紀和駅と駅名の由来-かつてここは和歌山駅だった

紀勢本線紀和駅歴史 野良歴史家の歴史探偵

和歌山県和歌山市。かつてここには、「和歌山駅」がありました…
いや今でもあるのですが、現在のJR和歌山駅のことではありません。

 

南海電鉄和歌山市駅からJR和歌山駅まで、東西に一本の線路が走っています。地元住民か鉄道好きのお友達以外、使う機会はほとんどないというほど存在感が薄い路線ですが、ここは何を隠そう紀勢本線。
亀山から紀伊半島を縫うように和歌山に至るあの紀勢本線、常識的に考えれば終着駅は和歌山だと思うことでしょう。しかし、紀勢本線はまだ先へ続き、和歌山市駅が本来の起点終点なのです。

 

JR和歌山市駅と105系

現在の和歌山市駅は、和歌山との間を2両の電車がのんびり往復するローカル線の起点と化しています。が、かつては新宮や白浜、いや亀山名古屋への列車がここから発車していたと言うと、何人が信じることやら。
昭和50年代の和歌山駅で、「和歌山市-新宮」というサボ(行先標)を掲げた旧型客車を阪和線の電車から見たことがある私にとっては、それは紛れもなく血が通った現実ですが、現在の姿を見ても想像もできないでしょう。

それどころか、想像のさらに上をゆく列車も走っていたのです。

急行大和サボ和歌山市
和歌山県立博物館ブログ様より)
昭和37年からわずか5年間だけでしたが1、東京行きという鉄道マニアが胸躍らせそうな列車(1両だけでしたが)も走っていたことは、端っこで申し訳なさそうに存在するホームを見ると、到底信じられまい…2
和歌山市駅に停車している寝台車の貴重な写真は、

急行大和

http://okazu1945.moo.jp/simoda/yamato2.htm
に掲載されています。

 

南海急行きのくに

東京行きはさすがに記憶にないものの、南海の難波駅から急行「きのくに」が市駅から紀勢本線に乗り入れ白浜や新宮へと向かっていたことを、私はリアルタイムで見ています。
平成生まれの間ではそれすら伝説扱いらしいのですが、それが伝説であれば、東京行きは日本鉄道史における恐竜の化石の如しでしょうね。

 

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■紀和駅、その栄光と衰退

傍点をつけて強調しないといけないほど存在感が薄い紀勢本線・・・・の市駅~和歌山間、その存在感と歴史を象徴するような途中駅があります。途中にある紀和駅です。

 

紀和駅と105系

現在は、高架化されたとは言え片面ホームだけの無人駅ですが、ここがかつて全和歌山県の駅、「和歌山駅」の大看板を背負っていたことは今や昔。

 

初代紀和駅
(Wikipediaより)

紀和駅は明治31年(1898)、私鉄の「和歌山駅」として開業し、同40年に国有化され国鉄の駅となりました。敷地面積から、国もここを拠点に和歌山のターミナル駅を構築しようとした痕跡がうかがえます。
が、場所が悪かったか、国の戦略が甘かったか、後に開業する南海の和歌山市駅にすぐ玄関口の座を奪われ、後発の東和歌山駅(現在の和歌山駅)にすら抜かれてしまう場末の駅となってしまいます。

 

紀和駅東和歌山駅乗降客数

戦前の和歌山市主要駅の乗車客数(一年あたり)の統計を見ると、和歌山市・東和歌山駅がどんどん上昇に対し、和歌山駅は昭和2年をピークに下降線をたどっています。
上表にはありませんが、貨物取扱量も大正12年(1923)と12年後の昭和10年(1935)を比較すると、半分に落ち込んでいます。数字的な戦前のピークは、大正末期と断言しても良いでしょう。
だが、戦前を通して「和歌山駅」の大看板を他駅ほかに譲ることはありませんでした。和歌山駅は和歌山駅のものだったのです。

前述したとおり、現在市駅~和歌山駅間をピストン輸送する電車だけが走っています。

昭和42年時刻表紀勢本線和歌山市

ところが、昭和42年(1967)の時刻表を見ると、和歌山市駅から南紀方面に多くの列車が運行され、様々な行き先の列車が行き交う賑やかな路線だったのです。他にも、現在は和歌山駅発着の和歌山線の列車が市駅を拠点にして運行されていました。
それどころか、和歌山駅始発の列車も存在していたのです。今の姿からは到底信じられません。くどいようですが、当時の「和歌山駅」は紀和駅のこと。「東和歌山駅」は現在の和歌山駅であります。

 

かつての紀和駅は、ホームだけでも2面3線の設備を持ち、大量の乗客をさばける始発駅としての設備と貫禄を十分に備えていました。

戦後すぐの紀和駅
初代の駅舎は空襲で焼けたと多くのサイトに書かれているのですが、この戦後すぐの写真を見ると焼けてはいないようで、建築当時の姿をそのまま残しています。

 

紀和駅旧駅舎
(Wikipediaより 2003年の姿)

では、高架化されるまえのボロボロ駅舎は、いつ建てられたものなのだろうか?
改築されたという情報もあるものの、それにしては初代駅舎の面影も残して居らず、建て替えられたと思われます。
外見のオンボロさとは裏腹に、構内はゆったりとした余裕のあるスペースを保っていました。改めて旧駅舎の写真を見てみると、屋根がかなり高い位置にあり、それだけでも相当広々と感じることができたと思います。

 

紀和駅航空写真1947
(昭和35年航空写真より)

構内には機関区や客車区、いわゆる車庫も併設されその敷地もかなり広くとられていました。駅舎と比較してもその広さがわかることでしょう。それだけでも駅の重要性がわかります。

時刻表にある昭和42年の時点で、人の流れはすでに和歌山駅に移っていたものの、「和歌山駅」という大看板はまだ所有していました。
ところがこの翌年、70年守ってきた看板を東和歌山駅に譲ることとなり、ステーションビルが作られた和歌山駅への人の流れは決定的となりました。

紀和駅と改名された後の凋落は、急速に進むこととなります。
ここにあった客車・機関区も、数年後には「新」和歌山駅の方へ移転。人の足もすっかり途絶えた紀和駅は、市街地の中の「死骸駅」と化すことに。

 

下のブログに、昭和55年(1980)の姿が残っています。

駅は昭和60年(1985)に無人駅となったので、まだ荷物扱いや難波からの急行「きのくに」の急行券なども扱う有人駅だった頃のもの。

無駄に思えるほど広い敷地に木造の跨線橋、「つわものどもがゆめのあと」と詠んでしまいそうな、草が自然に生えるにまかせた機関区跡、和歌山駅・・・・だった風格を残した駅舎とホーム。
「和歌山」という大看板を外され、生気を抜かれたような姿が遺影のようで(白黒写真なので余計に)、在りし日の紀和駅の賑わいを知っている人は涙を禁じ得ないかもしれません。
小さな乗り鉄だった私は、この姿の頃の紀和駅に立ち寄ったことがあります。記憶が正しければ、上記ブログと同じ頃のはずです。
天王寺駅や難波駅のような貫禄を持ちながら、乗客が誰一人おらず、華やかさなど全くなし。駅が歩んだ歴史など知らないガキには、ただ寂寞として薄気味悪かったことだけが記憶に残っています。

 

国鉄が消滅しJRとなった後も、しばらくはその枯れた姿を留めていました。その姿はまるで死体が放置されるが如く。

紀勢本線紀和駅

が、そのまま朽ち果てるかと思われた2008年、高架化と同時に駅舎は現在のようにミニマムなサイズになりました。雑草が生え放題だったかつての車両基地も公園となり、地元住民のウォーキングコースとして第二の駅生を歩んでいます。
利用者数という現実を照らし合わせると、現在の紀和駅は贅肉を削ぎダイエットに成功した姿ともいえます。それは筋肉質ですらある気がします。

が、紀和駅がほんのわずかに放っていたいぶし銀を知っている人間から見ると、駅員もいない、線路一本ホーム一本だけの「スリムさ」は骨と皮だけの姿にしか見えないのかもしれません。

以上、一連の紀和駅史をTwitterで軽くツイートしたところ、

だから駅の周辺が広いんだ!

というツイートがチラホラと。高架化される前の紀和駅を知らない若い地元の人のコメントでしょう。そうか、もうそれすら知らない世代もいるのか…と隔世の感を禁じ得なません。

NEXT⇒紀和駅の名前の謎
  1. いわゆる「ヨン・サン・トオ」で廃止
  2. http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/1980313-353d.htmlによると、市駅はかつて二面二線だったらしい。

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