日本に残る最後の「かくれ里」
「湖北」と言われる琵琶湖の北部、湖に突き出た半島の先に「菅浦」という集落があります。
ここは昭和46年(1971)まで陸路で行く手段がなかったという隠れ里で、この里へ通じる道路は現在でも12〜3月は通行止めになるので、冬は本当に陸の孤島になる場所でもあります。
平成生まれの人には昭和46年は大昔ですが、昭和49年に生まれた私にとって昭和46年なんて「ほんの数年前」の感覚。そんな時期にまで人知れず(?)残された集落があったとは。

菅浦集落の中心部には、「須賀神社」という名の社があります。
菅浦集落の氏神様で、村の氏神様として古くから大切にされてきた神社で、3つの社が合体したもの。
この須賀神社、実は日本広しといえども2ヶ所しかないという特徴があります。

ここは世にも珍しい「土足厳禁」の神社。神社の本殿に入るには靴・靴下を脱いでいかないといけない。

今はご丁寧にスリッパが用意されて(ってもここ10年の話らしい)いてだいぶ緩くなりましたが、信仰心の篤い人や地元の人は素足で入内します。

私も古式にのっとって裸足で境内へ。もちろん、露出した足の部分はすべて手水舎でお清めしてからなのは書くまでもありません。
あくまで個人的な推測にすぎませんが、古代の神社の神域に入るには「みそぎ」を行って全身を清める必要があったのが、現在は手水舎での手と口だけに簡略化され、「土足禁止」は古代神道の参拝の原型を残しているのかもしれません。
土足厳禁なだけでも日本に二ヶ所しかない変わった神社ですが、ここにはもっと変わったことがあります。
須賀神社に祀られた天皇
祀られている神様は大山咋神・大山祇神なのですが、実はもう一人祀られている主祭神がいます。

それが淳仁天皇
天武天皇の孫でありながら日本古代史最大級の権力闘争に敗れ、「淡路廃帝」という不名誉なレッテルを貼られ、明治時代に名誉回復されるまで天皇としてカウントされなかった悲劇の帝です。
須賀神社の創建は天平宝字3年(764年)と伝えられています。この年は天皇が重用した藤原仲麻呂が権力者である孝謙上皇と道鏡に対し反乱を起こした年であり、淳仁帝が廃帝となり淡路に流された年でもあります。
淳仁天皇については、以下の記事をどうぞ。

「淡路廃帝」の名のとおり、定説では天皇は淡路島に流されてそこで亡くなったとされています。
淡路島には宮内庁も認定する陵墓もあり、天皇にまつわる史跡も数多く残っています。
が、実は異説もあります。

「淡路」は【淡海】間違いだ!
と唱える人もいます。
淡海はとは琵琶湖のことで、ここから滋賀県の旧国名「近江」が生まれました。つまり、天皇が流されたのは淡路島ではなく、近江だということ。
その天皇が流された、または逃げたのがここ菅浦だというのです。
そんな隠れ里と淳仁天皇、何の関係があるのか。
淳仁帝のバックにいた藤原仲麻呂(恵美押勝)が、孝謙上皇と愛人の僧侶道鏡への反発から反乱を起こした、「藤原仲麻呂の乱」が起こりました。その反乱の場所が近江国の北部で、朝廷軍と実際に戦った戦場や藤原仲麻呂が指揮を執った砦も今の湖北地方です。

Wikipedia先生の地図を引っこ抜いてきた上で、菅浦の場所を追加したものですが(赤い★印が菅浦の場所)、乱の現場のすぐ近くということがわかると思います。
藤原仲麻呂は琵琶湖から船で脱出しようとしたものの捕まり、首を斬られたのですが、淳仁天皇は中立を守り近江にいなかった。それが歴史学の定説になっています。
が、乱の主戦場だった近くの集落に天皇が逃げ、ここで生涯を閉じたという、平家の落人ならぬ淳仁帝落人伝説が、今でも根強く残っているのです。
科学的アプローチでは、淳仁天皇が近江国に行った記録はありません。なのでよほどの物的・史料的証拠がない限り伝説乙でこの話は終わってしまいますが、地理的につながりがないこともない土地に伝説が残っているのは伊達ではない。
おまけに、くどいようですが45年前まで陸路で行くのはほぼ不可能だった土地、隠れる条件としてはこの上ない場所でもあります。

本殿の扉の文様もこのとおり。
本殿の裏にある山が「天皇の陵墓」となっており、舟型の塚が残されているそうです。
冬は道自体が閉ざされるので物理的に行くのは不可能になりますが、雪解け道路明けの4月には古式ゆかしい神社の神事が行われるそうなので、その時に行ってみるのも良いかもしれません。

淳仁天皇と淡路島に残る史跡については、こちらをどうぞ!



コメント