長谷川清-いぶし銀の海軍名提督

長谷川清海軍大将台湾総督歴史エッセイ

旧帝国海軍軍人数多しといえども、歴史に名を残し誰でも知っている人となると、ほんの一握りとなります。誰でも知っているといえば、東郷平八郎や山本五十六といったところでしょうか。

もちろん、海軍の軍人のほとんどは、地味ながら職務に忠実に励み、人知れず海軍を去ったり、あるいは戦死や殉職しています。
その中でも、東郷や山本ほどの知名度もないものの、いぶし銀のように鈍く輝く名脇役的な人もいたことは確かです。本日は、そんな海軍提督の話を。

なお、今回は姉妹ブログである「台湾史.jp」との自作自演コラボで、本日の主役を二部構成にしていきたいと思います。

 

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海軍軍人としての長谷川提督

長谷川清台湾総督

海軍軍人としても、山本五十六のような知名度や派手さはないですが、上述したように豚骨スープの豚骨のような脇役として、海軍史の表舞台にひょっこり顔を出します。

長谷川清は、1883年(明治16)福井県に生まれました。

海軍軍人を目指し海軍兵学校を受験、兵学校第31期として入学を果たします。陸軍もそうですが、旧帝国軍人を語る時は、「海兵(陸士)第○期」というのが非常に重要になってきます。

特に陸軍と比べて世帯が小さい海軍は、同期どうしの横のつながりが親兄弟以上に強く、彼らの性格や軍歴を語るに「同期に誰がいたか」「近い先輩後輩に誰がいたか」、そして「卒業した時の国内・国際情勢はどうだったのか」がけっこうキーポイントになってきます。多感な時期を海軍という一種の特殊環境で育った彼ら、周囲の環境にけっこう影響されることが多いのです。

長谷川の第31期の周囲には、

第28期:永野修身(元帥)左近司政三(中将)
第29期:米内光政(大将)、高橋三吉(大将)、藤田尚徳(大将)、など
第30期:百武源吾(大将)
第31期:長谷川(大将)、及川古志郎(大将)
第32期:山本五十六(元帥)嶋田繁太郎(大将)吉田善吾(大将)堀悌吉(中将)など

けっこうな重要人物揃いですが、一般常識的には山本五十六しか知らない、知ってても永野か米内の名前くらいをうーん、なんだか聞いたことあるような…という程度だと思います。長谷川清のみであれば、32期の山本五十六の一期上、つまり一年先輩ということで覚えておくと便利です。

特に面白いのが、長谷川と同期の及川古志郎。この人は「君子提督」と呼ばれ、中国古典の知識・教養はヘタな学者以上。人格が非常に温厚で…と書けば聞こえはいいけれど、一枚めくれば八方美人の決断力なし。
平時、つまり何事もなければそれでもトップが務まるのですが、日本が滅びるかどうかの重要な局面に入った時に、よりによってこんな人が海軍大臣になってしまったのが日本の運の尽き。
海軍史から昭和を紐解けば、東条英機や嶋田繁太郎以上のA級戦犯じゃないのかと個人的には思っていますが、その凡庸さが逆にアメリカに看破され、無視されています。
ただし、人格は「良い人」だったらしく、及川の全人格、全キャリアを否定した井上成美大将を除けば、ほぼ全員「めっちゃ良い人」という評価を下しています。

 

昭和16年、第二次近衛内閣の首相近衛文麿が、戦争への流れを止めようと「海軍のせい」にしようとしました。
近衛文麿は、「天皇の前で足を組める唯一の男」と言われたほど、血筋は非常によろしい。が、政治家としては及川以上の決断力ゼロの男でした。おまけに、イヤなことはすべて他人に丸投げ。責任逃れと逃げの早さは名人芸でした。

いつだったか、彼の孫の細川護煕氏が総理になったことがあります。紆余曲折の上途中で内閣を放り投げ、細川内閣が崩壊した時も、

さすがは近衛文麿の孫!DNA半端ねーwww

と政治評論家に鼻で笑われていたことは、覚えている人は覚えているでしょう。

アメリカとの戦争決断も、自分のせいにされたくないので、

ぼ、僕は(戦争)反対だったんだけど、海軍がどうしてもというから仕方なく。ぼ、僕は悪くないんだからね!

という流れにしようと企みました。
しかし、及川も及川で、

戦争するかしないかは海軍が決めることではない。首相に一任しますわ

こちらも負けじと首相に丸投げ。逃げに走ってしまいました。
海軍(及川)にボールを投げ海軍に全責任を押し付け、

僕何も知らないもんね~ww

となるはずがとんだブーメランになり進退窮まった近衛は、結果的に

もう麻呂は総理やるのイヤじゃ

とちゃぶ台をひっくり返し総辞職。次の総理は近衛内閣で強硬に戦争を主張していた東條英機へ。そして真珠湾へ。。。と。

「なぜ『海軍は戦争できません!無理ゲー!』と言わなかったのか!海軍がそう言えば、アメリカと戦争できなかったじゃないか!」

と、及川は戦後に元部下たちからボロカスに批判されます。特に井上成美大将からは一言の反論も許さないほど理路整然と責められ、後世の歴史家からは

井上さん、あなたの言ってることは300%正しいけど、さすがに言い過ぎ

とドン引きしたほど。私も、こんな理路整然としたきれいな「罵倒」ってこの世に存在するんだと。

実は、実権を握っていた陸軍中堅もそう望んでいたようで、

「頼む海軍さん、『戦争できません』と言ってくれ!」

とお願いモードだったものの、及川はこの通り。日本の運命の瀬戸際にこんなトップが二人じゃ、日本もこの時すでに「どうしようもなかった」のです。

ちなみに及川は、後でもう一度出てきます。「すご~~く良い人」だった故にあちこちの要職に就いた、昭和海軍史のキーパーソンだったのです。

ちょっと余談。
及川が旧制盛岡中学の学生だった頃、ある後輩の文学センスに目をつけかわいがっていました。及川が兵学校へ進んだ際も、

こいつを頼む

と他の後輩に託したといいます。その後輩が、のちに歌人となる石川啄木です。逆に石川啄木は、及川の影響で文学の道に進んだとも言われています。

その石川啄木を、

男のクセになよなよしやがって!

といつもしごいていたのが、同じ下級生だった板垣征四郎陸軍大将。のちに石原莞爾と共に満州事変を起こした陸軍軍人です(陸士16期。戦後、東京裁判にて絞首刑)。日本は狭そうで案外広いですが、日本史の人のつながりは広そうで案外狭いのです。

海軍兵学校を卒業すると、ふつうは練習艦に乗り込み近海や海外への練習航海を1年以上行い、その後少尉という士官の最下位の階級をもらうという流れでした。この流れは、今の海上自衛隊も全く同じです。
しかし、彼が卒業した当時はロシアとの戦争は不可避の状況。のんびり練習航海している場合ではないと端折られ、即軍艦勤務となります。

その後すぐ、あの日露戦争が起こりました。

 

日本海海戦三笠艦橋の図(東城鉦太郎画)

日露戦争の日本海海戦の有名な絵があります。一度は見たことがあると思いますが、この絵の正式な名前って知っていますか?
正式には『三笠艦橋の図』と言い、東城鉦太郎という戦争画を得意とする画家の絵です。

 

三笠艦橋の図と長谷川清少尉

中心にいる東郷平八郎の後ろで、器具(測距儀)を覗き込んでいる人…実はこれが当時の長谷川清少尉でした。
ペーペー少尉が戦艦、それも旗艦の『三笠』に乗っているということは、この時点で将来を嘱望された、かなり優秀な人材だったということです。

戦艦『大和』や『長門』などの花型の戦艦には誰でも乗れたわけではなく、成績優秀な人でないと勤務できませんでした。それは水兵・士官問わず同じ。
もし祖父や曽祖父が『大和』『長門』などの戦艦に乗っていた人としたら、胸を張って良いほど成績超優秀という目安です。成績が悪く前途非有望な人が花型の戦艦に乗ることは、ほぼありえません。

長谷川が優秀だったという証拠は、彼が駐米武官になったことからもわかります。
海軍では、海軍大学校の成績が優秀であれば、ご褒美に海外留学や駐在を得られます。が、自由に行ける国を選べるわけではなく、成績によって赴任する国が決まっていました。トップクラスが英米。次にフランスくらい。他は…まあドサ回り。
長谷川は駐米日本大使館付きの軍人トップの武官に就任していることからも、将来性のある優秀な人材だったということです。

 

山本五十六と長谷川清
その長谷川の武官の後任が、山本五十六でした。上は長谷川(右から二人目)と山本(左端)が一緒に写っている珍しい写真で、海軍礼装を着ていることから、1924年(大正13)に武官職を引き継ぎアメリカ海軍省を訪れた際の記念撮影でしょう。二人の間に挟まっているアメリカ人は、当時の海軍長官(海軍大臣)でした。

昭和11年(1936)、中国に常駐する第三艦隊(のちの支那派遣艦隊)司令長官に就任します。就任直後に中華民国の軍のトップと会談を行い、礼節ある態度だと絶賛されました。
その1年後に日中戦争が起こったので、お互い敵どうしになるのですが、長谷川を責める敵将官は皆無だったと言います。

珍しい映像があります。

上海での海軍の軍艦旗掲揚(朝8時)のシーンなのですが、10秒後に出てくる軍服を着た偉いさんの最前列真ん中の人って、もしかして長谷川清司令長官じゃね?と、ネット上のマニアックな人の間でずっと言われていました。
映像の時期は不明ですが、顔の輪郭から間違いないと思います。もし確定であれば、現存するこの世唯一の動く長谷川の映像ですね。

 

ところで。

須賀彦次郎

その時の部下に、須賀彦次郎という少将(死後中将)がいました。
いつもヨボヨボの服を着て、事あるごとに杖をついて中国人と飲み歩く。その姿から「仙人提督」と呼ばれていました。
海軍には珍しい、「支那屋」と言われた中国情勢のスペシャリストで、あまりに中国勤務が長いために、たまに日本に帰ってくると、

須賀さんは『日本に出張に来てる』んだよ

と言われていました。
しかし、中国に対する洞察・見識は海軍一。
「敵」のはずの中国の将軍から「先生」と呼ばれ、「戦争相手」のはずの敵の偉いさんが、須賀先生のお願いならとの極秘情報を提供してくれる。ついには「敵の手によって」、人徳を称える銅像が建てられたといいます。

その仙人提督ですが、「大名士」と呼ばれた「迷提督」でもありました。
海軍の隠語で「名士」という言葉があります。
これは立派な人ではなく「奇人変人」という意味です。海軍には「名士列伝」という本が作れるほど変人提督がけっこういたのですが、それに輪をかける「大名士」は、海軍の歴史の中でも3~4人しかいません。
山本五十六もイタズラ好きで「名士」っぷりエピソードが多いのですが、「大」はつきませんでした。

仙人提督は、酒の席でテンションが上がると、必ずやらかすことがありました。
宴席で、須賀がいなくなったと思ったら、部屋の障子がビビビという音と共に濡れ始める。

須賀さん、またやりよった!

一同、呆れ笑い。仙人提督は、酒が入ると所構わず、誰彼構わず「小」をするクセがあったのです。上官にも平気で「小」をぶっかけたり、お皿に「小」をして撒き散らす。
「小」だけではありません。ご機嫌がいいと、「大」までやってしまうのです。

こんな「大名士」が少将にまでなっただけでも不思議ですが、よくもまあクビにならなかったと。それはやはり、中国に対する見識・情報力が他に替えられない、オンリーワンの人材だったからでしょう。

須賀仙人提督の人生から得られる歴史の教訓は、

「組織内のオンリーワンを極めれば、上司に小をひっかけてもクビにならない」

ということでしょうか(笑)

 

閑話休題。

昭和16年(1941)、海軍の軍令部のトップ(軍令部総長)に君臨し続けた大ボス、伏見宮博恭元帥が引退します。世間はいざアメリカと戦争だ!という空気になっており、戦争反対だった海軍首脳も、その空気に戦争は不可避と腹をくくりつつありました。

さて、辞任した総長の後任をどうするか。当時の海軍大臣及川古志郎大将が、井上成美中将(当時航空本部長)に尋ねます。

次の総長は誰がいいと思う?

井上はぶっきらぼうに、

長谷川さんが適任です。でも台湾総督なので無理でしょうね。なら、最先任(最先輩格)の永野(修身)さんでいいんじゃないですか?
あの人自称天才ですから、話振ったらすぐ食いつきますよ。

結果論ですが、これが海軍を、日本を滅ぼすことになってしまったのです。
結局、永野修身が次の軍令部総長になったのですが、彼は昭和天皇も呆れたほどの「対米戦争賛成派」。いや、「対米戦争狂」と言っても過言ではありません。

昭和海軍最強の事なかれ主義者と対米戦争狂が海軍のツートップになる。海軍だけではなく日本にとって最悪最凶のメンツが、こんな国の瀬戸際に揃ってしまう。ドリフの大爆笑であれば「だめだこりゃ」で済むのですが、何せ1億人の国民を背負った国ですから。

長谷川をそこまでして軍令部総長にするメリットは一つ。アメリカとの戦争を避けるため。対米戦争も断固反対。キャリアも十分なので、対米戦争賛成派を黙らせることが出来る。そう踏んだようです。
井上も戦後の回想で、

誰もが戦争戦争と狂っていたあの状況で海軍トップを任せられたのは、山本(五十六)さんか長谷川さんしかいなかった

と述べています。

結果的に、「長谷川軍令部総長」は実現しませんでしたが、もし実現していたら台湾総督は辞めないといけない。そうなると「皇民化政策」が強化された可能性すらある。もしかして、台湾は今ほど親日ではなかった可能性すらある。

海軍がおかしな方向へ向かった分、台湾へメリットが回ってきたという歴史のいたずらです。

時代は流れて昭和20年。敗戦の色がだんだんと濃くなってきた日本は小磯国昭内閣が倒れ、鈴木貫太郎内閣が成立しようとしていました。
海軍省ナンバー2の次官になっていた井上成美は、米内光政海軍大臣を次の内閣でも続投させる算段でした。目的は終戦一本。この戦争をどう終わらせるか。
しかし、当時の米内には健康不安がありました。その後の話ですが、日本が滅ぶか否かの崖っぷちのストレスと激務で、最高血圧が220~260。ふつうの人なら死んでまっせと医者が驚くほど、健康状態は最悪でした。機会があれば、昭和13年(1938)と20年(1945)の米内の写真を見比べて下さい。げっそり痩せてまるで別人です。
事実、米内は「海軍の葬式」を執り行った後、精根尽き果てたかのように亡くなります。
「この世にそんな血圧あるのかよ…」
そう思っていた私は先年、血圧240オーバーに遭遇。「脳内出血5分前」と医者に真顔で言われた危機を経験しましたが、まさか米内と同じ血圧になろうとは…と。

米内本人も、そういった健康不安もあり、次の大臣就任を断ろうとしました。
しかし、
「国が滅びるかどうかの瀬戸際の大臣は、米内さんでないとダメなんだ」
という、井上の信念がありました。

そんなある日米内は

長谷川を呼べ!

米内は体調の限界もあり、長谷川なら終戦という路線を継いでくれるだろうと見越し、次の大臣に推すつもりだったのでしょう。

台湾総督を勇退して帰国していた長谷川が、海軍省にやって来ます。

長谷川:大臣の話か?

井上:そうです

長谷川は、次にこう言います。

米内さんでないとなぜダメなんだ

井上は、そうなんですよ、米内さんがうんと言わないんですよと訴えると、わかった、僕からも米内さんに言っておくと大臣室へ入っていきました。
結局、鈴木内閣でも米内が引き続き大臣を務め、日本史の「ラスト海軍大臣」となったことは歴史の通り。

この時の長谷川の態度を、井上は戦後に大絶賛しています。目の前に大臣という餅が転がっているのに、それを拾わず「断る!」と。なかなか出来るもんじゃないよ。あの時の長谷川さんは実に立派だったと。

井上成美という人は、戦後に「海軍大将の格付け」を行って内外に賛否両論の議論を起こしました。及川や永野は当然「三等」でしたが、井上の手にかかると東郷平八郎でさえ「三等」でした。まあ、東郷の最晩年を見ると確かに「国賊」ですけどね。

その井上が「無条件のベタ褒め」、または「ボロカスに酷評しなかった」のは、山本権兵衛、加藤友三郎、米内光政、そして長谷川の4人だけ。
「これからは飛行機の時代」という航空主兵論、戦争反対の「同志」だった山本五十六でさえも、大将としての見識は100点満点だったものの、近衛文麿首相に言った「とある有名な発言」でマイナス100点と大減点でした。

海軍大臣を断った長谷川は、ある日宮中に呼ばれ昭和天皇から命令を受けます。
「今の海軍の状況、見てきてくれない?見てきたことを嘘偽りなく報告して欲しい」

内地・外地をくまなく視察し帰ってきた長谷川は、天皇に報告します。
「もうダメですわ。戦争やめた方がよろしいかと」

陸軍の将軍(梅津美治郎大将)にも同様の命令をしていますが、もうダメっすという返事は同じ。これで、天皇の肚は決まったと言われています。

そしてそのまま戦争が終わるわけなのですが、長谷川は故郷の福井に帰り、余生を過ごします。

彼の孫(次女の子供だったはず)に、『ウルトラマン』シリーズの演出も手掛けたことがある映画監督の実相寺昭雄氏がいます。
初代『ウルトラマン』なら、悲しい怪獣ジャミラの回の監督・演出として有名で、「ウルトラマン」の中でも「なんだかこの怪獣、やっつけるのは心情的に忍びない」と思ってしまう怪獣が実相寺ワールドなんだとか。

彼がある映画を撮る時、祖父のもとを訪ねます。映画作成のアドバイスかと思いきや、

じいちゃん、小道具に使いたいから勲章貸して!

長谷川も快く貸したそうですが、映画の協力者だった円谷英二が、

陛下からいただいた勲章をそんなに簡単に貸してくれるのか!

とビックリしたそうです。

1970年(昭和45年)9月2日、87歳で長谷川は世を去りますが、死去を聞きつけた旧日本海軍の軍人や、果ては台湾からお悔やみの電報や訪問者が訪れたと伝記に書かれています。

歴史を調べる時、表に出てくる人物を知るだけでは何もわからないことが多いです。戦国時代は織田信長一人が動かしたわけでもなく、江戸幕府は徳川家康一人で築き上げたわけではありません。

歴史の主要道路から一本離れた脇道に住むご隠居が、実は幹線道路のキーマンだったりすることが、歴史の勉強ではよくあることです。長谷川も、台湾史だけでなく昭和史ににおいてそのうちの一人に違いありません。

 

 

 

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