旧東海道 御油宿に眠る飯盛女の墓

旧東海道の御油宿東林寺の飯盛女墓名古屋・東海地方の遊郭・赤線跡

徳川家康の故郷、旧三河国を走る旧東海道の、お江戸日本橋から数えて35番目と36番目に、御油宿と赤坂宿がございました。現在はどちらも愛知県豊川市に属しています。

赤坂と御油宿の距離は非常に近く、実は16丁(約1,800m)しか離れていません。電車でも一駅の距離に宿場があるのは、日本の街道のなかでも非常に珍しく、数ある日本の街道の中で宿場間の距離がいちばん短いと言われています。普段から歩いている人は、軽いウォーキングの程度の運動量で到着。ママチャリでも所要10分くらいじゃないでしょうか。あまりに近すぎるため、赤坂と御油は「赤坂=御油宿」として一つの宿場とみなす人もいます。

また、両宿の間には松の木が道の両側をアーケードのように囲っています。この松並木は、弥次喜多道中でお馴染みの『東海道中膝栗毛』にも登場し、

ここには化け狐が出るがや

と茶店の人に言われた弥次さんが、松並木の前で待っていた先行の喜多さんを化け狐と勘違いし、縄で縛ってしまうという展開があります。
この松並木は、弥次喜多が通った当時のまま残されており、松の木陰が木のアーケードとなし直射日光を防ぎ、旅人たちを癒やすボーナスステージとなっております。

御油と赤坂宿はまた、「留女とめをんな」が多くいる宿駅としても有名でした。「留女」とは街道筋の旅籠屋の前で客引きをする女中のことで、当時の旅籠屋は「飯盛女」という女中を雇っていました。飯盛女は江戸時代の遊女の通称でもあることから、当時の旅籠屋は客の要求に応じて女をあてがう、遊郭の妓楼のような場所も兼ねていたということです。実際、街道沿いがにぎわっていた頃の赤坂宿の建物配置図を見ると、「旅籠屋」と共に「遊女置屋」も多く、数えてみるとその数15件以上。ほとんど遊郭やんという状態でした。
御油宿の留女の強引さは、歌川広重の有名な浮世絵『東海道五十三次』にも描かれています。

歌川広重『東海道五十三次』御油宿
歌川広重『東海道五十三次』御油宿

『東海道〜』の御油宿は、留女が旅人を力任せに引き寄せている姿が描かれています。各宿駅の絵を見ても、客引き女に拉致られているシーンはここだけ。浮世絵に描かれているくらいだから、よほど有名だったのでしょう。

御油、あそこは走って通り過ぎるんだ

なんでだい?

あそこには「化け物」が棲んでいるんだよ

バカも休み休み言えw
狐か狸が化けるっていうのかいw

狐とか狸ならまだいいさ!相手は人間だ。

人間だったらいいじゃないか。
何ていう化け物だい?

「女」っていう名前の化け物さ。
おめかしは「化粧」って書くだろ?あそこの留女は力も強いから始末に負えないやw

という会話があったかどうかはわかりませんが、「御油の留女には気をつけろ」という話は方々に伝わっていたかもしれません。

そんな御油の宿に、東林寺というお寺があります。
徳川家康も立ち寄ったとされる古い歴史を持つお寺ですが、そこに留女にまつわるあるものが眠っています。

東海道の御油宿にある飯盛女の墓

墓地の端に、きれいに並んだ5基の墓標。周囲に比べてかなり年季の入った古さに見えます。

この墓には、御油の留女たちの悲しい物語があります。
江戸時代の飯盛女は、明治以降の遊郭の遊女もそうですが、奉公先に身請けされる形となります。身請けというと言葉が軽いですが、要は女を商品とみなして売り買いする人身売買です。
遊廓の遊女は、まだ法治国家としての近代法や、大正時代以降は人権にも守られていたからマシかもしれません。基本的人権もへったくれもない江戸時代、売られた女たちは「モノ」として扱われることが多かったといいます。ブラック企業によくある「お前の代わりなんていくらでもいる」的なものですね。

御油の飯盛女もそうでした。奉公先のあまりの仕打ちに耐えかねて、将来を悲観した留女A。同じ場所で働いていたのか、仲間数人と共に入水自殺を図りました。
それを悲しんだ主人が、過酷な仕打ちをした彼女らへの罪滅ぼしもあったのか、彼女らのために墓を作ってあげることとなりました。

基本的には、このお墓はこんなストーリーとなっています。

御油の歴史を扱った本には似たような話が掲載されており、時期や名前まで残っているのでおそらく墓標と同一人物の話だと思われます。

お墓には、以下の戒名が書かれています。

戒名を見ると、すべてに「傾」「城」がついています。これは「傾城けいせい」という遊女の別名からつけられたもので、彼女らが飯盛女=留女=娼婦だったことを示しています。

しかし、一つ不思議なことに気づかないでしょうか。
そう、自殺した遊女は4人とされています。御油の歴史本にも4人と記載されています。

が!

墓は5基ございます。

戒名から、左側の4基は上記の戒名の墓なのですが、いちばん右側のは「傾」「城」の文字がない。しかも、「信女」に対し右のは「童女」。これは「どうにょ」と読み、幼くして亡くなった女の子の墓を示すもの。文字がかなり風化して見づらいため、墓標とずっとにらめっこしてたのですが、他4人にある、遊女を示す文字がないように思えます。

墓標の風化具合から、同時かほぼ同時期に造られたことは明らかですが、彼女がほかの4人とどういう関係なのか、一緒に入水自殺した一人なのか、それとも関係ないのかなど、詳細はよくわかりません。しかし、隣り合わせどころかほぼ一体となっているので、全く関係ないこともないと思いますが、本当のところはどうなのか。

遊女の墓は、探せばけっこうな数があります。遊郭跡の近くのお寺に行けば、必ずではありませんが、
大小の規模の差こそあれ、遊女の墓というのは存在することが多いです。
が、それはあくまで「遊女の墓」でひとまとめにされており、個人の墓、しかも戒名までついているのはなかなかお目にかかれません。
そういう意味では、この墓はレアな存在として御油の歴史に名を残しています。

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