新吉原遊郭の歴史(東京都台東区)|おいらんだ国酔夢譚|

新吉原遊郭の歴史東京・関東地方の遊郭赤線跡

「吉原」という名前は、遊郭や赤線に興味がない人でも一回くらいはどこかで名前を聞いたことあるくらい有名です。遊郭とくれば吉原、吉原と言えば遊郭と言ってもいい遊郭の代名詞でもある吉原。「遊郭・赤線跡をゆく」を書き続けてン年、ついに総本山の吉原に突入です。

しかし、吉原に関してはそれこそ詳細に書かれた書物だけでも星の数ほど存在している上に、それを踏まえて書き出すと1万文字どころか10万文字でも説明がつかない。すべて書き尽くすのに1年くらい、仮に書いたとしても読む方も1週間くらいかかりそうなので(笑)、誰でもわかるようサラッと説明していきたいと思います。

スポンサーリンク

吉原の遊郭史

吉原の歴史は、はるか17世紀の江戸時代はじめにさかのぼります。
今の東京に「江戸」の町が出来てまだ間もない頃、庄司甚右衛門という人物がいました。元々は小田原の北条氏に仕えていたと伝えられ、元々は北条の乱波、つまり北条氏に仕えた風魔一族の隠密出身と言われています。ホンマかいな!?
北条氏滅亡後、江戸に出て女郎屋を開いていたのですが、江戸の女郎屋を一つにまとめようと幕府にお願いを出します。
その願いは、何回か却下されつつも元和三年(1617)についに許可が下り、吉原の歴史が始まります。

元吉原の場所

吉原は元々、お江戸の赤矢印の場所に作られました。だいたいの場所を把握できるように、お江戸日本橋に青矢印を打っておきました。
当時、この場所は(よし)が生える湿地帯、要するに「周りに何もなかった」ということ。当初は「葭原」と表記されていたのですが、縁起を担ぎ、「葭」→「吉」に変えて名前が「吉原」になりました。

その元祖吉原はどこにあったのか?もちろん、現在の場所ではありません。

元吉原の場所

現在の地下鉄人形町駅付近が、元吉原にあたります。青線の部分は400年近く経った現在でも「大門通り」と呼ばれ、元吉原の残滓が通りの名前として残っています。

吉原が現在の場所に移ったのは、明暦2年(1656)に幕府から遊郭の移転命令が出たことからでした。
上述のとおり、遊郭の周囲は設立時こそ僻地だったものの、江戸の町が急速に整備されて市街地が広がっていくにつれ、「悪所」の遊郭は移転せざるを得ない状況になりました。

市街地に遊郭があるのは風紀上けしからん!!

というのは江戸時代も昭和も変わりない。

吉原が郊外に移転となった際、幕府は

・移転費用の補助金を与える
・移転場所の広さは5割増し
・町役である火消しを免除(要は税金一部免除)
・夜の営業を許可する(前は昼しか営業できなかった)

とかなりの優遇条件を加えます。元吉原は狭くて発展が望めない…と思っていた女郎屋たちは渡りに船、幕府の命令から数年後に「浅草日本堤千束村」に吉原が「リニューアルオープン」しました。それが今の吉原。
このように、日本橋にあった吉原を「元吉原」、浅草に移った吉原を「新吉原」と言うのですが、「吉原」と聞いてイメージするのは「新吉原」の方。「新吉原」という名称は、昭和33年の売春防止法完全施行で形式的には滅ぶまで、吉原遊郭の正式名称として残りました。
よって、本編のタイトルも「新吉原」としています。また、本編では以後「元吉原」の話は出てこないので、「吉原=新吉原」とします。

吉原の地図

令和3年(2921)の「吉原」の地図ですが、昔の地図と比べてみましょう。

江戸時代の吉原遊郭地図

上の図は幕末の安政3年 (1856年)の実測復元地図ですが、周囲には何もなく吉原だけ「浮いた」存在だったことがよくわかると思います。
そして、周囲は変わってしまっても、廓内の道筋は150年経っても変わっていません。

明治時代の吉原の地図

時は変わって明治後期(1910年頃)地図に移ると、吉原周辺が整備されて住宅地になりつつあることがわかります。その後の関東大震災や戦争による空襲で、吉原はその度に焼け野原になります。が、吉原自体の道や地形は何も変わっていません。

ただ、一つ明らかに違う部分があります。
上の地図を見ると吉原の周りに堀があります。これは通称「お歯黒どぶ」と呼ばれていた溝です。流れがほとんどなく汚水で水が真っ黒だったことから名付けられました。同じ東京の私娼街「玉の井」にあった汚水溝も「お歯黒どぶ」と呼ばれ、どっちかというとこちらの方が有名でしたが、吉原の方が「元祖」でした。

吉原のお歯黒どぶ

吉原のお歯黒どぶ
このお歯黒どぶは、大正時代の宅地化や遊郭の「働き方改革」により埋められ、道路となりました。吉原の南西側の道路、「花園通り」には不自然な中央線が存在していますが、関東大震災後に埋められたお歯黒どぶの跡だったりします。

で、地図にはある仕掛けが存在します。
吉原のエリア…地図で見ると少し傾いてはないでしょうか。それも何か計算されたような、意味深な傾き…。これ、実は「北枕にならないように」、身売りされてきた女性たちの自殺防止の意味もあったそうな。そこまで計算されて作られていたとは。

吉原は観光地としての機能もあったため、近代以降の絵葉書、特に明治大正期のものには沢山描かれています。ヤフオクで検索しただけでも、どれを選んで良いのか迷うほどに。
和風・洋風・和洋折衷と絢爛豪華な妓楼の数々は、特に地方から来た人の度肝を抜いたに違いありません。
以前、木造3階建ての旧貸座敷が残っていた旧遊郭を歩いたことがあります。道の両側に並ぶ「木の摩天楼」の威圧感たるやすごいもので、

筆者
筆者

昔の吉原って、こんなのだったのだろうな…

と妙な感触を覚えたものです。

木造3階建てでも、明治期の日本では「高層ビル」に等しいのですが、吉原には…なんと「木造6階建て」(!!)の建物があったことがわかっています。
その名は「金瓶楼」。写真は現存しませんが、当時の日本画にいくつか残されています。

新吉原江戸町壹丁目 金瓶楼上図

歌川芳虎作「新吉原江戸町壹丁目」(早稲田大学蔵)に描かれた金瓶楼の図です。何階かはわかりませんが、西洋風のベランダに並ぶ花魁の姿が絢爛豪華に描かれています。

金瓶楼の遊女と伝えられる写真

「金瓶楼」と伝えられている遊女の写真です。

そんな金瓶楼はどこにあったのか。絵のタイトルに「江戸町1丁目」とあるので、そこを探してみると。

吉原金瓶楼の場所江戸町1丁目

明治27年(1894)の吉原図に「金瓶」の文字がある貸座敷があり、現在の吉原公園の真向かいにあたります。後述しますが、吉原公園は敷地がそのまま「大文字楼」という吉原きっての大妓楼でした。

ところで、吉原のような遊郭には、大きく分けて「大見世」「中見世」「小見世」「河岸見世」というランクがあり、特に花魁、最高級の遊女がいる「大見世」は、ちょっと遊ばせてよと飛び込みはもちろん、お金だけ持っていてもお断り。

角海老、稲本楼、大文字楼、不二楼が「大見世」と呼ばれ1、そこにいる花魁と遊びたければ、まずは「引手茶屋」と呼ばれるお店、京都では「お茶屋」と呼ばれています、に芸妓などを呼び一遊びしないといけません。京都の祇園もそうであるように、引手茶屋も一見さんお断りです。遊郭には遊女だけでなく芸妓もいたのですが、遊郭内の芸妓は「廓芸者」と呼ばれ、大見世の花魁に客を引き継ぐまでの盛り上げ役、セットアッパー(中継ぎ)としての役目がありました。吉原の芸者は、常時150人はいたと言います。

そして場が盛り上がったところで、貸座敷に上がるかと引手茶屋の人間が「大見世」まで案内します。そこでようやく花魁とご対面。「大見世」で引手茶屋から貸座敷へお客様の引き継ぎの儀式を行います。
遊郭は、言ってしまえば公により売春が認められた区域ですが、戦前までは「一夜だけの疑似夫婦、または彼女」の契りを結ぶというのが前提でした。花魁との引き継ぎも同じ。引手茶屋で遊んだ芸妓は花魁の前では下座。なぜならお客様と花魁は、引き継ぎと同時に「一夜夫婦」となり、花魁は「奥様」となるから。

花魁も最高級の遊女だけあって、お客に合わせた様々な教養を持ち合わせていました。短歌や俳句、お茶など当然免許皆伝、落語家並の大喜利センスや書画、明治以降は外国人の客向けに英語・ドイツ語ペラペラの花魁も「大見世」にはいたといいます。

もちろん、大見世で遊べるのは、江戸時代なら大名や大商人クラス。明治以降は閣僚級か中の上以上金持ちか。一般人は「中見世」以下のお店で、客引きをしている「妓夫太郎」と値段交渉を行い、直接貸座敷に揚がります。
「中見世」は、昭和初期では河内楼、蓬莱楼、三河楼などがありました2
遊廓のことがよくわかっていない人がイメージする「遊廓」は、上述の大見世と、「中見世」「小見世」が頭の中でごっちゃごちゃになっています。

お歯黒どぶの周り、廓のいちばん外郭にあった小さな見世は「河岸見世」と呼ばれ、見世といっても見世なんて名乗れないほどのみずぼらしい家が建ち、遊女も最下級。今で言えば「ちょんの間」といったところでしょう。

吉原を襲った「火事」

しかし、そんな建物をがれきの山にするような大事件が、吉原の歴史には何度か登場します。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、江戸は火事が多い土地柄でもありました。吉原も例外ではなく、元吉原から新吉原へ遷ったきっかけも、1657年(明暦3)に起こった、いわゆる「振袖火事」が理由の一つ。そこから明治になるまで、大小合わせて22回も火事が起こったと研究者の記録にあります。

その中でも有名なのが、明治44年9月に起きた「吉原大火」。年齢が上の方は、映画『吉原炎上』で知っている方も多いかもしれません。
上述のとおり、火事が多かった吉原ですが、この大火は吉原のほぼすべてを焼き尽くしました。この吉原大火については、下記のサイトがそれに特化しているのでどうぞ。

吉原遊郭

それにもめげず吉原は復活を遂げ、また絢爛豪華な大厦高楼が復活しました。上の写真は年代は不明ですが、絵はがきの年代特定法から大正前期以降であることは確か。関東大震災後の耐震・防火対策を施した震災後の吉原(大正末期〜昭和一桁)だと推定していたのですが、震災前の写真に似た角度での写真があったので、関東大震災前のもののようです。

2回目は、大正12年(1923)9月1日午前11時58分に起こった「関東大震災」。これについては説明不要のはずです。

関東大震災と吉原

吉原も例外なく揺れによる建物の倒壊以上に猛火に襲われ、大厦高楼はこのように焼失…いや消失。吉原大火で復活した大厦高楼も、わずか十余年でがれきの山と化しました。
写真には、倒壊した「十二階」こと凌雲閣の姿も遠目に見ることができます。

この地震で吉原の大門が閉まってしまい、遊女たちは逃げられず大勢亡くなったと伝えられています…どこかで聞いたことがある話ですが、この赤字の部分、覚えて頭に叩き込んでおいて下さい。後で激しくツッコミが入ることになります。

しかし、それにもめげず吉原は再度の復活を遂げます。

昭和初期の吉原

昭和7年(1932)とされる吉原の写真です。どこかは不明ですが、震災前に比べて幾分か落ち着いている感じが見受けられます。

そして3回目の焼失は…だいたい予想がつくと思いますが、それはのちほど。

昭和の吉原遊郭の遊女の数

昭和に入ると、吉原のおかげで「永遠のナンバー2」を宿命付けられた洲崎や、遊郭界の超新星こと飛田の勢いで、もう少しで尻尾をつかまれています。実際、貸座敷数だけは洲崎に抜かれていますが、他は安泰の数字。ただでさえ吉原の二軍扱いと見下されていた洲崎は、越すに越えられない吉原の存在に、さぞかし悔しかったことでしょう。

松島と他遊郭との数字比較

こちらは大阪の松島遊郭編から引っこ抜いてきた、各地方最強遊郭の比較です。近代史においても吉原は「遊郭BIG4」の一翼として、全国的にもその存在を知らしめていたことでしょう。ちなみに、横浜の真金町は落語家の桂歌丸師匠の故郷で、本人も妓楼「富士(不二)楼」の御曹司でした。

しかし、お察しのとおり戦争が吉原の運命を翻弄します。
残念ながら昭和13年(1938)以降の東京の遊郭の統計データがないのですが、前年までは支那事変以降の出征兵士の増加による「戦争景気」となりました。どこの遊郭でもそうでしたが、死ぬ前にせめて女と触れ合いたい、「大人」になって死なせたいという親心などもあり、それなら「プロ」に手ほどきを受けてもらおう…遊郭はこの時期かなりの賑わいを見せることとなりました。

そうして対米戦争にも入り、「ぜいたくは敵だ」とばかりに遊郭の規模は縮小されていきました。それでも貸座敷の営業はいろいろ事情もあり、料亭や廓内の引手茶屋などと比べ、ギリギリまで営業が許されていました。けっこうお客も来ていたといいます。が、昭和19年(1944)頃になると建物疎開による貸座敷の取り壊しや灯火管制、国による営業自粛命令などで営業規模を縮小。

そして「その時」、昭和20年(1945)3月10日未明、東京を襲ったB29約300機により東京は焼き払われました。
運が悪いとはこのことで、事実上の空襲当日である9日は吉原の勤労奉仕の日でした。ただでさえ食うものがなく栄養失調気味だったところに、勤労奉仕により重がつく肉体労働。娼妓・芸妓、そして男女問わず夜はみんなヘトヘト状態で寝床についた…ところで焼夷弾が雨のように降ってきたから、たまったものではありませんでした。

そして一夜明けあたりが明るくなると、吉原も三度(みたび)灰燼に帰し、生き残った花魁たちは、どうするか彼女らの自由裁量に任されました。故郷へ帰った人もいましたが、どうせ実家に帰っても自分の居所はない、引き続き働かせて欲しいと居残り希望の人もいたといいます。

そして赤線へ

戦後の赤線としての吉原は、空襲で焼けた遊廓を再建したことから始まります。
空襲で焼けた2ヶ月後の5月、東京都と警視庁から「再建命令」が出て都からは布団などを無料支給されたそうです。特に、海軍からは釘や資材などを無償で提供されたそうで、特に海軍は同じ東京にあった洲崎もそうですが、焼けた遊郭の再建に余った資材を提供していたそうです。
その話を聞きつけたり、あらかじめ連絡先を聞いておいた花魁たちが吉原に戻り、終戦直前に48人で再スタートしました。

が、終戦と進駐軍による命令で吉原は事実上接収され、アメリカ軍兵士相手の慰安所となりました。

吉原で焼け残った元妓楼

吉原のほとんどは空襲で焼失しましたが、焼け残った元貸座敷がいくつか残っており、写真は「八号館」と呼ばれたものです。こういう建物が慰安所になったようです。

が、性病が蔓延し他の旧廓と同じくOFF LIMITS(立入禁止)となり、その後昭和21年2月に公娼制度がGHQの命令で廃止されます。ここで、制度としての遊郭は終了します
が、風俗営業がなくなったわけではなく、9月に「特飲街」として赤線区域(以後、赤線)へと移行します。赤線は遊郭ではなく、公娼でもありません。制度上は戦前の私娼窟扱いなので、遊郭とは明確に区別する必要があります。しかし、おおまかにやってることは変わりないので、そのまま「遊郭」と呼ばれ現在に至っているのが現状ってところです。
また、営業形態は貸座敷ではなくカフェーとなった以上、店の構えもカフェー、喫茶店や洋酒バーっぽくする必要があります。そこで生まれたのが「カフェー建築」と呼ばれるもの。カフェー建築とは何ぞやと言うと、ある書物を引用します。

赤線にあったカフェ―の建物は独特のデザインで装飾されていた。タイル貼りの柱、丸や扇形の飾り窓、一階の屋根先に取り付けられた大きな庇など、アールデコでもなく、誰がデザインしたというものでもない独特の装飾で飾られていた。いわゆる「赤線建築」とも呼ばれ、戦後の一時期を象徴するようなデコレーションであった。

引用:『玉の井 色街の社会と暮らし』

要は、一発でカフェー(特飲店)とわかるような装飾にしろと当局からご指導が来たので、外観を「ケバい格好」にしなければならなかったのです。具体的にどんなものかは、また別記事にでも書きたいと思います。
なお、特殊飲食店街こと赤線は、都道府県や各赤線によって営業形態は様々です。東京は上述のとおり「カフェー」でしたが、大阪(飛田・松島)は「待合」(電話帳では「貸座敷」)大分県別府は「貸席」、岩手県盛岡八幡町は「簡易旅館」とみんなバラバラ。遊郭時代のように「貸座敷」でまとまっていればわかりやすいのですが、このバラバラの営業形態が、赤線というものをわかりにくくしています。

閑話休題。
赤線スタート時の吉原は、業者数68軒、”花魁”から”カフェーの女給”と建前上の職種が180度変わった女性の数は301人。大正末期~昭和初期の超不景気の時でも二千人以上はいた戦前の遊郭時代の数には全然届かないものの、昭和28年には業者の数が291軒、「従業婦」の数は898人に増えました。だいたい同じ時期で、大阪の松島が1,300人(昭和29年)、飛田が1,628人(昭和30年)でした。

一時は女性の数が1000人を超えたこともありました。が、最盛期はここまでで、売春防止法が国会を通過し、吉原の先がわかってからは規模はだんだん小さくなっていきました。
売春防止法完全施行の1か月前、昭和33年(1958)2月28日の夜11時に店が一斉に明かりを消し、かつては江戸文化、強いては日本文化の発信基地の一つでもあった吉原の数百年の歴史に幕を閉じました。

吉原の最後の日ってどうだったのか。
あの吉原のことだからさぞかし盛大に華やかにフィニッシュしのだろう…と思ったら、意外や意外、しんみりとしたものだったそうです。

「吉原最後の夜はまことにあっけないものでした。最後まで残った百六十軒の見世(みせ)が、いつもより少ないお客様を見送った後、11時には赤線最後の灯を、ひっそりと消したのでございます。
赤線最後の日だといって、人が大勢押しかけるでもなく、花魁たちが最後を飾るでもなく、ただ戸を閉め、灯(あかり)を消して、それでおしまいでした。
その夜、私は、気分がたかぶっていたせいか、とても寝付けそうにありませんでした。それで外に出てみたのですが、街燈もいらないほど夜通し明るかった吉原の街ですのに、どこもかしこも真っ暗。一体ここはどこだろう、と一瞬思ったほどの変わりようでございました」

引用:『吉原はこんなところでございました』

売春窟という「闇」と、文化発信基地であった「光」が交わった吉原350年の最期は、何か寂しいものでした。

同じ東京の洲崎でも、赤線は売防法が施行されるまでもなく死を迎え、最後は閑古鳥が鳴いてたようで、「鳩の街」の最後の日に行きつけの店を訪れた俳優の小沢昭一も、「蛍の光が流れるでもなく、静かなものだった」と回想しています3。しかし同じ日の同じ頃同じ場所で、歴史家・作家の半藤一利は寿司を頼んで接待婦たちと「蛍の光」を唄いながら別れを惜しんでいたというから、小沢が蛍の光もねーのかよ寂しいね…とぼやいていた同じ場所で、半藤は「蛍の光」を女の子たちと歌っていたという歴史の面白さ。

駆け足で吉原の歴史を書いてきましたが、お次は実際に現地を歩いてみます。

NEXT:21世紀の吉原を歩く
  1. 『全国遊廓案内』昭和5年刊
  2. 『全国遊廓案内』昭和5年刊
  3. 『昭和の肖像』より
スポンサーリンク

コメント

  1. 花岡徹 より:

    徳島の写楽の会、理事の花岡徹と申します。
    原のことをとても詳しく紹介されているので、連絡する次第です。
    現在、写楽(斎藤十郎兵衛)と村田春海、蔦屋重三郎の関係を調べています。

    村田春海 延享3年  1746生  (賀茂真淵門下の国学者・十八大通の一人・斎藤十郎兵衛家は隣家・加藤千蔭家は五軒先)
    十八大通とは、安永・天明1772~89のころ、江戸の通人を自認した富裕な遊蕩児十八人・吉原に精通
    春海の妻おすが   1760~1765頃生  (元吉原丁字屋遊女。丁字屋一番人気と書かれた資料もあるが真偽不明。安永9年(1780)春海に身請されている。遊女は27、8歳で年季明け。20才~25才で春海に身請されたとして、1760~1765年ごろが妥当)
    となっています。

    春海の妻、おすがの、丁字屋(丁子屋とも)の場所がどうしても江戸町二丁目に確認できません。浮世絵の花魁の絵には幾度となく丁字屋の名と江戸町二丁目丁字屋内の様子が描かれているのですが、地図上や鳥瞰図の江戸町二丁目には見当たりません。
    もし、なにか丁字屋、村田春海・妻おすが に関する資料があればお教え頂けないでしょうか。
    よろしくお願い致します。

error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました