新吉原遊郭の歴史(東京都台東区)|おいらんだ国酔夢譚|

新吉原遊郭の歴史東京・関東地方の遊郭赤線跡
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吉原を歩く

上述したとおり、吉原は昭和20年の空襲で焼け、遊郭時代をしのばせる遺構は残っていません。現在残っているものはすべて戦後赤線時代の、俗に「カフェー建築」と呼ばれるものです。『鬼滅の刃 遊郭編』を見てあの和風の…と思った方は、そんなものは残っていないので悪しからず。
ただし、赤線時代のカフェー建築も独特の建築様式です。建築的に面白い外観をしていることが多いので、こんな建物もあるんだと見ていただけると幸いです。

吉原大門交差点

意外に思われるかもしれませんが、今の東京に「吉原」という地名は残されていません。戦前は確かに「吉原」と呼ばれていたのですが、昭和41年(1966)の住居表示変更で「吉原」が消滅、「千束」という地名になってしまい、現在に至ります。
なので、ここに吉原があったという地名での名残は少なく、この「吉原大門」交差点がその数少ない遊郭の残滓となっています。なお、ローマ字でお気づきかと思いますが、大門の読みは「だいもん」ではなく「おおもん」です。

吉原大門前ー見返り柳とスカイツリー

右側にある柳は「見返り柳」と呼ばれ、遊郭で遊んだ男が廓から出た時に、敵娼(あいかた)の顔や姿を思い出し、後ろ髪を引かれる思いで柳の前で振り返ったことから、この名前がつけられました。
21世紀東京の象徴、スカイツリーとのツーショットもこのように撮影できます。

吉原遊郭大門への道

「吉原大門」の交差点から旧郭内に入ります。先の道がクネっと曲がっていますが、これも江戸時代から変わらぬ道筋。曲がった道の先には、「吉原大門」がありました。

それにしても、道をまっすぐにしたら良いのに、なぜ曲がって…いや曲げたのか?これは山形県米沢福田遊郭栃木県宇都宮の亀廓などにもあるのですが、これも遊郭の舞台装置の一つ。
遊郭に入る客が、1円か5円札を握りしめ、胸躍らせながら吉原へ向かう。奥には明かりがぼんやりと照らし、男女の嬌声がほのかに聞こえる。しかし、それが見えそうで見えない…その「ワクワク度」を増幅させる演出装置の一つだろうと。
見えそうで見えない…パン○ラも見えそうでギリギリ見えないのが、オスのエロ心をいちばんくすぐるのと同じようなものです(笑
その証拠に、「吉原大門」交差点から遊郭の廓内は、見えそうで見えない絶妙な曲がり方。現地に行けばわかります、この道の曲げ方は絶対計算してると。

吉原大門

クネっと曲がった道を過ぎたら、「吉原大門」に辿り着きます。

明治14年落成の吉原大門

大門自体は江戸時代からありました。写真で残る門は明治初期のものですが、けっこうショボい木製の門でした。
それが上の立派な大門に付け替えられたのが明治14年(1881)。
両側の柱には、
「春夢正濃満街桜雲」
「秋信先通両行燈影」1
という福地桜痴の漢詩が彫られています。

吉原大門絵はがき

こちらは明治40年(1907)に落成されたという大門。関東大震災で焼けたと一般的に言われていますが、もし明治40年落成が本当であれば、4年後の、前述した吉原大火で焼けたことが写真資料から明らかです。

鬼滅の刃遊郭編の吉原大門

大正時代を舞台とした『鬼滅の刃 遊郭編』でも、この「明治44年に焼け落ちた」大門が採用されています。4年しかもたなかったので、大火後に同じものが再建されたものと思われます。

この大門は、1923年の関東大震災で再び焼失・倒壊。以後再建されることはありませんでした。

吉原大門の歴史は、『鬼滅の刃 遊郭編』の補足知識として別記事で書いています。

吉原大門

その大門からまっすぐ伸びる道が、吉原のメインストリートだった「仲之町通り」です。遊郭時代、この通り沿いには引手茶屋や芸妓の置屋が並んでいましたが、現在はごく普通の住宅地となっています。
ここだけを見ると、かつてここに本当に日本一有名な遊郭があったのか?と頭上に疑問符がついてしまうような、どこにでもある日本の風景であります。

歌川広重の東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図
(歌川広重 『東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図』)
遊郭時代、仲之町通りには道の真ん中に柳や桜が植えられた街路樹がありました。遊郭にはメイン通りの真ん中に桜を植えていたことが多いですが、おそらく吉原を模したものでしょう。
吉原の仲之町通りは、桜の季節は桜、5月にったら菖蒲(あやめ)、7月と8月は灯籠飾りで華やかな雰囲気に花を添えていたそうです。信じられないかもしれませんが、通りの中央線の木は桜の季節が終わったら木ごと抜き、次は牡丹や菖蒲に入れ替えるという、超手間暇をかけていました。これぞ吉原最大の華。どれだけ贅沢に金かけているのかと。

しかし、この並木スペースは先の戦争による空襲で焼失したか、戦後の地図では消えてなくなっています。航空写真でも、戦後数年後(昭和23年)のでは確認できたものの、9年後の昭和32年(1957)の写真では無くなっていました。

仲之町通りには何の面影もありません。が、この「メインストリート」から一歩小道に入ったりすると景色は一変します。

東京吉原遊郭跡

下町の香りをムンムンと漂わせているこの両側に、遊郭・赤線時代には大小の貸座敷や赤線のカフェーが並び、夜の蝶たちがこの狭い道筋で舞っていました。この写真だけを見ても信じられないかもしれませんが…。

そんな町並みの中に、赤線時代のカフェー跡が残っています。結論から言ってしまうと、予想以上に残っておりすべては紹介できないので、一部のみ紹介します。

吉原の赤線カフェー建築満寿美(マスミ

赤線時代のカフェー建築が、当時とそのままの姿で残っています。こちらは「満寿美」という店だった建物で、珍しいことに、2階の上には「マスミ」の文字まで残っています。

吉原のカフェー建築マスミ地図

赤線時代、売春防止法が完全施行され吉原の赤い灯が消える寸前の地図にも、「マスミ」の文字が建物と同じ位置に確認できます。
10年以上前に訪問したときも、そのままの姿で残っていたのですが、残ってないやろなと半分諦めていたので、よくぞ残っててくれた!と感謝したい気分です。60年以上吉原の町を見続けた「生きた遊里史の証」は、今も吉原を黙って見つめています。

吉原のカフェー建築プリンセス

「満寿美」の近くには、「プリンセス」という屋号の店だった建物が残っています。もうこれは説明不要なくらいの、典型的な赤線建築。道の角に向けて出っ張った窓から、赤線時代は女性が道行く男に「お兄さん、寄ってってよ♪」と声をかけていたのだろうかと、想像をたくましくさせます。

今年亡くなった作曲家の小林亜星(1932-2021)は、下積みのバンドマン時代に全国の赤線・青線を渡り歩いています。その赤青線行脚を記した『あざみ白書』の中で、氏が書いた昭和30年(1955)当時の吉原の地図があります。それによると、この店は「すみれ」となっています。
が、昭和28年(1953)及び赤線廃止時の地図を見ると「プリンセス」。「すみれ」はおそらく小林氏の記憶違いと思われるのですが、他はたいがい当たっているので、はい記憶違いです終わりと片付けるわけにもいかず、なかなか悩ましい。
なお、『あざみ白書』は自他共に認める文学界の赤線大魔王、赤線を舞台にした小説で芥川賞を取った吉行淳之介(1924-1994)が、

赤線に関しては日本最強の一人を自認しているが、この俺様より上がいたとは…

と脱帽したほど全国規模で、かつ描写が細かく歴史資料としても一級品です。が、フィクションも混ざっているので、「嘘を嘘と見抜けないとこの本を資料として使うのは難しい」という5chのネタスレ並みに曲者な本でもあります。

吉原の赤線カフェー建築プリンセス

「プリンセス」を逆から写すと、円柱に挟まれた玄関がなんとも言えない赤線臭さを醸し出しています。

吉原カフェー建築モリヤ
「プリンセス」の隣にはかつて、こんな建物もありました。赤線時代は「モリヤ」という屋号で、『赤線跡を歩く』にも出てきます。
赤線時代のカフェー建築あるあるですが、一つの家に出入り口が2つも3つもあるのが特徴の一つ。間近で見ると真ん中のドアが何気に艶めかしく感じたものです。
私が初めて訪問した2010年時点で、「赤線跡を歩く」の写真と比べて建物にかなりガタがきていました。寿命は長くないだろうなと思っていましたが、やはり11年ももたなかったようです。

吉原の赤線カフェー建築

同じ通りには、こんな個性ある建物も存在していました。地図と照合すると「しんせつ(親切)」という屋号の店だった模様。残念ながら、2021年再訪問時にはマンションになっていました。もう一度見たかったのですが、有形文化財ではないのでこればかりは仕方ない。

この通りには、他にもいくつか赤線当時の店の建物が残っています。昔の地図と照合しながら探索するのも面白いと思います。

ここで思い出したのですが、女性の声の掛け方が、戦前と戦後で違っていたという話があります。
吉原は、遊郭時代は遊女が直接客引きをすることはなく、それは「妓夫太郎」と呼ばれた男性の仕事でした。妓夫太郎が言葉巧みに道行く男に声をかけ、貸座敷の中に引き込むのです。
遊郭ではない、戦前の玉の井のような私娼街では「兄さん」やったのが、戦後になったら前に「お」がついて「お兄さん」になったのだとか。

赤線が存在した昭和20年代は、戦後日本の混乱期でもあります。人々は自分と家族が食うのが精一杯、食いっぱぐれたら餓死一直線。ある種の戦国時代と言ってもいいでしょう。
戦争未亡人や没落した良家のお嬢様など、「あんたは赤線で働かんでもええやん」というような女性まで、志願で赤線の接待婦になっていました。『洲崎遊廓物語』の冒頭には、小学校のアイドルだった同級生が洲崎の赤線(洲崎パラダイス)で接待婦となっていた姿を見て、優等生だったあの娘がなぜ…とショックを受ける著者の回想があります。

遊廓で働く遊女の学歴はせいぜい小学校卒、今の中学校に相当する高等小学校卒でさえ稀で「小学校三年修了」、つまり「小学校中退」さえ珍しくない。今の高校に相当する女学校卒は、いても2〜3人程度。でした。女学校卒なら他に働く手段あるだろうと、警察の許可がほとんど下りなかったのでしょう。
大正13年(1924)、内務省警保局が全国の遊郭で働く女性48,129人から取った、彼女らの学歴は以下のとおり。

尋常小学校中退:52.9%
尋常小学校卒業:28.4%
無就学:13.3%

出典:『日本公娼史』 山本俊一著

と、極めて教育程度が低かったのです。注目すべきは「無就学」、つまり経済的な都合や親の教育への無理解で、学校すら行ってない人も戦前にはいたのです。いや、「尋常小学校卒」ですらお情けで卒業させてくれた程度が実情でした。
北海道札幌の白石遊廓で働いていた書記によると、

「ほとんど(の遊女)が尋常小学校卒程度で、字も満足に書けない、自分の名前がやっとという有様でした」

引用:『ものいわぬ娼妓たち』

だそうで、「自分の名前」も、おそらくはカタカナが関の山、漢字は…おそらく無理だったでしょう。

ところが、戦後の赤線時代になるとこれが一変します。女学校卒はおろか、専門学校や大卒まで働きに来る始末。遊郭時代からの業者でさえ首をかしげる現象が起こりました。
戦前は自分の名前を書くことすらおぼつかなかった女性の「学歴」が急に高くなり、更に田舎の農家だけではなく都市の中流レベルの女性まで志願で赤線で働くことになり、言葉づかいも「上品」になったのかもしれません。

また、その昔吉原へ行くことを「トロゲンに行く」という表現をしていたようです。「吉原」と堂々と言うと周囲にバレてしまいので、男どもの隠語で吉原を「トロゲン」と。
トロゲンって何ぞや?マグロのトロと関係あるのか?
否、「吉原」の「吉」を分解すると「土」と「ロ」で、それで「トロ」、「ゲン」は「原」の音読みです。
こういう遊里の隠語は他にも、「ノイ(玉の井)」や「メイド(亀戸)」、「ベニス(洲崎遊廓)」などがありました。

吉原公園(旧大文字楼跡)

吉原の中には、台東区立吉原公園があります。住宅地と商業地で埋められている吉原界隈の中に、穴が空いたような憩いの場ですが、ここは丸ごと、遊郭時代の吉原四大妓楼、大文字楼の跡です。公園が妓楼跡なので、建物こそありませんが、公園を隅まで歩いてみると吉原の大妓楼の大きさを体感できます。

吉原大文字楼と彦多楼

さすが大妓楼だけあって、絵はがきにも登場します。手前がそうですが、これは確かに大きいわ。
奥にある時計台の建物は、同じく吉本四大見世の一つである「彦多楼」ですが、他の3つに比べて残っている絵はがきがほとんどヤフオクに出てきません。
前述しましたが、関東大震災以降客の流れが変わったのが経営に響いたか、吉原四大妓楼と謳われた大文字楼は、昭和19年(1944)には店じまい。跡地には防空壕が掘られたそうです2

大文字楼の名前は、後ほどもう一度出てきます。

現在の吉原は、ご存じのとおりソープ街となっています。その中で、遊郭の見世の名前を残す唯一の店がありました。

吉原の角えび本店

「角えび本店」と書かれたお店。かつての遊郭時代の大見世「角海老」の名を残るお店です。

吉原の角海老楼

明治時代の地図にもその名が記載されています。仲之町通りに面した吉原の中でも1,2を争う大妓楼だったことが、地図からもわかると思います。

吉原角海老楼

それだけに、絵はがきにもその姿が残っています。明治期のものですが、洋風の吹きさらしの廊下に大見世の象徴とも言える時計台を備えた和洋折衷、いや「ほぼ洋風」と表現してもいいかも、という建物でした。絵はがきに残っているということは、当時としてはかなり思い切った建物だったのでしょう。
「角海老楼」の跡にはマンションが建っていますが、その敷地はかなり大きい。その感覚は実際に見て感じてみると良いかと思います。

吉原角海老楼の花魁

角海老楼にいた花魁の一人、薄雲太夫の絵はがき。吉原では遊女を「花魁」と呼んでいましたが、花魁とは遊女の最高ランクのことで、「○○太夫」という名称で呼ばれていました。これは京の嶋原、堺の乳守遊郭でも同じでした。
横の二人は、「禿(かむろ)」という見習い遊女。しかし、ただの見習いではないようで、太夫の付け人であると同時に、見込みがあると認められこの年齢から芸や学問など英才教育を仕込まれる、将来の花魁候補生でもあったようです。
なお、「禿」とはおかっぱ頭を意味し、江戸時代では髪を結わないおかっぱ頭でしたが、明治以降は日本髪を結って「禿島田」という飾りを頭につけていました。写真の禿も日本髪に髪飾りと典型的な吉原禿です。

吉原のカフェ建築日の出

現在の「角えび」の裏には、「日の出」と書かれた建物があります。「ふるさと」と書かれているだけで、旅館なのか飲み屋なのか、さっぱりわかりません。しかし、過去には旅館だったことは、『色街百景』で同じ看板に「旅館」と書かれているので明らかでしょう。

他の方のブログを見る限り、さりげなさすぎてスルーしている人も多そうですが、ここは赤線時代も同じ名前で営業していた店。「昭和28年の地図」「赤線廃止後数年後の住宅地図」「小林亜星氏の記憶による昭和30年当時の吉原地図」3つがすべて「日の出」で合致。「角えび」と同じく当時の屋号が現在に残っている珍しいケースであります。

吉原の赤線カフェー建築

この建物を違う角度から見てみると、やはり同じ建物に複数の玄関があります。奥の一角にも一つ玄関があるので、この建物には玄関が3つあるということになります。これが赤線時代の建物の特徴の一つで、客を多く引き寄せるためとも、入口と出口を別にして客と客の鉢合わせをできるだけ防ぐためとも言われています。当時は新入社員歓迎会でも赤線行くぞということもあったそうなので、通っていた人も現在の風俗よりもっと広い。会社の同僚やご近所さんと中でばったり出くわしたりしたら…それを防ぐために玄関を複数作ったとも。

数ある吉原のカフェー建築の中でも、いちばんインパクトが強いのはこれだと思います。

吉原赤線カフェー建築ユーラク

赤線時代は「ユーラク」または「ゆうらく」と表記された屋号で、側面のハートに似た装飾が大きな個性となっています。

吉原の赤線カフェー建築
2010年当時の写真と比べても、ぱっと見の外観はほとんど変わっていないですが…

吉原に残る赤線カフェー建築

特徴的な側面は2010年のものと比べると、細かいヒビが入っていたりして、多少はガタがきているなと感じます。洲崎のカフェー建築が東日本大震災でダメージを受けたのと同じく、震災で傷んでしまったのだろうか。

この外壁だけでも、凝っているなと感心してまいますが、よく見ると、色使いも三種類に分かれています。特に「ハート」の部分はピンクっぽい感じの色。長年の経年劣化で剥げているものの、昔は鮮やかなピンク色だったに違いない。
この建物を直に見るだけでも、これを見に来るだけで吉原に来る価値ありと言っても大げさではないと思います。

娼妓用の病院ー吉原医院

吉原病院地図

吉原の廓外には、「吉原病院」という病院が設置されていました。こちらも広義の遊廓の施設で、遊郭で働く女性は「公娼(娼妓)」につき道府県が病気の場合の負担を負う必要がありました。公娼の反対が「私娼」で、私娼は違法でした(といっても事実上の黙認でしたが)。
病院も公娼向けの福利厚生の一つで、当時は厄介な病気だった性病対策として、性病検査所を兼ねた娼妓専用病院が設けられていました。吉原病院もその「一般の患者様お断り」の病院の一つでした。

この「遊女専用病院」については、大阪の難波病院がかなりデータを残してくれており、私もブログにまとめています。興味がある方はどうぞ。

旧吉原病院台東区立台東病院

娼妓専用病院だった吉原病院は、戦後は遊廓(公娼)が廃止となりその役目を終え、「ただの総合病院」として再出発。現在は場所はそのままに台東区立台東病院となっています。赤線は公娼でも遊郭でもないので、お前ら勝手にしやがれというわけです。

ここだけの話、台東区には「めぐりん」という区内の細かいところを走る循環バスを走らせています。ここ台東病院には全5路線のうち3路線が乗り入れており、上野駅や東武浅草駅などまで¥100で行くことができます。吉原探索はもちろん、他の観光にも使えそうなので、利用価値ありまっせ。

めぐりんHPはこちら

NEXT:遊女は本当に池で大量死!?
  1. 「しゅんむまさにこまやかなり まんがいのおううん しゅうしんまずつうず りょうこうのとうえい」
  2. 『吉原はこんなところでございました』より
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コメント

  1. 花岡徹 より:

    徳島の写楽の会、理事の花岡徹と申します。
    原のことをとても詳しく紹介されているので、連絡する次第です。
    現在、写楽(斎藤十郎兵衛)と村田春海、蔦屋重三郎の関係を調べています。

    村田春海 延享3年  1746生  (賀茂真淵門下の国学者・十八大通の一人・斎藤十郎兵衛家は隣家・加藤千蔭家は五軒先)
    十八大通とは、安永・天明1772~89のころ、江戸の通人を自認した富裕な遊蕩児十八人・吉原に精通
    春海の妻おすが   1760~1765頃生  (元吉原丁字屋遊女。丁字屋一番人気と書かれた資料もあるが真偽不明。安永9年(1780)春海に身請されている。遊女は27、8歳で年季明け。20才~25才で春海に身請されたとして、1760~1765年ごろが妥当)
    となっています。

    春海の妻、おすがの、丁字屋(丁子屋とも)の場所がどうしても江戸町二丁目に確認できません。浮世絵の花魁の絵には幾度となく丁字屋の名と江戸町二丁目丁字屋内の様子が描かれているのですが、地図上や鳥瞰図の江戸町二丁目には見当たりません。
    もし、なにか丁字屋、村田春海・妻おすが に関する資料があればお教え頂けないでしょうか。
    よろしくお願い致します。

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