上野芝と向ヶ丘町の歴史-陸にかかる謎の橋

上野芝向ヶ丘町の歴史 野良歴史家の歴史探偵

以前、現在の阪和線の前身、阪和電気鉄道の記事で、住宅地経営にも乗り出したと書きました。他の私鉄も沿線沿いに行っていた住宅地経営、私鉄時代の阪和電鉄が経営に乗り出した住宅地は以下の4つでした。

上野芝向ケ丘、霞ヶ丘
信太聖ヶ岡(現北信太駅前の住宅街)
泉州泉ヶ丘(泉北ニュータウンのとは全く別もの)
富木の里(おそらく計画倒れに終わったのではないかと)

その中でも、今回は阪和電鉄が最初に経営を始めた「上野芝向ケ丘」を採り上げたいと思います。

 

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上野芝向ヶ丘町の歴史

上野芝の歴史

「そもそもなんでここは『上野芝』って言うの?」

見方が斜め上なのか細かすぎるのか、いつも変なところに疑問を持ってしまいます。
ほっとけ!と言われるとそれまでですが、こういう、ホンマどうでもいいことを調べることによって出てきた事実が、今まで漠然とした疑問や謎の解決への突破口になることもあるから、止められない。

「上野芝」を分解してみると、

「上野」

「芝」

に分けることにできます。
「芝」はそのままとしておいて、「上野」は何なのか、どこなのか。まさか東京の上野ではあるまい。そこで調べてみると、「上野芝」の「上野」は、元々「上の」または「上之」だったということがわかりました。これで、「上の(上之)」は場所を指す可能性が高いと。
さらにほじくってみると、もっと前は「神の芝」と呼ばれていたそうです。
「神の芝」とは、

 

上野芝駅のすぐ近くにある履中天皇陵のこと。
すぐそこに、天下にその名が鳴り響く仁徳天皇陵があるので知名度は低く見逃されがちですが、この古墳の大きさもあなどれない。

その昔、履中天皇陵の周りには芝生が生えていたという言い伝えがあります。天皇陵の周りの芝なので「神の芝」と。それがいつの間にか「上の(之)芝」に変わっており、現在に至ると。

「上の芝」が「上野芝」に変わったのは、意外に新しく昭和4年、阪和電鉄の上野芝駅が出来てから。「上の芝」だと駅名としてなんだかな・・・漢字にして締まりを良くしよう!というのが、その理由だったそうです。

上野芝駅

JR上野芝駅

上野芝駅は、今は各駅停車しか止まらないローカル駅となっています。
快速や特急でビューンと飛ばす人には、

そんな駅あったっけ?

と無視されても文句が言えない地元の駅であります。

上野芝駅が作られた根拠は、もちろん阪和電鉄最初の直営住宅地、「向ヶ丘」のためでした。

「向ヶ丘」とは上野芝駅の南部に広がる住宅地、今の上野芝向ヶ丘町のことで、鬱蒼と茂る森を阪和電鉄が買収、そこを住宅地にすべく開発したのが始まりです。が、向ヶ丘住宅地が実際に分譲開始になったのは、駅が開業した翌年のこと。駅ができた当時は、荒涼たる荒れ地の中にポツンと寂しく建つ駅でした。

 

昔の上野芝駅

 

二代目上野芝駅2

これは戦後に建て替えられた二代目の駅舎ですが、右側の駅舎が阪和電鉄独特の形状なので、初代のままだと推定できます。

最初の住宅地ということで、購入者には1年間阪和電鉄乗りたい放題という特典がありました。

昭和初期、電車は大衆の足として定着してはいるものの、中・長距離となると決して安い乗り物とは言えませんでした。天王寺から和歌山まで96銭でしたが、大工の日給が2円だった時の96銭。今なら3~4000円くらいの感覚です。

それで1年間乗りたい放題は、かなりおいしい特典だったと思われます。この特典を利用して、和歌山方面に新婚旅行に行った夫婦もいたという回想もありました。

 

向ヶ丘という名前の由来

 

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向ヶ丘自治会ブログ様の画像を一部加工)

向ヶ丘住宅地の、そもそもの地名は「踞尾」でした。

踞尾つくおという難易度高めの地名は、「つくの」(正しくは「つくのお」)と読みます。今は「津久野」と書きますが、これは踞尾の地に公団団地(今のUR)に隣接した駅を作る時、「踞尾」なんて馴染みのない漢字は使っちゃダメという国鉄ルールでNGとなり、常用漢字を使った「津久野」になった経緯から。

今は地名まで「津久野」になってしまい、「踞尾」が化石地名と化してしまう、何とも笑えぬ結果になってしまいました。

 

上野芝や向ヶ丘界隈を「つくの」と言うのは、地元の地理に詳しい人であれば少し違和感を感じます。

 

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近くと言えば近くなのですが、なんだか違うよねという距離感もある。しかし、「踞尾村」という広い区域の一部だった地が、「向ヶ丘」という名前がどこから湧き出てきたのか。そこが気になるのです。

 

さて、急に湧いて出てきたような「向ヶ丘」という地名は、どこから出てきたのか。

 

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上野芝駅から向ヶ丘の住宅地へ向かうと、駅からいったん急な下りになり、百済川という川を跨いでいったん平坦となります。そこから一気に急傾斜の上り坂に。

この地形を見るとわかるように、「上野芝」から見た「向こう側の丘」、すなわち「向ヶ丘」と名付けられたと私は推定しています。

今でこそ見渡すかぎりの住宅地ですが、当時は下の絵のような風景だったのでしょう。

昭和8年頃上野芝の月見橋の絵
(昭和8年、上野芝駅前の下り坂から向ヶ丘を臨んだ絵。堺市立図書館所蔵)
帽子をかぶった女学生がおそらく家路につく様子を絵にしたものだと思います。ここに住んだこともないのに、何だかノスタルジックで、我々が置き忘れた何かがこの絵に含まれているような気がします。

 

しかし、この写真が実は上野芝向ヶ丘町に残る謎のキーポイントとなります。

 

「向ヶ丘」という名前は、地元のブランド名になったのか、地元のいろいろな場所で使われ始めます。

 

 

津久野駅前近辺の地図

上に書いた「踞尾」が「津久野」になった駅前の現在は、「サンヴァリエ津久野」というお高いUR賃貸住宅が並んでいますが、ここが「サンヴァリエ」になる前は「向ヶ丘第一団地(住宅)」という公団住宅でした。

今の「津久野駅」は「踞尾」と共に「向ヶ丘」という名前も候補にあがっていました。というか駅名としてしっくり来やすい「向ヶ丘」が最有力候補だったのですが、地元の反対で「津久野」に落ち着くことに。

上野芝の向ヶ丘は元々「踞尾(津久野)」だったのに、いつの間にか本家(踞尾)が分家(向ヶ丘)に名前ごと飲み込まれそうになるところだったのです。

 

嘘かまことか!?向ヶ丘は元々○○のはずだった!?

このように、住宅地として阪和電鉄は向ヶ丘を開発したのですが、ここはそもそも住宅地のつもりで土地を買収したものではないと言われています。

『堺市史』によると、「踞尾村の駅東南約五町」の土地に1万坪の大遊園地や野球場を建設するつもりだった阪和電鉄。地主に土地の買収交渉をするも交渉は決裂。

阪和電鉄は次に、「大鳥神社南側から野代にいたる約4万坪」の土地を遊園地候補にし、坪5円で地主と交渉が上手くまとまりました。

結局、そこには遊園地どころか何もできなかったのですが、交渉がまとまったと聞いた踞尾村側も買収に応じたものの、出来たのは遊園地ではなく住宅地。阪和電鉄側は、大阪市内に近い場所に遊園地を作ると、維持費の関係で採算が合わなくなると計算しました。南海はこの近くに中百舌鳥球場を建設したものの、市内との距離が中途半端だったため失敗に終わったので、阪和電鉄の判断は正解だったのかもしれません。

しかし、何も聞いていない地主や村民は、そりゃねーよーと思ったのでしょう、阪和電鉄に対しかなり不信感が残ったそうです。

これは、阪和電鉄建設中(昭和4年)の『大阪毎日新聞』をソースに『堺市史』に書いていることですが、半公式の阪和電鉄史である『阪和電気鉄道史』や、向ヶ丘自治会のHPや会報には、遊園地の「ゆ」も書かれていません。新聞には具体的な地名は書かれていませんが、「踞尾村の駅東南約五町」とはまさに上野芝向ヶ丘町のこと。おまけに「向ヶ丘」と付くのは住宅地が出来た後なので、記述が正しいなら間違いありません。

もし、ここに本当に遊園地が出来ていれば、上野芝向ヶ丘町の歴史は全く違っていたはず。関東の向ヶ丘遊園を差し置いて「初代向ヶ丘遊園」に…と思ったら、向こうは昭和2年(1927)開園なので、どっちにしても向こうの方が早いや。

 

ここでもか!阪和電鉄vs南海鉄道バトル

 

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さて、鳴り物入りで分譲・入居を開始した向ヶ丘住宅地、これがとんでもないトラブルに巻き込まれてしまいます。
家は雨漏りするは、水道の水は濁って飲めないなど、クレームが続出。

最初の直営住宅地なので経営ノウハウがなく、何かとトラブル続きなのは仕方ない面もありますが、阪和電鉄はお客様に耳を傾ける姿勢で、自治会や住民との関係は良好だったそうです。

しかし何より、重要なライフラインである電気が通らない
当然、住民は激おこぷんぷん丸。

電気完備って広告に書いてたやんか!詐欺やんか!

しかし、どうすることも出来ずほとほと困った阪和電鉄。

電気が来ないその理由とは…立ちはだかるは、あの永遠のライバル南海鉄道(現南海電鉄)でした。

時代は蒸気機関車から電車へ移る時代、鉄道会社にとって電気は経営を左右する死活問題。そこを「他社」に任せていては経営は安定しない。鉄道会社は電気会社や発電所を買収、自社の財産にしていきました。

当時電気は一般家庭にも電化が浸透し、伸び盛りの新興産業。鉄道会社にとってはメインの鉄道収入に次ぐ収益率の高い事業となりました。
南海も大正後期には堺や岸和田などにあったローカル電気会社を買収していき、今の堺市より南、泉州地方の電気事業を独占していました。
それも子会社を作るなどではなく、南海の直営。関西電力ならぬ「南海電力」です。

南海火力発電所
(写真:『開通五十年』(南海鉄道編)より)
自前で堺に火力発電所まで作っています。今と比べたら小規模とは言え、鉄道会社が発電所を持っている自体が驚異でした。

私鉄が電力会社を所有し、沿線の電気供給を独占する方式は、戦争中に電気が国家に強制的に没収されるまで続きました。

 

南海が独占していたエリアに阪和が住宅地を作る。電車の電力は、おけいはんこと京阪電鉄が手中にしていた和歌山の電気会社が供給していたのですが、住宅地になると話は別です。南海は、ここぞとばかりに「向ヶ丘ハラスメント」に入ります。

なんで商売仇の阪和の住宅地に電気やらなあかんねん!

ほぼ原文ママの南海の言い分です。

血も涙もない鬼の南海は、ひたすら向ヶ丘への電気供給を拒否。困った阪和と向ヶ丘の自治会は、

ちょっとどないかしてーなー!ライフライン止められたらたまらんわ!

と大阪府に泣きつきます。
大阪府も、

南海さん、ちょっとそれはひどいんちゃう?

と仲裁に入り、南海は仕方なしに電気を供給することになりました。

しかし、さすがは南海。転んでもただでは起きぬ。

渋々電気を通すことに同意した南海が自治会に提示した月の電気料金が、当時のお金で100戸あたり2000円。向ヶ丘住宅地の初期の戸数が120戸なので、単純に割ると一戸あたり約16.6円となります。

が、16円といっても、当然ながら現在の16円ではありません。
当時の一般的な職業だった大工の平均日給が2円だった時の16.6円。今関西のド短期バイトの日給が¥8,000~10,000くらいなので、2円はだいたいそれくらいに値します。
感覚的な換算だと約6~8万円。電気代に月6万は今から見てもぼったくり以上の何かですが、当時も

それ、ぼったくりやん!

結果どうなったのかは記録に残っていなかったのでわかりませんが…まあ、どうにかなったのでしょう。
電気が開通するまでの間、住人は石油ランプで過ごしていました。向ヶ丘に最初に入居した人は数ヶ月間石油ランプで過ごし、この時の生活を忘れないと「家宝」としてランプを保存していたそうです。

幻の『向ヶ丘デパート』

上野芝向ヶ丘町は、その勢いのまま、「向ヶ丘デパート」という今のスーパーのようなものを開きます。
向ヶ丘住宅地にお店がなかったので、ひとまず作ろうと入居者数人が共同で作ったものでした。写真などはないので、どれくらいの規模か計り知れないですが、おそらくコンビニにうぶ毛が生えた程度だったでしょう。
しかし、入居者の思いつきで始めた「武士の商売」だったか、全く儲けにならず数年でなくなってしまったんだとか。
今となってはどこにあったのか、場所すらわからないですが、当時の勢いや活気がわかるエピソードです。

 

 

上野芝のもう一つの住宅地

上野芝向ケ丘と霞ヶ丘の地図

向ヶ丘住宅の完成から3年後の昭和8年、逆の方向に霞ヶ丘住宅が作られます。
こちらも高級住宅地として開発され、阪和電鉄の初代社長もここに家を構えていました。
こちらも閑静な住宅街として現存し、一時は野球の南海ホークスで活躍し、ダイエーホークス1の監督を務めた杉浦忠や作家の黒岩重吾、漫才師の横山やすしも住んでいました。やすしの相方西川きよしの長男、西川忠志氏の出身地が堺市になっているので、もしかしてきよしの方もここに住んでいたことがあったのかもしれません!?
杉浦氏は、新聞に書かれていた死亡時の自宅住所が「大阪府堺市上野芝町7-3-36」だったので、最後までここに住んでいたようです。

 

この霞ヶ丘ができたその後、上野芝駅は始発・終着駅を除く、現在の堺市内の駅利用者数ナンバー1に躍り出ます。
戦前の利用者数は、戦前から優等列車が止まっていた鳳駅より多かったのです。

 

阪和電鉄乗客数昭和
(ソース:『大阪府統計書』)

昭和14年、15年度の利用客数が、「上野芝駅>鳳・阪和堺(今の堺市)駅」なことがおわかりでしょうか。阪和線全体を見てもトップ10に入るほど、上野芝は勢いがあったのです。

阪和電鉄も、向ヶ丘の住民にやさしい配慮をしてくれました。そのうちの一つは、準急の上野芝停車。

阪和電鉄は私鉄なので、いまと比べて色々な列車種別がありました。

阪和電鉄の列車種別超特急:阪和間ノンストップ
特急:鳳など一部停車
急行:今の快速の停車駅とほぼ変わらず
準急:南田辺・杉本町・阪和堺・上野芝から各駅(天王寺~久米田間)

がありました。また、1年のみでしたが、阪和岸和田2までは各駅停車、でもその先からは急行になる、「直急」なるヘンテコな列車も、1年間のみ走ってました。そんなヘンテコ電車については、こちらの記事で詳しく解説しています。

向ヶ丘の自治会は、最終的には急行を止めてもらおうと働きかけていたようですが、昭和15年までの時刻表を見るに急行が上野芝に止まった記録はなく、実現はしなかった模様です。

 

 上野芝向ヶ丘町と近代建築

 

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昭和23年(1948)年の上野芝向ヶ丘町の航空写真ですが、写真上端が上野芝駅です。周辺と比べ阪和電鉄の向ヶ丘住宅地がまるで海に浮かぶ島のように存在していることがわかると思います。

住宅地の部分は名前の通り丘となっているので、遠くから見ると天空の城ラピュタのようだったかもしれません。

昭和初期に開発された住宅地なので、今でも昭和モダニズムの面影を残す当時の建物が残っています。近代建築マニアも見逃している近代建築の穴場です。

小休止代わりに近代建築の写真をお楽しみ下さい。

 

上野芝向ヶ丘町の住宅1

門柱が地味に昭和初期の洋風の粋を残している家。

 

玄関の装飾が美しい上野芝向ヶ丘町の住宅

玄関の装飾が地味に凝っているお宅。

 

上野芝向ヶ丘町の丸窓が残る住宅2

和風ながら大正時代~昭和初期に流行った丸窓がアクセントになっている住宅。

 

上野芝向ヶ丘町の丸窓が残る住宅1

草垣からわずかに見える丸窓が素敵な洋風の住宅。

 

窓の装飾がきれいな上野芝向ヶ丘町の住宅

磨りガラスだけでも昭和モダニズムの匂いがプンプンするのに、そこに近代的な装飾を施しています。出来た時はさぞかし「モダン」だったことでしょう。

 

上野芝向ヶ丘町に残る洋風住宅。昭和初期

少しリフォームされていますが、建築当時の面影を色濃く残している住宅。かなりデカいです。

 

上野芝向ヶ丘町の昭和モダニズムを色濃く残す住宅

昭和初期モダニスムの流行を色濃く残している住宅です。曲線を採り入れながらロボットのような形をしているのが特徴です。

 

上野芝向ヶ丘町に残る、昭和の洋風建築1

上野芝向ヶ丘町に残る、昭和初期の洋風建築2

一つの家に和風と洋風の建物が混在している、一風変わった建物です。既に老朽化が進んだか、洋風の方はガラスの部分が板張りになっており、なんだか痛々しい気もします。

私は向ヶ丘出身ではないですが、中学の校区がここと被るために友人・知人が多く、中学生の頃はよく通っていたエリアでした。毎日とは言わないものの、かなりの頻度でここ界隈を自転車で走っていました。もう約30年前になります。

地元の人の話によると、その時は向ヶ丘住宅地が開発された建物がもっと多く残っていたらしく、ハウステンボスのような(by地元の人)洋風屋敷もあったそうです。

天王寺の予備校に通っていた時、阪和線の車窓からも見える巨大な屋敷が見えていました。山の上に建つ西洋風の城のような風格で、阪和線の快速の窓からも目につくくらいだったので、現物は相当大きかったと思います。いつの間にかなくなっていたのですが、あれも「ハウステンボス」の一部だったのか!?

今でこそこういう趣味を持ってアンテナが鋭くなっていますが、そんなものを持っていなかった中学生当時の私は、ゴールドマイン(金鉱)の中を自転車で走り、友達と遊んでいたということになる。実にもったいないことをしたものだけれども、中学生にそんなことを求めるのは無茶なこと。

 

ついでながら、元衆議院議員の西村眞悟氏も上野芝向ヶ丘町出身。7歳まで住んでいたとのこと。昔の思い出を公式サイトで書いています。

関連記事

上野芝に行ったらやけに西村氏のポスターが目立つなと思ったら、元地元だったのね。

この人のブログを見ていると、昔の上野芝の意外な面を書いています。

 

向ヶ丘にかかる謎の橋

上野芝駅から向ヶ丘の住宅地へと向かう道の途中に、「月見橋」という橋がかかっています。

 

現在の上野芝向ヶ丘町の月見橋

月見うどんを食べたくなるような名前の橋ですが、この先に謎の建築物があります。

 

 

現代の月見橋(上野芝)

地元の人以外、いや地元の人だからこそ目を向けることのないものですが、コンクリート製の橋の片割れに見えます。

上に書いた通り、中学~高校生前期の頃は縄張りのエリアだったので、ここも何十回と通っていたはずですが、これに気づくことはなかったです。この建造物の存在に気づいたのはいつか忘れたのですが、一時上野芝在住だった黒岩重吾文学にハマっていた頃に、上野芝を訪ねた時だったと思います。

その時は既にこのような歴史探索なるものを行っていたため、中学生の時には気づかなかった細かい所に気がつく能力が身についていたのでしょう。

 

上野芝の月見橋跡

 

上野芝駅から逆の方向には、
「月見橋」
と書かれたプレートも残っています。

今の月見橋とは違う橋、「旧月見橋」が架かっていたことは確かなようです。

ふつうに考えると、
「ここに川が通ってたのかな」
と思います。事実、すぐ横に百済川という川が流れていますし。
しかし、何かがおかしいんです。この違和感は一体何なのか。

 

このえも言われぬ違和感を解消しようと、大昔の航空写真をほじくり出します。

 

昭和23年の上野芝向ヶ丘町の航空写真と月見橋
(昭和23年(1948)航空写真)

黄色矢印の部分に「つきみばし」はあるのですが、そこに川は流れていません。

川が流れていない所に、何故橋を架けたのか?謎はますます深まります。

 

昭和8年頃上野芝の月見橋の絵

「つきみばし」は「月見橋」と書き、向ヶ丘住宅地が開発された頃から存在していました。上述したとおり、この絵は昭和8年頃のものです。

この月見橋の名付け親は上野芝向ヶ丘住宅最初の住人、吉川万次郎氏と言われています。

「上野芝駅に出るためには誰もが通らなければならない長い陸橋である。
夕刻上野芝駅に下車して橋にさしかかったとき、田を隔てた丘の森の上から昇る円かな月を背に影絵のように浮かび上がる丘の家々や街の灯を目にする時、たちまち一日の労苦は忘れられ、我が家に帰り着いた安堵感と喜びが湧いてくる。自然、『月見橋』として親しまれるようになった」
自治会館初代理事長、西村駒吉氏の回想(上野芝向ケ丘史 昭和39年)

上の回想にも「陸橋」と書かれている通り、月見橋は川にかかった橋ではないようです。しかし、川もないのに何故橋をかけるのか?

 

何故川のないところに橋を作ったのか

月見橋の部分は湿地帯で、住宅地になった今も一部跡が残っています。

 

上野芝月見橋跡の横の湿地帯

橋の跡の左にある緑の部分が、湿地帯の跡です。

湿地帯を埋め立てて道路を作るのは当然ですが、なにも金がかかる橋を作る必要はないと思います。ただでさえ資金難でピーピー言ってた会社なのに

橋は川や堀などを跨ぐ建造物ですが、日本では伝統的に「娑婆(俗世界)と別世界を分ける境界」という考えがあるように思えます。

遊廓や花街では、実際に川や堀で隔離されているところが多かったものの、そこに橋を架けることによって、別世界観を演出する働きがありました。
惚れた男と女が橋の向こうだけでは「男女」になれる。しかし、橋を渡り娑婆に戻ればそれは夢は幻の如く。決して結ばれることのなき二人、この密かな愛を結ぶのは、赤色に塗られた一本の橋のみであった。

と詩人になっている場合ではありません。

もちろん、上野芝は遊廓でも花街でもないのですが、「舞台装置」と考えればなかなか面白い仕掛けではないかと。
上野芝駅から向ヶ丘の住宅地へ向かうと、まず下り坂が待っており、下り坂が終わったところで平地になり、そこに月見橋がかかっている。月見橋の端に差し掛かると上り坂が始まり、そこが住宅地の入り口となります。

 

ディズニーランドもUSJも、ゲートにインパクトがあり「これから別世界に行くんだ」というワクワク感があります。月見橋の端が向ヶ丘へのメインゲートという建築的事実もあるので、これはやはり「演出」だなと。
出来た当時の下り坂から月見橋を通して住宅地を見ると、月見橋が「別世界」へ架かる橋に見える。その奥には、まだ自然の森が残る我が家の住宅地が。月明かりと橋の電灯が橋を照らし、さらに別世界への入り口ぶりを演出する。
これを狙っていたのではないかと推定しています。

 

月見橋には、もう一つの謎があります。

 

月見橋のもう一つの演出!?

資料によると、月見橋の欄干の上には電灯が灯り、夜はライトアップまでされていたと記録にあります。

 

昭和8年頃上野芝の月見橋の絵

この絵にも、橋の上に「何か」がついていたことがわかりますが、それが街灯かどうかはわかりません。ただの装飾という可能性もある。

上野芝向ヶ丘町月見橋跡の上

今の月見橋の跡の上を覗いてみると、「何か」が上に載っていた跡が見受けられます。

 

そこで、いろいろな角度から月見橋のこの謎を探り当てました。しかし、私一人の力では限界があります。そこで、「助手」にヘルプをお願いしました。

公共図書館員のお仕事は、本の整理や管理はもちろんですが、もう一つ重要な仕事があります。

それは、利用者が探している資料や書籍などを探すこと。利用者は、ある資料を探していると館員に伝えれば、ちゃんと調べてくれることがあります。

都道府県級、や政令指定都市級の図書館になると、「調査課」という部署があったり、「専門調査員」という郷土史の専門家が常駐していることがあります。経験が浅いバイトの館員では太刀打ちできない、マニアックな人たちの大きな味方です。こういう人をフル活用するっきゃない。

堺市立図書館には運良く専門の調査員が常駐しているので、向ヶ丘やその他のことを調べていると伝えた上で、ヘルプをお願いしました。まず挨拶として向ヶ丘と書いている資料をありったけ、山盛り持って来いと。

調査員の方が持ってきてくれた資料の中に、戦前の月見橋の写真がありました。

 

昭和7年か8年頃の上野芝月見橋の写真

昭和7年か8年頃の月見橋の写真ですが、これは百聞は一見に如かず。橋の上に明らかに街灯が据えられています。

また、橋が途中で欠けているように見えます。おそらく手前が百済川に架かる部分で、途切れているように見えるところが小道になっており、その奥が「陸橋」の部分だと思われます。反対側も同じような構造になっていました。

 

上野芝の旧月見橋の先端部分

 

現在の反対側の先端部分ですが、このように途切れています。

 

調子に乗ってさらに探してもらうと、

 

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住宅地が開発中の写真や、

 

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ネットではほとんど出ていない、昭和10年の写真も出てきました。

この新たな2枚を見ても、月見橋の欄干の上には街灯があり、夜になると

 

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こんな風にライトアップされていたのでしょう。上の画像はあくまでイメージのためのジャンピングボードですが、これを出汁に当時の月見橋を脳内で再現し、想像力を膨らませて在りし日の月見橋を渡っていただきたい。

 

現在の上野芝向ヶ丘町と月見橋の跡

現在は、向かって左側しか残っていませんが、昔は右側にも橋が残っていました。

それがいつなくなったのか。これも航空写真で確認しました。

 

昭和36年1961年上野芝駅周辺と月見橋航空写真

昭和36年(1961)の写真ですが、まだ原型をとどめています。

 

昭和46年1971年上野芝駅周辺と月見橋航空写真

その10年後の昭和46年(1971)5月9日撮影の写真ですが、まだ原型をとどめています。が、住宅化の並がすぐそこまで迫っています。

 

昭和50年1975年上野芝駅周辺と月見橋航空写真

しかし、昭和50年(1975)1月24日の写真では。現在のように片側が商店街になり、現在の形となっています。

 

これでわかることは、月見橋が片側だけになったのは、昭和46年5月から昭和50年1月の間のどこかということ。だからと言ってなにがわかるというわけではないのですが、今後同じ疑問が沸いて調査する人への問題提起として。

 

昭和8年頃上野芝の月見橋の絵

何度も出てくる絵ですが、ついでにこのアングルで、平成29年(2017)現在の風景を撮ってみました。

 

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84年の月見…もとい月日を隔てた風景がこれ。

風景がすっかり変わっていますが、向かって右側の奥にある旧月見橋がわずかに存在感を出しているかなと思わないこともない。

 

くどいようですが、上野芝向ヶ丘町は中学時代によく通っていた地域でした。その時は当然、ただの住宅街にしか感じず「宝の山」を目の前にして何もできなかった悔しさが今になってこみあげてくるのですが、あなたが「ただの住宅街」と思っている場所も、掘ってゆくととんでもない「お宝」が見つかるやもしれません。

それは金やダイヤのように光り輝いていないけれども、新たな歴史という好奇心の宝石を発見できるやしれません。

そこから好奇心の羅針盤を好きなように進め、未知の海原へ漕ぎ出してゆくのも、また面白い航海になると思います。

毎日がつまらない、何のために生きているのだろうと悩んでいる若い人には特に伝えたい。あなたは大きな海原の前の海岸で、小さな貝殻を拾っているだけなのだと。

 

追記(悲しいお知らせ)

この記事を書いて半年後(2017年9月)、用事で月見橋がある道路を車で通った時、思ってもみない光景に無意識にブレーキを踏みました。

 

2017年12月上野芝月見橋1

月見橋の片割れが、ついにお無くなりになってしまったようです。

橋の横はずっと湿地帯で、誰も手をつけない無主の地だったのですが、そこが埋め立てられていました。土地の活用の目星がついたのでしょう。それによって、残っていた橋の片割れがついに姿を消すこととなったようです。

 

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先端の部分はかろうじて残ってはいましたが、これも風前の灯火でしょう。

こんな姿になるとは予想もしていなかったので、この記事が月見橋に対する弔辞になってしまうとは。

 

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80年の間、上野芝の喜怒哀楽を黙って見つめてきた月見橋の最期は、まことにあっけないものでした。コンクリートの成れの果てが言葉を出さず、ただそこにうずくまっていました。

しかし、私は月見橋にさようならは言いません。80年間お疲れ様でしたと労いを込め、彼女の最期を送りたいと思います。

  1. 現ソフトバンクホークス
  2. 現東岸和田
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