福田遊郭(山形県米沢市)|おいらんだ国酔夢譚|

山形県米沢の遊郭赤線東北地方の遊郭・赤線跡

山形県米沢市。山形県南部にあるこの町は、伊達家によって町が形成され、戦国時代に伊達晴宗がここを本拠地にしました。晴宗の孫である伊達政宗も米沢で生まれ、ここをホームタウンに戦国の世を動き回りました。   米沢上杉

江戸時代に入り上杉景勝がここに転封されて以降、米沢は上杉氏の領地として明治時代まで続きました。特に「成せば成る」の9代目藩主上杉鷹山(治憲)が有名なところです。
そういう意味では、戦国時代ファンにとっては聖地に等しい胸熱の街ではないでしょうか。 今回は、そんな米沢にあった遊郭の話です。

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米沢の遊里史

上杉景勝が新米沢藩主として転封されてきた頃には、すでに「遊女屋」が存在しており、「揚屋三軒、遊女十三人」と記録にあります1。また、温泉地である赤湯にも、「湯女」と呼ばれた今風に言えばソープ嬢のような私娼がいたそうです。やはり温泉地と遊女は切っても切れないようです。

そして寛政7年(1795)11月、藩令によって遊女屋が禁止されます。正式に禁止になったということは、それまでは特にお咎めなしだったと解釈できます。 寛政7年と言えば、上杉鷹山公が隠居はしたけれど藩政を預かっていた時で(鷹山と名乗るのはこの7年後)、遊女屋禁止令も鷹山公による藩政改革の一環だったのかもしれません。

そして近代に入り、明治6年(1873)置賜県(当時)の貸座敷及び娼妓取締規則を布達。米沢には柳町にのみ貸座敷営業を許可されました。 1880年(明治13)時期の所在が判明する貸座敷は13軒あり、粡町3軒、大町・越後番匠町・立町・東町に各2軒、川井小路町・今町・柳町に各1軒で、越後番匠町(武家地)を除いて全て旧町人町に存在していました2
あれ?柳町にしか許可されなかったのではないか?と疑問に思うでしょう。 柳町に移転せよと通達された街中の貸座敷は「大ニ悲憂愁歎」し、県立病院建設の「寄付金」を出したりした結果、「3年間の移転延期」が認められ、それがうやむやになって、結果的に集約はされなかったとのことでした。

明治13年当時の貸座敷は以下の通り。 米沢遊郭明治   南置賜郡米沢街市街ノ図 山形県立図書館所蔵の石版画、「南置賜郡米沢市街ノ図」には、正面突き当りの3階建ての建物が見えます。貸座敷『都亭』で、あら町でも頭一つ二つ抜きんでていた高楼でした。絵を見ても、近世の天守のような洋館のようななんとも言えない様式の建物は、当時の米沢ではひときわ目立ったことでしょう。

しかし、「風俗街」が町のあちこちにあると風紀上よろしくない。集約の声が再びあがる。 明治17年(1884)頃に市街地東南部の字福田の荒蕪地3に遊里の移転願いを提出。 明治18年(1885)には米沢に「又格別」という不景気が訪れ、「全楼の娼妓悉く茶を挽く」「中等以下の貸席」ではひと月近く休業同然の状況だったと、地元新聞に書かれています4

そんな米沢を覆う青色吐息の中、明治19年5月に福田新地に新たに開廓。貸座敷8軒でスタートしました。

明治32年米沢市全図

米沢の地図に遊郭の二文字が出てくる最古のものは、明治32年(1899)の地図。市立図書館にはそれより古い地図があるにはありましたが、遊郭の文字はありません。
10年以上前に福田に移転されたのに、地図には「新廓」と書かれており、上記の元地図がおそらく同20年くらいにできたものだったのだと推定できます。

米沢遊郭に試練の時がやってきます。 大正6年(1917)5月22日、市内西部代官町から火の手があがった火事で、米沢の町は火に包まれました。「米沢大火」です。
焼失家屋2124戸。焼死者10名、負傷者80余名、損害額は357万5550円余。現在米沢に残っている古い建物は、すべてこの大火以降に建てられたものとされているくらい、米沢は建物一つ残らない焼け野原になったと伝えられています。

米沢大火で焼失した福田遊郭

米沢大火で焼けた福田遊郭
福田遊廓も例外ではなく、大火後の絵はがきを見てもご覧のとおり。地元新聞にも「全滅」と書かれていますが、見た限りこりゃ全滅ですな。
統計書の数字も、この年には客数前年比約4,000人減、収入も約7,000円減となっています。が、翌年には「快気祝い」か収入も44,000円と大正時代前期最高売上を達成しています。

そして昭和に入ります。『全国遊廓案内』には、福田遊廓は下のように紹介されています。

米澤市福田遊廓
山形県米澤市相生町に在つて、奥羽本線米澤駅で下車すれば西へ約六丁の位置に在る。 旧上杉氏の城下で公園には鷹山公を奉つた上杉神社がある。 鷹山公が製糸業を奨励し出して以来、米澤織の産地として天下に其の名の届かない処は無い。 従つて織物の好況不況は直に遊廓にも影響する処と見て差閊えは無からう。
宿場から現在の遊廓に移転したのは、明治十九年の五月で、当時は僅々五軒の同業者に過ぎなかったが、其の後漸次に増加して大正六年五月廿二日の大火災当時には既に十一軒に成つて居た。
其後復興して現在営業続けて居る家は八軒あつて、娼妓は約三十五人居る。 殆んどが同県下の女と少数の福島県の女とである。 妓楼は丸喜楼、甘水楼、新芳楼、昌平楼、朝日楼、武蔵楼、住の江楼、東陽楼等がある。

引用:『全国遊廓案内』

と記載されています。
なお、「当時は僅々五軒」とありますが、資料には8軒とされているのでこちらの方が正解と思われ。

そして満州事変から支那事変、大東亜戦争の戦争の流れの中で、福田遊郭も時代に翻弄されます。昭和18年(1943)、戦争の激化によって遊郭は開店休業、娼妓も軍需工場に動員され妓楼は工員寮として接収されることに。 この昭和18年をもって福田遊郭は57年の歴史の幕を閉じた…『米沢市史』の記述はこう締めくくっています。

ところが、もしこの記述が間違いだったら? さて、今回は米沢市に堂々と喧嘩をふっかけてみようと思います。

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  1. 『米澤市史旧版 風俗習慣』p1187
  2. (加藤―2015年)
  3. 荒れて雑草などの生い茂った土地。 荒地。
  4. 「出羽新聞」,明治18年2月8日
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コメント

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