下関・新地遊郭の歴史と現在(山口県下関市)|遊郭・赤線跡をゆく

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下関にあった新地遊郭 遊郭・赤線跡をゆく
ぱくたそ様提供

山口県下関市に存在していた「新地遊郭」は、港町・交通の要衝として栄えたこの地を象徴する歓楽街の一つです。
明治から昭和にかけて急速に発展し、最盛期には数百人の娼妓(遊女)や芸妓を抱える下関最大の色街となりました。

本記事では、
・新地遊郭の成立と発展の歴史
・赤線時代の新地
・現在の跡地の様子

を解説していきます。

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下関には遊郭が8ヶ所!なぜ下関には遊郭が多かったのか

下関にあった遊郭は、昭和5年(1930)発行の『全国遊廓案内』によると新地・裏町・豊前田の3ヶ所が記載されていますが、同時期に内務省警保局(現在の警察庁)調査によると、上記プラス5ヶ所のなんと8ヶ所。
内2ヶ所は貸座敷免許地には指定されていても営業はしていない「幽霊遊郭」につき、実質6ヶ所となります。
といっても、一つの街にある遊廓の多さとしては日本屈指です。

なぜ下関にこれだけの歓楽街があったのでしょうか。

下関は、平安時代末期~鎌倉時代初期の源平合戦のエンディング、「壇ノ浦の戦い」の舞台でもあり、古くから陸の・海の交通の交差点として栄えました。

江戸時代には日本海沿いの街を回って大阪へ至る「北前船」が通る船のターミナル、下関を通らないと瀬戸内海や太平洋に入ることはできず、ほとんどの船は下関で一休みとなります。

逆に、瀬戸内海から日本海へ向かう時も下関を通ることになります。人がここに集まるのは必然です。言わば「日本のボスポラス海峡」と言える所でもあります。ボスポラス海峡とは、トルコのイスタンブールにある、アジアとヨーロッパを分ける海峡のことね。

時代が変わり明治時代になっても、船はもちろん鉄道も山陽鉄道(現在の山陽本線)が下関まで線路を伸ばしたことから、更に人・モノ・金が入ってくることになりました。

今でこそ関門海峡トンネルで鉄道がつながっていますが、開通までは東から来た列車は全部下関でいったん終点でした。
現在でも下関から韓国の釜山をつなぐ船がありますが、飛行機がない時代はヨーロッパまでは船か鉄道で行くしかありませんでした。

下関もユーラシア大陸へ向かう客が釜山行きの船に殺到し、ある人は大志を抱いて、またある人は日本を捨てるように、人様々な気持ちを抱きながら下関で一旦休止したことでしょう。下関は、数々の人間ドラマが詰まった国際都市だったからなのです。

遊郭の多さは、すなわち様々な人が下関に集まり、モノも金も集まっていたという間接的な証左であります。つまり、大都市並に遊郭を増やしても成り立っていたというわけで。

新地遊郭-下関最大の遊里の成立と発展

新地遊郭は、「新地」と名前がついとることからわかるように、何もなかった荒地を色街用に開拓したことから始まります。
下関の新地も例外ではなく、明治初期あたりは一面の沼地だったそうです。
そこが開拓されて「新地」となったのでしょう。

山口県の遊郭、遊女
『山口県警察史 上巻』P591より

明治9年(1876)の山口県の貸座敷指定地(遊郭)の一覧ですが、「豊浦郡赤間関」の欄に「新地」とあります。これが新地遊郭の始まり。
明治16(1883)年の『山口県統計書』の遊廓一覧にも名前が掲載されています。

それによると、「貸席3軒、娼妓17人、芸妓4人」と、大正時代後期~昭和初期には娼妓・芸妓共に200人を超える下関一の遊郭に化けることをを考えると、この時は実にこじんまりとした所やったことが、数字を見るだけでもわかります。

明治30(1897)の『赤間関市統計書』は、「貸席数5軒、娼妓数12人、芸妓数1人」と、14年間ほとんど発展していません。

が!

これが明治45&大正元年(1912)の『下関市統計書』になると、「貸席数31軒、娼妓数304人、芸妓数36人」と、15年前の数字が嘘のような大発展。
15年を埋める史料がなくて一体新地遊郭に何があったのかはわかりません。が、これでわかることは、この間に新地遊郭は爆発的に発展したということ。

恐らく、日露戦争で大連・旅順が租借地になって満州への道が開かれ、更に明治43(1910)年の「日韓併合」などもあり、大陸への客足が急激に伸びて、大陸への玄関口である下関に人が集まった時代背景もあると推測しています。

大正後期のデータによると、

 貸席数(軒)娼妓数(人)芸妓置屋数(軒)芸妓数(人)
大正11(1922)4325142227
大正12 (1923)4322342261
昭和5 (1930)3283
出典:『下関統計書』『内務省警保局内部資料』

ある意味、ここあたりが新地遊郭の絶頂期でした、が、この数字だけ見ても不明なことがあったりします。

『下関統計書』には「売上」「来客数」も書かれているのですが、それによると

 大正11年大正12年増減
来客数(人)35,42234,291-1,151
売上(円)83,99110,949-73,042

と、来客数は少し減少程度なのに、売上だけが前年比較で約8分の1。これは新地遊廓だけではなく、下関の遊廓すべてがこんな状態。さて、大正12年に一体何があったのか?

関東大震災で破壊された銀座大正12年といえば、9月に関東大震災が起こった年です。これについては説明は不要でしょう。

東京の地震で何で下関が?と思うでしょうが、狭い視野で見ると重要なことを見落とすことになります。
推定ながら、東京が壊滅し海運などの流通が麻痺し、財布のひもが固くなったんはもちろん、東日本大震災の時に起こった「自粛ムード」がこの時にも起こったのかもしれません。

この「大正12年売上ダウン現象」は、大阪や神戸でも減り幅は下関程ではないものの、同じ現象が見受けられます。
大阪の遊廓を例にすると、

 大正11年売上大正12年売上増減
五花街遊郭¥7,087,094¥6,257,248-¥829,846
枚方櫻町遊郭¥818,256¥313,140-¥505,116
貝塚遊郭¥519,683¥313,140-¥206,543

この期間に売上が増えていたのは、飛田と栄橋(堺市)だけでした。

枚方と貝塚に至っては、客数は微増しているのに売上はボロボロ。客単価は激減→客の財布のヒモがかなりキツくなっていたことがわかります。

これらの数字は、大正13年(1924)には概ね元に戻っているので、やはり関東大震災が経済的に及ぼした影響は全国レベルではないかと推測できます。

赤線時代の新地遊郭

下関は交通の要所でもあると同時に、軍事的にも重要な所なのは書くまでもありません。当然、そのせいで先の戦争でアメリカ軍の空襲の対象になるのは必然。
空襲により下関の遊郭は跡形もなく焼けてしまったのですが、新地遊郭は郊外にあったせいか、唯一空襲を免れて焼け残った遊郭でした。

そのせいか、新地遊郭は周りに映画館なども出来た歓楽地に。赤線時代は駅前という絶対的な地理的条件を備えた旧豊前田遊郭以上に栄えたそうです。

そんな赤線時代の新地を、『全国女性街ガイド』は簡単にこう説明しています。

銭稼ぎで有名な林兼本店の近くにある新地で七十五軒に二百十名、洲崎型の小店が多い。

引用:『全国女性街ガイド』

実に簡単ですが、これ以上の説明は特になし。わかるのは数字だけ見るとけっこう栄えていたというてことかな。
ちなみに、ここに書いている「林兼本店」とは、おそらく林兼産業のことと思うのですが、ホームページを見てみると今の本社は新地遊郭があった場所とは全く別の場所にあるので、昔の本社はここあたりにあったのかもしれません。

もちろん、ここも売防法施行で廃止になるのですが、良い意味で都市開発から取り残されたせいか、私が訪問した10年前には赤線時代をしのばせる建物がいっぱい残っていました。

性地巡礼ー下関新地遊郭跡を歩く

現在の新地遊郭を歩いてみましょう。

本編でアップしている写真は、2011年に撮影したものが中心となりますが、2026年7月に再度訪問したものも混ざっています。
写真をすべて更新しようかと思ったのですが、15年前とほとんど変わってなかったので替える必要もないかと(笑

下関新地遊郭の入口、新地西町交差点

新地遊郭の場所は、現在の新地西町から上新地町にかけて。画像の「新地西町」交差点があるように、「新地」という地名は今でもちゃんと機能しています。

2026年撮影、下関新地遊郭
2026年撮影

新地遊郭の正面は、日本海沿いを走る国道191号線の終点近くでもあります。
幹線道路沿いにドカン!と建っているので、あまりに堂々としすぎて見逃す人がおいるかもしれない!?
新地遊郭が栄えたのは、おそらく遊郭の方が先輩だと思うのですが、191号という幹線道路沿いに作られたこともあると思います。それにしても、道路拡張なんかで真っ先に壊されそうなのに、よく生き残っていたものです。

下関新地遊郭
2011年撮影

上の画像の建物を近くから見てみた感じです。
赤線現役時代の住宅地図によると、ここは「春の家」という屋号で、売防法完全施行後は旅館に転業した模様です。

2026年撮影、下関新地遊郭
2026年撮影

入口はきれいにタイルが残っています。

下関新地遊郭
2011年撮影

細かく調べていくと、けっこう装飾が細かいことがわかります。このケバい色使いに上のタイル、もはや説明不要です。画像を十分にお楽しみ下さいという感じです(笑

下関新地遊郭
2011年撮影

このドアを見るだけでも、けっこう芸が細かい。建物自体は、10年前でもひび割れが目立ちガタが来ていましたが、こういう細かい装飾は全く変わっていません。

下関新地遊郭
2011年撮影

ここの隣にあった妙に斜めな玄関の建物は、2026年時点でなくなってしまいました。
鳩の街、玉の井のカフェー街を彷彿とさせる戦後の赤線カフェー建築の典型と言えるものでしたが、残念です。

下関新地遊郭
2011年撮影

元「春の家」の南隣にある建物ですが、住宅地図の字がつぶれて判別不能なものの、こちらも元赤線の店だと推定できます。

違う角度で見てみると…

下関新地遊郭
2011年撮影

これももはや何も言うまい。正面はほぼ和風です。
そこのアンバランスかつアバンギャルドなとこが、また赤線っぽい所でもあります。その妙なバランスの悪さが、我々の心を刺激するのかもしれません。

赤線の店は、構造上旅館や下宿に転業することが多いのですが、ここはどうやらパーマ屋(美容院)に転業した模様です。

下関新地遊郭

こちらは、遊郭・赤線跡探索者には有名な建物ですね。

2026年撮影、下関新地遊郭つる八
2026年撮影

こちらは15年後の姿。
「旅館 つる八」の看板はなくなり、人気もなく閉館してしまった模様です。

2026年撮影、下関新地遊郭つる八
2026年撮影

入口の側面の派手な色のタイルは、まだ残っています。
ここも赤線の店だったと思うのですが、昭和33年(1958)の住宅地図で精査すると、ここは「食堂」になっており、果たして赤線の建物だったのか!?という疑問が、10年目にして浮かび上がってきました。

下関新地遊郭
2011年撮影

新地西町を奥に入ると、どこにでもある下町って雰囲気となりますが、ここはかつての色街、どこか面影がないこともないような気もします。
ここの右側、コンクリートで舗装している部分は昔はどうやら川の模様。ここあたりに橋が掛かってたのかもしれません!?

下関新地遊郭
2011年撮影

建物自体は、10年前でもかなりガタがきており、今にも崩れそうでしたが、きちんとリフォームしたら綺麗になるかもしれません。

こういう時に建築学でも勉強しときゃよかったと思うものの、あいにく私にそういうセンスはないようです(笑

下関新地遊郭
2011年撮影

売防法で飲み屋に転業した後の改装の可能性が大きいですが、「斜め玄関」がなんとなく赤線っぽさを感じさせます。
残念ながら、こちらの建物は2026年現在、壊されて現存しません。

下関新地遊郭

ピンクの壁の建物に別れを告げ先へ進むと、戦後築よりたぶん戦前からの生き残りのような建物と出くわします。

下関新地遊郭
2011年撮影

新地遊郭跡を更に奥へ進むと、クネクネとした細い道が続きます。

2026年撮影、下関新地遊郭
2026年撮影

15年の歳月が経っていますが、ここの光景は全く変わっていません。ちょっと怖いくらいに…。
2026年の写真はモノクロですが、カラーでも撮影しています。
が、カラーにしても2011年と色合いは変わらないので、それじゃ面白くないと敢えてモノクロの方をアップしています。

2026年撮影、下関新地遊郭

ここが現役だった頃は、艶めかしいピンクや赤のネオンに飾られた家々に女の嬌声、男の怪しい視線が飛び交う「繁華街」だったのでしょう。それははるか昔の伝説の時代、でも歴史の事実でもあります。現在だけを見ると、到底信じられないでしょうが。

2026年撮影、下関新地遊郭にある銭湯千歳湯
2026年撮影、下関新地遊郭にある銭湯千歳湯

画像左にある建物は『千歳湯』という銭湯で、戦前からずっと続いてた所で銭湯マニアの中でも有名店でした。
最初の訪問時の2011年はまだ現役だったのですが、15年経った現在はさすがに閉業…と思ったらまだ続いているそうです。

下関新地遊郭
2011年撮影

その昔、ここに何かの建物があったのでしょう、道の角に玄関の屋根だけが残っている不思議な光景です。『赤線跡を歩く』の木村聡氏も同じ気持ちになったのでしょう、写真と文章でこの何かのかけら(・・・)に言及しています。

2026年撮影、下関新地遊郭
2026年撮影

2026年もこちらは健在でした。

下関新地遊郭

10年前の写真とGoogle mapのストリートビューを見比べながら、バーチャルで新地遊郭の10年後を探索すると、私の直感で撮影した建物はほとんど残っているようでした。が、上の写真のものだけは残っていなかった模様です。

おわりにー下関新地遊郭は「野外赤線博物館」だった

2026年撮影、下関新地遊郭
2026年撮影

新地遊郭は「遊郭色」より「赤線色」が濃い所だったのか、東京の鳩の街のような雰囲気を感じた遊里跡でした。

売防法後の旧新地遊郭跡は、中心地から外れたのが幸いしたか災いしたか、現在でも古い建物がいっぱい残ってる野外博物館のような場所でもあります。
まだ町並み自体は残ると思いますが、市が景観を保存することはないので、このどこか懐かしい光景もあと何年残るのかはわかりません。
遊里抜きでもこの町並みは一度見ておく価値があるかもしれません。

末永くこの光景が続いてくれることを祈りつつ、今回のお話はお開きということで。

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