戦後の堺-赤線時代
上述のとおり、堺の遊廓は空襲で跡形もなくなってしまいますが、戦後も赤線として、それこそフェニックスのように復活。昭和33年の売防法完全施行まで繁盛していました。戦前は「龍神」「栄橋」と分裂していましたが、戦後はどうだったのでしょうか。残念ながらそういうデータは見つかっていません。
以前、横山やすしについてのブログ記事で、やすしの育ての親である「タキヨさん」がここで働いていたと書きました。それが酌婦、いわゆる売春婦だったのか、それとも掃除などの賄いだったのか、はたまたカフェーの店主だったのかは、やすしの自伝でもあいまいにぼかしており不明です。が、一つわかっているのは、「タキヨさん」がここで働いていたことをやすし本人が認めていることです。
毎度おなじみ『全国女性街ガイド』にもここの記載がありますが、あまりに露骨な表現が多い割には歴史的な情報量が乏しい…要はわざわざ書く価値がない(笑
しかし、当時の赤線は「66軒に234名」とあり、この本と同時期の『龍神カフェー組合』名簿の軒数は75軒。まあ9軒なら誤差としておきましょう。戦前の往事にはかなわないけれども、なかなか繁盛していたものと思われます。
赤線時代の堺龍神を語る上で、一人の重要な脇役が参上します。
それが元野球選手の稲尾和久氏(故人)。
「鉄腕稲尾」「神様・仏様・稲尾様」と呼ばれた西鉄ライオンズ不動のエースで、野球好きなら知らない人はいないほどの有名選手です。昭和33年(1958)の西鉄vs巨人の日本シリーズで、7戦中6戦に登板、3戦目から5連投と、ライオンズ3連敗からの4連勝という伝説の立役者。こんな登板ペースを現在の投手がやったら死ぬで。
ライオンズにはもう一人、伝説の選手がいました。
それが大下弘。
昭和20年代のプロ野球を代表する野手で、同時期に活躍した巨人の川上哲治の「赤バット」に対し、「青バット」と呼ばれ、当時のパリーグを代表する人気選手でした。
また、「プロ野球史上最強の左打者」とも呼ばれ、オリックス時代の無敵モードイチローを見たある解説者いわく。
イチロー君すごいね。でも大下さんをを間近で見てたから別に驚きません。
イチロー生みの親こと仰木彬オリックス監督(当時)も、現役時代に大下と共にプレーしており、イチローに大下の姿を写したかもしれません。
そんな大下は、もう一つの顔を持っていました。今風に言えば「野球界の風俗王」。
この大下、とにかく病的な女好き。素人玄人問わず色んな女に手を出し、最後はヤクザのヒモがかかった素人女を寝取ってヤクザが家や球団にまで押しかけてきたところで、奥さんに、
素人には手を出さないで!玄人ならいくらでもいいから…
と泣きつかれてしまいました。
「玄人」とはつまり赤線の女。
懲りるどころか、奥さんから「赤線行き放題」の免罪符をもらって大喜びの大下、大手を振って全国の赤線に繰り出していました。時には赤線から球場に通っていたこともあったそうです。
大下はまた、試合後チームメイトを誘って赤線へドボンしていたそうで、大下と共にライオンズのクリーンアップを形成した豊田泰光氏も、大下に連れられて赤線に繰り出していたことを回想しています。
稲尾も、そのうちの一人でした。
おそらく南海ホークス戦の後だったのでしょう、当時ルーキーだった稲尾氏は大下に連れられ、ここ堺龍神へ。
こいつ童貞だから頼むな
と「プロ」に託し、なされるまま童貞を卒業した話が、大下の伝記に稲尾本人談として書かれています。
売春防止法が施行され赤い灯が堺から消えても、赤線の建物はバブルの頃までかなり色濃く残っていたそうです。しかし、堺駅からの立地条件の良さが逆にバブルの地上げの餌食になったのでしょうか、それ以後は急速に消えてしまったそうな。
(出典:フォト蔵 ライムライト様フォトアルバムより)
昭和53年(1978)、当時の建物が残っていた頃の龍神赤灯街跡を撮影した写真がありました。右側に「料亭 扇屋」という看板が見えますが、赤線が現役だった頃の住宅地図と照合しても該当する屋号は見つからず。赤線廃止跡に屋号を変えたものと思われます。
(出典:フォト蔵 ライムライト様フォトアルバムより)
こちらも、「三喜屋」という屋号が見えるものの、住宅地図には該当のものは存在せず。昭和50年代の住宅地図もGETしておけばよかったか…と少し悔やんだところで、隣の「金松」という屋号を発見。これで写真の場所を特定できました。
(出典:フォト蔵 ライムライト様フォトアルバムより)
こちらは「金正」という屋号が確認できます。
位置はこちらにありました。当然のことながら、現存はしていません。
(出典:フォト蔵 ライムライト様フォトアルバムより)
こちらは赤線廃止20年経っても、まだピンク色の臭気を発していそうな雰囲気ムンムンの「旅館いろは」。ただし、外壁にかなり衰えが発生し、妓楼界の老婆といったところか。
こちらはここに存在していました。現在はマンションになっています。
(出典:フォト蔵 ライムライト様フォトアルバムより)
こちらは、上述の「金正」の通りを南方向に写したものです。たばこ屋が場所特定の大きな目印となったのですが、大和郡山の東岡町の時もそうでしたが、住宅地図から場所を特定する際、たばこ屋がけっこうな目印になることがあります。
元画像の画質が最高によろしいので、画像の奥の道を拡大して表示も可能です。
奥に並ぶ店の数々…写真は赤線の赤い灯が消えて20年後のものながら、やはり色街のお色気が残っている気がします。もちろん、今は全く残っていません。
地元民だからこそ、この時代のここを見てみたかった。
そのタバコ屋の奥に、「いかにも」という建物が見えます。
こちらは私が初めて訪問した14~5年前にも存在しており、写真にも残しています。「いかにも」って感じでしょ?
この窓がまたたまらない。
こちらは現役当時は「東金正」という屋号の店で、上に挙げた「金正」の支店のようです。赤線当時の組合員名簿にも同じ名字の方の名義となっています。
なお、商売柄赤線には電話が必須アイテムです。龍神の赤線も電話所有率が非常に高いのですが、75軒中3軒だけ電話がない店があります。「東金正」はその1軒なのですが、何かあったら向かいの本店にかけろということでしょうね。
この建物、Google mapのストリートビューによると2010年時点では残っていたようですが、2014年には惜しくも消滅。遊里跡の建物としては最も色濃く残っていたものだけに、残念です。
現在の龍神・栄橋遊廓跡は…
私が初めてここを訪れた時は、上に挙げた建物はほとんどがビルやマンションとなっていましたが、まだいくつかの建物は残っていました。
が、わずか10年ちょっとの歳月なのに、気づいたらそれらもことごとくなくなっていました。
唯一残っているといえば、これくらいでしょうか。こちらは十数年前と同じたたずまいでまだまだ残ってくれることを祈ります。
ただ、物理的にはなくなってしまっても、写真には撮っておいたので、私の画像ファイルの中にあった、過去の写真を。「こんな建物がありました」というアーカイブにどうぞ。
こちらは、赤線現役時代の住宅地図によると「むさしの」というお店だった建物。昭和30年の龍神の組合員名簿にも屋号を確認できます。ちなみに電話番号は3708番でした。
撮影した当時はそんな資料もなく、経験で培った山勘で「これは怪しい」というものを念のために撮影したに過ぎなかったのですが、その勘が当たったようです。
「旅館 ときわ」と書かれた建物です。建て方が、遊廓・赤線跡を渡り歩いた人には「いかにも」という外観ですね。
そして、こんなものもありました。
もはや何も語るまい…外観を存分にご堪能下さい。
住宅地図によると「栄福」という屋号の店だったと思われるもので、強烈な個性を放つ2階はおそらく客のための夕涼み場だったのではないかと、勝手に想像しています。
横から見るとこのとおり。
横の隙間を覗いてみたら、赤線時代の面影をなんとなく残していました。
惜しくも現存はしていませんが、実はGoogle mapのストリートビューのアーカイブで、2010年に設定すればこの建物を見ることは可能です。つまり、10年前はあったということです。
龍神・栄橋地区の赤線時代の遺構は、2014年になるとほぼすべて消えていました。2010年から4年の間に、さらなる開発が進んだのでしょう。残念ですがこれも元色街の宿命か。
神明神社の玉垣
色街跡の外れには、神明神社という神社があります。天照大御神と、その食事を担当する豊受大御神を主祭神として祀っているため、「堺のお伊勢さん」と地元では呼ばれています。
「訳あり日本一低い山」こと蘇鉄山の登山証明発行所として、斜め上な方にはお馴染みの神社でもありますが、それについてはこちらのブログ記事を。
地理的に廓とは無縁ではなかったか、ここには龍神遊郭の玉垣が残っています。
写真は一枚だけですが、「龍神廓」の見世の名前がずらりと並んでいます。神社は堺空襲で全焼したのですが(再建は意外にも平成に入ってから)、玉垣の見世の名称からして戦前のものに違いありません。なぜなら空襲で焼けた後は赤線として蘇っても、花街としては二度と復活しなかっただろうから。
で、玉垣に書かれた見世の名前を、昭和7年の組合員リストと照合すると、「長春楼」「富貴楼」「大和家」「駒屋」など一致する名前があります。
ところが、結果的に玉垣の見世の半分以上がリストにないのです…玉垣の「艶乃家」は組合員リストの「艶の家」、「鶴乃家」は「鶴の家」、「葭花楼」は「葭花」とみなしても、ざっくり計算で一致率約6割。
あとの4割はどこへ行ったの?と私に聞かれてもわかりません。せっかく組合員名簿を手に入れて玉垣とすべて一致させようとしたのに、一致どころか、なんだこの不一致ばかりはと。
補足-いづみ荘の「無実」を証明する
この地区を歩いていると必ず目に入る建物があります。
「いづみ荘」と書かれたアパートですが、入口に注目!
見よ!この神々しいばかりのタイルを!!
丸い円柱に埋め込まれた空色の豆タイル…そして写真には写っていないですが、正面玄関の横にも玄関があります。東京の赤線跡であれば、その場で遊里跡赤線文化財に指定されるほどの逸品。他の方のブログも、クロと断定しています。
が、私は少し違和感を持っていました。
外観的には確かにビンゴなのですが、場所が赤線地区から少し離れてるのです…。周囲の建物が無くなり、これだけが残ったと言われると納得しないこともないものの、なんか喉に骨が刺さったような違和感が。なので、私は10年間「クロ認定」は避けていました。
その違和感、やはり住宅地図が解決してくれました。
赤線現役時代かられっきとしたいずみ荘(いづみ荘)でした。つまり「シロ」。
さらに、プライバシーの都合でモザイクをかけていますが、周囲の家々も名前を見る限りふつうの民家であり、「いづみ荘」だけ赤線の店というのも不自然に感じます。
まあ、確かに建て方は赤線建築に特徴的なものではあるので、勘違いしても仕方なし。元々は赤線の店だったものの、住宅地図に掲載される前に廃業し「いづみ荘」になった…そんな可能性もなきにしもあらず。
遊郭赤線探索家(?)がみんな「クロ」認定している建物を、大多数に逆らって敢えて「シロ」認定したところで、今回のお話は終わります。
(※こちらに堺龍神赤線のカフェー建築が掲載されています)
・『南海鉄道案内』
・『堺大観』
・『堺名勝案内』
・『上方』26号 続大阪明治文化号
・『上方色街通』
・『龍神演舞場新築竣成記念写真集』(昭和7年)
・『全国遊廓案内』
・昭和3年大阪市航空写真(大阪市所蔵)
・昭和17年大阪市航空写真(大阪市所蔵)
・『全国女性街ガイド』
・『堺市全住宅案内図帳(北部)』(昭和31年)
・『堺市全商工案内図帳』(北部)(昭和38年)
・『ゼンリン住宅地図 堺市』(昭和45年)
・『堺遊里史』
・『まいど!横山です ど根性漫才記』
他堺市立図書館所蔵の郷土資料
コメント
鉄道や街の歴史について入念に調べ上げられていて大変好奇心を惹きつけられます。記事の内容が痒い所に手が届くというか、小さな疑問にも答えてくれるまでに詳述されているので読後のモヤモヤ感が無くスッキリします。
何時もそこに在るのでこれからもずっと在るだろうと思ってしまうんですね。ある時ふと無くなっている事に気付く。街の風景は知らずの内に大きく変わってしまい「あの時なんで写真に撮っておかなかったのか」と悔やむことばかりです(特にバブル以降)。
今後ともいろんな記事を拝読させて頂きます。
はじめまして。
坂井と申します。
良く調べられておられますね。
一点だけ申し上げたいことがございます。
「旅館 ときわ」と書かれた建物で、現役時代は「さかヰ」という建物だったと思われます。
「さかヰ」は隣のマンションです。
住んでいたので間違いございません。
>坂井様
はじめまして。コメントありがとうございます。
ご指摘の部分、訂正(該当部分を削除)しました。
ありがとうございます。
ツイッターでフォローさせていただいています。
私は70年代初頭の中学生までここの校区で育ち『料亭、旅館』の同級生も何人かいました。
これまで龍神遊郭のことを書かれたものをほとんど見たことがなかったのですが、これですっきりしました。
ところで演舞場ですが、コンフォートホテル堺の位置にあったことは私も過去の航空写真を見て確認しましたが、それまでそこに演舞場建物跡があったことは記憶になく、そこは高架前の旧堺駅舎であったので1955年の開業の旧駅舎建設に伴い取り壊されたのではないでしょうか。
でも上空から見た形は確かにそっくりすぎますよね、いつも利用していた堺駅ですが1955年開業の割には子どもの頃でも古ぼけた印象しか残ってないのですが、演舞場建物を新駅舎開業に合わせて改築転用したとかは考えられないでしょうか。
>臭豆腐老公様
こんばんは。ツイッターでお世話になっています。
>演舞場ですが、コンフォートホテル堺の位置にあったことは私も過去の航空写真を見て確認しましたが、それまでそこに演舞場建物跡があったことは記憶になく、そこは高架前の旧堺駅舎であったので1955年の開業の旧駅舎建設に伴い取り壊されたのではないでしょうか。
改めて精査してみたのですが、戦後の演舞場と思っていたところは「旧堺駅」の駅舎でしたね。ご指摘ありがとうございます。本文を訂正しました。
>演舞場建物を新駅舎開業に合わせて改築転用したとかは考えられないでしょうか。
演舞場の場所は、「旧堺駅」あたりなのは間違いないと思うので(また後で精査します)、その可能性もゼロではないですね。そういう仮説は興味深いので、堺に帰ったら写真などを探してみます。
②で紹介されてる『旅館、料亭』は小中学生の頃はまだ竜神橋町、栄橋町一帯は遊郭当時そのままだったし、夜に通ると上がり框でパンツも露わに突っ伏して倒れているお姉さんを見かけたりしましたが、飛田のように客引きをしているような光景はなかったような気がしますが、何分子どもの頃の記憶なのでどうでしょうか。
あの辺って遊廓があったんですね。メンズエステのルームがあって行ったことがありますが、ある意味適切な場所なんですねえ
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