「この世界の片隅に」と呉の朝日遊郭|おいらんだ国酔夢譚 番外編|

この世界の片隅にと呉の朝日遊郭サムネ中国・四国・九州の遊郭・赤線跡

呉を舞台にした漫画・アニメ「この世界の片隅に」には、呉にあった朝日遊郭がサラッと出てきます。
呉に来たからには、ひとり遊郭赤線調査兵団としてここの遊郭でも調べようかしらん…と思ったものの、「この世界の片隅に」が有名になってかみんな書いてる…こりゃタイパ悪いなといったんはスルーしました。
が、実際に「この世界の片隅に」を見てみると、

筆者
筆者

これはネタになるな

とあっさり方向転換。アニメとの絡みの時代考証という形で書いてみるのも良き、とサラッと書いてみることにしました。結果的にサラッとならなかったのが、私のいつものあるあるですが(笑

というわけで、今回はそのまま「この世界の片隅に」と呉にあった遊廓、朝日遊郭との絡みについて書いていきます。

まずは、本題に入る前に、少し朝日遊郭の歴史についてサラッと書いてみます。

…いや、今回は本当にサラッとです(笑

スポンサーリンク

呉朝日遊郭略史

呉鎮守府の写真
呉鎮守府

明治22年(1889)、呉に海軍の拠点鎮守府が開府しました。呉浦と呼ばれた瀬戸内の寒村は、いきなり数万人規模の軍隊を抱えることになります。
町の整備が急ピッチで進められましたが、その一つに、水兵や下士官のための慰安施設が必要になりました。

海軍からの要望もあり、明治20年(1887)に服部長七という人物が中心となり、呉市街の西数キロ先、吉浦湾の一部海面が埋め立てられ、そこに吉浦遊郭が作られました。が、道すらロクに整備されていない状態で通うには遠すぎて不便でした。そのため、呉の市内に遊郭を作る必要が迫られました。

明治27年(1894)、地元の名士たちが尽力し、当時は荘山田村と呼ばれた郊外に土地を確保。そこに遊郭を作ることが決定し、翌28年に朝日遊郭が開業しました。
最初は地名を取って「荘山田遊廓」と名付けられたのですが、明治30年(1897)に「朝日株式会社」が遊郭の経営を担うことになり、それに伴い翌年頃に「朝日遊廓」と改名されました1

呉という街は、良くも悪くも海軍あっての街。「海軍さん」向けの商売がさかんで、現在でも海上自衛官御用達のお店が所々にあり、ネイビー濃度は横須賀より濃ゆくて良き。海軍好きには永住したいくらいたまらなかったりします。
今がそうなら昔はもっとそうで、遊郭もその例外ではありません。海軍用語でいう「上陸日」(休暇のこと。今の海自でも「休暇申請」は「上陸許可」)ともなると、遊郭は海軍の水兵・下士官でごった返しました。いわゆる「お泊まり」は、民間人6円に対し軍人さんは5円50銭と割引までありました。

設立当時は10軒くらいしかなかった朝日遊郭も、昭和初期には常時500人2から600人3の遊女がおり、周りには映画館や酒場、ビリヤード場などもできて、「遊廓を中心とした一大歓楽郷」が朝日町周辺に形成されました。
また、当時は呉市に市電が走っており、駅から市電で一本とあって、週末には市民や軍人が入り交じり大賑わいでした。

昭和8年(1933)当時の妓楼数は44軒、娼妓数は649人4。吉原・松島など大都会のギガ遊廓には叶いませんが、600人以上は地方都市としてはトップテンに入る多さです。

当時の賑わいを知る人も、当時は旧制中学生ということもあってか、「朝日町」と聞いただけで胸がワクワクしたと回想しています。今なら、遊園地やTDLに行くような感覚だったのでしょうね。

朝日遊郭には、他遊郭にはないちょっと面白い話があります。

遊郭の張見世

遊郭の名物と言えば「張見世」。張見世とは、娼妓(遊女)が見世の格子越しに立ち、「生身のマネキン」として遊客や通りすがりの面前に晒されること。
「冷やかし」という言葉があります。現在は買う気もないのに値段や在庫を聞いたりする客のことを指しますが、元々は遊ぶ気もないのに張見世の格子越しの遊女に話しかけたり、冷やかしたりする人間のこと。そもそもは遊廓から生まれたくるわ用語なのです。

しかし、大正時代に入り「人権」という概念が日本にも芽生え、張見世は人権侵害だという声があがりました。
東京では大正初めに早々と禁止となり、大阪などもそれに続きました。しかし、遊廓は「国の公認」ではあるものの、管理は各道府県(当時「東京都」はありません)に任されており、張見世に対する温度差もまちまちでした。広島県が張見世を廃したのは、東京に遅れること10年以上の大正15/昭和元年(1926)。
しかし、昭和3年(1928)には当時の45軒の貸座敷のうち40余軒で復活したらしく、警察も

警察
警察

・・・・

と事実上の黙認でした。当時ブームに近かった天敵カフェーや、隣町にあった私娼窟への対抗もあったのでしょう。

しかし、昭和5年(1930)の連合艦隊呉入港の際は派手に張見世をやってしまって、警察にゴルァされてしまったようです5(笑

そんな遊郭も戦争と共に規模を縮小、昭和20年、7月1日深夜(7月2日午前0時ごろ)の呉市街空襲により焦土と化しました。

戦後は赤線として復活しました。
赤線は一応「潜り」の為、名目上の営業形態を決める必要がありました。例えば東京は「特殊カフェー」、大分は「貸席」、現在の大阪の飛田や松島の業態は「料亭」となっていますが、呉の場合は「特殊下宿」…。こんなの初めて聞いた(汗

朝日町周辺には戦前から、遊郭の周辺に衛星のような形で私娼窟がありました。戦後はそこも赤線化し、

・「朝日会」:遊郭からの朝日町

・「乙女会」:元私娼窟

・「白鳥会」:進駐軍専門の洋娼

の三つ巴の壮絶な客の取り合いが繰り広げられたと言います。

そして昭和33年(1958)の売春防止法「完全」施行でこれらの赤線はすべて廃止、現在は見る影もありません。

朝日遊郭については、他にも色々細かいネタがあるのですが、本題ではないのでこれまでとします。

NEXT:「この世界の片隅に」と朝日遊郭を時代考証してみる

  1. 『大呉市民史 明治編本編』
  2. 『全国遊廓案内』
  3. 『大呉市民史 昭和編 上巻』p43 。昭和2年。『日本都市大観 昭和15年版』
  4. 『広島県統計書』
  5. 『大呉市民史』
スポンサーリンク

コメント

  1. Kulachan より:

    初めまして、偶然こちらのサイトにたどり着いた者です。
    これはあくまで私の勝手な推測ですが、この作品の中の遊郭の名前は
    この作品の出版社の名前に因んだものではないかと。
    字は少し変えてますが。
    登場人物達は架空の設定だから、
    リンさんの遊郭の名前も架空にしたのではないかと推測しています。
    私も以前、何かの折に遊郭の名前が二葉なのか気になって考えたことがあったからです。
    それで思わずコメントを書いてしまいました。
    どうも失礼いたしました。

error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました