稲永遊郭(名古屋市港区)|遊郭・赤線跡をゆく|

名古屋の稲永遊郭名古屋・東海地方の遊郭・赤線跡
名古屋の中村遊廓

尾張名古屋には、中村遊郭という大遊里が木星のように君臨していました。妓楼100軒以上、遊女の数は1000人以上。全国でも有数の規模を誇る大遊廓です。

その名古屋には、中村の他にもう一つの遊郭がありました。中村の陰に隠れてあまり語られていないその遊里の名は「稲永」。今回はそのお話を。

スポンサーリンク

稲永遊郭の歴史

名古屋には、明治前にもいくつか遊里があったのですが、その一つに熱田遊郭がありました。名前のとおり、熱田神宮近くにあった遊里です。
こちらは文明開化以前からあった古い色街でしたが、明治時代に入り移転の話が持ち上がりました。

明治42年3月、愛知県は

熱田遊郭は明治45年3月限りで営業停止。稲永に移転せよ

という布告を発します。街の真ん中、それも熱田神宮という聖域の横に遊里があるなんてけしからんというのがその建前です。江戸時代まではおおっぴらに営業できたのに、明治政府になってからダメになったのは、神道を穢れのない「国家神道」として神聖視化した政治的な処理の一端かと思ったりします。

そのまますんなり移転すれば良かったのですが、人間欲というものが絡むとどす黒い疑獄に発展します。
稲永の大地主である第十六銀行頭取渡辺某は、この移転をきっかけに一儲けを企みます。当時の愛知県知事や名古屋市長に、遊郭の移転が決まれば計画地や周囲の土地を格安で売り、土地の値段が上がったら買い戻す…その差額はそのまま知事や市長のポッケに…。

遊郭というものは、実は絶好の町おこしの手段でもあります。遊里に人が集まる⇒商売が盛んになる⇒税収増える&土地の値段が上がる⇒自治体も地元もWin-Winという実態もあります。遊女かわいそうだけでは、遊郭をビジネスとして見た視点が失われ、重要な点を見逃すことになります。
それだけに、疑獄の焦点にもなったりします。遊郭を巡る疑獄は、大阪の松島遊郭が絡んだ「松島疑獄」がありますが、こちらは知事どころか間接的に総理大臣(若槻禮次郎)まで関わったとされる大事件。さすがは日本一のハイパー遊里は次元が違う。

知事と市長と地主のウハウハは、遊郭の移転リニューアルオープン後にバレてしまいます。地主の渡辺某はもちろん、前知事・市長や衆議院議員が逮捕されるという名古屋史最大級の疑獄事件が世間に露呈し、名古屋市民の怒りのボルテージは上がるばかり。
しかし、結果は…

「贈収賄の事実は認められるけれど、被告の自白も証拠もない。現刑事訴訟法では訴追は無理。無罪」

という、狐につままれたような判決文が出て全員無罪。名古屋市民は総ずっこけだったとか。
この事件は、「稲永(遊郭)疑獄事件」として『名古屋市史』にも書かれており、名古屋の歴史の1ページに刻まれています。

明治後期の名古屋港の地図

遊郭が(うつ)った稲永とは、江戸時代後期に海辺が開発された「稲富新田」と「永徳新田」が明治初期に合併したのが地名の由来となっています。名古屋港は今も昔も場所が変わっていませんが、稲永新田がベイエリアの新開地だったことがこの地図でよくわかると思います。
上の地図の作成は1910年、つまり明治43年なので遊郭の移転前。よって遊郭はまだ地図上に記載されていません。

1921年名古屋市全図と稲永遊郭

遊郭はそんな新開地に移転したのですが、新開地の中にぽつんと整地された一画があるのみ。遊郭は「○X新地」と称されることが多いですが、そう呼ばれる理由がこの「隔離感」で一目瞭然かと思います。
それにしても、遊郭を郊外に移転させたは良いが、新地すぎてどうやって通えばいいのだろうか。公共交通機関なんてありゃしないそんな疑問が浮かびます。

そんな疑問を解決するような新聞記事が資料に残っていました。
時は大正2年(1913)、稲永遊郭がオープンして2年を過ぎた頃のお話です。記者は「稲永遊郭が出来たけれど、まだどんな所だか見たことない人が名古屋(市民)にも沢山いる」とのことで、名古屋港の(うしお)を受けた埋立地の廓に突撃取材してみようという記事です。
熱田から名古屋電鉄(後に名古屋市電に)築港線に乗り、築港停車場まで乗車。
停車場から西へ向かう一本道があり、それが稲永遊郭行きの道となります。が、交通機関は「貧相な痩馬」が引く一台の馬車。御者が「稲永行きなら乗ってくれ」と。その馬車に乗って西へ二十町行くと稲永遊郭に到着。
興味深いのは、100年後に私が実際に行ったルートもこれと全く同じ。市電が地下鉄、馬車が市バスに変わっただけです。
築港から稲永遊郭まで、現在の市バスで10分くらいなので、馬車なら4~5倍の時間がかかっただろうと、実際に同様のルートで行った者としてだいたい想像ができます。

稲永遊郭の発展

前述のとおり、明治45年(1912)に熱田から移転した稲永遊郭ですが、最初の年は貸座敷14件、娼妓数91名(同年末時点)でした。

名古屋市中所払いのようなド郊外に移転したせいか、前年の熱田時代より遊客数・売上ともに3分の1に激減。
大正2年の新聞記事によると、出来たてで何もなかったせいか、廓から一歩外に出ると腰まで伸びた雑草が生える荒れ地。廓内も、天下広しといえども昼間の廓の真中で虫が鳴きバッタが飛び交っている遊郭はなかなかないと新聞にも皮肉られ、将来に向けて悲壮感が漂うスタートでした。

稲永遊郭は、熱田の遊郭がそのままスライドしたと思われがちです。なんや当たり前やないかいと思ってしまいますが、実は熱田の遊女屋は稲永に移転したわけではなかったのです。

こんな新聞記事があります。

稲永遊郭熱田より移転

(提供:春は馬車に乗って様)

熱田にあった遊女屋27軒のうち、稲永に遷ったのは池田楼の1軒のみ。他は芸妓置屋になったり、他遊里へ引っ越したり、はたまた廃業したり。
稲永遊郭の遊女屋のスタート軒数は14軒なのは資料から明らか。じゃあ残り13軒はどこから来たんだよ!?ということですが、

稲永遊郭

グランドオープン、イコール熱田への移転締め切り期限が迫った3月27日の新聞には、この時点で4軒。そこに池田楼が入っていませんが、「熱田にて開業せるものが移転するにあらず全く新規の開業」とあるので、合計5軒だったのだろうと思います。
しかし、最終的(1912年末)には14軒となったので、他の遊女屋が隣の行動をチラ見しながら、稲永に見世を構えるか様子見だったのでしょう。

稲永遊郭が数字的に発展を遂げるのは大正11年(1922)からとなりますが、それにはあの中村遊郭が絡んできます。
中村遊郭も、実は大正12年(1923)に市内中心部の大須から西部の新開地に遷った遊里です。移転前年から当年にかけて、稲永遊郭の貸座敷の件数が10件以上増加していることを見ても、中村ではなく稲永に遷った業者もいたようです。

オープンから15年後の大正15年(1926)の新聞記事になると、オープン当初はたった5軒だった貸座敷が49軒(娼妓数362名)と大きく様変わり。記事も「あれだけ不便なところが」と良い意味で呆れ模様。
ではなぜ「不便なところ」がこれだけ発展したのか。

稲永の遊廓が今日の発展ぶりをみたのは、すこぶる、安価に目的が達せられる云ふ点にあるらしい。(中略)夕方の六時から遊んでも玉代が五円以上になることはない。
一寸遊ぶには一円五十銭持って行けば良いから、不便を偲んでも遊びに行けることになる。

引用:稲永遊廓が移転してから十五年 『新愛知』大正15年2月19日

引用:稲永遊廓が移転してから十五年 『新愛知』大正15年2月19日

大正14年(1925)の遊興客数が211,670人に対し遊興費は515,400円。一人当たりの費用は2円40銭。当時の肉体労働系の日給が2円くらいだったので、現在の感覚では1万円ちょっとで遊べたという感覚になります。
要は、高級レストランのようにメニューが高い分サービス抜群の中村遊廓に対し、稲永は「薄利多売」の戦術を採ったということですね。

記事には「鉄道は走っているが便利と云ふほどではない」と書かれている鉄道ですが、やはり効果はあったよう。

1937年大名古屋地図の稲永遊郭

築港口から馬車で何もない埋立地を馬車に乗るしかなかった稲永遊郭への交通手段も、築地電軌が路面電車(築地線)を稲永まで開通させ、利便性が向上しました1。事実、鉄道が開通した大正6年の稲永遊郭の数字は、遊客数が前年比4割、売上に至ってはほぼ倍増と爆上がり。市街中心部からは築港口から乗り換えが必要なものの、鉄道開通は「こうかはばつぐんだ!」としか言いようがありません。

昭和に入ると、稲永遊廓は数字上では安定期に入ります。貸座敷の数は57軒、娼妓数は400人台後半で落ち着き、昭和5年(1930)の恐慌で多少落ち込むものの、これもすぐに回復します。
『全国遊廓案内』には、稲永遊郭は以下のように紹介されています。

目下貸座敷は46軒あって、娼妓は約400人居る。愛知県・三重県の女が多い。見世は写真式で(中略)娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。(中略)廻しは取らない。費用は店によって相違する(が)大体1時間1円15銭の割で、宵からの一泊は7~8円くらいで(中略)引け過ぎからなら4~5円見当である。

引用:『全国遊廓案内』

大正15年の記事には廻しを取ると書かれていたのに、こちらでは取らないと真逆の事が書かれていますが、それは大して重要なことではありません。
同じ『全国遊廓案内』から中村遊廓と比べてみると、1時間あたりの費用は稲永が5銭、泊まりは1円安。貸座敷と娼妓数は中村の方が稲永の3倍の規模なので、それと比べるとやはり稲永は400人の女がいても場末の遊里の感が否めない。
そんな化け物遊廓とまっとうにやり合うには、価格で差別化を図るしかないということになるでしょうか。

遊郭にも各々客層というものがあるのですが、稲永の客層はベイエリア遊里という性格から船員や漁師が多かったそうです。

また、こんなものもあります。

戦前の名古屋の稲永遊郭

時期は不明ですが、昭和13年(1938)以降同19年(1944)以前であることは確定の名古屋市の航空写真です。周りに何もないだけに、遊郭の姿をくっきりと確認することができます。黄色で〇をした稲永駅を中心に現在の姿と比べると、何もない感がより増すことでしょう。人家一軒もないやんと。

遊廓の部分だけアップしてみました。おそらく、この世に残る唯一の稲永遊郭の航空写真です。
「廓」という限られたエリア内に、妓楼がぎっしり詰まっている姿がわかります。そして、遊郭へ続く道が一本だけだったということも。その道が廓内の大通りと接続し、娑婆とは隔絶された別世界へ。大通りは実際は中央線に植え込みがあり、予想より広かったようです。

稲永遊郭の最期と戦後

繁栄を極めた稲永廓も、戦争の影が忍び寄ってきます。
しかし、遊里は出征する馴染み客の出征や兵隊の「筆おろし」などで逆にごった返し、稲永の遊興客の数は昭和13年(1938)、売上は同16年(1941)に過去最高をマークしています2

そして対米戦争が始まり戦争が激化すると、世間は遊郭で遊んでいる余裕もなくなり、遊郭の貸座敷は銃後を守る軍需工場の産業戦士寮として徴集されました。部屋割から単身寮としてはぴったりだったのです。
具体的にはいつからかはわかりませんが、複数の資料に「戦時下では寮として使われた」とあるので、戦争中は営業停止となっていたのでしょう。

そして昭和20年(1945)、おそらく3月19日の名古屋空襲で稲永遊郭は焼失したものと思われます。

空襲で焼けた戦後の稲永遊郭

戦後すぐの航空写真を見ても、遊里界隈は焼けたことがわかります。所々に空いた大小のクレーターから(写真のノイズではなく「穴」です…)、焼夷弾だけでなく通常爆弾も落とされていたようです。

空襲で焼けた。
遊郭はその後復活することなく、業者は名古屋の各遊里に散り散り。
そのうちの一つが、港陽園。

港陽園赤線跡
港陽園は名古屋港に近い築港口に造られた戦後新規型赤線ですが、稲永の業者が多く遷ったので後身といっても過言ではありません。場所も、旧稲永遊郭と運河一つ隔てた、すぐと言っちゃすぐな場所。現在でもバス一本7~8分で行ける距離です。

NEXT⇒稲永遊郭は現在…
  1. 築地電軌はのちに名古屋市電に吸収。路線は1969年廃止
  2. 中村遊郭もほぼ同時期に過去最高数をマーク。
スポンサーリンク

コメント

  1. […] 稲永遊郭(名古屋市港区)|遊郭・赤線跡をゆく 稲永遊郭 – 光を撮む 名古屋市港区錦町  稲永の遊郭跡、再訪 港区の稲永にかつてあった遊郭について知りたい […]

error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました