阿部定と飛田新地の「御園楼」

阿部定と飛田新地と御園楼関西地方の遊郭・赤線跡
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阿部定と飛田新地

夜の飛田新地

大正時代に颯爽と誕生した飛田新地。「現代の遊郭」として現在も健在な遊里の一つですが、元号が大正から昭和に変わった1927年頃、その飛田に流ちょうな東京の下町言葉を話す一人の女が流れてきます。
彼女は当時の飛田で一流妓楼の筆頭とされている「御園楼」で、「園丸」という源氏名で働くことになります。

 

阿部定
(Wikipediaより)

彼女の本名は阿部定。かの阿部定事件の本人です。当時22歳。
彼女の前借金は当時の2,800円と記録にありますが、「飛田遊廓の沿革」によると阿部定とほぼ同時期の飛田遊廓の遊女の平均前借金は約1,500円、最高は「巴里」にいたという”巴弥”の4,800円。阿部定の前借金は平均の倍近く、遊女としては「上玉」だったことが伺えます。

彼女は、飛田時代のことをこう書いています。少し長いですが引用します。

 

「御園楼」は、当時大阪で一流でした。私も売れて※三枚と下りませんでした
その頃から、私は客を相手にするのが厭でありませんでしたから、抱主からも可愛がられて御園楼では面白く働きました。一年位経った頃、ある会社員の客が私を落籍してくれることになりましたところ、その人の部下も私の客であることが判ってその話は駄目になり、客から勘忍してくれと言われ金を貰った事がありました。それで、少し腐っているところへ紹介屋から話があって、翌年早々23歳の時、名古屋市西区羽衣町の「徳栄楼」に借金2600円で住み替えました。ここに移る時は、その抱主は丸ぽちゃの可愛らしい女を希望していたそうです。
私は面長でどちらかと言えば伝法肌の女であり、紹介屋から是非抱えて呉れと頼まれて抱えることになったらしいのです。当時、その事情を知らない私は抱主が内儀さんに仕方なく抱えたんだ、名前などは何でもいいと話しているのを耳にし、私を抱主が気に入らぬのなら気に入らせて見せるという気になり、貞子という源氏名で一生懸命働きました。
それから売っ子になり可愛がられるようになりました。

※売れっ子ナンバースリーから下がったことがない、という意味

引用:阿部定の尋問調書より。原文はカタカナ混じ

阿部定といえば、阿部定事件の猟奇的なイメージしかありません。が、手記を見るとけっこう頑張り屋さんなんやな、ということがひしひしと伝わってきます。彼女が数々のオスを惹きつけたのも、フェロモン以外にも上記の面があったからだと感じます。男って理屈抜きでこういう女を応援したくなるんですわ(笑

飛田ではなかなかの売れっ子になり身請け話も出たそうですが、ここまでが阿部定の娼妓人生のピークでした。
その後、逃走などのトラブルを繰り返した挙句、1年後に飛田から失踪。ここから彼女の人生は坂を転げ落ちるように下降線をたどり、全国各地を逃げるよう転々とすることになります。
なお、飛田より失踪後、一時松島遊郭にもいたことがありました。本人の供述によると「都楼」に2000円の前借金で勤めていたとありますが、松島遊廓が公式に発行した昭和8年(1933)時点貸座敷一覧を見ても、「都楼」なるものは存在しません
もちろん、経営者が変わり他の屋号に変わった可能性もありますが、阿部定がいた時から数年しか経っていない資料なので、その可能性は低いかなと個人的には思います。
「都」という名前がついた貸座敷は、花園町にあった「古都楼」のみ。さて、これは阿部定の記憶違いか嘘をついたか、或は資料が間違っているのか。

 

御園楼はどこにあったのか?

さて、阿部定がいた「御園楼」はどこにあったのか?

昭和16年(1941)の大阪市内の電話帳によると、当時の住所で住吉区山王4-23とあります。

 

飛田百番

遊郭建築を堪能しながら食事ができる「百番」は、山王4-25で掲載されています。つまり、「御園楼」は「百番」のすぐ近くにあったと。阿部定も「百番」の前身の妓楼を毎日眺めていたのかもしれません。

昔の番地付き地図などを駆使して調べた御園楼の場所は!

戦前の飛田新地

「山王4-23」はここ、確かに『百番』と目と鼻の先のご近所でした。
御園楼の周囲には、明らかに規模が大きな建物が4軒確認できます。当時の飛田で「特大見世」と呼ばれた大見世のことで、「世界楼」「日の本楼」「中央(旭楼?)」、そして『御園楼』。あの『百番』が小さく見えませんか?

 

御園楼

『日本歓楽郷案内』にあった御園楼の写真です。下の写真で御園楼の電話番号(戎五八八)も判明しますが、こちらを昭和初期の電話帳と照合すると!

阿部定がいた御園楼飛田
(『京阪神職業別電話名簿. 昭和9年9月』より)
「0588」と写真と一致します。写真の方は古い番号、つまり写真自体が古いようです。

この御園楼、戦後すぐの航空写真で確認すると、23番地はきれいさっぱりな更地と化していました。おそらく昭和20年3月の空襲で焼けたのだと思います。その後、昭和31年(1956)の住宅地図でも更地のままなので、戦後は復活しなかったか、楼主が別遊里に移動したのでしょう。

 

阿部定飛田御園楼跡

御園楼があった場所は現在、駐車場となっています。

 

明治時代からの新聞の遊廓関連記事を丹念に探すという、気が遠くる作業をコツコツやっていると、「御園楼」にまつわるある事件が見つかりました。

モルヒネを注射して娼妓二名を殺し自殺 
予備少尉の料理屋の息子が勤務演習の帰りに

静岡県沼津市の料理屋の息子向笠定吉(23)は29日午後3時頃、飛田遊廓御園楼武藤重治方へ登楼、飯田きく(22)横浜出身と柳川ふじ(22)の両名を挙げて遊興したが、30日午前3時頃定吉は二人にモルヒネ注射をした後、匕首(あいくち)で喉を突き刺して即死させ、自分も心臓を突き刺し自殺を企てたが死にきれず病院へ収容。
娼妓二名は震災(※関東大震災のこと)で横浜をのがれ、沼津で芸者となった時にきくと定吉が出会ったが、恋仲となった二人の結婚を親が許さずきくが大阪に行った後もしばしば会っていたが、前途を悲観しきくの妹分のふじも同情して三人の合意心中となった。
大正15(1926)年8月31日 大阪朝日新聞より

遊廓をめぐる心中事件は、新聞記事をあさるとたまに見つけます。大正15年は大正天皇が崩御し「昭和元年」になる年、阿部定が飛田の御園楼に流れつくのは昭和2年、この事件は彼女が飛田に来る直前に起こった事件でした。

 

飛田新地の歴史(通史)はこちらをどうぞ!

コメント

  1. 定マニア より:

    「阿部定正伝」に、笑福亭笑鶴師匠(6代目?)が、飛田遊廓で阿部定と・・・という記事が、昭和51年の女性週刊誌に掲載されていたことが書かれていました。経歴を見ると、確かに遊廓遊びをされていたようです。場所は当然御園楼だと思います。その女性週刊誌、なんとか見れないものかなあ・・・とあれこれ探していますが、未だに実現できていません。この笑鶴師匠も正確には何代目なのかもハッキリさせたいところです。

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