京都府舞鶴市-舞鶴朝代遊郭|遊郭・赤線跡をゆく|

京都府西舞鶴にあった朝代遊郭関西地方の遊郭・赤線跡

京都府舞鶴市は、市内に入ると潮の香りがする日本海沿いの港町。この町は、何面もの顔を持つ多面体な街でもあります。
舞鶴は大きくわけて「西舞鶴」「東舞鶴」「中舞鶴」に分かれていますが、いちばん有名な面は、明治時代から続く「軍港」という側面。舞鶴は海軍の街であります。「舞鶴」って聞いてこれを思い浮かべる人が多いと思います。
ここは海軍が目をつけて軍港として整備し、明治20(1887)年から14年かけ、明治34(1901)年に舞鶴鎮守府という海軍の一大本拠地が出来あがります。
「鎮守府」とは今や日常会話では使うことのない半死語ですが(艦これがなければ本当に死んでたでしょう)、簡単に説明すると海軍の本拠地のこと。軍艦や海軍の軍人は必ずどこかの鎮守府に属していました。

もう一つは、戦国時代から続く城下町という側面。

細川幽斎

歌人武将として有名な細川藤孝(幽斎)が織田信長から領地をもらい、城下町として整備してからの歴史があります。海外なら近代に入って開発された東舞鶴に対し、「オールド舞鶴」や「舞鶴旧市街」という名称になってたことでしょう。
時は1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いの時、子供の細川忠興は徳川家康と一緒に関ヶ原へはせ参じたのに対し、父の幽斎はここ舞鶴の田辺城(舞鶴城)に籠城、西軍の軍勢と対峙しました。
情勢は主力軍を関ヶ原に持って行った細川方不利だったものの、陥落寸前で京の天皇から「細川を殺してはならぬ。和睦せよ」という勅使が到着。戦いは中止して命拾いした幽斎は、後の熊本藩の基礎を築きました。
しかし、戦国武将数多けれど、なぜ一武将に対し天皇が勅使を派遣したのか?
幽斎は武将というより歌人として名前が知られていた人物で、朝廷に伝わる歌道の奥義を知ってる人物。今で言うたら人間国宝。
「そんな文化人を殺すのは朕が許さん。文化の損失になる」と天皇は決断したわけで、
「芸は人を助ける」を地で行った歴史のエピソードでもあります。

同じ舞鶴でも歴史的背景が違うため、人の気質も違ってきます。今はそうでもないかもしれませんが、昔は西舞鶴は関西弁に対して、東舞鶴は海軍のスタッフが多かったせいか標準語の世界だったとか。
行政も昔は西舞鶴市と東舞鶴市で分かれていましたが、昭和18(1943)年に両舞鶴市が合併して今の舞鶴市が誕生、現在に至っています。

舞鶴市には、「西舞鶴」「中舞鶴」「東舞鶴」の3か所それぞれに遊廓があったりしました。舞鶴には3ヶ所の遊郭が存在していたとされていますが、実は実質4ヶ所だったりして…。
今回はそのうちの一つ、西舞鶴地区にあった遊里の話です。

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西舞鶴-朝代遊郭

舞鶴朝代遊郭古地図

西舞鶴地区にあった遊里は朝代遊廓と言い、地元の神様を祀る朝代神社やお寺が並ぶ地区にありました。
上述のとおり、西舞鶴地区は戦国時代からの歴史を持つ古い町だけに、遊里は江戸時代からありそうな気がします。が、歴史は意外に新しく(?)、舞鶴が軍港として建設され始めた明治21(1888)に貸座敷免許地として舞鶴では初めて指定されてからだったりします。
神社やお寺が並ぶ門前町みたいなとこに遊廓が作られたわけですが、海軍の軍人を標的にしたものかと思いきや、それだけではなく、舞鶴軍港建設に従事する土木関係者もターゲットにしたとされています。
ある史料によると、朝代遊郭の開業には「堀上の近藤寅太郎の尽力」があったと書かれていますが、その近藤寅太郎とやらがどのような人物かはわかりません。
明治34年の舞鶴鎮守府開港と共に貸座敷38軒、芸妓と娼妓が合わせて200人で本格的なスタートを始め、

大正2(1913)年 妓楼46軒、女性の数124人

大正12(1923)年 妓楼54軒、女性の数140人

と、娼妓数は減少しているものの、妓楼の数は増加しています。
ネットで閲覧できる『京都府統計書』の数が非常に少ないので断片的にはなりますが、昭和に入ると、データは以下のとおり。

舞鶴朝代遊郭

昭和14年から15年にかけて、遊客数が3.7倍~ほぼ4倍に膨れ上がっています。残念ながら売上データがないですが、客数からおそらく同じ比率かそれ以上に上がっているでしょう。
これは、やはり日中戦争の激化による召集が多くなり、いわゆる「筆下ろし」や「死ぬ前に女の肌に触れたい」というオスとしての本能が遊里に向かわせたのに間違いないと思います。これはほぼ全国に共通した特徴ですから。

ここで不思議なことがあります。
私のような近代の遊里史を追っている人間にとってのバイブルに等しい『全国遊廓案内』(昭和5年刊)には、舞鶴の遊郭が当然の如く掲載されています。が、ここ朝代遊郭のことは全く記載なし。
他二つの遊郭のことは書かれてあるのに、なぜ朝代だけ未掲載なのか。規模としちゃそれほどでもなかった遊里とは言え、それより小さい遊郭がふつうに紹介されているのに朝代はまるで無視されたかのよう。なかったわけではありません。同時期の内務省の資料にはちゃんと記載されているから。
それか何か理由があってわざと省かれたのか、それは今となってはわかりません。

そのことは謎として、第二次大戦を経て終戦、海軍も消滅して海軍におんぶにだっこな朝代遊郭は滅んだかのように見えました。しかし、そこはアメリカ進駐軍向けにダンスホールや「ゲイシャレストラン」に衣替えしたりして図太く生き残り、戦後は赤線となりました。
朝代遊郭が赤線化したことは確かです。その証拠に、昭和32年(1957)の業界誌の新年挨拶の欄に京都府内の貸席(赤線)組合の名前が勢揃いしているのですが、「朝代廓貸席営業組合 」という名前が朝代地区が掲載されています。朝代遊郭が赤線として残っていた証拠です。
しかし、これも赤線が放った最後の灯火。翌年には売春防止法完全施行で消滅しますが、寸前まで39業者、72人の女性が最後まで残っていたといいます。
朝代遊廓の歴史はざっとこんな感じでございます。

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