八王子田町遊郭(東京都八王子市)|おいらんだ国酔夢譚|

八王子田町遊郭東京・関東地方の遊郭赤線跡

八王子駅前
八王子は東京都の西の端にある中核都市。根っからの関西人の私ですが、鉄分豊富なこともあり、鉄道の要衝として名前を聞いたことは何度もあります。
しかし、行く機会が全くなく数十年の時が経ち、10年以上前ですがようやくその機会を得て八王子へ来てみると、その意外なほどの大都会っぷりに驚いてしましました。さすがはトキオのベッドタウンというべきか。

筆者
筆者

こんな「大都会」に昔の色街跡など残っとるんやろか?

一抹どころか五抹くらいの不安を抱えつつ、八王子駅から徒歩15分ほどの場所にあるという、ある遊里へ。

今日は、東京の西の端、八王子にあった遊郭のお話。

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八王子田町遊廓の歴史

江戸時代の甲州街道の八王子の宿場町

八王子は江戸時代に整備された甲州街道の宿場町として栄えました。横山宿・八日市宿・八幡宿など15の宿場に分かれており、その中でも横山宿と八日市宿が宿場の中心でした。
大名とかの身分が高い人が使う「本陣」と、庶民が使う「旅籠」と宿が分かれていましたが、旅籠には「飯盛女」、事実上の娼婦がワンセットでついてくるのが相場。「飯盛女」は数十人~百人以上はいただろうと推定できます。
ちなみに、江戸時代の法によると、「『飯盛女』は旅籠一軒につき二人まで」「衣類は木綿に限る(派手に着飾るなということ)」となっており、その条件からはみ出たら「隠売女」つまりモグリ売春婦として捕まり、吉原行きになることもありました。

時は明治に入り、宿場町の旅籠兼遊女屋はそのまま貸座敷として営業し、八王子遊郭の始まりはここからとなります。

八王子田町遊郭

明治26年(1893)、八王子の町を焼く大火事が発生。宿場町としての八王子は灰と化しました。
その時に遊女屋を郊外に集約させることを決定したのですが、その場所が田町でした。実際に田町に遊女屋が集約されたのは、明治30年(1896)の火事の後となります。

田町界隈は、現在こそ静かな住宅街ですが、移転当時は周りに田んぼ以外何もなかった僻地。本当に周囲に田んぼしかなかったため、「田町」という名前がついたそうです。
その証拠に、大正初期の地籍図(上図)を見ると、黄色で塗られている田町遊郭の周囲はすべて白の田畑。遊郭だけものすごく浮いていることが、この地籍図からもわかります。その違和感は、砂漠の真ん中に突然あらわれた「性のオアシス」の如し。

田町を中心に、八王子の変化を見ていきましょう。

明治時代の八王子の地図

まずは明治時代、遊郭が田町に移転して間もない頃のものです。遊郭移転地は新地、つまり市街地から離れた郊外に追いやられる、つまり「性欲のトイレ」扱いされることが多いのですが、八王子もその例に漏れず、郊外に孤島のように「新地」として位置していることが一目瞭然です。
当然、周囲には何もありません。

大正時代の八王子の地図

大正時代に入っても、「新地」こと遊郭の孤島感は消えていませんが、住宅化の波が南から来たへ徐々に広がり、遊郭の手前にまで広がっています。

昭和の八王子の遊郭の地図

そして、昭和初期あたり、関東大震災後後に東京郊外に住む人が増え、今に続く「電車通勤」が当たり前になっていくにつれ、八王子の住宅化がさらに進みます。戦後の地図ですが、おそらく1930年代後半にはこうなっていたと思われます。住宅地化は遊郭を完全に飲み込み、陸の孤島だった「新地」の面影はありません。「新地」と書かれていなければ、素人目にはそこが遊郭であることすら気づかないでしょう。

ちなみに、昭和5年発行の『全国遊廓案内』によると、

現在貸座敷14軒、娼妓約100人位居って居稼制で、写真又は陰店を張って居る。娼妓は東北人も相当居る様であるが、戸籍面では東京人が大部分である様だ。(八王子の遊興費は)甲6円、乙5円見当で酒付が普通定りである。(中略)楼名は大川楼、いろは楼、宏洋楼、丸岡部、今萬楼、西多摩楼、益萬楼、吉濱楼、但州楼、福高楼、武蔵楼、徳高楼、大桝楼。

引用:『全国遊廓案内』

同じ時期の吉原の3,500人、洲崎の2,900人に比べると、八王子は全国的に見たら中程度の規模。東京でも郊外のせいか、比較的こじんまりとしたものでした。

戦後の田町遊郭

終戦後は米軍用の慰安施設(RAA)となった後、他の場所の例に漏れずに性病の蔓延でOFF LIMITS(立入禁止)となり日本人に返還、赤線となりました。
その赤線時代、リアルタイムの雑誌1による昭和25年(1950)8月時点の店の数は13軒、そこで働く女給(接待婦)の数は50人。店の数に変化なしですが、働く女性の数は半分になっています。赤線は遊郭の公娼時代のように借金で縛られることがほとんどなくなり女性の出入りが激しくなり、雑誌にも「移動性甚だしき故固定数字ではない」と注意書きがされています。

赤線時代の田町を、「全国女性街ガイド」はこう伝えています。

夕暮時はねずみ啼もきこえて来ようという、東京周辺では、昨今珍しい色里である。(中略)小砂利を敷きつめた玄関の奥まった店や、文明開化作りの青楼など15軒、暮色蒼然と軒を連ねている。都心からわずかの遠征で、これだけの古典的風物に接するとは、日本も捨てたものではない。

引用:『全国女性街ガイド』

文章は短いものの、当時の雰囲気をよく伝えているなと感じます。
上述した『モダン日本』でも、東京の赤線紹介の欄で八王子の特徴を簡潔に述べています。
「部屋持、長い火鉢の前で三味の味のある土地、昔の古い家」
この数年後、『全国女性街ガイド』を書いた渡辺寛が訪れた時と雰囲気が変わっていないことが、何となくわかります。
八王子は、先の戦争で空襲の被害を受けたものの、遊郭には被害はなかった数少ない東京の遊廊の一つ。吉原などは「消失」と記述しても良いほど焼失した分、今から70年前の人が訪れた時でさえ、「ノスタルジックな気分」を味あわせてくれた明治時代の色街の面影が残っていたのでしょう。

そして昭和33年(1958)、他の赤線と同様、売春防止法完全施行につき、約60年の歴史を閉じることとなりました。

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  1. 『モダン日本』
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コメント

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