不明者は、当事者の記憶ながら7~8人だったと言います。ホンマか?と疑いたくなりますが、そういうことにしておきましょう。

貝塚遊郭編で述べましたが、同じ日に空襲の被害を受けた貝塚の遊廓も同じく遊女を逃がしたそうで、「女郎さんと一緒に逃げた」と当時小学生だった楼主の娘さんの証言もあります。貝塚市の公式資料でも、遊廓(地区)での死者はゼロとなっています。推定に過ぎませんが、松島の業者は貝塚他の大阪の各地の同業者に、同じことを触れ回っていた可能性があります。

遊里から逃げた遊女たちはどうしたのか。

そのまま逃げたらいいのに、不思議なことにみんな帰ってきたんですわ。働いて家族に仕送りしないとと思ったのでしょう。

堺市の証言集にはこのような証言が残っています。

NEXT⇒戦後の赤線時代と現在は?

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