ヤングタウン-堺・泉北ニュータウンに咲いた青少年の町

ヤングタウン泉北ニュータウン大阪史

ヤングタウン…この言葉で連想するのは、関西では知らない人はいないだろうラジオ番組、通称「ヤンタン」でしょう。
1960年代後半から始まったこの番組は、当時売れに売れていた桂三枝(現:六代目桂文枝)をパーソナリティにしてから徐々に人気が上がり、そのテレビ版と言える『ヤングおー! おー!』と共に関西の看板のラジオ番組となりました。70年代に青春時代を過ごした現在の60代の方などは、鮮明に覚えているでしょう。

そんなヤングタウンが始まった同時期、番組名そのままの街の建設が大阪の南で始まろうとしていました。

今回は、かつて堺泉北の地にあったもう一つの「ヤングタウン」のお話を。

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ヤングタウン-若者が集まる夢の街

敗戦の焼け跡から立ち直った日本が、いわゆる高度経済成長期に入ったのは昭和30年代後半のこと。経済の発展で労働力の需要が増大、地方から都市部への人の流入が多くなってきました。特に、「金の卵」などと称された若者流入は顕著でした。

しかし、ここで問題になったのは住宅問題。
大阪は在来の住民への住宅供給サービスさえ満足にいかない中、地方からの人の流入で住宅供給が全く追いつかず、社会問題になってきました。現在でも、大阪は公営の住宅公社の他にUR、つまり旧公団団地が他都道府県に比べ多く、昭和30年代~40年代には大阪独自のルールさえ存在したのですが、これも大阪の住宅不足を垣間見る間接的な一例かと思います。

「金の卵」たちも、大阪に就職したのはいいけれど、肝腎の住むところがない…これは行政・企業ともに頭を抱える問題でした。そこで大阪府が中心となり、

「働く青少年のために快適な住まいと生活環境を提供し、あわせて好ましい人間関係を基盤とする地域に密着した健全育成を図り、さらには雇用の促進と安定に資するための総合的な勤労青少年対策」

引用:大阪府企業局『ヤングタウン』(計画要覧)15頁

のための施策を実行することになりました。それがヤングタウンの始まりとなります。
昭和44年(1968)にヤングタウン「青少年の町」の建設大要が計画され、都市計画・住宅・青少年問題の学識者11名による計画準備委員会が設置されました。
翌45年3月に構想がまとめられ、建設中だった泉北ニュータウンの一角に「青少年の町」が作られることになりました。総工費は120億円。今の価値に直すと約600億円ほど、国の財政的援助を受けながらも大阪府の本気度が見て取れます。

そして昭和46年(1971)に「財団法人青少年の町」が大阪府の全額出資によって設立され、翌47年3月に第一期の入居が始まりました1

ヤングタウンのシンボル

そのときに決まった、ヤングタウンのシンボルがこれ。なんだかちょっと怖い。
モデルは象形文字の”♂”と”♀”だそうで、

「互いに肩を並べ手を繋ぎ足を組んで二人三脚、ラインに囲まれたる空間は人間の顔が形成されているのである。(中略)内住する顔は、そこに永遠の人間が居る構成である」

引用:『ヤングタウン20年のあゆみ』より

と資料には書かれているのですが、まるで唐人の寝言で翻訳が必要です。

ヤングタウンと泉ヶ丘駅

青少年のための町ことヤングタウンは、住所で表現すれば堺市三原台。泉北ニュータウンの中心地泉ヶ丘に作られました。泉北高速鉄道の駅からも近く、駅からは難波まで30分ほどで到達でき、通勤の便も考慮された絶好のロケーションでした。

ただし、入居開始時には近くに中型以上の商業施設がなく、大きな買い物にはやはり都心に出ないといけないという欠点がありました。
そこで2年後、現在でも泉ヶ丘といえばアレなアレが誕生します。

泉ヶ丘パンジョ開業広告
(『ニューズヤングタウン』の中の広告より)

泉北ニュータウン商業施設の旗艦フラグシップパンジョ(Panjo)の誕生です。
建設の計画はヤングタウン完成と同時期に行われ、高島屋や関西の銀行が出資し昭和49年(1974)11月にオープンしました。

一つ商業施設ができただけですが、ここに高島屋が入った意義は大きい。高島屋というブランドが入ることにより、パンジョに箔がつき、泉北ニュータウンだけでなく堺市中部や南部からの集客力をつけることにもなりました。「泉ヶ丘=パンジョ=高島屋」とイメージしている方も多いはずです。

私が5歳くらいの頃と記憶していますが、家族総出でパンジョへ出かけたことを覚えています。パンジョは私と同い年、つまり私が初めてパンジョを訪れた時は開業5年目。泉ヶ丘界隈も開発されて10年も経っていない新しい町。
ヤングタウンどころか町自体が若々しく、パンジョや泉ヶ丘のピカピカ感や、都市計画の計算に基づいて作られた町並みの、まるで鉄腕アトムの世界のような近未来感、そしてそれらを見た私のドキドキワクワク感は、40年経った今でも鮮烈に覚えています。ヤングタウンついでにパンジョも探索してみたのですが、ぼぼ記憶通りでした。幼少期の記憶というものは恐ろしい。

ヤングタウンに住んでいたナウなヤングたちも、パンジョで買い物をしたり遊んだり、はたまた意中の人とデートしたり、熱い青春をパンジョで消化していたことでしょう。

ヤングタウンとは

泉北ニュータウンのヤングタウン

ヤングタウンは、一言で表現すれば「巨大な若者向け独身寮」ですが、行政が建て運営したのは日本広しといえどもここ以外にはない、空前にして絶後の施設でした。
ヤングタウンといっても、その敷地は大きく分けて3種類の建物に分けられていました。

泉北ニュータウンのヤングタウン配置図

泉北1号線や泉北高速鉄道の車窓から見えるロケーションに立っているので目立つせいか、「ヤングタウン」と言えば赤塗りのエリアを連想する人が多いと思います。かく言う私も、資料を読むまで赤塗りエリアだけがヤングタウンだと思っていました。

部屋の概要や家賃なども、各施設によって違っていました。

ヤングタウンの一郭、大阪府住宅供給公社(三原台単身者住宅)の航空写真
①大阪府住宅供給公社(三原台単身者住宅)
府営住宅の一種ですが、「青少年の家」の運営で府の直営ではありません。
高層10階建ての4棟からなり(オープン当時)、供給戸数は2000戸。大阪府下に勤務している18~28歳までの独身男女が入居対象でした。
部屋は11平方メートル(6畳一間)で和室・洋室に分れており、基本は1人1室。便所は当時の下宿スタイルでは当たり前だった共用、浴場は建物の外にありました。共用食堂もあり炊事洗濯も可能でした。
棟は「2-X」と番号が振られ、2-1から2-4(女子棟)までありました。
 
②雇用促進事業団(泉北丘陵宿舎)
14階建て4棟、6階建て2棟でスタートし、供給戸数は1,376戸。府外から就職した15~28歳が入居対象でした。条件を満たしていれば在来大阪府民でもよかった(府営なのでそりゃそうか)公社住宅と違い、職業安定所(今のハローワーク)を通して府外から就職しに来る人のみが対象でした。といっても、昭和61年(1986)のデータでは大阪府出身者が85人いるのはどう説明すればいいのでしょうか。
部屋は公社住宅よりも少し広い15平方メートルだったものの、2人1室が基本でした。それ以外は公社の方とあまり変わらないようでした。
こちらも棟ごとに番号が振られ、「人」の形をした棟が7-1と7-2、他は7-3A/B棟(女子棟)、7-4A/Bとなっていました。
③民間企業共同宿舎(民間住宅)
5~6階建てが8棟、9,11階建てが3棟あり、募集基準は各企業によって違うので詳細はわかりません。公社や事業団住宅が番号だったのに対し、こちらは「かしのまち」「ふじのまち」などの名前がつけられていました。
他に、高島屋や大丸が独自に独身寮を建設しており、これも本項に入れておきます。
泉北ニュータウンヤングタウン内部

公社住宅の内部間取りはこのようになっていました。1階に風呂があるので女子寮の図となります。卓球室は男子寮にも事業団住宅の方にもあり、時代を感じさせます。
中国留学時、「国際交流中心」というヤングタウンのような高層マンション式留学生寮がありましたが、ヤングタウンの間取りを見てその時の生活を思いだしました。
風呂・トイレ共同なんて…と今時の若い人には抵抗があるかもしれませんが、これが住人どうしのコミュニケーションのきっかけになることがあります。シャワーを浴びながら隣のボックスどうしで
「おう、最近どうや?」
と近況報告し合うのも青春の1ページでした。

その中には、「ペアレント室」という見慣れぬものがありますが、これについては後述します。

ヤングタウンの泉北勤労福祉センター

また、ヤングタウンの敷地内には、勤労者=入居者のための福利厚生施設も存在していました。公社住宅側には「府立勤労青少年会館」、雇用促進事業団側には「泉北勤労福祉センター」があり、それぞれ入居者の親睦や研修、お稽古事などに使われました。「府立勤労青少年会館」にはヤングタウンの運営局も置かれていました。

ヤングタウンの会報ニューズヤングタウン

昭和49年(1974)のヤングタウンの会報に掲載されていた入居者向けの講座ですが、今で言う生涯学習の場もヤングタウンには設けられ、入居者が自発的に行っていたサークル活動もありました。
また、テニスコートやグラウンドもあり、テニスコートは面貸しで最高5,000円との記載があります。おいおい若者から金取るんかい!と資料にツッコミを入れてしまいましたが(笑

ニューズヤングタウン昭和49年8月号

入居者どうしのレクリエーションも行われていました。
昭和49年(1974)8月の会報には、町をあげての盆踊りも行われていました。お盆の時期はみんな故郷に帰るため、その前の週にみんなで盆踊りでコミュニケーションを図ろうというわけですね。他にも運動会や花見もありました。
ヤングタウンの建物は男女別にくっきり分けられており、異性の進入はたとえ親兄弟でもダメでした。今の常識では厳しいと思われそうですが、当時の常識ではこれが当たり前でした。
ヤングタウンは男女の出会いの場でもあります。若い男女が磁石のようにくっついて行くのは生物学の必然の法則。実際、ここで知り合い結婚し、夫婦となってヤングタウンを離れたカップルも数多くいましたが2、その出会いの場の一つに盆踊りのようなイベントを用意してくれていた事務局の努力がうかがえます。

ちなみに、ナウなヤングたちが上記の盆踊りの狂騒に興じた約10日後、6~7キロほど離れた地で筆者がオギャーと産声をあげ、この世に生を受けることになります。

ペアレント制度

ヤングタウンには、町の性質もあってか、他の団地などにはないユニークなシステムがありました。それは「ペアレント」制度。
ペアレントとは入居者500人の割合で夫婦一組が棟内に住み込み、入居者の話し相手になったり相談に応じたりしていました。戦前にも下宿というものがあり、大家が住人と密なコミュニケーションを取っていましたが、ペアレント制度は団地という高度経済成長期の象徴の中にあらわれた下宿といってもいいでしょう。

ヤングタウンの居住者はみんな10代20代の若者。それもほとんどが故郷を離れた地方出身者、はじめての一人暮らしな上に、大阪など右も左もわからない。
そんな多感な時期なだけに人間関係や職場での待遇、健康などで悩み、人恋しいことも多いお年頃でもあります。ペアレントはそんな彼(女)らの親代わりとなり、話し相手になったり、相談やアドバイスなどを行っていました。
実際に寄せられた相談も記録に残っていますが、ヤングタウン内の人間関係(恋愛も含む)やサークル活動のイベントから、職場の不満までけっこう幅広い。
中でも時代に関係なく多いのは「結婚」「恋愛」に関することで、多感なお年頃あるあるだなとニヤリとしてしまいます。実際、結婚相談に乗ってもらったペアレントに仲人を依頼することもあったんだとか。
ペアレントも、「管理人」になったり「近所のおじさんおばさん」になったり、はたまた「無資格カウンセラー」になったり、人生経験豊富でないと若者が持ち込んで来る様々な変化球を受け取ることは難しかったでしょう。ペアレントの人選もそこらへんを重視していたかもしれません。

ヤングタウンの衰退から終焉へ

青少年のための総合タウンとしてスタートしたヤングタウンも、時代の流れや生活スタイルの変化とともに、その姿を微妙に変化させていきました。ここからは、公社住宅を中心に変遷をたどります。

入居者数は、開設当初の1970年前半にいったんピークを迎えましたが、そこからは下降線をたどり、昭和56年(1981)にはいったんどん底を迎えます(入居率も約5割)。
入居者の減少に事務局は反応し、公社住宅では

・昭和55年(1980):入居年齢の範囲を「18~28歳」から「15~35歳」に大幅緩和3

・昭和56年(1981):男子棟の門限(23時)を廃止、一人2部屋(ニコイチ)利用可能

・昭和58年(1983):社会人限定だった入居資格を学生にまで拡大

などの改革を行った結果、入居率は80%以上に改善されました。
昭和61年(1986)にはヤングタウン史上最大の入居者数・率(1926人、96.3%)をマークします。事業団の泉北丘陵住宅も、この年にピークを迎えます(1,082人、78.6%)4。この年が、数字上でのヤングタウンの絶頂期となります。

しかし、逆に言えば、ここからヤングタウンは衰退を迎えます。
時代は昭和から平成へ、景気もバブルから不景気へ。ヤングタウンも住宅自体の老朽化や若者の生活スタイルに合わなくなりました。さすがに電話なし、風呂トイレ共用、クーラーなし(設置は可)は時代錯誤でした。住宅供給も安定し、若者がヤングタウンに見向きもしなくなったのです。

大阪府も指をくわえて見ているわけではなく、ヤングタウンのリニューアルを策定します。その結果、「高度経済成長期の若者の居住対策としてのヤングタウンの役目は終わった」と認め、公社住宅4棟を「単身者用」と「一般住宅」の半分に分け、部屋にユニットバスや台所を設置したり、2~3部屋をぶちぬき1部屋にする「ニコイチ」「サンコイチ」に改造されました。
1995年からリニューアルされ入居者数も少し上昇したのですが、思ったほどの上昇が見られず、98年にはヤングタウンの事実上の終了が決定されました。
そして平成13年(2001)の3月、勤労青少年の支援を行ってきた財団法人「青少年の町」は解散し、ヤングタウンはその役目を終えました。ヤングタウンがちょうど設立30周年を迎える時のことでした。

泉ヶ丘のヤングタウン

20年前にヤングタウンは解散となりましたが、ここであれ?と思う人も多いと思います。それどころか、それ以降に住んでたぞという人もいるはずです。

そう、ヤングタウンがなくなっても、建物自体がなくなったわけではないのです。
事業団の泉北丘陵住宅や民間企業棟は、航空写真でチェックすると、1990年代後半からヤングタウン解散後にかけて取り壊され、新しくマンションが建てられています。
が、公社住宅は管理が公社直轄と「ふつうの団地」とした上で、未改装だった2棟(2-1 / 2-4棟)は閉鎖、家賃を下げて入居率の向上を目指しました。築30年以上とは言え、泉ヶ丘駅から徒歩約10分で2DK35,000円は投げ売りに等しい値段でしょう。
しかし、それでも入居率は向上せず、2007年2月についに一般募集が停止。2010年末には全入居者の退去が完了し、翌年3月にヤングタウンは正式に消滅しました。

そして、最後まで残った公社住宅の棟は2010年末に取り壊しが開始、翌年にはすべて取り壊され、「青少年の町」の夢はここで完全に歴史となりました。

ヤングタウンの思い出

私本人は、ヤングタウンに住んだことはありません。堺市民として存在は当然ながら知っていたのですが、行く縁がそもそもなく、現物はたまに泉北高速鉄道や泉北1号線の車窓から眺めるだけでした。
が、まさかこんなところで…というヤングタウンとの奇妙なご縁が一つありました。

まだブログという言葉が市民権を得ておらず、Weblogという折り目をつけた正式名称で呼ばれていた頃(ブログってWeblogの略ということを知っている人も今では少なくなったでしょ)に、同じブログサイトに毎日ブログを書いていた女性がいました。仮にAさんとしておきましょう。
先に明かしておくと、Aさんは中国人でした。しかし、文体ではそれと全く気づかせないほどの日本語でブログを書いており、見始めた1年後のころ、「私の故郷中国では…」と書くまで全く気づきませんでした。え?あんた中国人だったの!?と。

私がブログを書き始めたのは中国の上海駐在になったときでしたが、日本企業に就職していた彼女も偶然、上海に駐在ということになりました。この時すっかりネット友達になっていた我々が、こんなご縁だ上海で会いましょうとなったのは当然の成り行きでした。

リアルで会うのは初めてながらお互い気心知れた仲だったので、夜の上海のビル群を眺めながらおしゃべりに興じていたのですが、ここで面白いことがわかりました。
彼女は中国の高校を卒業し、1994年に留学生として大阪に来たそうですが、日本初の住まいがなんとヤングタウン。入居者減少で基準がかなり緩くなった「終わりの始まり」の頃、結局2年弱ほど住んでいたそうです。
中国人からヤングタウンの名前が…それだけでも意外すぎて喫驚(びっくり)ものですが、もっと面白いことに、お互い同時期に異国へ旅立っていたことが判明。私は堺から上海へ、Aさんも同じ年に上海から堺へ。しかも同い年。こんな偶然あるのかよと二人で大笑い。この日の夜はローカル話で大いに盛り上がったことは、書くまでもありません。

それにしても、まさか中国人と上海で、泉ヶ丘にヤングタウンという超ローカル話で花を咲かせるとは思いもよりませんでした。神様も面白い展開を用意してくれたものです。

NEXT⇒現在のヤングタウンはどうなっているのか
 
  1. 『ヤングタウン20年のあゆみ』[青少年の町/編] 1993年(
  2. 事務局に申告があっただけでも100組以上
  3. 同時に国籍事項も廃止
  4. 『「ヤングタウン」は今?大阪・泉北ニュータウン青少年の町の軌跡』都市住宅学62号 より
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コメント

  1. 雨上がりのぬかるみの中、大阪府立勤労青少年会館へ出勤し、まだ机もなく、床におかれた黒い電話器が鮮明に残っています。
    それは50年以前のことですね~
    1972年の2月15日のことです。

  2. あの骸骨のようなヤンタンシンボルマークのレプリカ、久し振りに手に持ちました。
    真鍮製でずっしりと重く、自分の生きざまをと重なりました。自宅の書棚や段ボールのままのヤンタン資料が眠っています。人生と想い出の資産です。

  3. Pわらびもち より:

    地元住民です。
    「にれの町」ですが、今月(2021年9月)ついに解体が始まってしまいました…
    これが無くなると、本当にヤングタウンが過去の記憶になってしまうのだな…と寂しく感じます。

    • 米澤光司 より:

      >Pわらびもちさん

      コメントありがとうございます。
      解体の話は別の地元の方から伺っていて、本来なら金曜日に有給取って帰阪し「にれの町」の最期を写真に撮っておこうかと思ったのですが、
      間に合わなかったようですね…残念です。

  4. おいやん@わかやま より:

    近々に妻が所要で初めて泉ヶ丘に車で行くということで道案内のためにリサーチをしておりましたところ、ふと、確かこの辺りに昔ヤングタウンというものがあったはずと思い出し、このページにたどり着いた老人です。自分が高校生、ながら勉強で深夜放送ばかり聞いていた頃、繰り返しラジオCMで耳にしていたのが半世紀も経った今でも遠い記憶の中に残っていたものだと思います。このページを拝見するまで名前以外の詳しいことは知らなかったので大変参考になりました。これまで全く縁のなかったのにもかかわらずどこか懐かしい思いを深くしました。せっかくの機会なので今度周辺を妻と散策し、”ご昭和”させていただこうと思います。

  5. 指導課 美穂 より:

    大阪府立勤労青少年会館2Fの指導かに勤務しておりました。多くのイベントを企画運営し、同年代の地方出身の方々と昼夜共に行動を共にしておりました。本当に楽しかった思い出がたくさんあります。大阪に定着されたヤンタン出身の方々との交流は現在も続いています。当時の資料は手元にないのですが・・自分が書いたニューズヤングタウンの記事など見てみたいものです。

    • 米澤光司 より:

      >指導課美穂様

      コメントありがとうございます。拙記事によって楽しい思い出を思い出していただき、ありがたく思います。

      >自分が書いたニューズヤングタウンの記事など見てみたいものです。
      全巻揃っているかは定かではないですが、堺市立中央図書館がかなりの数のバックナンバーを保存しており、もちろん閲覧も可能です(私も執筆の参考にしました)。

      • 元指導課 美穂 より:

        米澤様、情報有難う御座います。又、ヤンタンに関するサイト立ち上げて頂き有難うございます!ヤンタンは私にとって青春の1ページです…ニューズヤングタウンは堺市立中央図書館に保管閲覧出来るのですね!今は地方在住ですが、時折帰省してますので、中央図書館に赴いてみます。

  6. 河岸 より:

    三原台、懐かしすぎます
    涙、涙
    えーーん
    しかし。電気代異常に高かったなあ

  7. 元ヤンタンサッカー部 菅 より:

    米澤様 元指導課美穂様
    私も50年ほど前ヤンタンの三原台の企業棟に住んでいました。
    そのとき勤労青少年会館2階には何度も足を運ばせていただきました。遠藤先生が指導主事をされていたように記憶しています。まだヤンタンが出来たばかりの時で、ポスターを貼って部員募集をし、サッカー部を作り、妻とは茶道部で知り合いました。本当に懐かしく当時のことを思い出しています。
    ありがとうございました。

  8. 通りすがり より:

    はじめまして。
    ヤングタウンの跡地に建ったマンションに住んでる者です。
    偶然見つけて興味深く読ませて頂きました。
    当時の写真やパンジョの事等も合わせて、実に興味深い内容でございました。
    ありがとうございます。

    現在は泉ヶ丘プールも無くなって、ヤングタウン前の岸池も公園化されて、数年後には阪大病院がすぐ近くに移転してきます。
    時と共に街並みもどんどん変化していくものですね。
    泉ヶ丘周辺は特にそう感じます。
    ただ、ヤングタウンのすぐ傍にあるガソリンスタンドでは今でも給油が終わった際に「どちらに帰られますか?」と聞いてこられ、西から出る際は「ヤンタン方面にお帰りで~す!」と声掛けをしてくれます。
    地元民の中では、ヤングタウンはまだ記憶の中で健在してるようですね。

    • 通りすがり より:

      ガソリンスタンドの西出口は東出口の間違いでした。
      交差点の角にあるENEOSのガソリンスタンドです。
      近くに来られた際には寄ってみてください(笑)。

  9. 野出 榮一 より:

    野出榮一です。
    当時、府立勤労青少年会館(青少年の町事務局)に勤務していました。
    最近、ヤンタンの元職員の数人で再会ができればという話がありました。
    あれから半世紀がたちましたが、自宅には、当時の資料がたくさん保管してあります。
    中でも「ニューズヤングタウン」は創刊号から最終号まで、そろっています。
    ヤンタンで生活されて居た頃が判れば、周辺年月の発行号のコピーを差し上げようかと
    考えています。
    よろしければ、ご連絡ください。
    assist-nodeyan@nifty.com

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