昭和初期とはどんな時代か。これは政治・経済・文化…人によって切り口が変化します。それが歴史の多様性というもので、見方は一つではありません。
その中でも、社会史・女性史という点という観点から見ると、女性の社会進出が急激に広まった時代という見方があります。
女性は家庭に入り家事をやっていれば良い…そんな古い価値観にヒビが入り始めたのは1920年代、大正末期のこと。
本格的な社会進出が始まったのは昭和初期の5~6年頃ですが、その間接的な証拠に、女性の社会進出をもじった新語が、この時代に雨後の竹の子の如く出現しました。
1930年前後の流行語辞典を見てみると、「○○ガール」という言葉が山ほどあらわれます。1920年代の辞書には全くなく、明らかにこの時代に生まれた言葉ということを物語っています。
大手を振って社会に出る女性たちを世間は、「尖端ガール」と呼んでいました。
「尖端ガール」って何やねんと解釈はなかなか難しいですが、要は「流行にのったファッショナブルでナウい女性」ということ。え?「ナウい」って何?ならば「トレンディーな女性」のことや…って余計わからなくなってきた?
まあ、どんなものかは後でわかることでしょう。
ところで、こういうものがあります。

『実業の日本』昭和6年新年号掲載「女商売新旧番付」という、明治(左)と昭和(右)の女性職業の新旧を番付風に描いたものです。
「旧職業」と書かれた西側には、「女工」「芸者」「女中」など古びた単語が並びますが、いちいち説明しなくともどんな仕事内容か、一般常識で理解できます。「びらまき女」でさえ、すぐイメージがつくでしょ。
それに対し、昭和の新職業は、「アナウンサー」やら「ピアニスト」などはさておき、ガールばかりで何かよくわからないのが多いですね。
しかし、今に通じる職業がこの時代に数々出てきます。
一例が、二段目にある「美容家」。これは現在の美容師。
古い方に「髪結い」とありますが、かつてはそう呼ばれた賤業でした。
ところが、女性のファッションスタイルが多様化したこの時代、「最尖端」な職業として注目され始めました。美容家と書かれているのは、まだ美容師という言葉が定着していなかったということです。
ちなみに、これから「○○ガール」が山ほど出てきます。が、これはフィクションではありません、ほぼ史実です。
尖端ガールはどんなものがあったのか。これから見ていきましょう。
モダンガールー昭和モダンの象徴

これは歴史に疎くても、一度は聞いたことがあると思います。
関東大震災の衝撃冷めやまぬ大正末頃の東京銀座、一部の女性たちが、当時「尖端」だった洋服をまとい街を歩きはじめました。実は「尖端」とは「モダンな」というニュアンス。「尖端ガール」は大なり小なり「モダンガール」という意味に通じるのです。
当時、洋服といえば子供服に限られ、大人は着物が当然の時代でした。洋服で町中を歩くのは、今で言えばコスプレ感覚。
モダンガールが「尖端」なところは、服装だけではありません。髪の毛をばっさり切り、今でいうセミロング〜ショートボブくらいの短さにしたのです。
「断髪」と当時呼んだのですが、これは女性の髪は長いというのが普遍の真理だった日本の女性史・美容史の革命でした。
モダンガール=洋装というイメージがありますが、和服のモダンガールも存在していました。といっても、街角では洋服でおめかししても、家では着物だったという女性が大多数だったそうです。
では、「和服姿のモダンガール」ってなんじゃ!?と問われれば簡単。髪の毛を断髪(ショートカット)、または結ったり束ねていなければすなわちモダンガールなのです。つまり、モダンガールか否かの基準はファッションではなく、髪型だったと。
髪の毛が短いと、髪型をキープするのに手間暇お金がかかります。よっておしゃれのためのプロが必要となる。そこで生まれたのが美容師や、後に触れる「マニキュアガール」という流れです。
そこにお金をかけられるということは、それだけ豊かになったというあらわれです。
のちに「モダンボーイ」も出現し、総称で「モガモボ」と略されて呼ばれるようになります。

モボとモガ、どっちが先だったのか?
という素朴な疑問がありますが、これは明らかにモガが先。モボはモガから生まれた子どもです。これについては百聞は一見にしかず。「モガ」というものはどんなものか、写真でどうぞ。

木村伊兵衛(1901-1974)撮影と言われる代表的なモガの写真。

市電に乗ろうとする東京のモガ。1932年。

注目すべきは両端の洋服の女性ではなく、真ん中の笑顔の女性。
笑顔がすごく素敵なのでお気に入りの1枚です。
洋服を着ていませんが、モガの基準は「髪型」なので彼女は和服を着たモガ。というか、3人全員モガ。
モガ=東京=銀座というイメージですが、当然ながら東京以外にも。

昭和5年(1930)前後、大阪道頓堀の戎橋を歩くモガ。

こちらは名古屋の繁華街を歩くモガ。
と思われる写真。京都の新京極通です。着物、袴、洋服のモガなどこの当時ならではの和洋いろいろな服装が見られます。-1024x732.jpg)
ある意味いちばん洋装とモガが似合わなそうな京都にもモガは現れていました。
やはり古都にモガが珍しかったのか、右手前の女性が振り返っているのが面白い。
昭和12年(1937)の盧溝橋事件以来、戦争の影で社会に暗い空気が漂い始めますが、それでもモガはゆく。

盧溝橋事件が起こった頃でしょうか、昭和12年(1937)に同じく大阪で千人針を縫うモガ。

昭和13年(1937)、東京銀座の喫茶店、「コロンバン」の窓から見えたモガ。
世間では支那事変(日中戦争)が泥沼化し、「非常時」という言葉が聞こえてくる頃ですが、それでもモガは歩いていました。

それから3年後の昭和15年(1940)になると、国民生活にも余裕がなくなり、特に食生活に影響が出て来た頃でした。しかし、それでもモガは不滅。
こういう写真を見ると、いつも思うことがあります。写真に写る彼女らは、あの戦争を生き抜いたのだろうかと。
モダンガール旋風は、内地(日本)を越えて外地へも広まりました。

戦前の朝鮮鉄道には、京城(ソウル)~釜山間に「あかつき」という快速急行が走っていました。どちらかの駅でしょうか、見送りの女性も見送られる方もモダンガールです。
なお、ホームに立つ右側女性は、朝鮮の伝説の舞踊家で戦後北朝鮮で行方不明になった、崔承喜(1911-1969?)とのこと。

こちらは日本統治時代の台湾台北。
台湾のモガは内地と違った事情がありました。まずは洋装が当たり前だったこと、そして上海の「チャイナドレスブーム」の影響を受けていたこともあり、台湾のモガはチャイナドレスでした。

お次は女性の社会進出から生まれた「職業系ガール」たち!
エレベーターガール
昭和初期に生まれた「◯◯ガール」の中で、現在でも使われている名称のひとつです。エレベーターガールは、昭和初期の「もっとも尖端的な職業」として大人気の花形職業でした。
日本で初めてエレベーターガールを採用した松坂屋のHPによると、最初は「昇降機ガール」と呼ばれていたそうです。

(1930年代、大阪心斎橋大丸のエレベーターガール)

昭和8年(1933)8月19日『大阪毎日』に掲載された、京阪デパートのエレベーターガール募集広告です。細かいところですが、「エ」が「ヱ」になってますね。
また、エレベーターガールがいればエスカレーターガールもいました。

昭和11年、阪急電鉄が念願の神戸市内(三宮)延長を完成させたのですが、ホームまでの階段に「動く階段」ことエスカレーターが敷設されました。写真の階段の先は、阪急線のプラットホームです。
たかがエスカレーターにガールは要らんやろと思うのですが、当時は珍しい分危険を伴ったのでしょう。

「エスカレーターガール」は戦後もしばらくはいたそうで、アニメ「魔法使いサリー」の白黒版の第一話に、ほんのワンカットですが「エスカレーターガール」が登場していました。
エアガールーCAの先駆け
昭和に入り大きく進化・発展したもの…それは飛行機。
「エア」はAirなので飛行機のガール・・・まあお察しのとおりスッチー…というと年齢がバレるか、CA(客室乗務員)です。
日本で「エアガール」を初めて採用したのは、「日本航空輸送」という会社でした。昭和6年(1931)2月5日に一次試験が行われ、応募者141人から10人に絞られました。3月に二次試験が行われた結果、女学校卒業予定の3人が日本初のCAとして採用されました。
めでたく決まったエアガールですが、実は裏話があります。
実はこの3人、翌月の4月には全員退職してしまいます。
理由は給料の安さ。給料は「フライト1往復あたり3円」だったのですが、1日一便として20日働けば月60円。いや、10日働いて30円ゲットでも、月給10~15円が相場だった当時の女性にしては破格の給料だったはずなのですが…。
たぶん、飛行機の性能も良くなく、給料に見合わないほど当時の空のお仕事は過酷かつ危険だったのでしょう。なにせ海軍パイロット養成学校が、「人類虐殺学校」と陰口を叩かれたほど死亡率が高かった時代でしたから。
それからエアガールの空白時代が続き、本格かつ大量採用となったのは昭和12年(1937)、国際線が就航し始めた頃でした。


いずれも昭和15年(1940)前後、大日本航空のエアガールたちです。
マリンガール
また、空にガールあれば海にもガールあり。
この当時は船も重要かつ常用される交通手段の一つでしたが、そこに現れたのが!

「マリンガール」でした。
彼女らは乗務員として船に乗り込み、客向けのサービスを行っていました。

こちらは昭和15年(1940)、琵琶湖遊覧船のガイドをする「マリンガール」です。
バスガールと市電ガール
番付のトップクラスに、「女車掌」という名称があります。
今はワンマンが当たり前になっていますが、昔のバスは車掌も乗り込みきっぷの販売などを行っていました。バスの女車掌は、やはり当時の流行か「バスガール」と呼ばれることもありました。
バスガールの始まりは、大正13年(1924)の東京市バスでした。関東大震災で打ちひしがれた東京に活気を取り戻そうと、殺風景な乗り物に「花」を添えるべく新設されました。
ところが、募集人数170人に対し、希望者は70名ちょっと。予想外の不人気に東京市はそんなバカなと頭を抱えたそうです。この5年後には寝てても志願者が殺到する時代になったのですが、東京市の目は少しだけ、時代の先を行き過ぎたようです。
その「5年後」の昭和5年頃から、バスガールが大ブレークします。

コスプレ大会の写真ではありません。昭和3年(1928)、大阪市営バスの女車掌です。

男装の麗人のような出で立ちですが、ちょうどこの時期は、川島芳子に歌劇団の男役の「男装の麗人」が流行ったので、この奇抜すぎる制服は流行に乗ったのかもしれません。制服の色もカーキ色に赤のネクタイと、「男装の麗人」を意識している感があります。

同じ大阪の民間バス会社、通称「青バス」のバスガール。「青バス」に対し市営バスは「銀バス」と呼ばれ、両者は血で血を洗う、壮絶な客の取り合いをしていたライバルでした。

バスガールは内地を越え、外地へも飛び出しました。
1930年代、日本統治時代の台湾台北のバスガールです。
「ガール」は市電とも相性がよく、バス以上に各都市の市電が積極的に女性を採用していました。市電に特化したネーミングはないようですが、ここでは敢えて「市電ガール」という新語をつけてみます。

1936年(昭和11)、京都市電の女車掌たちの実習風景です。

昭和12年(1937)、東京市電のガールたち。写真からでもわかる気品と市電ガールとしての矜持を持つ真ん中の女性に、思わず目が向きました。
他の4人が腕章をつけていますが、立ち姿がだらしないので、たぶん「研修中」と書かれた新人ではないかと。真ん中の彼女はOJT係の先輩でしょうね。
東京市電嬢は「サービスガール」と呼ばれていました。

昭和10年(1935)、神戸市電ガールです。
濃緑と薄緑の上下の制服に、斜めにかぶったおしゃれな制帽。機能性とおしゃれを両立させたモガスタイルは、さすがは神戸だね~おしゃれだね~と大評判。遠く東京から見物に来たり、車内でプロポーズされることもあったそうです。
なお、「市電ガール」は他にも、名古屋や長崎、広島などにもおり、全国規模で広がっていました。
もっと珍な画像を。

電車の女車掌です。

日本で初めて女性車掌を採用したのは、う○こ色電車でお馴染みの阪急電鉄。昭和13年(1938)のことで、阪急電鉄の公式社史にも、
「どうだ、我が社が日本初だぞ!」
と偉そうに誇らしげに書かれています。
と言いますが!

昭和7年には参宮急行電鉄(元近鉄大阪線)の急行列車に女性乗務員がいたりします。出典は『アサヒグラフ』昭和7年7月号なので、論より証拠。
が、彼女の肩書は「乗務宣伝員」であって、沿線の観光名所を紹介するPR嬢。車掌ではありません。
彼女いわく、男の酔っぱらいに冷やかされたり絡まれたりすることがあり(当時はセクハラなんて概念はないし、働く女性自体が動物園のパンダ状態)、乗務後一人で泣くこともあるという、生々しいインタビューもあります。
阪急の車掌の話に戻ります。
彼女らの肩書は「補助」だったものの、45名の大量採用からしても将来の主力と計算してのことだと思います。ただの補助や話題作りなら「若干名」でしょう。
しかし、はやり時代が悪かったか世の中は戦争に入ってしまい、阪急の試みはあまり知られずに終わりました。
ガソリンガール
モータリゼーションといえば、戦後の昭和40年代を思い浮かべる人が多いと思います。高嶺の花だった乗用車が大衆化した時代です。
しかし、大衆化とは言い難かったものの、昭和初期にも小さなモータリゼーションが日本で起きていました。乗用車の増加で「渋滞」という言葉が生まれ、トヨタや日産自動車が生まれたのもこの頃です。
車の追加によって増えるもの、それはガソリンスタンド。もうこれでお察しでしょう。


そう、ガソリンスタンドの女性店員が「ガソリンガール」なのです。
しかし、世のオスどもはメスに弱いのは、人類がいくら進化しても変わらない法則。
「ガソリンガールが給油してさしあげるわよ♪ 窓も拭くわよ(ハァト」
と、美人な店員がいる所には車が殺到したそうな。
このガソリンガールはかなり人気と需要があった証拠に、上の番付では堂々の関脇に位置しています。
ショップガール

お店の売り子、女性販売員のことです。特に百貨店のショップガールは1,2位を争う大人気の職業で、想像通り「デパートガール」と呼ばれていました。この言葉も「デパガ」として現在まで生き残っています。

屋上で営業前の準備体操をする、大阪梅田の阪急百貨店のデパートガールたち。

採用試験には女性が殺到。セーラー服の女学生から妙齢の婦人まで、様々な階層、年齢層がいたことが伺えます。
デパートとくれば案内嬢。「ガール」はつかなかったですが、こちらも女性花形の職業でした。


やはりデパートの顔だけに容姿端麗、育ちの良いお嬢さんを選んだそうです。
食堂ガール
番付の横綱を張っている「ウェイトレス」は説明不要ですが、当時の雑誌を調べてみると直感どおり「食堂ガール」と呼ばれていました。

昭和12年(1937)、大阪難波高島屋の地下食堂『難波グリル』の食堂ガールたち。

昭和11年(1936)にオープンした、神戸の阪急三宮ビル(現阪急神戸三宮駅)のフルーツパーラーのウエイトレスです。阪急直営なので、制服は百貨店のデパートガールと共通のようです。

1930年代の列車の洋食堂車です。格好だけならまるでメイド喫茶です。
彼女らは総称として「(食堂)給仕」のような呼び方をされましたが、ウエイトレス、または食堂ガールはこの時代に生まれたモダンな呼び名でした。
マッチガール
『マッチ売りの少女』という、涙腺崩壊不可避の悲しい物語がありましたね。
あれは童話ですが、『マッチ売りの少女』は実在していました。それが、番付の上位にもいる「マッチガール」。
よく考えたら、「マッチガール」を和訳すると「マッチ売りの少女」でしょ?
童話と違い、「マッチガール」は喫茶店の中などでマッチを売り、寒くてひもじい…という悲しい思いはしないということ。
ところで、なんでマッチなのか。
当時のタバコは男子の嗜み、吸っていない方が男らしくないと敬遠されていました。これは私が小学生だった昭和50年代まで常識として社会に浸透し、私も「大人への階段」として喫煙したようなものでした。あ、今はすっかり禁煙者です。
それはさておき、戦前はライターもない時代、タバコはみんな吸うのでマッチが必然的に売れます。現在の街角のティッシュ配りのような「マッチ配り」もありました。当然、マッチにはお店や企業の広告が入っており、現在ではそれ専門のコレクターもいます。

喫茶店では、マッチならぬ「タバコ売りの少女」もいました。人呼んで「たばこガール」。写真は昭和11年(1936)9月のもので、白黒写真をカラー化したもの。

服が同じなので上の写真と同じ「たばこガール」でしょう。
残念ながら「マッチガール」の写真が見つからなかったので、「たばこガール」で我慢してください。
マニキュアガール
昭和ヒトケタ女子に流行るもの。洋服日傘、ハイヒール、そしてマニキュア。
モガの出現と共に生まれた「マニキュアガール」は、女性たちの爪にやすりをかけてお手入れをしたり、マニキュアを塗ったりと、今のネイリストと変わりません。ネイリストは最近生まれたトレンドのように思えますが、80年の歴史を持つ老舗(?)なのです。
マニキュアガールは百貨店の化粧品売場や、やはり当時最先端だった美容室のスタッフとしていることが多かったそうな。

『アサヒグラフ』昭和7年(1932)5月4日号で紹介されていた、大阪の美容院で働くマニキュアガールです。名前は加藤田鶴子さんですが、「かとう たづこ」なのか、「かとうだ つるこ」なのかはわかりません。

昭和11年(1936)のマニキュアの広告です。かなりカラフルな色が揃っていますが、お値段は35銭。3銭でたい焼き、10~15銭でラーメンが食えた時代なので、美容のためとは言え35銭は一般庶民にはけっこう厳しい。

昭和前期の珍書『エロエロ草紙』(酒井潔著)によると、同じ頃のイギリスでは「爪に絵を描く婦人があらわれ」と書かれており、今のネイルアートもこの時代に生まれたような記述があります。
テケツ
番付には一つ、不思議な職業が書かれています。

この「テケツ」というものが、何者か理解に苦しみましたが、ググったらあっけなく答えが出てきました。
「テケツ」とは英語のticketsのことで、劇場などの切符売場の売り子、あるいは入り口で切符を切る人のことでした。なんや、ややこしい名前つけやがって。

要するにこういうことです。これは昭和8年(1933)、新宿の落語の殿堂、末広亭の「テケツ」です。「テケツ」は現在でも、寄席言葉として残っているようです。
この「テケツ」もやはり、「テケツ・ガール」と呼ばれたことがありました。

お次は高嶺の花!「モデル系ガールたち」
マネキンガール
今でいうモデルです。しかし、ただのモデルではありません。
デパートやブティックにあるマネキン。当然今は人形を使っています。ところが、昔は生身の人間を使っていました。


こんな感じです。

これはマネキンガールの面接会場なのですが、作家の久米正雄(右端)が試験官をしています。
スヰートガール
今で言う企業のキャンペーンガールです。

昭和初期に発展したものの一つに、広告宣伝があります。
それまでの広告宣伝は、新聞でデカデカと自己アピールするのが常でしたが、昭和に入ると「店頭販売」が盛んになりました。
森永製菓はそれに女性を採用。「スヰートガール」と名付けて全国のデパートなどでキャンペーンを行いました。

採用条件は
”高等女学校卒以上の18〜20歳の健康な女性”
”近代的な感覚を有すること”
など全部で31カ条、モデル募集並みの厳しさです。それにもかかわらず昭和7年(1932)の第1回募集には600名の応募があり、第1期のスイートガール5名が誕生しました。
この「スヰートガール」第一期生の中には、のちに女優になった人もいました。

惜しくも若くして亡くなった桑野通子(1915-1945)もその一人ですが、

スヰートガール時代の写真が残っています。写真右端が彼女ですが、まだ田舎娘風の(っても彼女は江戸っ子ですが)あどけない顔ですね。
レビューガール
劇あり踊りあり歌ありの、フランス生まれの舞台を「レビュー」と言います。日本で最初に取り入れたのは宝塚歌劇団。タカラヅカは今でも日本レビューを牽引している先頭集団ですが、「レビューガール」とくれば宝塚や松竹のような歌劇団の女性じゃないかと想像できます。
私もそう想像したのですが、どうやら違うよう。レビューに出演することはするのですが、主役ではないその他大勢の人のこと。「通行人A」という感じですかね。それでも番付の上位に来るのだから、端役でいいから華やかな芸能界にいたい、という乙女心なのでしょうか。
他にも、大部屋女優のことを「ワンサガール」と呼んでいたそうです。人が「わんさか」いるから「ワンサ」…なんちゅー単調な名付け方や。
ヅカガール
「ヅカ」とは、宝塚歌劇団用語で「宝塚」という意味になります。「ヅカファン」になると宝塚ファンのこと。これで察しがつくように、「ヅカガール」はタカラジェンヌのこと。

タカラジェンヌって、昔からタカラジェンヌじゃないの?確かにタカラジェンヌという名称自体は、研究者によると昭和12年(1937)の雑誌にすでに登場し、言葉の生みの親もわかっています。
タカラジェンヌの名が世間一般に浸透したのは、1970年代の「ベルばらブーム」からだそうで、それまでは「ヅカガール」が一般的でした。
宝塚市生まれ、かつ宝塚の熱狂的ファンに手塚治虫がいますが、たぶん1980年代のエッセイで「ヅカガール」を使っていました。今でも古参のファンは「ヅカガール」と言う人がいるのだとか。
しかし、創始者の小林一三は「タカラジェンヌ」推しで、「ヅカガール」の呼び名をあまり気に入らなかったという話が残っています。

お次は「スポーツ系女子」の元祖、「スポーツガール」たち!
ゴルフガール


昭和6年(1931)頃の『文学時代』(新潮社)という雑誌が出典の尖端ガールです。要は「ゴルフを楽しむ女性」ってことでしょう。今風に言えば「ゴルフ女子」ってことですね。
麻雀ガール
「○○ガール」を調べていて、これがいちばん頭の上に「???」が飛び交いました。麻雀はわかるがそのガールって?
しかし、上の「番付」には上位に来る人気職業。一体なんじゃ!?と。

(『アサヒグラフ』昭和5年7月16日号より)
ところで、麻雀が日本に広まったは昭和初期のころです。昭和4~5年には麻雀がブームとなり男性だけでなく女性も牌を片手にジャラジャラやっている姿が雑誌に残っています。写真を見ていると捨て牌がバラバラなので、現在のリーチ式ではなく純中国式ルールだったのでしょう。
麻雀にハマった有名人といえば作家の菊池寛。得意の筆で麻雀の面白さを新聞や雑誌を通し世間に広めました。戦前の麻雀ブームは、もしかして菊池が発火点かもしれません。
菊池が社長の文藝春秋社は、社長が社長なので仕事中の麻雀と将棋OK。しかも勤務時間に含め残業も可。
これはさすがに業務に支障をきたし中止命令が出たのですが、このお触れで

や〜め〜て〜!!
といちばん悲鳴を上げたのは社長の菊池だった…。という、ウソのような本当の話があります。

麻雀の広まりと共に、麻雀をする場所である雀荘も増え始めました。昭和初期は雀荘ではなく、「麻雀倶楽部」だったようです。
麻雀ガールとは雀荘で働き、飲み物を運んだりお客様の麻雀の相手をする女性従業員のことだったりします。そんな職業が成り立ったほど、麻雀は日本中でブームになったということでしょうね。
麻雀ガールって…本当にそんなものあったのか!?と疑う人もいるでしょう。
そんなこともあろうかと、こんな資料を用意しました。

『最新婦人職業案内』(婦人就職指導会編)という、昭和8年(1933)に発行された本の「麻雀ガール」の概要です。昭和初期版「とらばーゆ」にちゃんと書いている、れっきとした職業だったのです。
ちなみに、玉突き(ビリヤード)場にも女性がおり、スコアを採ってくれたり人恋しい男性プレイヤーのお相手をしてくれたそうです。これは、上の番付左側の上位にいる「ゲーム取り」という職業です。ゲーム取りって変な名前ですが、「ゲーム(のスコアを)取る(女性)」ということでしょうね。

ビリヤードに興じる人の傍らで、微笑みながら座っている彼女。これが「玉突きガール」こと「ゲーム取り」です。
しかし、「玉突きガール」なんて呼ぶと…なんだか勘違いしそうなオスが数匹出てきそうです(笑
個人的に麻雀は三度の飯より好きなのですが、もし麻雀ガールが今でも雀荘にいれば…毎日仕事帰りに行きますよ。麻雀ができる上に女の子とトークができる、激烈に復活希望です(笑)

真偽不明の都市伝説も(笑
その他の尖端ガールたち!!
ストリートガール
これは売春婦、特に街角で客寄せをする街娼の洒落た言い方です。

『モダン新語辞典』(1931年編)にも新語として記載されています。
エキストラガール
「エキストラ」はその他大勢という演劇用語でもあるので、これもそれに関連するかと想像するでしょう。
実は、全く違います。
男がどこそこへ行きたいと言えば黙って同伴。それがカフェーでも連れ込みホテル。でも砂風呂(脚注:名目上は風呂場ながら実際は売春を行う場所。東京に多かった。))でも、どこへでも行く女のこと。
要は「尻軽女」「淫乱女」、ストレートに言ってしまえば◯ッチのことです。
スピーキングガール
戦前には、「カフヱー」と呼ばれる飲食店がありました。カフヱーと言っても喫茶店ではなく、洋食やアルコールも出すレストランの一種で、女給さんと呼ばれる女性従業員が客の横につき、話し相手になってくれました。
そんなカフェーの女給さんですが、大学生などインテリ男性の話し相手としては役不足。なにせ彼女らは小学校をかろうじて卒業できた、自分の姓名を漢字で書けるかビミョー(たぶん無理)な学歴が多かったから。
女の子と気軽にトークしたいけど、知的レベルが違いすぎる…そんな欲求不満の男性のお相手をするのが、スピーキングガールです。
内容は、インテリ男性と文学や哲学、政治や社会情勢についての話し相手になるだけ。
当時の解説本には

これは職業婦人と言えるのだろうか…
と?マークをつけていますが、女学生のバイトとしてはピッタリだったそうです。
ステッキガール
上述の「ストリートガール」の亜種で、銀座の大通りを歩く独身っぽい男性に、

どう?私と一緒に歩かないこと?新橋まで50銭でいいわ
と色っぽい声で男性の横につく女性のことです。
歩くだけでなく、

ねえ、そこの宿までどう?2円でいいわよ
と男を誘惑、ホテルに誘っていました。その姿が男性の持つステッキのようだということで、「ステッキガール」と呼ばれました。
ただし!
この「ステッキガール」、実際に見た者は誰もおらず、「口裂け女」のような都市伝説だったそうです。おそらく、雑誌か新聞のデタラメ記事に尾ひれがついたものなのでしょう。
しかし、当時の人はほぼ信じ、「ステッキガール」に会えるかなと銀ブラを繰り返す紳士諸君が多かったそうな。
円タクガール
「円タク」とは、あるエリア内なら1円均一で走るタクシーのことで、東京や大阪など都市部に走っていました。
タクシーの運ちゃんが売春の仲介役となるのは、ほぼ世界共通。「円タクガール」はポン引き役の運ちゃんとグルになり、男性客を誘惑する女性だそうです。
客がタクシーに乗ると、助手席にはなぜか妖麗な女性が。
女性は後ろを振り向き、

あらお久しぶり、あたしのことお忘れになって?
とウインクし、

このままホテルへいかが?○円でいいわよ♥
などと猫なで声でささやく。こんな感じだそうな。
しかし!
実は、これも都市伝説。当時のエロ評論家は、三流作家の妄想小説と切り捨てています。
マルクスガール
1920年代は「左」が一世を風靡した時代でした。学生・インテリの間では「左にあらざる者、人にあらず」的な大流行。小林多喜二などの「プロレタリア文学」も大流行りとなりました。
そんな社会主義思想にかぶれ、理屈だけは一人前の学生を多少侮蔑した、「マルクスボーイ」「エンゲルスボーイ」という言葉がありました。
「マルクスガール」はその女性版で、またの名を「エンゲルスガール」。ロイド眼鏡をかけ社会主義の本を片手に持ち、常人にはわからない理屈をペラペラとしゃべる左翼かぶれインテリ女性を揶揄したものです。

戦前の某新聞に「マルクスガール」として紹介されていた写真です。画質が不鮮明で明確ではありませんが、小脇に本のようなものを抱えています。それが社会主義の本なのでしょう。

オフィスで働く女性、すなわち「オフィス・ガール」
戦後それが「OLになった意外な理由とは!?
幻に終わった言葉。「オフィスガール」
事務所などで働く女性一般職も当然、戦前に存在していました。

昭和11年(1936)、堀野正雄(1907-1998)というプロカメラマンが撮影の映画会社の事務員さんです。格好だけでなく知性も併せ持つ「戦前版キャリアウーマン」。言うなれば「スーパーモガ」といったところか!?
彼女らに対する呼び名は「オフィスガール」。

昭和15年の『アサヒグラフ』からですが、和服族と洋服族が分かれてあたたかい冬の陽のもと日向ぼっこという構図です。この写真の説明には「オフィスガール」と書かれており、戦前からそういう呼ばれ名があったことがわかります。
で、戦後になりまず付けられたのが、「サラリーマン」の女性版の「サラリーガール」。
美空ひばり主演の映画にも出てきます。しかしダサかったか長続きせず、昭和32年(1957)あたりから「ビジネスガール」という呼び名が広まったのですが、後者は英語で売春婦を指す俗語だという指摘が入りました。
そこで女性雑誌が、新しい呼び名を募集することになりました。
その結果第一位に選ばれたのが、「オフィスレディ」、つまり「OL」です。
この「OL」、実は第一位ではなかったという話があります。
実は本当の第一位は「オフィス・ガール」。これで異議なし、会議はまとまりかけました。
しかし、当時の編集長が待ったをかけました。

40代50代の女性を『ガール』って、おかしくね?
女心理解力ゼロの編集長に毛嫌いされた結果、3位か4位くらいだった「オフィスレディ」が何階級特進で採用されたと。
その真偽はさておき、戦前のモダンが既に過去となり、高度成長期に入っていても、「ガール」の尖端さは当時の若い女性たちに残っていたのかもしれません。当時の「OL」たちは、街中を闊歩する戦前の「オフィスガール」たちを見て、明るい女性の時代をイメージしたのかもしれませんね。







コメント