妹尾知之-ある海軍軍人の一生

妹尾知之海軍中将歴史エッセイ
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順風満帆の軍人人生のはず…が??

ここから妹尾の出世街道が…ではなく迷走(?)が始まります。
海大甲種を出たら、末は連合艦隊司令長官か大臣か。そこまでならなくても、横須賀・呉・佐世保の鎮守府長官か、艦隊の司令長官になれば軍人として悔いなし。

それにしてはその後の経歴がぱっとしません。
いちおう軍務局勤務やカナダ駐在武官、報道局長などを経験しているものの、時が経つごとに経歴が地味になり、戦争中は工廠長に軍需省(のちに運輸省)出向…海大甲種卒スーパーエリートが行くようなポストではないでしょと。なんでこうなっちゃった?

可能性としては、

1.優秀なのだが、病気などで出世コースから外れたり、現場での激務に堪えられなかった
(例として高木惣吉少将がいる)

2.何かデカい不祥事を起こした
(ジーメンス事件以降、海軍は賄賂にかなりナーバスになっており、出入り業者からのカレンダーも受け取らなかった)

3.嫁さんが外国人だった

注目すべきは3番目。帝国海軍に限らず、軍隊では外国人を嫁さんにもらうと「出世か嫁さんか」の二択を迫られ、後者を取ると機密保持のため干されます。ちなみに、前者を選んでドイツ娘を捨てた鬼男が森鴎外。

妹尾の細かい経歴を見ると、1929年に英国出張を命ぜられ1年半駐在していますが、そこから出世が止まっている感じがします。

彼の軍歴のもう一つ妙なところは、艦長経験ゼロで少将に昇級していること。
少将以上の将軍・提督になるには、陸軍は連隊長、海軍は巡洋艦、特に戦艦などの大艦の艦長職に2年以上就くのがMustな経歴です。が、それに該当しない激レア提督がたまぁぁぁに存在します。妹尾はそのたまぁぁぁに該当しています。前述の大西瀧治郎も艦長経験がない激レア組ですが、航空隊のエキスパート街道を歩んでいるので適材適所。

こういう「海大を出てない専門職系」なら、「支那通」と呼ばれた中国情勢のスペシャリスト津田静枝中将、須賀彦次郎少将もいるので話がわかるのですが1、妹尾は海大甲種卒。これで艦長経験なしはちょっとどころか、非常におかしい。

ここからは私の証拠なき仮説です。
仮に金髪美人を連れてきたとすると、並の士官は大佐以上に進級しません。現在の海上自衛隊も、外国人の嫁さんダメという規定はないものの、不文律で一佐以上にはなれないそう。
エゲレス金髪美人とねんごろの仲になった海軍士官は、実際に何人もいました。が、全員閑職に干され大佐になる前に海軍を去っており、歴史の表舞台には一切出てきません。

しかし妹尾は海大甲種卒、モノが違う。海大出て大佐止まりは体裁悪い…どころか海軍の歴史に残るスキャンダル。これは子々孫々までの不名誉だし、違和感を感じて突っ込む人が後世に必ず出てきます。実際ここに、一体なんでやねんとPCの前で首をかしげているのが約1名いるわけですし。
だから将官にはしてあげるけど、隅っこでおとなしくしててねということか?

伝記がないのでこれ以上追いようがない、妹尾の軍歴最大の謎です。

昭和15年(1940)、妹尾は山口県光の海軍工廠長となりました。くどいようですが、海大甲種卒が工廠長ってなんでやねんと言いたくなるポストですが(鎮守府お膝元の呉工廠長なら前例がないこともないけれど…)、それはさておき、当時の辞令広報が残っています。

昭和15年海軍人事広報妹尾井上成美

赤枠が妹尾で、「補光海軍工廠長」と書かれています。同時に井上成美や豊田貞次郎(後の外務大臣)の名前も見えます(青枠)。
井上は先輩とは言え海大は同期ですが、片や海軍航空の計画・製造総責任者(井上も航空主兵論なので適材適所)、片や大規模かつ新規とは言え地方の工場長。やはり思う…なんでこんなに差が開いた?

戦ふ日本海員妹尾知之

昭和19年(1944)4月、『戦ふ日本海員』という本に書かれた妹尾(肩書は運輸通信省海運総局長官)の一筆です。 これといって特筆すべきものは書いていません。

戦後の妹尾

艦隊司令長官でもなく鎮守府司令長官でも東京の大本営でもなく、呉海軍工廠長として終戦を迎えた妹尾は、海軍消滅と共に予備役となります。
山口県光市を終生の居処と定めた妹尾は、地元企業の役員を務めながら光市のために尽力しました。余生を故郷ではなくここに定めたのも、工廠長時代に良い思い出でもあったのでしょうかね。

妹尾知之記念碑

妹尾知之光市(画像提供:まる様) 

彼の功績を称える碑が光市に建てられています。
それによると、光市に現存する武田薬品と新日鉄住金の工場は妹尾が誘致活動をした結果とのことで、碑にもその功績大と記されています。

戦後は平穏な余生を過ごした妹尾は、昭和59年(1984)に93歳で世を去りました。これだけの碑が有志によって建てられたということは、人望も厚かった人なのでしょう。

絵葉書の謎

妹尾19歳の時に書かれた絵葉書を、もう一度見てみましょう。

宛先が故郷の尋常小学校となっているので、菅原先生という人は妹尾の恩師なのでしょう。

対してこちらの宛先は「殿」なので対等の関係、おそらく幼馴染宛だと思われます。

はがきの消印の頃は入学してまだ数ヶ月でしたが、内容は恩師に対しては社交辞令の連続に対し、友達と思われる菅原伊三太君に対しては、

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「ボートレース(カッター)練習が辛い」
「尻の皮がむげて痛い」
「腹減った、寒い」
など、はがきの消印の頃は入学してまだ数ヶ月、毎日訓練でしごかれていたのか愚痴っぽい記述もあります。貴様それでも兵学校生徒か!と1号(最上級生)から鉄拳制裁を食らいそうな内容ですな。
カッター練習は今の海自幹部候補生学校でも行われていますが、経験者の知人いわく、思い出したくもないほど辛いそうです。そ、そんなしんどいものなの?

ところで、宛先は「神石郡」。これを見つけたのは大阪だったので、先入観で堺の神石かと認識していました。が、光市にある碑文を見てみると、広島県神石郡神石町」出身となっています。どうやら神石違いの模様。
つまり、この絵葉書に大阪の絡みは何もない(笑)

そこで、新たな謎が浮かび上がってきます。
広島県内から送られ広島県内に届いたこの絵葉書、なぜ何の縁もゆかりもない大阪の岸和田にあるのか。
「神石=堺のあそこ」に囚われ、持ち主の方に取得の経緯を聞くのを忘れていましたが、これを追っていくとまた面白いことになりそうです。が、私にそんな時間の余裕も資金もありませぬ。

数枚の絵葉書から一人の人間があらわれ、一人の軍人の人生を掘ることによって時代の背景を知る。これもある種の考古学ではないのかなと。

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