井上成美記念館を訪ねて 前編 井上成美とは

井上成美ブログエッセイ

先月、潮が巷に香る街、横須賀へ行ってまいりました。
その旅の目的は、ある人物の故居を訪ねるもの。
横須賀は言わば軍都。旧帝国海軍による鎮守府開設から始まり、戦後も海上自衛隊はや米海軍の根拠地、そして防衛大学校や自衛隊の各種学校が集まる「軍の街」なのは現在も変わっていません。

そんな旧帝国海軍の中で、異彩を放った一人の軍人がいました。

井上成美海軍大将

その名は井上成美。

私の横須賀入りは、彼が晩年を過ごし、そこで亡くなった家を訪ねるもの。そこで

筆者
筆者

井上の家に行きました。はい終わり

とさっさと終わらせるのは簡単です。が、私がなぜわざわざ横須賀、いや、地図を見て

筆者
筆者

これ、公共交通機関だけでどないして行ったらええねん…

と途方に暮れた三浦半島の寒村を訪ねたのか。

井上成美の細かい経歴などはWikipediaでも見ていただければということで、今回は自分なりに見た井上の痛快愉快なお話を挙げていこうかと思います。

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井上成美とはどんな人物か

井上は明治22年(1889)、仙台に生を受けました。「成美」という名前は『論語』の「子曰わく、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是れに反す」という一節からとられていますが、「成美」という言葉は人名はもちろん私塾などにもよく用いられる名前です。そういえば、うちの故郷にも「(大阪府立)成美高校」って学校がありました。

井上は、戦争で大きな功績をあげたわけでも、大臣や連合艦隊司令長官になったわけでもありません。そのせいか、海軍関係者やその歴史に詳しい人以外には、誰それ?という程度の存在でした。

井上の名前が広く知られることになったのは、阿川弘之の小説『井上成美』(以下「阿川本」)の影響が大きいと思われます。

阿川は「海軍三部作」と呼ばれる、山本五十六、米内光政、そして井上の伝記を遺していますが、山本・米内に比べれば井上の一般での知名度はないに等しかったと思います。
それが文章として世に出たことで、民衆への知名度が一気に高まることとなりました。

海軍軍人の偉いさんには、良くも悪くもあだ名がつくことが多かったのですが、井上の異名は「カミソリ井上」「三角定規」。
その名前からなんとなくイメージがつくように、とにかく頭の切れがシャープでした。間違っていると思ったことは頑として譲らず、上官であろうと間違っているものは間違っていると直言するその姿勢は、見ている方は痛快にさえ感じます。やられてる方はたまったものではありませんが(笑

井上はその先見の明と切れ味が、一言で表現すれば抜群でした。いや、切れすぎたと言っても良い。
その切れ味は上官・元大臣、そして神(東郷平八郎)ですら滅多切り。しかも、その論理の筋は一本きれいに通っているから反論もできない。あまりに正論すぎるため、

歴史家
歴史家

井上さん、あなたの言い分は300%正しい!

でもね…先輩・上司に対して無遠慮すぎる…

文字化された井上の発言を見て、一周回ってフルボッコにされた相手に同情してしまう始末。
私も

筆者
筆者

こんな理路整然とした『罵詈雑言』ってこの世にあるんやな…

と思ったほどで、伝記を書いた阿川本人ですら、

阿川弘之
阿川弘之

井上さんに『君、今夜飲もう!』と呼ばれても、うれしいな~という気分にならない…

と述べているほど1。上司として仕事の方向性が合えば、これほど頼りになる人はいないくらいだけど、プライベートのお友達にはなりたくない気が…。
井上の上官にあたり、のちに「昭和海軍の名コンビ」と称された米内光政が、あまりにクソ真面目な上官2に辟易して

米内光政
米内光政

河の水 魚棲むほどの 清さかな

という句(というか川柳)を送った話がありますが、これは井上にも当てはまるんじゃないかと。まあ、井上なら上司の米内から同じ句を送られたら、

井上成美
井上成美

「河の水 毒魚棲まぬ 清さかな」

と即答で返していたでしょうね3(笑

これは、二人の性格の違い。
「頭(の回転)なら俺の方が良いよ」
と部下の山本五十六に評されつつも4、時には毒さえ呑み込み自分が十字架を背負う器の広さが人間的魅力だった米内に対し、
「井上さんは純水」
と評された5、名前の通り「美を成す」人生一点の曇りなしという清さの違いでした。
米内と井上、性格はほぼ真逆でしたが、二人は「昭和海軍の名コンビ」として歴史に名を残しています。

海軍三羽烏

井上成美と言えば、昭和10年代前半の米内光政海軍大臣・山本五十六次官、そして井上軍務局長の海軍省トップ3が、陸軍が強硬手段に訴えてでも通そうとした「(日独伊)三国同盟」の締結を、海軍省のトップ3が代表して猛反対したことで知っている人もいるでしょう。彼らを「海軍三羽烏」と呼びます。
「三羽烏」はマスコミ(海軍記者)がつけたあだ名で、海軍史を深掘りしていくと

筆者
筆者

おいおい、3人と意見を同じくして同じ命を張って反対した軍令部の古賀峰一次長(中将)が入ってへんやん!

と「三羽烏」にすごく違和感を感じるのですが、新聞的には「三羽烏」の方が語呂がよかったのでしょう。
結果的に、三国同盟は三羽烏(上述のとおり、実際は古賀を入れた4人)が脅迫されても何をされても絶対不可と筋を通し流産となったのですが、もしこの時、三羽烏が陸軍に折れて締結していたら…1939年のドイツのポーランド侵攻→英仏が宣戦布告という流れで日本も「自動的に英仏に宣戦布告」しており(三国同盟にそういう条項があった)、真珠湾より2年早く、しかも何の準備もないまま戦争突入という歴史の悲劇が待っていました。たぶん、今の世に日本という国は存在していないと思われ。

この「三羽烏」、歴史の表面では三国同盟に反対したことばかり強調されます。阿川本で3人の人生を知っている人でも、ここまでしか知りません。が、事務処理の速さも内部では定評で、こんな話が残っています。

大臣の決裁が必要なある事柄について、軍務局員が井上軍務局長に説明、質疑応答を経て局長は認可のハンコを押しました。
次は次官(山本五十六)のハンコをもらいに次官室へ。

山本次官
山本次官

(井上)局長のハンコある?

局員
局員

はい、ここに!

山本
山本

よし!!(と盲判

次は大臣(米内光政)のハンコをもらいに大臣室へ…

米内大臣
米内大臣

山本見たか?

局員
局員

はい!

米内
米内

(黙って盲判)

この間の所要時間、5分足らず。
関所である井上局長のハンコがあれば、上は盲判でOK。

米内・山本
米内・山本

井上君が目を通して良いと言ってるんだから問題ない。

(何もないはずだけど)何かあったら責任は俺たちが取ればいい

という二人の井上に対する信頼が見て取れます。井上本人も、変な書類は絶対通さんぞと局長室の椅子に座り構えていた様子でした。
上は某元中佐の回想ですが、山本五十六の仕事っぷりを見たある元少将も、

「書類はたいてい立ったままで、景気よくポンポンと片付け、机上に未決書類が残っていることを見たことはほとんどなかった。おそらく井上軍務局長が通したことはすべて信頼し、盲判ではなかっただろうかと思う」

高木惣吉『米内光政と山本五十六』 宮野澄『最後の海軍大将 井上成美』

と述べ、元中佐の証言を裏付けています。
ちなみに、元中佐によると同様の手順を戦争中は1週間以上かかっていたそうな。

それから6年後、戦争が激化してにっちもさっちもいかなくなった昭和19年、米内は海軍史では異例の現役復帰の上海軍大臣に復帰6。井上は「米内に首輪をつけられ」、後述する江田島の海軍兵学校校長から、6年前に山本五十六が就いていた海軍次官に就任します。
その時の事務処理も神速で、前の次官は未決棚に書類が山積みだったのに、井上次官になると定時には棚が空になっていたという話が残っています。

井上の真骨頂、兵学校校長のエピソード

井上成美という海軍軍人が、記録ではなく記憶に残っているいちばんの理由は、海軍兵学校の校長時代のことだと思います。

兵学校は説明するまでもなく、海軍士官を養成する学校であり、戦前日本社会の超エリート校でもありました。

井上の兵学校校長就任は、海軍大臣の嶋田繁太郎が同期の桜の山本五十六に

大臣
大臣

井上君を校長にしたいんだけど、貴様は元部下だったよな?

と聞き、山本もいいんじゃねーのと答えた経緯でした。事実上の山本五十六の推薦ですね。

その話を南洋の島で山本から直接聞いた井上は、

井上
井上

ガキんちょの教育なんてできませんてw

と言っていましたが、実は実は…。

「海軍三羽烏」の一鶴として三国同盟に反対していた軍務局長のころ、

新聞記者
新聞記者

井上さん、今後はどんな役職に就きたいですか?

と聞かれた井上、教育に興味があると前置きしたうえで、

井上
井上

兵学校校長か練習艦隊司令官がいいね~

と答えています7。つまり、人材教育に前々から興味を持っていたということなのです。この話を知った上で阿川本を読むと、

筆者
筆者

嘘つき、ツンデレやん(笑

と思ってしまいます(笑

おそらく、山本五十六はこの話を海軍記者から聞いたか、雑談で本人から直接聞いたのかもしれません。

海軍兵学校

昭和17年(1942)10月26日、井上は兵学校校長に就任します。
当時は対米戦争のただ中にあり、生徒も周囲もいきり立っていました。そんな中、井上は兵学校の「改革」に取り掛かりました。
詳しいことはWikipediaや公式伝記(阿川本より兵学校校長時の話にページを割いている)を読んでいただきたいですが、一言で言えば「戦後」を見据え、「軍事学部」だった兵学校を「教養学部」に変えること。本人もそのつもりで、「普通学」と呼ばれた現在の大学でいう一般教養科目を増やしたと述べています。
それはなぜかを書き出すと、ここから何千何万字を費やす必要が生じますが、対米戦争前から

アメリカと戦争して勝てるわけがない!

という信念を持ち、上官にあたる大臣にも常日頃から言っていた井上にとって、この戦争は必ず負ける。軍人として国が「やれ」と言った以上口が裂けても負けるなんて言えないが、戦争は「終わる」ことを考えないといけないのと同時に、「終わった後」も考えないといけない
井上は若い彼らに「戦後」を託し、「終わった後」のための人材教育を施そうとしたのです。

兵学校校長としての井上の話で、個人的に好きで、かつ彼の性格が出てるな~という話が3つあります。

一つは、兵学校での英語教育。
戦争前の兵学校での英語の授業は、3年間で600時間以上ありました。日本海軍は良くも悪くも英国海軍を模範としており、専門用語もすべて英語。また、海軍士官は「軍服を着た外交官」という役目もあり、当時から国際共通語としての地位を固めていた英語を話せないと、外交官として役に立ちません。

しかし、戦争直前から英語は「敵性語」として世間では排斥が「奨励」されていました。世間は英語の排斥が行われ学校での英語の授業もどんどん削られていき、戦争が始まると授業そのものがなくなり、大学の英語の教授まで失業する始末でした。

ところで、後編で詳しく述べますが、英語排斥は国による命令とされています。が、実は国はそんなこと一言も言っていないし、文部科学省も公式に否定しています。政府はあくまで

政府
政府

やめて欲しいな~

「お願い」しただけだと。
そんなアホな!ディック・ミネもミス・ワカナも、銀座の老舗靴屋「ワシントン靴店」も

敵性語はけしからん!!💢

と改名させられたという、否定しようがない歴史的事実があります。
ところが…ちょっとそれには、我々もほんの去年か一昨年に経験した「からくり」があるのです…それは後編にて。

「英語が命」の兵学校も、井上が校長に就任した時には2年間で160時間に縮小されていました。その上、教官から

英語は敵性語なので入試科目から廃止しましょう!

という声が。試しに教官全員を召集して多数決を取ってみると、英語教師4人を除いた全員が賛成。
反対の方は?と尋ねると、その4人が申し訳なさそうに身体を小さくしながら起立しました。
その結果を踏まえ、

教頭
教頭

では、(廃止で)よろしいですね

井上校長
井上校長

よろしいわけなかろう!

と以下のように述べました。

兵学校は将校を養成する学校だ。およそ自国語しか話せない海軍士官などは世界中どこへ行っても通用しない。(中略)外国語を一つもできないような者は海軍には不要である。

井上成美伝記刊行会『井上成美』p388

俺の目が黒いうちは絶対不可と、校長の決裁で入試に英語が残ることになりました。
多数決を無視した校長の決断は、教官からも反発がありました。が、これは海軍の屋台骨にかかわる問題。そういう重要問題を安易に多数決で決めるものではないというのが、井上の考えでした。
なお、英語の入試・授業は終戦による廃校まで行われました。

二つ目の話は。
兵学校は通常、3年制でした8。その3年間で海軍軍人、海の男として立派な基礎的素養をつけさせていました。逆に言えば、入学まで海どころか海の魚すら食ったことがない田舎者9を海の男、エリートの卵に育てるには3年かかる、いや、3年でも足りないほどでした。

そんな中、東京の赤レンガ(東京の海軍省・軍令部をこう呼んでいた)から井上校長にある命令が届きました。

海軍大臣
海軍大臣

兵学校、2年に短縮するで~

この前にも3年→2年4か月に短縮の命令が届き、不本意ながら同意したのに…と井上さん、これには徹底的に反対します。一度こうだと思ったらテコでも動かない、井上の本領発揮です。
どんなに言っても首を縦に振らず、

井上
井上

そんなに2年にしたけりゃ、俺をクビにして兵学校校長を替えろ!

困った赤レンガ側は、昭和天皇の弟宮である高松宮殿下(海軍大佐でもあった)を派遣します。名目上は兵学校卒業式の天皇の名代ですが…

高松宮は卒業式の後、

高松宮
高松宮

短縮の件、どうにかならない?

とストレートに井上に聞いたところ、皇族の権威の笠を殿下に着させてイエスと言わせようとしてるな…という赤レンガの魂胆はお見通しのうえで、

井上
井上

そのお言葉、皇族(陛下の弟)としての発言ですか?それとも軍令部員としてですか?

もちろん後者だと答える高松宮に、井上は一言。

井上
井上

では(これ以上の短縮は)御免被ります、お帰り下さい

天皇の弟にも「ダメなものはダメ」と自説を貫くこの強さよ。
高松宮殿下だからこれくらいで済んだものの、一般将校なら

「貴公、大佐が中将に命令するのか?越権行為だ帰れ!!」

とすごまれていたでしょう。

そして最後の一つは、その卒業式の話。
兵学校の卒業式では、『蛍の光』の演奏とともに練習航海の船に乗り込むというのが恒例でした。『蛍の光』の原曲はスコットランドの民謡なのですが、それを

敵国の音楽だからやめましょう!

という「模範国民」が兵学校内にいたようです。

井上は、それに対し笑っていわく。

井上
井上

世界的名曲に敵も味方もあるか!!

この一言で廃止の話はおじゃんに。ちなみに、卒業式の『蛍の光』は海上自衛隊に引き継がれ、現在でも幹部学校の卒業式で流されている海自の伝統行事となっています。

井上は約2年間校長の座に就き、上述の通り1944年に海軍次官となり中央へ戻りましたが、その時教官に対し以下の決別の辞を送っています。

私は過去1年9ヶ月、兵学校校長の職務を行ってきたが、離職するにあたって誰しも良くいうように、大過なく職責を果たすことができたとは言わない。私の在任中の教育が良い評価を受けるか否かは、後世の歴史が審判を下すだろう

井上成美伝記刊行会『井上成美』p419

井上がこの言葉を江田島に残した約60年後…。
Yahoo!知恵袋がベータ版だった時か、正式版になって間もない頃、おそらく2004~2005年頃と記憶していますが、井上に関する質問があり私が答えたことがありました。
その時、他の回答者の方がこんな前置きをして回答していました。

私は井上校長時代に兵学校を卒業した者です。校長の薫陶は現在でも卒業生である私に息づいています

井上校長時代の兵学校卒業生なら、当時でも若くても「アラエイ」こと80歳前後。まだ私の中では「インターネット=若い世代がやるもの」というイメージがあり(当の本人が若かったこともありましたが)、こんな年寄りがネットで書き込みをするのか!という驚きと同時に、60年前の井上校長が蒔いた種が息づいていたことに、ほのかな感動を覚えました。「歴史の審判」は彼に微笑んだのです。

井上校長時代に薫陶を受けた兵学校生徒は、

・第72期生650名10
・第73期生900名11
・第74期生1,000名12
・第75期生3,500名13

彼らは終戦時でも10代後半から20代。のちに廃墟となった日本復興への機関車として、日本の政治経済、社会を牽引していく世代となります。
入学当時はガチガチの軍国青年で、校長は親米英派ということを聞き

生徒
生徒

校長は親米英の国賊なり!!💢

と憤っていた元生徒も、兵学校で井上がそれこそ命がけで行った一般教養教育が戦後にボディーブローのように効いてきて、人によっては10年後20年後に

元生徒
元生徒

校長の意図がようやくわかった!

と目が覚めたそうです。

兵学校校長としてのエピソードは、他にも「外国語教育者」としての側面もあり、私も外国語使いであるので興味深い内容が多く存在しています。が、これも書き出すと書く以上に読む方も(長すぎて)辛いと思うので、「このブログと後編が好評だったら」是々非々で書こうと思います。

NEXT:井上成美の戦後

  1. 『日本海軍 錨揚ゲ!』より
  2. 谷口尚真大将
  3. 知人に「水清ければ魚棲まず」と言われ「水清ければ毒魚棲まず」と言い返したことが実際にあった。
  4. その後で「でも米内さんは肝っ玉が違う」とほめている。
  5. 井上を快く思わない人の発言なので、明らかな皮肉。
  6. ただし、現役は大臣就任期間のみ。
  7. 杉本健『昭和史と海軍』
  8. 一時期4年制だったこともあり
  9. 食卓にイクラ丼が出てきて「海軍士官にこんな赤ガエルの卵みたいなもん食わせるのか!」と激怒した中尉がいたそうな
  10. 着任~卒業までの11ヶ月間
  11. 着任~卒業までの1年5ヶ月間
  12. 入学~離任まで1年9ヶ月間
  13. 入学~離任までの9ヶ月間

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