池田新地(大阪府池田市)|遊郭・赤線跡をゆく|

関西地方の遊郭・赤線跡
注意!

本記事は、2010年8月にアップした前ブログの記事を移転し、大幅リライトしたものです。
掲載されている建物は残っていない場合がありますので、ご注意下さい。

大阪の北部にある池田市。隣に兵庫県と車のダイハツの本社が控える所です。ベッドタウンとしては地理的に申し分ない位置ですが、知名度はさほどでもなく、バブルの放漫財政のせいで大阪府のお荷物まで言われた時期もあったそうです。
あと、府民には「池田銀行」というローカル銀行があった場所としても有名だった所です1

生まれも育ちも泉州の私にとって、府内の真逆の位置にある池田は閑静な住宅地というイメージ。そんな土地と「赤線」という言葉が全く結びつきません。
「池田にまさか~」という感じですが、確かに赤線は存在していたのです。

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池田新地の歴史

池田市の歴史は意外に古く、平安時代から呉服(くれは)と呼ばれた荘園があった地域で、江戸時代には堺と並ぶ日本酒の一大産地でもありました。関西の酒所といえば神戸の灘ですが、池田には現在でも地酒を作っている酒造があります。

そのせいか、池田の花街の歴史は案外古く、明治の初期に「めん茂楼」「みやこ楼」などの料亭・旅館が建ち始め、明治31年(1898)には芸妓の検番も出来たといいます。

そこからの経緯は不明ですが、昭和9年(1934)から『大阪府統計書』に池田新地の文字があらわれます。

芸妓数(人)遊客数(人)消費金額(円)
1934328,56753,025
1935469,03753,062
19364019,237104,257
19373910,04854,178
1938258,66347,479
1939288,94752,217
1940248,67048,738

(出典:『大阪府統計書』)

数字だけの規模としては小さい方で、市内にあった同じ花街の南陽新地や曾根崎新地はもちろん、泉州の岸和田花街をも下回ります。
その中でも、昭和11年(1936)だけ、遊客数と売上がなぜか爆上がりしているのですが、理由はわかりません。

そんな池田花街ですが、戦争による贅沢や享楽が締め付けられ、ついに昭和18年(1943)には法律でおおっぴらに営業が不可能となりました。
それと入れ違いなのか、大阪府の資料には陰で売春行為を行う小料理屋があったと書かれています。それと花街の関係はわかりません。が、この売春行為を行う小料理屋が、今回の主役「池田新地」の母体と推定できます。

赤線の成立、そして廃廓へ

そして終戦直前から戦後にかけ、戦争で焼け出された大阪他の遊郭の業者が若干数池田に移ったようで、戦争中から存在した在来の小料理屋と共に「池田新地」を形成しました。
そしてそれがのちの赤線となります。

池田の赤線はだいたい14~16軒の業者で推移し、彼らは「池田新地かなめ会」という同業者組合(ギルド)を作り、売春防止法施行による解散時には、約70名の女性が働いていたそうです。

売春防止法が施行され、大阪の赤線は転廃業に向けて着々と準備を進める中、当時の新聞によると池田新地はかなり抵抗したそうで、完全施行である4月1日ギリギリまで営業を続けると息巻いていました。
が、各赤線・青線が解散する中、昭和33年(1958)の3月1日、池田新地も他と歩調を合わせる形で赤い灯を消すことになりました2

そこで問題なのは、その赤線がどこにあったかということ。戦後の赤線青線ルポ『全国女性街ガイド』を見ると、確かに池田に赤線があったことが書かれています。が、

「池田はアチラさん名残の町だけあり、70名ほどいる女性は美系が多く」

『全国女性街ガイド』

とほんの1行。ほとんど「その他の赤線」扱い。池田のどこにあったかなんてどこにも書かれていません。しかし、「アチラさん」とは何か?やはり花街が変形した赤線なのか?
と思ったら、大阪府の資料にその場所が書かれていました。

池田に赤線があったのは、地味なせいかほとんど知られてない謎多き赤線。これは貴重な資料かつ情報。たぶん当時の建物は残ってないだろうな…といつもながらあまり期待せず、とりあえず行ってみることにしました。

NEXT⇒池田の赤線跡を歩く
  1. 現在の池田泉州銀行。
  2. 『大阪日日新聞』昭和33年3月1日付。飛田、松島なども同日転業。
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