姫路モノレール-高度経済成長の置き土産

姫路モノレール 野良歴史家の歴史探偵
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■姫路を走っていたモノレール

姫路城

姫路といえば、世界遺産にもなっている姫路城が世界的にも知られていますが、姫路駅と姫路城を結ぶ大通りの喧騒から離れたところに、高度経済成長の置き土産と言える遺物が残っています。

姫路には、かつてモノレールが通っていました。
地元の人には「姫路(市営)モノレール」と言われていましたが、正式名称は「姫路市交通局モノレール線」というお硬い名前でした。以後は、書くのが面倒くさいので「姫路モノレール」と書くことにします。

そもそも、何故姫路にモノレールが作られのか。戦後の混乱から立ち直った昭和30年代後半、当時姫路市長だった石見元秀がアメリカ視察の際、ディズニーランドのモノレールに感銘を受けたらしく、

「我が市にもモノレールを!」

とハイテンションになったことが始まりでした。

昭和37年(1962)12月に手柄山を会場にした「姫路大博覧会」の開催と共に、姫路駅と会場を結ぶモノレールの建設計画を発表しました。
当然、モノレールは市長のごり押し。とにかく作りたいの一点張りで市議会でも予算が可決され、GOサインが出ました。
昭和30年代後半からは、言わずと知れた高度経済成長期。日本が右肩上がりの経済成長と遂げ、怖いもの知らずの時代でもありました。今風に言えば「日本無双」という感じでしょうか。
しかし、それにつれモータリゼーション、マイカーの数も劇的に増え、交通渋滞や排気ガスによる大気汚染も深刻な社会問題になっていた時代でもありました。
姫路市もその例外ではなく、その問題解決の一つとして作られたのが姫路モノレールでした。

市議会での可決と同時に国に建設の申請を出しますが、計画は姫路駅前~手柄山だけではなく、

姫路モノレール路線図
赤線が実際に開業した区間。青線が国に出した計画路線)

姫路市を南北に貫く、全長8キロの大規模な計画でした。当時から姫路市民からの反対もあり、自治省の偉いさんもこんなの採算取れるのかとかなり怪しんでいたそうですが、市長の熱意が通ったか翌年の昭和39年(1964)に国からのGOサイン(建設許可)が出ました。

姫路モノレール1966
(『姫路モノレール』より)

姫路市立図書館には、モノレールを製作した日本ロッキード・モノレール社が制作した宣伝用パンフが残っていました。簡易版と詳細版があるらしく、私が見たのは4ページしかなかったので簡易版ですが、その中には颯爽と市内を走るモノレールの想像イラストが。この絵の近未来感に、当時の人たちはワクワクしたに違いありません。鉄腕アトムの世界がこの姫路に!と。

しかし、市長はこれで満足しません。市内の環状線はもちろん、なんと鳥取や舞鶴まで伸ばすぞ!と意気込んでいたそうです。
鳥取とか舞鶴まで伸ばしてどないすんねん?全部各駅停車か?それってどんな罰ゲームやねん?と、今冷静に考えたらなんとも非現実的極まりないのですが、それだけ当時の日本全体がイケイケドンドンだったわけで、市長が妄想癖に囚われていたわけじゃありません。

ちなみに、前市長はこの市長の三男の方だったのですが、さすがにオヤジのモノレール鳥取・舞鶴延伸計画には、いやそれは無理やろと苦笑いしたと、現役市長時代にテレビで言ってましたね。

 

◆開業したものの…

昭和40年(1965)7月から、念願のモノレールの建設工事が始まりました。が、反対運動もあって用地買収が上手くいかず、姫路大博覧会開催の目玉のはずが博覧会初日に間に合わず、開業したのはその44日後翌年5月17日。
これだけでも何やら怪しいフラグが立ってしまったモノレールですが、姫路大博覧会開催中の時こそ1日平均5,830人、最終日の6月5日には24,000人の乗客を集めたものの、終了翌日から空気だけを運ぶことに。

理由は、たった2kmの路線では通勤・通学需要が満たせず手柄山も観光地としての魅力に欠けたこともあります。
が、おそらく最大の原因は、山陽電鉄や市バスどころかタクシーより高かった料金設定。姫路~手柄山が100円、ほぼ同じ区間の山陽電鉄姫路~手柄間は20円、バスが40円。挙句の果てにタクシー初乗りが30円…なんだこの貴族商売は(笑

当然、初年度から赤字垂れ流しの「武士の商法」。高い上に採算が取れないようなところに路線を敷いたら、赤字になるのは火を見るよりも明らか。しかし、イケイケドンドンの高度経済成長期、とりあえず作ってしまえ~!というノリだったんでしょう。

昭和42年(1967)の姫路市長選挙は、モノレールの存続か、それとも廃止かが主な争点となりました。
当然存続派の石見市長vs全面見直し派の戦いになりましたが、結果は現職市長の負け。
廃止派の新市長吉田豊信は、しかし早急の廃止を採らず、作ってしまったものは仕方ないのでどうにか活用できる手段を考える委員会を立ち上げました。
それでも良い案が出ることはなく、かといって廃線も多額の費用がかかると姫路市は袋小路に陥ることに。
それならばとモノレールの運賃半額という身を削るサービスを行ったものの、それでも同じ区間を走る山陽電鉄のほぼ倍ではほとんど焼け石に水。乗客は3割増えたので、効果なしではなかったのですが…。

昭和46年(1971)時点で累積赤字が7億6千万円に達し、赤字垂れ流しのモノレールの廃止が議会で採り上げられます。しかし翌年の47年では否決され、モノレールは首の皮一枚で存続となりました。もちろん、赤字垂れ流し状態で。
しかし、車両供給元の日本ロッキード・モノレール社が解散し部品の供給が絶たれたのを機に、昭和49年(1974)に交通局がモノレール休廃止案を提出。今度は採決され同年3月31日付(実際は4月10日)での運転休止が決まりました。

『姫路市史』によると、モノレール最終日は『蛍の光』が流れる中、吉田市長らを乗せ手柄山駅へ向かい、車体はそのまま構内に保管されました。
いったんは休止という建前になったものの、これは事実上の廃止を意味しました。正式に廃止となったのは、その5年後の昭和54年(1979)のことです。

『姫路市史』は、モノレールの項をこう締めくくっています。

『姫路市史より』「皮肉にも市営モノレールの廃止以降、用地取得の経費が少ない、自動車交通と併存を図りやすいといった観点から、優れた交通形態としてモノレールへの評価が高まり、大阪府など全国各地で建設が相次ぐことになる。

「俺たちの目は狂っていなかった。作るのがちょっと早すぎただけのことよ」と主張しているように見えますが、いやいや、失敗の原因はマーケティングを全くしていないからでしょうがと、最後の最後で負け惜しみの言い訳を放っているのがなんとも(笑

NEXT⇒姫路市内に残るモノレールの残骸を訪ねて

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