その時、ヤングタウンに奇跡が起きた
最後の望みであったバス停の名前も変わってしまい、ヤングタウンはその残影すら残らっていない…もはや歴史になったと肩を落としていたところに、神様は最後の最後に素敵なオチを用意してくれていました。
三原台北バス停の前に、何やら妙な一角が。建物も、近くのマンションや住宅と明らかに一線を画すような独特のオーラが写真からも感じられます。明らかにこれは「古い」。
妙なエリアの入口にはこう書かれていました。
「にれの町」
資料を頭に叩き込んでいた私はピンときました。
これは間違いない、ヤングタウン最後の生き残りだと。
「にれの町」は、3種類あったヤングタウンの「民間棟」と呼ばれたエリアの棟の一つで、ヤングタウンが出来て1年後、ヤングタウンが写る最も古い昭和48年(1973)の航空写真でも存在を確認できます。創立当時からの建物で間違いありません。
ヤングタウンの会報誌『ニューズヤングタウン』の1970年代のものにも、その名が出てきます。
航空写真で上から見ると、なんでこんな形にしたのかよくわからない、ノコギリの刃のようなギザギザ状の形の建物は、現在もその姿をとどめていました。
元が民間企業棟ということもあり、現在は数社の共同寮となっているようです。建物の性質から独身寮なのでしょう。
来年で築50周年記念(推定)に届いてしまう年齢の建物につき、周囲の建物に比べて明らかに見劣りはします。ボロボロとは言いませんが、かなりガタが来ているようです。しかし、ここがヤングタウンとして開発された当時から残る建物には、ここの主としての威厳すら感じさせます。一度でいいから中を見てみたいものです。
ヤングタウンは未だ死せず。ヤングタウンの最後の光が、パンドラの箱の底に残った希望の光のようにその地に残っていたことに、私はよくぞ、よくぞ残っていたという言葉でしか表現ができません。
しかし、そんな喜びもつかの間でした。
この記事をアップした半月後、フォロワーさんからこんな連絡が…
「にれの町」の死亡通知書でした…。大阪に、いや、関西に住んでいれば親を殺して有給休暇取ってすぐに駆けつけたいところでしたが、不運なことに私は関西にいない。こうして「死亡宣告」を見てただパソコンの前で嘆息するのみ。
2021年10月初旬、すでに工事は始まっていました。
さようならにれの町、さようならヤングタウン。これにてヤングタウンの生き残りはすべて消滅。歴史の土となり記憶の中にしか残らなくなりました。
しかし、ヤングタウン跡に残る電灯のプレートに、かつてそこが若者の街だった残滓が残っています。
おわりに
若者の町を作り、行政が若者に様々なサポートを行ったヤングタウン。人間同士の肌と肌のコミュニケーションが良いところだったと回想する人もいますが、今の若者にはSNSもあってそんなものは不要かもしれません。
しかし、「陰極まれば陽となる」という言葉のように、ネットだけのコミュニケーションが極まると肌が恋しくなるもの。昨今のコロナ禍で「オンライン飲み会」が流行ったものの、やはり人恋しくなり道に座り込んで飲み始めたり…コロナ禍は、人は肌を触れ合わせてなんぼな生き物だということを知らしめた災害でもあります。
肌と肌のコミュニケーションが、いずれ見直されてくると思います。いや、既に見直されている流れかもしれません。
その時、昔こんなものがあってね…と寮制度が再評価される時が来るかもしれません。その時が来たら、泉北ニュータウンに輝いた青少年の町、ヤングタウンがまた脚光を浴びるかも。今日はそんな夢を見て終わろうと思います。
こんなブログ記事もどうですか?
・『堺市史』近現代編
・『ヤングタウン20年のあゆみ』青少年の町/編(1993)
・『ニューズヤングタウン』(堺市立図書館所蔵)
・『ヤングタウンは今?大阪・泉北ニュータウン青少年の町の軌跡』奈良女子大学瀬渡章子
・『泉北コミュニティ』
・『泉北ニュータウン』大阪府企業局(1978)
・『泉北ニュータウンの歩み』堺市立泉ヶ丘図書館/製作(1988)
・『昭和の大阪 昭和50ー平成元年』産経新聞社
・『写真アルバム 堺市の昭和』山中永之佑 (監修)樹林舎
・他ブログ複数
コメント
雨上がりのぬかるみの中、大阪府立勤労青少年会館へ出勤し、まだ机もなく、床におかれた黒い電話器が鮮明に残っています。
それは50年以前のことですね~
1972年の2月15日のことです。
あの骸骨のようなヤンタンシンボルマークのレプリカ、久し振りに手に持ちました。
真鍮製でずっしりと重く、自分の生きざまをと重なりました。自宅の書棚や段ボールのままのヤンタン資料が眠っています。人生と想い出の資産です。
地元住民です。
「にれの町」ですが、今月(2021年9月)ついに解体が始まってしまいました…
これが無くなると、本当にヤングタウンが過去の記憶になってしまうのだな…と寂しく感じます。
>Pわらびもちさん
コメントありがとうございます。
解体の話は別の地元の方から伺っていて、本来なら金曜日に有給取って帰阪し「にれの町」の最期を写真に撮っておこうかと思ったのですが、
間に合わなかったようですね…残念です。
近々に妻が所要で初めて泉ヶ丘に車で行くということで道案内のためにリサーチをしておりましたところ、ふと、確かこの辺りに昔ヤングタウンというものがあったはずと思い出し、このページにたどり着いた老人です。自分が高校生、ながら勉強で深夜放送ばかり聞いていた頃、繰り返しラジオCMで耳にしていたのが半世紀も経った今でも遠い記憶の中に残っていたものだと思います。このページを拝見するまで名前以外の詳しいことは知らなかったので大変参考になりました。これまで全く縁のなかったのにもかかわらずどこか懐かしい思いを深くしました。せっかくの機会なので今度周辺を妻と散策し、”ご昭和”させていただこうと思います。
大阪府立勤労青少年会館2Fの指導かに勤務しておりました。多くのイベントを企画運営し、同年代の地方出身の方々と昼夜共に行動を共にしておりました。本当に楽しかった思い出がたくさんあります。大阪に定着されたヤンタン出身の方々との交流は現在も続いています。当時の資料は手元にないのですが・・自分が書いたニューズヤングタウンの記事など見てみたいものです。
>指導課美穂様
コメントありがとうございます。拙記事によって楽しい思い出を思い出していただき、ありがたく思います。
>自分が書いたニューズヤングタウンの記事など見てみたいものです。
全巻揃っているかは定かではないですが、堺市立中央図書館がかなりの数のバックナンバーを保存しており、もちろん閲覧も可能です(私も執筆の参考にしました)。
米澤様、情報有難う御座います。又、ヤンタンに関するサイト立ち上げて頂き有難うございます!ヤンタンは私にとって青春の1ページです…ニューズヤングタウンは堺市立中央図書館に保管閲覧出来るのですね!今は地方在住ですが、時折帰省してますので、中央図書館に赴いてみます。
三原台、懐かしすぎます
涙、涙
えーーん
しかし。電気代異常に高かったなあ
米澤様 元指導課美穂様
私も50年ほど前ヤンタンの三原台の企業棟に住んでいました。
そのとき勤労青少年会館2階には何度も足を運ばせていただきました。遠藤先生が指導主事をされていたように記憶しています。まだヤンタンが出来たばかりの時で、ポスターを貼って部員募集をし、サッカー部を作り、妻とは茶道部で知り合いました。本当に懐かしく当時のことを思い出しています。
ありがとうございました。
はじめまして。
ヤングタウンの跡地に建ったマンションに住んでる者です。
偶然見つけて興味深く読ませて頂きました。
当時の写真やパンジョの事等も合わせて、実に興味深い内容でございました。
ありがとうございます。
現在は泉ヶ丘プールも無くなって、ヤングタウン前の岸池も公園化されて、数年後には阪大病院がすぐ近くに移転してきます。
時と共に街並みもどんどん変化していくものですね。
泉ヶ丘周辺は特にそう感じます。
ただ、ヤングタウンのすぐ傍にあるガソリンスタンドでは今でも給油が終わった際に「どちらに帰られますか?」と聞いてこられ、西から出る際は「ヤンタン方面にお帰りで~す!」と声掛けをしてくれます。
地元民の中では、ヤングタウンはまだ記憶の中で健在してるようですね。
ガソリンスタンドの西出口は東出口の間違いでした。
交差点の角にあるENEOSのガソリンスタンドです。
近くに来られた際には寄ってみてください(笑)。
野出榮一です。
当時、府立勤労青少年会館(青少年の町事務局)に勤務していました。
最近、ヤンタンの元職員の数人で再会ができればという話がありました。
あれから半世紀がたちましたが、自宅には、当時の資料がたくさん保管してあります。
中でも「ニューズヤングタウン」は創刊号から最終号まで、そろっています。
ヤンタンで生活されて居た頃が判れば、周辺年月の発行号のコピーを差し上げようかと
考えています。
よろしければ、ご連絡ください。
assist-nodeyan@nifty.com