現在の玉の井を歩く
下記のブログでは、戦前の東京に存在した日本最大の私娼窟、「玉の井」の興亡を記しました。
本項では実際に玉の井を歩き、現在の玉の井はどうなっているのかを書いていきたいと思います。もちろん、戦後の赤線時代のものです。
実は、ここは2009年に一度探索しているのですが、その時と比較しながら歩いてみました。
最寄り駅は、現在は「スカイツリーライン」という愛称が振られている東武伊勢崎線の東向島駅。かつての駅名は「玉ノ井」、ある意味そのまんまです。現在でも括弧で「旧玉ノ井」と書かれており、これは地元住民の切望による特例です。
なお、この裏話によると「玉の井の名前を残してもらうために東武の偉いさんをすごく接待した」と玉の井側当事者が述べております(笑
現在の地名は「東向島」となっており、玉の井が現役時代も「寺島」という地名だったのですが、「玉の井」はこのように、現在でも使われています。地元民の「玉の井」に対する愛着と誇りを感じさせます。しかし、「玉の井」か「玉ノ井」かどちらかにして欲しいなと思うのは、自分だけでしょうか(笑
「旧玉ノ井」駅から玉ノ井の赤線へ向かう時は、いろは通り沿いの交番の左側の道から入るのが定番です。
交番から赤線までの道は、かつては飲み屋が軒を連ね、赤線へと向かう男たちが一杯引っかけていたところだと言います。
他の地方はわかりませんが、東京の赤線には、「深夜割引」なるものが存在していました。午前0時過ぎくらいから値段がいくらか安くなっていたことを、複数の赤線経験者が述べています。
新作落語の名人と呼ばれた落語家5代目春風亭柳昇、今は『笑点』の司会春風亭昇太師匠のお師匠さんと言った方がわかりやすいかも、は若いかつ金がなかった二つ目の頃、浅草で飲んで時間をつぶして「深夜割引」の時間が近づくと、
よっしゃー行くぞ!
と最終電車に乗り、連れの噺家と鳩の街などの赤線に繰り出していたそうな。
まるで閉店間際のスーパー惣菜半額セールの赤線版ですが、それ目当てに飲み屋で時間をつぶしていた男も多し。この通りにあった飲み屋でも、「割引」の札が張られるのを待っている貧乏人が酒を飲み、時にはくだを巻いていたことでしょう。
その飲み屋通りを100メートルほどまっすぐ歩き、突き当たったところが赤線の入り口となります。
そのT字型交差点の左手前には、「玉の井カフェー組合」の事務所がありました。当時の建物はすでになく、現在はただの住宅になっています。
交差点を右の方向へ歩いていくと、早速古い建物と遭遇します。
左は「春美」、右は「憩」という屋号の店でした。
「憩」を正面から見るとこのとおり。赤線廃止後の地図ではバーになっており、撮影した時の判定はビミョーでしたが、改めて調べるとクロでした。「フェイク3階」の部分には、当時の屋号のネオンが輝いていたのかもしれない…少し息を吹き返せば復活するのではないかと、無駄な妄想だけが脳内を走りました。
前回(2009年)探索時には発見できなかった、カフェータイル(造語です)の名残。なんでこんなわかりやすいものを12年前は見逃していたのだろうと、我が事ながら不思議に思ってしまうのですが、鳩の街の時と同様、暑さでHPが1となり「戦闘不能」になっていたのでしょう。
この建物がある通りには、玉の井カフェー街の中でもいちばん店が密集しており、人は「玉の井銀座」と呼んでいました。玉の井赤線最大の大見世、『赤線跡を歩く』掲載の「錦水」も、この銀座通りに位置していました。
この通り、実際に行ってみるとわかりますが、「銀座通り」ではあるけれども道は非常に狭い。赤線跡じゃなければただの下町の路地裏です。
これもしれっと撮影していますが、iPhone13 proの望遠機能がなければ真正面で撮影できなかったほど、その道は狭いものでした。その両側に女給たちが並んでピンク色の声を出すその圧は、さぞかし強かったことでしょう。
しかし、最盛期には50メートルほどの路地の両側に十数軒の店が軒を連ねていたかつての銀座も、現在でも残る建物は、前述した「憩」とこれのみ。隔世の感を禁じ得ません。
緑タイルがまぶしいこの店は、当時の地図によると「マサミ」か「タンゴ」のどちらかなのですが、いかんせん「銀座」のため店が密集しており、確定が不可能です。
木村聡『赤線跡を歩く』に、「2階の窓ガラスが特徴的な家」と記述された家でしたが、その窓はリフォームされて消えていました。建物自体は残っていても、細かいとこは老朽化で改造されてしまうのは仕方のないことです。
しかし、正面だけを見るとわかりませんが、
エアコン室外機が置かれた奥にはドアのようなものが!ドア横の円柱といい、間違いなく赤線カフェー建築です。「現役」の時は、おそらくこちらの方が「玄関」だったのだと推定できます。
こちらの店の赤線時代の屋号は「ホームラン」。現在でも赤線カフェー建築を色濃く残すその姿が残っているだけでも、おいらんだ国探検家にとっては十分「ホームラン」です。
しかし、ある疑問が浮かびました。
前述のとおり、玉の井には少なくとも3回は訪問しています。この建物も、その度に定点観測よろしく目にしていました。しかし、こんな「わかりやすいもの」をなぜ2022年まで見逃していたのか?暑さで頭がやられてたとかそんな言い分では通じない何かが、私の中で引っかかっていました。
その疑問は、以前撮影の1枚の写真であっけなく解決しました。
なんや、トタン板で「玄関」の部分に蓋がされてたのか。そりゃ今の今まで気づかんかったわけや。
さて、玉の井地区は、戦前・戦後を問わずクネクネした細い道が迷路のように張り巡らされ、車はおろか、自転車、いや、人一人なんとか通れるような細い道はまるで蟻の巣の如く。
昔は、そんな路地の入り口に、「近道」「ぬけられます」の表示がありました。そうでもないと、この細道に一歩入ったらどこに抜けるかわからないような不安を覚えたりします。
永井荷風はそんな玉の井を、
「ラビリント(迷宮)」
と表現しています。
遊郭の別称を「新地」というように、遊郭は荒地や僻地を開拓した新開地に碁盤の目のように区画されたとこが多いのですが、玉の井はそれとは真逆の世界。私も現地で、方向感覚を失う覚悟で裏路地に入ってみましたが、「ラビリント」は健在でした。方向感覚には絶大な自信を持っている私でこれだから、方向音痴が入ると「ぬけられません」になるかもしれません。
今でこそタダの住宅街です。が、当時はこんな裏路地にピンクや青の怪しいネオンが夜遅くまで光り、それに夏の虫の如く吸い寄せられた男を、派手に着飾った(?)女が甘い声で、
「そこの兄さん、ちょっといいこと教えてあ・げ・る♪」
と手招きして裏路地へといざなう…。
そんな情景を想像すると、まさに「魔窟」です。
注意して歩かないと見逃すような裏路地に残っていたカフェー建築の名残です。現役時代は、「銀月」という屋号の店でした。
このタイルの色使いは「当確」ですが、まさか道幅1mもないの裏中の裏路地にこんな建物が残っているとは。ここも既に人が住んでる気配はありませんが、もう少し残って欲しいものです。
戦前の玉の井も同様の風景で、そこに「銘酒屋」が軒を連ねていました。どういうものだったのか。
娼家の構造は大体上部漆喰塗り、腰下模造タイル張りの表構えが多かった。拡張や新築が警察から許可にならないので、部分的補修で間に合わせる家が多く、およそどこも似たり寄ったりである。外側中央にハート型マークのついた色つき壁、赤い提灯、両脇に入口と小窓。
小窓は一軒の娼家に二ヶ所あり、女が一人ずつそこに座る。島田や銀杏返しの純日本風もあれば、耳かくしのダンサーや女給風もあり、おかっぱ、お下げ髪など、適宜に各自の特徴を生かしている。二階の客室はどこの娼家もおおむね三部屋くらいで、間取りは三畳に四畳半、六畳程度。中には一軒の家を板壁で仕切って二軒分で使用している家もある。
『玉の井という街があった』
玉の井は「一軒の家を2軒で使ってた」小さい家で、細かくみずぼらしい「飲み屋」が何百軒も並んでいたと想像して良いでしょう。「大廈高楼」が並ぶ遊郭と違い、私娼街はどこも大なり小なりこんな感じでした。
「ホームラン」「銀月」の近くには、こんな建物も残っていました。
よく見ると、入口が正面に一つ、右側の奥にもう一箇所あります。赤線カフェー建築あるあるの一つに、「なぜか玄関が二つ以上ある」のが特徴の一つですが、扉自体は新しいものに取り換えられているとは言え、「二つある」のにやはりな…という感を禁じえません。
ちなみに、こちらは「すみだ」という屋号だったそうです。
ところ変わって、違う筋に向かうと私のインスピレーションセンサーがビビビと、この建物に反応しました。
ただのインスピレーションなのですが、上を向いて〜歩いてゆこう〜と坂本九の歌よろしく上を眺めてみると、
屋根の庇にアールデコの残滓が。
改めて調べてみると、この建物は赤線時代「福美」という屋号の店でした。インスピレーションなのでハズレもけっこう多いのですが、今回は私の「勝ち」ですな。
こちらは、もう私が何も説明する必要性すらないほどの、典型的な赤線カフェー建築。ここは「ナンバーナイン」という屋号の店でした。
白い漆喰で上塗りされていますが、円柱と角の丸っこさ、そして円柱の豆タイルが漆喰の奥から浮き出ているかのよう。
もしかして、上のような色鮮やかなタイルが出てくるかもしれない…いや、出てくるに違いないと想像をたくましくすると、オラワクワクすっぞ!と某有名漫画の主人公のようなセリフを吐いてしまいます。
ちなみに、この建物のお向かいには「ラ・ムール」という飲み屋があります。この飲み屋、赤線廃止直後の地図を見ると屋号そのままであります。
十数年の月日は、いくつかの建物を無くしてもいます。かつてはこんな建物もありました。
12年前にはこんな赤線時代のカフェー建築が残っていました。
転業後は旅館「なの家」か「福井」かで営業していたようで、触覚のように出っ張った角の部分に、たぶん昔は看板が掲げられていたのだと思います。
私が最初に訪問した2009年でも建物の朽ち具合がひどく、こりゃ長くは持たんやろな…と思っていましたが、案の定数年後に解体されたようです。洲崎の赤線の建物もそうであったように、おそらく東日本大震災で半壊して家として使い物にならなくなったのでしょう。
それに対して、こちらは保存状態がかなり良く、人も住んでいました。が、残念ながらこちらも現存せず。建物自体も、独特の曲線を持って一目でわかりますが、
窓枠に遊び心の装飾が施されています。
赤線や元遊郭などの地区の真ん中には何故か銭湯があります。営業はしていないようですが、建物自体は2020年7月時点で、そのままの姿で現存しています。
ある書物にもこう書かれています。
「余談になるが、おもしろいことに、どこの遊廓や娼家街でも、
「玉の井という街があった」前田豊著
昔から中央に場所を占めるのが大抵松の湯であるというのはいったいどういうわけなのであろう」
ここはさすがに「松の湯」ではなかったですが、「鳩の街」はそのまま「松の湯」、ここもお風呂屋には変わりなし。ここは「墨田湯」ですが、赤線地域の真ん中に鎮座しておられるよーな感じです。まだ営業しているのかな?と思ったら、すでに閉店した模様。
いろは通り沿いには、こんな建物もあります。
位置は赤線地帯とは離れているので、赤線とは何の関係もありません。この派手派手なタイル使いを見て
きゃー!カフェー建築!
となってしまうのは、駆け出しのおいらんだ国探検家あるあるですが、こちらは赤線と一切関係ございません!ということを強調しておいて、今回のおいらんだ国酔夢譚の一席は読み終わりと致します。
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玉の井関連書籍
『墨東奇譚』
『玉の井という街があった』
『玉の井挽歌』
『玉の井 色街の社会と暮らし』
『墨田区史』
『墨田区火災保険特殊地図(戦前)』
『東京都全住宅案内図帳 (昭和36年)』
『新評 1970年8月特大号 戦後赤線哀史 私娼解放の拠点〈玉の井〉 / 猪野健治』
『警察新報 1937年4月号』
など。
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