
兵庫県丹波篠山市にあった遊郭、通称「京口新地」にあった「大正楼」…とされる元妓楼。

かの阿部定も娼妓として働いていたことで、一躍有名になりました。

残念ながら崩壊の危険があると2019年に解体され、数年間の更地を経て現在はアパートが建っています。
「大正楼」、それホントに「大正楼」?
しかし、敢えて読者の方々に問いたい。

ここ、本当に『大正楼』?
そうだという人に冷静に問いたい。

では、その根拠は?
たぶん、wikiに書いてる、テレビでそう言ってたという答えが出てくるでしょう。
が、紀和駅や美章園、南海天王寺支線の幻の駅など、Wikipediaなどに記載された「事実」とされた事柄を一次史料で何度も全否定し、時には米沢福田遊郭のように「準公文書」である市史にまで喧嘩を売ってきたことがある私からすると、Wikipedia丸呑みは危険です。

Wikiに書いてあった!ソースも付いてる!
ブログ記事によっては、そのソースとなっている書籍・雑誌など出版物、つまり「ソースのソース」を実際に見て裏を取ることもあります。すると、

なんか論拠が弱いな…
と思うことも多々あります。
ひどい時になると、ただの筆者の主観だったり(笑
「大正楼」は本当に「大正楼」なのか?
いつかは忘れてしまいましたが、以前、性地巡礼愛好家(遊郭・赤線跡探索好き)のオフ会で、ある方からこんなことを言われたことがあります。

あの『大正楼』、『大正楼』ちゃうかもしれへんで…
それをあなたの調査で証明してほしいからと、ある史料を渡されました。
もちろん、ネットなどには全く出ていない、どこからこんな古文書ほじくり出してきたんやという一次史料です。
それが大正5〜6年(1916〜1917)と思われる京口新地の地図、厳密に言えば妓楼配置図。
どこにどこの貸座敷(妓楼)があったか、一目瞭然です。

オリジナルは提供者様との約束でネットで明かせませんが、それを元にしてGoogleマップに反映させた妓楼がこれ。
青は本編で登場した妓楼です。
なお、その地図によると「大正楼跡」には何もありません。
ここでお気づきでしょう。

あれ?大正楼の場所違うくね?
そうなのです!大正楼、場所が違うのです!
以下、
①一般的に「大正楼」と言われている元妓楼を「大正楼A」
②妓楼配置図にある「大正楼」を「大正楼B」
とします。この続きを読むだろう読者の皆さんは、この区別を頭の中で整理し、明確にしておいて下さい。
まずは根本的な疑問。
「大正楼A」がなぜ「大正楼」と断言できるのでしょうか?
あるという自信のある方は、エビデンスを示して下さい。たぶん、出せる人はいないと思います。
しかし、自分なりのエビデンスというか、たぶんこれが発信源やろなというものは見つけたので、後述します。
こんな動画があります。
タイトルは「篠山京口新地大正楼は本当にこの建物だったのだろうか?」
動画主の方は2008年(私の訪問の1年後)に訪問した時、見た目80過ぎだという村の古老に

これが大正楼や
と教えられた場所があります。
それが実は、「大正楼B」があった場所。
そう、私所有の一次史料とばっちり一致するのです。


ここが、主様が古老に大正楼の場所と教えられた所とのこと。

写真左隣は、現役の時は「大正楼A」よりデカかったと思われる「旭楼」です。
この北側に「大正楼B」があった…これも当時の地図と一致します。
だから、古老の言ったことは間違いがないことは、エビデンスと照合しても信憑性が高い。
これで決定!「大正楼A」は「大正楼」ではない!
…とそうは問屋が卸さない(笑)
さらに史料批判をしてみると、このエビデンスもちょっと怪しいのです。

うちの京口新地編を見た後に本記事を見たらわかりますが、この地図だと「細見楼」「萬花楼」の場所が違うのです。
大正5年の配置図が正なら、上の2つの妓楼は矢印の赤枠の場所にないといけない。
「細見楼」「萬花楼」が赤枠の位置なのは、戦後の住宅地図の居住者と赤線時代の業者名簿との照合から、99%間違いありません。
この地図と現実のズレが解決しない限り、絶対的エビデンスとは言えないのです。
たかがブログでここまで史料批判すな!お前のブログは論文か!となりますが、こうやって疑いながら掘り進める方がおもろいやん(笑)
しかし、数々の史料を照らし合わせた結果、ある仮説に辿り着きました。
「大正楼」に関する2つの仮説
仮説① 「大正楼」移転説
まず考えたのは、「大正楼」はBから、定説となっているAに移転したということ。
これ、実例があります。

カフェー建築で有名なあの建物(細見楼)は、実は遊郭内で移転しています。
明治44年に開業した細見楼は、大正2年に別の人の名義になり青枠の位置に移転しています。
そして、おそらくですが後年に赤枠へ再移転したんじゃないだろうかと。
こういう例があるので…

「大正楼」も赤■のBから、赤●のAへ移転したんじゃないだろうか。
これは細見楼という実例があるのでアリエールな話。
しかも、「細見楼」「萬花楼」が史料と場所が違うという説明もできます。
ただ、これは「『大正楼A』が真の「大正楼」である」という結論ありき。
これ、論理としては危険です。
「そうなんだ!」と突っ走ると「思いて学ばざればすなわち危うし」と孔子様に叱られます。
ここで、もう一度原点に戻りましょう。

では、なぜここが大正楼となったのか?
上のYoutuberの動画のコメントに、こんなものがあります。
私が地元のおばさんの情報を基に、ウィキペディア「阿部定」に大正楼として出した写真が、間違いのもとになっているのかもしれません。
YoutubeランドホームTV様の動画コメント欄より
Wikipediaの大正楼の写真のアップ日を見てみると、2010年の7月。
その前の月の雑誌『実話ナックルズ』に、『赤線跡を歩く』の木村聡氏がコラムを書いているのですが、そこで「ここが大正楼だと思われる」と写真付きで掲載しています。
木村氏はそのルポで、1987年刊の『はじめての愛 あべ定さんの真実を追って』(丸山友岐子著)を引用しています。
(飛田新地の)『百番』は角店で、交差する道路に当たる一角をズバッと切り落として玄関にしていた。これは遊郭特有のつくりだと思う。(中略)定が女郎から足を洗った丹波篠山の大正楼も、そのようなつくりであった。
『はじめての愛 あべ定さんの真実を追って』(丸山友岐子著)
丸山氏は実際に京口新地へ向かい、「大正楼と思われる建物」の主人から短時間ながら話を聞いているので、まんざらデタラメを書いたわけではない。
が、木村氏はそれでも、「大正楼だったと思われる」と文中で言葉を選んでます。彼とて断定しているわけではないのです。
これはある意味正解。私も実書、つまり木村氏のコラムのソースである『はじめての愛〜』を読んでみましたが、なんだか論拠が薄い感がします。だいいち「交差する道路に当たる一角をズバッと切り落として玄関にし」てる建築、「遊郭特有のつくり」でもなんでもないし。
あと、「大正楼」の主人も、当時は他の場所へ奉公へ出ていて阿部定を直接見たわけではない。
これだけで、文中に著者の主観が入ってることがわかるでしょう。
でも、読む方にそんなニュアンスはわからない。
しかも上の建物をデカデカと載せられた上に、「遊郭・赤線巡りのパイオニア」(私もこの人の本をきっかけに「性地巡礼」を始めた一人)のお言葉という権威がついたら、そりゃ私だって「大正楼」だと勘違いします。
そして、それを見たうP主様がWikipediaに載せた…と勝手に推測しています。
その後、そこから尾ひれがついて、「大正楼A」が「大正楼」であると「確定」してしまったんだと。
仮説② 「大正楼分店」または「第二大正楼」説
この仮説は、「大正楼A」が「大正楼B」の支店説です。端的に言えば「大正楼」は2つあったということ。
商売が儲かると同じ廓内に「支店」を開くことは、遊郭史を調べているとよくあることです。
それは「第二●●楼」などの屋号になりますが、東京の吉原や大阪の松島クラスの大遊郭になると第三・第四まである店もあり、商売繁盛よろしいでんな〜と思うこともあります。
私に資料を託された方の仮説もこれで、私も上のYoutube(の中の古老の発言)や残っている資料を見て、こっちの方が信憑性が高いと推測しています。
論拠① 「大正楼A」と「大正楼B」の住民は同じ苗字
その論拠の一つは、戦後の地図。
実は、「大正楼A」と「大正楼B」の居住者の苗字は同じ、しかも下の名前から兄弟または息子の可能性があるのです。
論拠② 昭和21年の営業許可証
SNSにこんな興味深い書き込みがあります。
昭和21年(1946)に篠山警察署長発で発行された、「大正楼」の営業許可証です。
営業形態は「特殊飲食店」、つまり赤線のお店ってことね。
許可証に書かれている地番(住所表記の番地とはまた違うので注意)は●77-4。
実はこの地番、「大正楼B」の方なのです。「大正楼A」の地番は●79-26。
お役所発行の公文書なので、これは間違えようがない。
そして、これから9年後の昭和30年(1955)の赤線業者名簿では、「大正」の名前は1軒だけ。
残念ながらその名簿には住所がないのですが、上の許可証の地番の店、すなわち「大正楼B」の方なのは疑いようがない。
実は、「大正」の店主と同じ苗字の人が違う屋号で営業しているのですが、もしかして「分店」の方が戦後は屋号を変えて営業したとか!?
この営業許可証が戦前だったら確定なのですが、戦後だからね…。
そこから導き出される仮説をまとめると…
①「大正楼B」の楼主が京口新地内に支店(「大正楼A」)を作った
②「本店」であるBは長男が継ぎ、「支店」のAは次男が継いだ
③戦後、Aは「大正」を名乗らず、赤線時代の「大正(楼)」は一つだけ
(※赤線時代の業者名簿から確認済)
④赤線廃止後もそのまま居宅として住み続けた
⑤それがン十年後の地図に反映された
もちろん、私個人の仮説にすぎませんが…
仮説②だと、古文書の「大正楼B」の場所もYoutubeでの古老の「これが大正楼や」も、『はじめての愛 あべ定さんの真実を追って』の記述も、上の「地元のおばさん」の情報もすべて正しいで大団円。
説としてはこちらがスッキリするのですが、いかがでしょうか。
正直、これ以上深掘りできる史料がなく、打ち止め状態ではあります。
が、「大正楼」のミッシングリングを埋める何かの史料があれば、これは定説、いや歴史がひっくり返るかもしれません!?

どうせみんな書いとるし、「大正楼」ももうないし、今さらブログ書いても誰も見ーひんやろ…
とサラッと終わらせたはずの京口新地。
京口新地ミステリー、「大正楼」がなくなってもまだ「おいしい部分」が残ってそうです。
さて、もう一掘りしてみるか。




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