鳩の街赤線街(東京都墨田区)|おいらんだ国酔夢譚|

鳩の街東京の赤線遊郭東京・関東地方の遊郭赤線跡

敗戦後の東京、占領軍として日本に君臨したGHQは、良くも悪くも日本に数々の改革を実施しました。大地主制度や財閥など、解体・廃止したものも多かったのですが、その中の一つに「公娼の廃止」がありました。公娼って何ぞや?と説明するのも面倒臭いので、ここでは「遊郭」と理解していただいて結構です。
そう説明すると、遊里史をかじった人はこう疑問符がつくはず。

遊郭って売春防止法まで続かなかったっけ?

そう、戦後には「赤線」があったはずだと。

しかし、厳密に言うと赤線は遊郭の延長ではあるけれども、公娼ではありません。赤線は警察などの公的機関は「黙認」していたけれども、認めていたわけではない。対して遊郭は「公認」。だから”公”娼なのです。黙認と公認は、天と地の開きがあります。
研究者によっては、

いや、赤線も公娼だった!

と主張する人もいますが、私個人としての考えは、赤線は「私娼窟」としています。

昭和20年代〜30年代前半の東京には、赤線だけでも10ヶ所以上が存在し、夜な夜なピンクのネオンと女の嬌声が男を引き寄せていました。赤線は全国各地にあったのは説明するまでもありませんが、有名なのはやはり、人が集まった東京。
当時の東京は、赤だけでなく、モグリの青線から街娼までのオンパレード。食っていくのが精一杯な時代だったとは言え、昭和20年代の東京は「性の無法地帯」と化していました。

まるで東京全体が売春窟だ。これじゃあ遊郭があった方がいいんじゃね?

当時の新聞記者が頭を抱えたほどだったそうです。

東京には、吉原洲崎八王子など、江戸や明治時代からの旧遊郭も存在していました。しかし、それらの老舗を差し置く人気があったものの、時代の流れで10年ちょっとしか寿命がなかった、超新星のような赤線がありました。

その名は「鳩の街」

今日のお題は、そんな「おそらく日本一有名だっただろう赤線」のお話。

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鳩の街の歴史ー起源は某有名私娼窟

東京向島には、かつて花街が存在していました。が、同時にあるものも存在していました。それは、名実ともに日本一の私娼窟。その名は玉の井
銘酒屋めいしや」という、”酒なんか置いてない飲み屋”の形態をした売春窟が何百件も並び、1000人、いや2000人とも言われた売春婦が男という獲物を待ち構えていました。玉の井を舞台にした小説「濹東綺譚」を書いた永井荷風は、ここを「ラビリント(魔窟)」と表現しました。

玉の井については別途ブログ記事にしているので、下のリンクからどうぞ。
(巻末にもリンクを貼っています)

そんな玉の井も、昭和20年3月の東京大空襲で灰燼と化し、この世から消え失せました。
といっても、火の手が玉の井近辺に届くまでかなりの時間の余裕があったらしく、人はほとんどが火とは真逆の北の方へ避難済み。建物がほぼ100%焼き尽くされた割には、人的被害はほとんどなかったそうです。

焼け出された業者たちは、新天地を模索します。そこで目をつけたのが、焼けた玉の井のすぐ南の地区。

東京大空襲は玉の井を灰塵の山としましたが、実は向島地区でも玉の井より南側は焼失を免れていました。写真は終戦より3年後の航空写真ですが、それでも玉の井私娼窟があった部分はほぼ更地状態に対し、そこより南はほとんど焼けていない模様。

玉の井から鳩の街への移転

焼け出された業者の一部は玉の井を離れ、焼失を免れた地域の家を使い、「遊びに来る客の対象を、軍需工場で働く者(いわゆる『産業戦士』)に限る」という当局のお墨付きをもらい、6月19日に新たに「商売」を始めました1。それが「鳩の街赤線」のもととなります。「本家」が玉の井、「分家」が鳩の街という見方も可能です。実際、粋に鳩の街を「新玉」と呼んでいたこともありました2。もちろん、意味は「新玉の井」。
最初は4軒だけだったという娼家も、居心地がよかったのか他の元遊郭の貸座敷の主なども集まり、終戦時にはすでに40軒オーバー。昭和27年(1952)には109軒、その中に300人もの「女給」が夜の蝶として春を売っていました。なお、当時の『内外タイムス』によると、昭和28年(1953)には「126軒 430人」とありますが、あのエリアでそんなキャパシティあるかな?といささか疑問に持っています。

鳩の街が栄えた理由

詳しくは後述しますが、鳩の街という赤線は、規模的にそれほど大きくはありません。吉原、いや、遊廓時代に比べたら敷地が半分以下になった洲崎と比べても、鳩の街の赤線区域は猫の額くらいの大きさしかありません。しかも、それらに比べれば後発の新興売春窟。
そんな鳩の街がなぜ現役時代は繁盛し、紅い灯が消えた後も「伝説の赤線」として名前が語り継がれることになったのか。

当時の雑誌を紐解いてみると、確かに吉原のようにビジネスライクではなくサービスがよかったとか、旧遊郭のよう暗い感じがなく新興歓楽街らしい明るさがあったとか武蔵新田の特飲街も同様)、いくつかあったようですが、他にも理由はいくつかあります。

①交通の便

昭和20年代都電30系統の路線図

取り出したるは、昭和25年(1950)前後の東京都電の路線図の一部。高度経済成長期のモータリゼーション前の庶民の足と言えば鉄道、特に東京は都電が庶民の足として23区内を網の目のように走っていました。

都電向島須崎停留所鳩の街の最寄り
都電向島須崎町停留所


鳩の街への都電の最寄は「向島」。のちに「向島須崎町」に改名されます。このバス停、最寄停留所どころか、副駅名に「鳩の街」を付けても良いのではないかというくらい目の前。しかも、赤線時代はここが終点。まるで鳩の街の遊客のために建設されたかのような路線、後述する鳩の街に通った人たちの日記を見ても、都電で通っていた人がほとんどだったようです。
都電は第30系統。神田須田町から上野駅前や浅草を経由する路線、つまり神田駅前や上野から電車一本で来ることができたのです(しかも格安)。

都電(戦前は市電)と遊郭・赤線、一見なんの関係もないように見える両者ですが、実はかなり関係があります。吉原遊廓はチンチン電車一本停留所一つで、客の流れが大門前から裏手からと真逆に変わったのは、下記ブログで以前説明しています。

また、赤線から赤線の「はしご」も都電に乗れば可能でした。新宿二丁目の赤線(元新宿遊郭)から洲崎へは1回乗り換えで行けるようで、夜は新宿でお泊まりし、朝に馴染みの女と別れた後に2時間かけて都電に揺られ洲崎まで行き、朝からお仕事熱心な敵娼あいかたの「モーニングサービス」を満喫した猛者もいたそうです。なお、その猛者によると

性欲は2時間で回復する

んだそうな。

これによりとばっちりを受けた赤線がありました。戦前にTHE KING OF私娼窟の名を(ほしいまま)にした玉の井です。
都電は「鳩の街赤線前」の二つ先の「寺島町二」が終点になっていますが、ここの先に玉の井があるのです。「遊郭・赤線跡をゆく 玉の井編」で詳しく書いているので、ここでの詳細は省略しますが、戦後の玉の井は規模を縮小し、戦前の私娼窟の場所からかなり北へ移動しています。

鳩の街と玉の井の位置図
鳩の街と玉の井の位置図

都電は玉の井のはるか南でストップ。しかも、そこまで開通したのは赤線廃止後のこと。

じゃあ、東武があるじゃないか

実際に歩いてみるとわかりますが、東向島駅からでもそこそこ歩きます。しかも、この駅は空襲で焼けてしまい、復活したのは昭和24年(1949)のこと。さらに、玉の井が有名になりすぎ、浅草で「玉の井まで」と切符を買うと、

駅員
駅員

こいつ、赤線に行きやがるなwww

と駅員にバレバレ。恥ずかしいのでその先の鐘ヶ淵までの切符を買い、余計な金を払っていたと作曲家の小林亜星氏などが著書に記しています。
そんなわけで、戦後の赤線は「鳩」に比べて何かと分が悪かった上に、交通至便な「分家」が遊客を取ってしまい、これで勝負あり。戦後の玉の井は戦前のTHE KING OF私娼窟の名とは裏腹に、地味な歓楽街だったといいます。といっても、最盛期と思われる昭和30年(1955)のカフェーの数約120軒3。赤線廃止時には今のお金で億単位を貯金した経営者もいて、鳩の街にお株を奪われたといっても、「私娼窟版吉原」のネームバリューもあったか、繁盛はしていたようです。

②文人たちの作品

鳩の街の名を全国区にしたもう一つの理由、それは数々の文人たちの存在。戦前の玉の井が有名になったのは、永井荷風の名作『濹東綺譚』の効果が大きいですが、鳩の街も文学作品によって有名になった赤線でした。特に戦後の荷風は鳩の街に通い、「春情 鳩の街」という戯曲を書いています。これは後に、吉原遊郭編で名前が出てきた久保田万太郎の手でアレンジされ、映画化もされています。

吉行淳之介

鳩の街を有名にしたもう一人の立役者が、作家の吉行淳之介。彼は赤線を舞台にした小説をいくつか書いていますが、その代表と言えるものが、鳩の街を舞台にした「原色の街」。鳩の街で働くカフェーの女給(という名の売春婦)を主人公にした短編で、これが芥川賞候補になったことから、作品と共に鳩の街の名が全国区となりました。
なお、吉行は文士界の赤線通でしたが彼の「ホーム」は新宿で、鳩の街には小説のネタにした癖にあまり行かなかったようです。実際、芥川賞受賞作の「驟雨」は新宿二丁目(元新宿遊郭)を舞台にした作品で、新宿にかけては赤青問わず入り浸っていました。

少し関係ない話ですが。
男の恋人を「彼氏」と言いますが、「彼氏」という言葉自体は、徳川夢声という現在のマルチタレントの元祖のような人が昭和初期に作った造語で、当時の新語辞典にも載っている「昭和生まれ」の言葉。しかし、この時は単なる男性の三人称単数。恋人という意味は含まれていません。
では、いつから現在のような意味を含ませることになったのか。私が密かに追っている昭和史の一つなのですが、私が知りうる限りの、明らかに現代と全く同じ意味で使用しているいちばん古い出典は、この「原色の街」(昭和25年)です。
もし、それより古いの知ってるよという方、こっそりメールください。


こんな話が残っています。売春防止法完全施行が近づき、吉原でも商売をたたむ店が多くなったある日、ある文仲間が新宿で吉行と偶然出会いました。話は赤線になり、彼をして「(赤線)消費者代表」こと吉行に尋ねました。

赤線がなくなってさぞお困りでしょう

吉行はなに言ってんだいと言いたげに笑い、彼をある場所へ連れていきました。そこは同じ新宿の花園町。当時の人は知らぬ人はいない有名青線地区です。
そこも売春防止法施行に向けて鼻息の荒い警察に気を遣い、閉店した店が多かったのですが、そこのある行き止まりに一枚の張り紙が。そこにはこう書かれていました。
「この道、ぬけられます」
これを指さした吉行淳之介はニコッと笑っていわく。

吉行淳之介
吉行淳之介

道は抜けられるのですよ、ご心配なく!

新宿の赤線青線、いや、人間の性を知り抜いた彼らしい話でした4
彼の言うとおり、売春防止法が適用されても風俗はなくなっていないし、当の花園町も、聞いた話だと、21世紀初頭まで陰で行っていたという話…。



文学作品のネタとして赤線通いをする物書きは多かったですが、噺家(落語家)も通っていた人がかなりいました。江戸落語には遊郭を舞台にした落語、つまり廓噺くるわばなしというジャンルがあるのですが、昭和を代表する有名落語家がその噺に入る前のまくら(本題に入る前の前置き)は、

あたしゃ『吉原にギリギリ間に合いまして』

ここでの吉原はストレートにではなく、やんわりと「赤線」を匂わせた隠語でしょうね。このセリフが出ると落語通は

お、今日は廓噺かい

とピンと来きます。噺家は匂わせ客は察する阿吽の呼吸も落語の面白いところ。
で、調べてみるとその師匠の赤線適齢年齢と売防法完全施行(=赤線廃止)がピッタリ。なるほど確かに滑り込みセーフやなと。

また、こんな話もあります。
名人と呼ばれた伝説の噺家が地方興行の際、お連れの弟子や若い衆に、

師匠
師匠

おい、ここにあるのかい?

弟子
弟子

はい、ございます!

師匠
師匠

じゃあ、これで遊んできな!

と金を渡して遊ばせたという話を、5代目春風亭柳昇師匠5がしていました。何が「ある」のかはもうお察し。
その名人いわく、酒とギャンブルやるなら女と遊べ、女との触れ合い(会話なども含む)は芸の肥やしになるという哲学だったようです。

売春防止法と鳩の街の最後

隆盛を極めた鳩の街も、昭和31年(1956)5月21日に売春防止法が国会で可決され、赤線が昭和33年(1958)3月いっぱいまでという「死の宣告」を受けることとなりました。

全国の赤線は、警察や婦人局の指導もあり、売防法完全施行の4月1日以前にはほとんどの赤線が暖簾を下ろしていましたが、下記に書く人物によると、鳩の街は施行の1日前ギリギリまで営業を続けていました。吉原でさえ1ヶ月前の2月末で紅い灯を消したというのに、なんという商売魂。
日本風俗史における「その時歴史が動いた」赤線最後の夜に鳩の街を選んだ人物が、少なくても二人います。

一人は、俳優の小沢昭一。洲崎の赤線前の人間模様を描いた映画、「洲崎パラダイス赤信号」にも出演した人ですが(詳しくは「洲崎遊郭編」をどうぞ)、赤線廃止後は荒れ放題だった赤線跡のカフェー建築のレアさに気づき、後々歴史的な価値が出ると写真や文章に残した先駆者でもあります。
その彼が見た3月31日の鳩の街は、すでにお葬式モード。

女給
女給

あら帽子がお似合いのお兄さん、最後の日だからサービスするわよ♪

と声をかけてくる女もほとんどおらず、「蛍の光が流れるでもなく、静かなものだった」と回想しています。

せめて最後の日くらい、パーっとやればいいのによ…

小沢の心の声が聞こえてきそうな回想でした。

そして、もう一人が『文藝春秋』元編集長にして、「初代歴史探偵」の半藤一利。昭和史家・歴史探偵としては私の師匠格であります。「師匠」を偲ぶ文章は下記ブログにて記しているので、ここでは多くは語りません。

その半藤氏は、鳩の街によく通っていたことを、著書で告白しています。
赤線の最後の日も、それを見届けようと鳩の街に寄り、最後は客も女の子も一軒の店の客間に集まり、お互い誰かもわからない客同士の割り勘で寿司を頼み、女の子たちと蛍の光を歌いながら別れを惜しんだ思い出話を書き残しています。

小沢昭一
小沢昭一

『蛍の光』もねぇのかよ…


と小沢昭一が寂しく歩いていた同日同時間同空間で、半藤たちは接待婦たちと

半藤一利他
半藤一利他

最後の日だ、ぱーっといこうぜ!『蛍の光』でも歌うか!

寿司を食べ酒を飲み、カウントダウンまでしたという歴史の面白さよ。
なお、半藤氏は、

半藤
半藤

捨てるなら俺にくれ!

と、『鳩の街カフェー組合』と書かれた値段表を記念にもらい、書斎に飾っていたそうです。

半藤
半藤

嫁さんが見たら、何これ?と思うでしょうな(笑

と自嘲していましたが、亡くなった後はどうなったのだろうか…。知らん人、興味ない人にとってはトイレットペーパーにもならないけれども、好き者にとっては『なんでも鑑定団』行きの代物。もし生きている時に半藤氏と会っていたら、

筆者
筆者

そ、それください…

とお願いしたかった…(笑

お次は、実際に鳩の街を歩いてみます。

NEXT:鳩の街赤線跡を歩く

  1. 『戦後日本の売春問題』より
  2. 玉の井の方は「 旧玉」
  3. 『玉の井挽歌』より
  4. 『赤線深く潜行す』梶原季之著より
  5. 『笑点』の司会春風亭昇太師匠などの師匠。おどけた姿で演じる与太郎系新作落語が大人気だった。

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