ひかりとのぞみー朝鮮・満州を走った国際列車

朝鮮を走ったひかりとのぞみ鉄道史

ひかりとのぞみ

東海道・山陽新幹線を走る「のぞみ」「ひかり」。東海道はすっかりのぞみ帝国、山陽も「さくら」の台頭で「ひかり」の存在感はどこへ行ってしまったのかという感がぬぐえない昨今ですが、まだまだ元気です、たぶん。

「ひかり」にはある一定の需要があります。それは外国人観光客。
外国人旅行者のための国際切符に、”Japan Rail Pass”があります。青春18きっぷを新幹線含む特急普通車乗り放題にしたような魔法のきっぷで、外国人観光客にいくら私鉄や公共地下鉄を勧めても頑なにJRにこだわるのは、実はこの切符のせい。
日本人としては妬みたくなるような特権ぶりですが、これ、一つ重要な落とし穴があります。「のぞみ」「みずほ」には乗車不可なのです。東北・北陸新幹線のグランクラスでさえグリーン車料金を払えば乗車可能なのに、「のぞみ」はデフォルトで熱烈不歓迎。何故かはわかりません。
その分、「ひかり」(こだまも含む)は外国人観光客にとって非常に有用な列車なのであります。我々日本人には存在感がすっかり薄くなっていますが、外国人様にとってはこれがなければ新幹線の価値がない。

また、世界に先駆けた”Shinkansen”の”超特急”として知らない人はいません。
「ひかり」は東海道新幹線東京~新大阪間が開通した昭和39年(1964)からの由緒正しい列車名で、高速鉄道、超特急の先駆けとしてふさわしい名前でした。
「のぞみ」が生まれたのは平成4年(1992)のこと。あれ?そんなに古かったのかと思ったのは私だけでしょうか。

しかし、戦前にこの「ひかり」「のぞみ」コンビが走っていたことは、鉄道好きな人以外には知られてないと思います。それも、当時の呼び名でいう「内地」ではなく、「外地」と呼ばれた大陸を走っていたことも。今回はそんな幻の国際列車のお話。

なお、本ブログの鉄道史における「外地」は、台湾・朝鮮半島・関東州(大連旅順)・南樺太を指し、満洲国は外国とします。満洲も現実的には「みなし外地」でしょうけど、、

 

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国際列車「ひかり」「のぞみ」

「ひかり」の歴史は、日韓併合(1910年)までさかのぼります。日韓併合に合せて朝鮮鉄道局(以下「鮮鉄」)が設立、翌年の1911年に新義州と安東1を結ぶ鉄橋が完成、長春まで直通する「鮮満直通急行」が運転されました2
明治45(1912)年6月、新橋~下関間に特急(列車番号1/2)が運転されます。それに合わせて関釜連絡線の運行時刻も改正され、さらに鮮満直通急行が釜山にまで延長されました。さらに翌年、運転区間を釜山より釜山桟橋に変更、関釜連絡船との接続が重視されたダイヤとなりました。

しかし、大正3年(1914)にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発、国際情勢の不安定と共にヨーロッパへの輸送が激減したため、同年9月15日から毎日運転から週1往復へ。これは後に、いつからかはわかりませんが、毎日運転に回復します。
鮮満直通列車は最初は1本だけだったのですが、のちに関釜連絡船の到着に合わせ、午前出発便と午後出発便の2本態勢となりました。これがのちの「ひかり」「のぞみ」の原型となります。

 

私が所有している最も古い大正14年(1935)の時刻表には、まだ名無しなものの、釜山桟橋駅を9:10と20:00に出発する長春(のちの新京)行き列車が確認できます。

昭和は大正後期からの慢性的不況から脱することができず、鉄道利用客も減少。鉄道局も「乗せてやる」スタイルではダメだと心を入れ替え、内地外地ともにサービス向上に務めるようになりました。
内地の特急に『富士』『桜』『燕』など愛称がついたのもこの時期で、鮮鉄もそれに合わせて、いや少し時期がずれるので、内地の評判を見て「看板列車」に列車名をつけたことが推定されます。

 

1934時刻表のひかりとのぞみ

昭和5年(1930)の時刻表ではまだ列車名を確認できないものの、昭和9年(1934)の時刻表には、「ひかり」と「のぞみ」の列車名が確認できます。Wikipediaには「ひかり」が昭和8年(1933)、「のぞみ」がその翌年に命名されたと書かれており、おそらく上の時刻表の頃に命名されたのでしょう。
なお、この当時の時刻表は、薄字が午前、太字が午後を表しています。後述しますが、現在の24時間スタイルになったのは昭和17年(1942)から。

しかし、何故2本の列車が必要だったのか。それは彼女らが「内地との連絡」を兼ねていたことから。上記の大正後期の時刻表を見ると、彼女らの釜山発車時刻が関釜連絡船に合わせていることがわかります。

戦前の日本の鉄道網は内地だけでなく、内地から外地への連絡もあり現在よりはるかにスケールが大きいものでした。「時刻表鉄」などは、昔の時刻表を見ながらかつての国際列車に乗る「想像乗り鉄」なんかをしていたことがあるのではないでしょうか。

戦前日本の内地と外地内地は島なので、外地へは連絡手段が必要となります。飛行機は大金持ちの中のさらに大金持ちしか乗れず、基本は連絡船で渡るのがポピュラーな移動手段。
特急や急行は連絡線と接続していることが多く、東京~下関間を走っていた特急『富士』や急行は、下関と朝鮮半島を結ぶ関釜連絡船に接続していました。
連絡船はかつて内地にあった青函連絡船や宇高連絡船と同様、鉄道院(国鉄)の直営事業として運営されており、所要時間は約7時間半でした。

 

戦前の朝鮮釜山港
船が釜山港へ到着後、目の前に停車している「ひかり」「のぞみ」に乗れば、朝鮮半島経由で大陸(満州)へ。そこからシベリア鉄道に乗ればヨーロッパへ。このルートが、当時の欧州への最短ルートでした。
歴史や鉄道クラスタには有名な話ですが、戦前は東京からベルリン・ロンドン・パリなど欧州主要都市への通し切符が売られていました。ロシア国内の混乱で長らく凍結されていたこのルートが、昭和2年(1927)以降に復活し3、日本から欧州への重要なルートとして鮮満路線はさらに重要視されました。

昭和9年(1934)当時の内地→朝鮮の連絡は、以下のようになっています。

朝鮮のひかりとのぞみ

釜山発の「ひかり」「のぞみ」の発車時間が関釜連絡船の到着時間に合わせられ、関釜連絡船も内地の特急や急行の下関到着時間に合わせたスケジュール。乗り継ぎはあるものの、東京から外地まで一本でつながっていることがわかります。

「ひかり」と「のぞみ」は、上記の通り昼夜逆転のダイヤとなっています。なので車窓も全く違ってきます。
「のぞみ」は朝昼に朝鮮半島を縦断し、開城(ケソン)に到着する頃(16:40)には冬ならもう真っ暗になっているはず。平壌(ピョンヤン)到着の頃(19:52)には夏でもすっかり暗くなっているでしょう。
「ひかり」は逆に夜に朝鮮半島を突っ切り、夜が明けるのは平壌着(7:39)の手前あたりとなります。車窓の風景はそこから奉天(16:20着)まで、地平線まで高粱畑が広がるいかにも大陸ということを視覚で感じさせる光景が見えたに違いありません。

 

満州国の首都新京駅
そして、「ひかり」が滑り込む新京のホームの横には、ソ連経営である東清鉄道の満洲里(ロシアとの国境)やモスクワ行きの列車が控えていたそうです。
昭和10年(1935)には、経営意欲を失ったロシアが東清鉄道を満州国に売却4。軌間がロシア式の広軌だったのを標準軌に突貫工事で変更。9月1日よりハルピンまで直通運転が開始されました。しかし、「ひかり」がハルピン行きとなったのは、戦争中の昭和17年(1942)のことでした。

 

「ひかり」「のぞみ」の詳細

ひかりのぞみ運転区間

両列車の詳細は、さすがは鮮鉄の看板列車だけあったか、鮮鉄のパンフに写真が残っています。

 

鮮鉄(朝鮮鉄道)パンフ「あかつき」

写真こそ鮮鉄ご自慢の特急「あかつき」ですが、「ひかり」「のぞみ」も名前が並列されています。

 

戦前に朝鮮ひかり

朝鮮旅行案内記よりひかり

最後尾にはオープンデッキの展望車が連結されていたことが、この写真からわかります。「ひかり」の文字も展望車に埋め込まれているので、まさに専用車両。「のぞみ」にも展望車が連結されていたことが、当時の資料から判明しています。

 

朝鮮と満洲を走ったひかりとのぞみ

こちらが「ひかり」の一等展望車。

 

朝鮮の急行ひかりのぞみ

こちらは食堂車。「ひかり」か「のぞみ」のどちらかは不明ですが、食堂車は共通だったと推定されます。

編成については、定かではありません。鮮鉄の史料に残っている割には、何両編成かなど記載がないのです。
ただ、『大日本帝国の海外鉄道』(小牟田哲彦著)に掲載されている「のぞみ」の写真は、途中で途切れているものの、少なくても8両編成であったことは確かなようです。「ひかり」も同様であったと推測できます。

停車駅は、「ひかり」より「のぞみ」の方が停まる駅が多くなっています。
「ひかり」は下り・上り共に朝鮮半島を深夜にぶっちぎるせいもあると思いますが、朝鮮内は大邱・大田・京城・開城・平壌など主要駅にしか泊まりません。種別は急行ですが、停車駅だけなら特急に等しい扱い。
対して「のぞみ」は逆に半島内は昼間~夕方に通るので、そこそこ細かく停車する文字通りの急行。現在の東海道・山陽新幹線の感覚だと

逆じゃね?

と違和感を感じますが、そこは内地からの特急と連絡し、列車番号もNo.1/2というエース番号を戴いた「ひかり」の方が列車として優等だったのです。おそらく軍や政府の偉いさんも乗っていたのでしょう。

 

満州事変及び満州国建国以降は、内地と外地・満州国への人の流れが多くなり、もっともメジャーであるこのルートも多くの人で賑わったことは想像に難くありません。
昭和11年(1936)には釜山~京城間の高速列車「あかつき」が、昭和13年から14年(1938-39)にかけて釜山から北京を結ぶ「大陸」「興亜」が運転され、時刻表もこの時期が鮮鉄のもっとも華やかだった時でした。

 

「ひかり」「のぞみ」の最期

順風満帆な両列車も、否応なしに戦争に巻き込まれていくこととなります。

 

朝鮮のひかりとのぞみ

昭和17年(1942)の時刻表では(この年から時刻が24時間制となっている)、「ひかり」「のぞみ」は健在ですが関釜航路は「省略」となっています。
これは米軍潜水艦による攻撃を避けるために時刻が「軍事機密」となっているため。青函連絡船も同時期に同様の措置がとられています。
が、

連絡列車の発着時刻を見ると、大まかなスケジュールはわかってしまうやん。日本人は律儀やから余計に時間通りに運航しようとするし。

と思っていたら、『時刻表昭和史』で宮脇俊三も同じことを思っていたようです。
昭和17年までは比較的余裕のあった鉄道輸送も、翌18年より内地も外地も万事すべて軍事優先とな旅客輸送は後回しに。内地では2月に『鴎』が、10月に『燕』が廃止となり、「特急」という呼び名も廃止となりました。
外地でも鮮満輸送は貨物ばかりとなり、人の流れ自体も減ったことにより昭和19年(1944)に廃止となりました。

 

朝鮮の鉄道のひかりとのぞみ

昭和19年の時刻表を見ると、確かに「のぞみ」は消滅し鮮満直通は「ひかり」のみとなっています。残った「ひかり」も停車駅が激増、急行・国際列車という威厳は食堂車と寝台車のみという無残な姿へ。
その「ひかり」は終戦直前、少なくても8月9日のソ連の満洲侵攻まで走っていたそうですが、その最期を知る者はいません。

 

韓国ソウルの義王鉄道博物館のひかり展望車
(画像提供:motoryama7011f様

なお、両列車に使われていた展望車は、のちに韓国の大統領専用車となり、現在はソウル近郊にある「義王鉄道博物館」に保存されています。

 

戦前に走っていたひかり

こうして比較してみると、戦後の改造も小規模で済ませているのか、かなり面影があるなという感じを覚えます。コロナが明けたら是非とも現物を見に行ってみようと思います。

「ひかり」と「のぞみ」は、鮮満という当時の日本の外地の屋台骨を走ったカップル急行。しかし、戦争で彼らの運命は引き裂かれ、そして消滅。

「また来世で一緒になろうね…」

二人はそう誓い合い、戦争に散っていきました。

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