池田新地(大阪府池田市)|遊郭・赤線跡をゆく|(2025年12月改訂)

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北摂にあった唯一の遊郭赤線、池田新地 遊郭・赤線跡をゆく

大阪の北部にある池田市。隣に兵庫県と車のダイハツの本社が控える所です。
ベッドタウンとしては地理的に申し分ない位置ですが、知名度はさほどでもなく、バブルの放漫財政のせいで大阪府のお荷物まで言われた時期もあったそうです。
あと、府民には「池田銀行」というローカル銀行があった場所としても有名だった所です1

生まれも育ちも泉州の私にとって、府内の真逆の位置にある池田は閑静な住宅地というイメージ。そんな土地と「赤線」という言葉が全く結びつきません。
「池田にまさか~」という感じですが、確かに赤線は存在していたのです。

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池田新地の歴史

池田市の歴史は意外に古く、平安時代から呉服(くれは)と呼ばれた荘園があった地域で、江戸時代には堺と並ぶ日本酒の一大産地でもありました。関西の酒所といえば神戸の灘ですが、池田には現在でも地酒を作っている酒造があります。

大阪池田の銘酒呉春

そのせいか、池田の花街の歴史は案外古く、明治の初期に「めん茂楼」「みやこ楼」などの料亭・旅館が建ち始め、明治31年(1898)には芸妓の検番も出来たといいます。

そこからの経緯は不明ですが、昭和9年(1934)から『大阪府統計書』に池田新地の文字があらわれます。

芸妓数(人)遊客数(人)消費金額(円)
1934328,56753,025
1935469,03753,062
19364019,237104,257
19373910,04854,178
1938258,66347,479
1939288,94752,217
1940248,67048,738
出典:『大阪府統計書】

数字だけの規模としては小さい方で、市内にあった同じ花街の南陽新地や曾根崎新地はもちろん、泉州の岸和田花街をも下回ります。
その中でも、昭和11年(1936)だけ、遊客数と売上がなぜか爆上がりしているのですが、理由はわかりません。

そんな池田花街ですが、戦争による贅沢や享楽が締め付けられ、ついに昭和18年(1943)には法律でおおっぴらに営業が不可能となりました。
それと入れ違いなのか、大阪府の資料には陰で売春行為を行う小料理屋があったと書かれています。それと花街の関係はわかりません。が、この売春行為を行う小料理屋が、今回の主役「池田新地」の母体と推定できます。

赤線の成立、そして廃廓へ

そして終戦直前から戦後にかけ、戦争で焼け出された大阪他の遊郭の業者が若干数池田に移ったようで、戦争中から存在した在来の小料理屋と共に「池田新地」を形成しました。
そしてそれがのちの赤線となります。

池田の赤線はだいたい14~16軒の業者で推移し、彼らは「池田新地かなめ会」という同業者組合(ギルド)を作り、売春防止法施行による解散時には、約70名の女性が働いていたそうです。

売春防止法が施行され、大阪の赤線は転廃業に向けて着々と準備を進める中、当時の新聞によると池田新地はかなり抵抗したそうで、完全施行である4月1日ギリギリまで営業を続けると息巻いていました。
が、各赤線・青線が解散する中、昭和33年(1958)の3月1日、池田新地も他と歩調を合わせる形で赤い灯を消すことになりました2

そこで問題なのは、その赤線がどこにあったかということ。戦後の赤線青線ルポ『全国女性街ガイド』を見ると、確かに池田に赤線があったことが書かれています。が、

「池田はアチラさん名残の町だけあり、70名ほどいる女性は美系が多く」

『全国女性街ガイド』

とほんの1行。ほとんど「その他の赤線」扱い。池田のどこにあったかなんてどこにも書かれていません。しかし、「アチラさん」とは何か?やはり花街が変形した赤線なのか?
と思ったら、大阪府の資料にその場所が書かれていました。

池田に赤線があったのは、地味なせいかほとんど知られてない謎多き赤線。これは貴重な資料かつ情報。たぶん当時の建物は残ってないだろうな…といつもながらあまり期待せず、とりあえず行ってみることにしました。

池田の赤線を歩く

池田新地があった綾羽1丁目〜3丁目

池田の赤線は、池田駅から北に延びる道路の先にある綾羽1丁目〜3丁目にあったと記載されています。

地図だけ見るとこんなところに赤線なんかあったの!?というような場所ですが、資料にはここにあったと書かれている。それも当時の店の名前まではっきりと。
まずは実地主義、とりあえず百聞は一見に如かずといざ旧赤線地区へ。

資料によると、池田の赤線は他の所とちょっと違った特徴がありました。それを箇条書きすると、

・住宅地に出来たこと
・地区は限定されているとは言え、住宅地に散在していること

赤線というと、基本は特定のエリアに集約されているのが常識です。が、池田の場合は上の地図で囲んだ道筋、つまり特定のエリアであることは確かなのですが、資料を見てみると店が道に沿ってズラリと並んでいるわけではない。一つポツン、そしてまた一つポツンと島のように存在しているのが特徴。

前述のとおり、池田新地は戦前~戦争中に小料理屋が自然に集まってそこで隠れ売春が行われていたエリアで、元は私娼窟だったようです。
戦後になり、豊中の大阪国際飛行場を接収したアメリカの進駐軍の要請で一般の家を改築し、空襲で焼け出された、遊郭経営のノウハウがある別遊郭の業者などによって「赤線」と化しました。
私娼街から赤線へ…というのは「玉の井型」と分類して良いのか、東京にあった「玉の井」のように、「アングラ」から「表」になったタイプの一つです。戦前からあった遊廓からではない「戦後新設型赤線」ともいえます。

大阪にあった赤線の一つ、池田新地
2025年12月撮影

こちらが池田新地の入口。この奥に紅い灯が照っていたなんて、現在を見ても想像がつきません。

大阪池田市、北摂の唯一の遊郭赤線新地

今の「綾羽」地区です。
今は何の変哲もない住宅街…なのはどこの赤線跡も変わりません。ホンマにこんなとこに赤線があったのかと首を傾げたくなるくらい、ごくフツーの住宅街です。
しかし、資料にあった地図を見るとこの道筋なことは間違いなし。とりあえず地図とにらめっこしながら散策してみました。

大阪池田市、北摂の唯一の遊郭赤線新地

そのごくフツーな家やアパートの間に、いかにも古そうな建物が残っていました。地図と家の位置を見比べると、この建物は「二勝の家」と書かれた店と位置がピッタシ一致。この家の古さからして、たぶん赤線時代の生き残りかもしれません。
(2025年12月再調査。現存せず)

大阪池田市、北摂の唯一の遊郭赤線新地

かつて「中魚治」という店があった場所です。
建物からして赤線時代の建物ではなさそうですが、敷地はそのままアパートと店になっているようです。なんだかビミョーに面影がありそう!?
(2025年12月再調査の結果、現存)

大阪池田市、北摂の唯一の遊郭赤線新地

ここは呉服くれはという名の店だったそうで、赤線廃止後は小料理屋に転業したと。そう言われると、小料理屋の形といえばそうかもしれない。

大阪の赤線、池田新地に残る赤線時代の建物

こちらも2025年12月現在、現存しています。
隣にあった建物がなくなり側面が丸見えになって、はじめてこの店にかなりの奥行きがあることが判明。しかも、昔の住宅地図によると横が小路になっていて、奥にも何かのお店があった模様(赤線とは関係なさそう)。

大阪池田市、北摂の唯一の遊郭赤線新地

資料によると、「池田新地」の組合事務所があった場所です。

大阪池田市、北摂の唯一の遊郭赤線新地

入り口がやけに奥まっている上に、玄関が二つあるのにも注目。どうやら構造的に「その後」はアパートにでも転業したようですが、今でも現役のアパートな様子でした。
(2025年12月再調査の結果、現存せず)

大阪池田市、北摂の唯一の遊郭赤線新地

赤線があった道を一つ外れると、人一人通れるかどうかの細い道があります。ここあたりにも一軒あったらしいのですが、前の建物がそうかどうかはわかりません。
2025年再調査の結果、画像正面の建物はシロでしたが、その手前の道筋に「綾羽」という店がありました。赤線廃止後は旅館に転業したことが住宅地図でも確認できます。

資料によると「一般家屋を改良した」店が多かったらしく、カフェー建築とかのように明らかに「それ」とわかるものがこの「池田新地」には極めて少ないようです。

大阪池田市、北摂の唯一の遊郭赤線新地

懲りずに、当時の地図を頼りに建物を求めて歩いていると、かつて「初音」という店があった場所にこんな建物がありました。地図によると隣にはもう一軒店があったそうですが、残念ながら駐車場と化していました。
(2025年12月再調査の結果、現存しています)

「池田新地」の地図を見ると、一軒だけポツンと、それこそ孤島の如き店がありました。「大和屋」という名前の店なのですが、まるでハグレ一匹狼のように孤高に(?)あるこの一軒、たぶんもう建物自体は残ってないだろうとダメモトで行ってみると…。

池田新地

そこにそれらしき建物(?)がありました。たぶんリフォームはされているような感じがするのですが、玄関が二つあるのと、玄関の妙な斜め具合が私のアンテナをビビビと反応させています。

しかし、再調査の結果はこちらは関係なし。
「大和屋」はもう少し東側にあり、ここから3軒くらい跨いだ家あたりがそうだったのではないかと。

そして、資料にはこういう記述もありました。

「この新地に接続して小料理屋の密集地帯が数カ所あって相当の顧客を吸引しており、(以下略)」

大阪府の資料より

ということは、池田の赤線(綾羽地区)に隣接して「青線」もあったのかもしれません。その跡もあったらラッキーと探してみたのですが、如何せんそこまで詳しく書いてるわけでもなし、周囲を探してみても痕跡らしきものは見つからず。「青線跡」探しは諦めることにしました。

神社に残る池田新地の残滓

伊居太神社と池田新地

赤線跡の突き当たりに、伊居太神社という、漢字をどう読んでも「いけだ」とは読めない神社があります。
南部にある呉服神社こと「下の宮」と対をなし、「上の宮」と地元では呼ばれています。
特に何の変哲もない神社ですが、本殿の入り口に一対の狛犬があります。

伊居太神社の狛犬。池田新地寄贈

ふつうの狛犬なので素通りしてしまいそうなのですが、この奉納者の名前を見てみると!

伊居太神社の狛犬。池田新地寄贈

「池田新地」の文字がくっきりと読み取れます。狛犬は新地が奉納したものだったのです。

「拾周年記念
昭和三十年六月吉日
池田新地組合」

と書かれており、池田が赤線だった頃の時に奉納されたものです。
「拾周年」とは池田新地ができて10年ということで、それが昭和30年ということは、池田新地は昭和20年にできたということが、これで間接的に証明されたということで。昭和20年とは戦争中か、それとも戦後すぐのことか。
池田には戦争前から花街がり、資料には確かに「戦争中にあった」との記述があるものの、

ほぼ期待せずに行ってみたものの、わずかながら痕跡はあったようです。赤線がなくなり60年以上経つものの、諦めずに探せばまだ「つわものどもが夢の跡」は見つかるかもしれません。そこは「遊郭・赤線界のインディージョーンズ」の腕の見せ所ですが、それより金と時間が欲しい(笑)

他の大阪の遊廓・赤線記事はこちら!

  1. 現在の池田泉州銀行。
  2. 『大阪日日新聞』昭和33年3月1日付。飛田、松島なども同日転業。
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