「信太山」と聞いて読者の皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。
自衛隊に風俗街。
おそらくこの二つだろうと思います。
自衛隊はおおっぴらに書くことができても、風俗街はなかなか公には語られません。
しかし、「現役」にもちゃんと歴史がある。歴史がある以上書かなければならない。
「遊郭・赤線跡をゆく」は、「跡」だけに「現役」にはあまり興味が沸きません。ってかもうそんな性欲ありゃしません(笑
が、やはり書くべきものは書いておこう。

信太山と新地の歴史は、大正8年(1919)に野砲兵第四聯隊が大阪市内から信太山に移転した時から始まります。
それまで信太山には、一部の集落を除けばほとんどなにもなく、信太山界隈は土壌的に農業には向かず、明治以降は軍が買い入れ射撃場として使用されていました。
そんな立地条件もあり、野砲兵聯隊が信太山に引っ越してきたのも必然。
それに付随して陸軍病院(信太山分院)や憲兵隊(一部)も引っ越し、信太山は「軍の町」として近代史に姿を見せます。
「陸軍聯隊あるところ、遊郭あり」
近代遊里史を研究してたどり着いた持論の一つです。
軍と売春は切っても切れない関係というのは、日本軍に限らず万国共通です。軍とはストレスが非常にたまりやすい業種であり、それを発散させるためにも、娯楽の選択肢が「食う・寝る・ヤる」しかなかった当時としては「性のサービス」が必要不可欠。
ヤるなとは言わないけれど、下手に街娼、古い表現なら夜鷹ですが、に手を出されて性病になり「戦闘不能」になってくれると、
軍隊としても困った事態になります。
軍隊駐屯地と遊郭が一セットなのは、性病予防という現実的な問題があったのです。
信太山の野砲兵聯隊の場合、いちばん近い遊郭といえば貝塚か堺の龍神・栄橋となります。
が、交通機関が発達した現在でも信太から貝塚・堺へ行くには、交通の便が実に良くない。
昔の兵隊の体力と脚力なら南海の泉大津や松ノ浜駅まで歩けると思うので、実際に行ってた人はいると思います。
それでも、将兵が休暇で…となると行くのはやはり面倒くさい。
いっそのこと、近くにあれば…

信太山の聯隊近くに私娼窟があったのではないか!?
つまり、聯隊近くに手頃なモグリ売春街があったという仮説です。
長年の勘から、ないわけがないだろうと感じてはいましたが、大阪府の資料を丹念に見ていると本当にあった模様。
元野砲兵連隊の設置に伴い、兵隊相手の売春業者が10軒ほどできたが、終戦と共に消滅(以下略
大阪府の資料より
10軒といえば私娼窟ならそこそこの規模と言えますが、ここで注意すべきことがあります。
現在の新地が脳裏にちらつくので混在しがちですが、聯隊相手の私娼窟、「現在の信太山新地にあった」とは一言も書いていない。
そりゃそうです。なぜなら…

戦前の信太山新地の位置には、な~~んにもなかったから。
大阪府の資料と地元の方の証言によると、戦前の私娼窟は聯隊近辺に散在しており、遊郭や現在の信太山のように集約されたものではありませんでした。
そうなると、どこにあったなどわかりようがないですが、熊野(小栗)街道沿いにあったのではないかと。
現在ここを使って南下北上する人は、旧街道マニアくらいしかいませんが、腐っても旧街道。
10〜30年前は飲み屋や廃業旅館が残っており、あってもおかしくないよなという勘が。あくまで勘だけでエビデンスなんてありゃしません。
その日本が戦争に敗れ、信太山野砲兵第四聯隊の敷地は米軍に接収され、歩兵連隊が駐屯することとなります。
業者にとっては、お客様が日本兵様から青い目の米軍様に変わっただけで継続したようですが、
やがて米軍から”OFF LIMITS”(立ち入り禁止)を食らってしまいます。
戦後の混乱期のこと、公娼制度が廃止され公的な性病検査が同時になくなった結果、
売春と性病が野放しになり蔓延、軒並み「戦闘不能」に陥ったからでしょう。
それでもいわゆるパンパンなどの街娼や売春宿が散在していた中、昭和26年(1951)から遊郭のように一ヶ所にまとめて「赤線化」しようという動きが始まりました。
そして、完成したのが現在の信太山新開地という経緯です。
が、大阪府の資料によると設備の不完全などにより正式に許可が出ないまま出発。既成事実を突きつけて黙認してもらう「青線」として扱われていたようです。

昭和21年(1946)の写真には、現在の新地には何もありません。

が、31年(1956)になると土地が開発され建築物も確認できます。新地ができたということです。
ここでも、自衛隊と新地にまつわるある伝説があります。
「信太山新開地は自衛隊のために作られた」
しかし、ここ信太山が開廓されたのは昭和27年(1952)と伝えられています。
実はそのときはまだ旧陸軍聯隊の敷地は未返還で、米軍が進駐していた頃でした。
日本に返還されたのは昭和32年(1957)ですが、新地ができたときはおそらく返還は決まっていなかったと思われます。
返還された翌年の昭和33年(1958)、売春防止法の完全施行により売春行為自体が禁止されたため、信太山新開地でもそういう行為は禁止され、業者は「料理屋」や「旅館」に転向しました。表向きはね。
その数年後の状態を見てみましょう。
各料理店には、2人ないし3人んお従業婦を置いているが、従業婦の大部分は旧娼家時代からの継続者にて年齢は24歳までの者が多い。終了終了
大阪府の資料より
従業婦の出身地は、奈良、和歌山、四国、九州方面が多く、そこから転落し女工から転落した者が相当数あり、営業80まで従業婦の8割までが住み込みである。営業内容忘れ全
営業内容はすべてセット制を採用しており、固定給を与えているところはない。
(中略)
客は月の15日前後及び月末前後の給料日に多く、岸和田、泉大津及び近辺の若者が大部分を占めており、自衛隊員の出入は禁止されている。
遊客の年齢層は20歳から25歳の者が多い。(中略)
・旅館
ここでは接待婦は一人も雇っておらず、またその必要もない。料理店の客が従業婦を連れ込んでくるので、連れ込み料は1800円から2000円で、宿泊料600円を除き女将と折半するようになっているようである。
・下宿
従業婦3人に間貸ししている。
・飲食店
何れも従業婦に売春を容認している。
いちおう売春防止法で売春は廃止され旅館や料理屋に転業したものの、料理屋や飲み屋で客と女の子がお互い「一目惚れ」をして旅館へドボン…という形式で継続されていたということです。
この形態は現在も変わっていません。
お客は「旅館」に「休憩」に来て、「置屋」と呼ばれる飲食店から宿の部屋に派遣されたコンパニオンと「一目惚れ」。お互いビビビ!と来て…ということ。
なお、この旅館は旅館なのにお泊まりはできません。楽天トラベルにもじゃらんにも載ってません(笑
昔の赤線みたいに「お泊まり」があったらいいのに…と思う今日このごろ。
現在の信太山新地

信太山新開地への最寄り駅は、その名の通りJR阪和線の信太山駅。

ふつうなら、おそらくここから線路沿いを北上し、青矢印の隠し通路のような細い道を…という方が多いでしょう。
しかし、ここはあくまで裏口。私は赤矢印の真正面突撃を敢行しました。

ジモピーが「13号線」と呼んでいる道沿いに、実は新開地の正式な入口があります。
阪和線沿いの入口はあくまで裏口というか、盗掘者が開けた盗掘用の穴というか、そういうところです。
他の新地と比べて門もないですが、ここが「現在の遊郭」の「見えない大門」であり、前の道が大通りなのです。
「大門」の前はスタンドなどの飲み屋系が並んでいます。
お店に駆け込む前にまず一杯飲んでいこうというわけでしょうか、それともお目当てのおねーちゃんとの遊びを愉しんだ後、余韻を楽しむための一杯でしょうか。
関係ないですが、私もしれっと「13号線」と数十年言い続けていますが、なぜ「13号線」なのか、長年大阪の謎として残っています。
正式名称は「大阪府道30号大阪和泉泉南線」なのですが、誰もそんな名前では呼びません。ってかこんな「立派な名前」があるなんて知らんかったんちゃいます。。地元の皆さん(笑
だから、仮にここへ行く時に場所がわからなくなった非地元民に聞くと、

13号線のそこや!
みないな言い方をされるはず。しかし、13号線などGoogleマップにゃ出てこない。でも、人に聞いたら100人中100人が「13号線」と答えるはず。
堺市以南の泉州地域を走る時、「13号線「阪和国道」「旧26」の用語を覚えておかないと、ジモピーの道案内が暗号のように聞こえます(笑
閑話休題。

内部はパシャパシャ写真を撮るのもはばかれるので、実際はその目で見て下さい。
申し訳程度に、2019年に撮影した写真を。
2019年探訪時、新地内にはこんな建物が残っていました。

”SINODAYAMA APART”。ローマ字が”SHI”ではなく”SI”。
見た目かなり古かったので、新開地がオープンして間もない頃、旧陸軍聯隊がまだ米軍進駐の頃の生き残りか!?
と裸のおねーちゃんよりこっちに興奮したものでした。
しかし、謎は解けないまま解体。惜しいけど写真に収めておいただけでよかった。

新地内には、稲荷神社があります。
遊郭とお稲荷さんは切っても切れない関係にあり、すべてではありませんが遊郭跡の近くには大なり小なり稲荷神社があります。
しかし、新地内にあるのは、ちょっと珍しいケースではないでしょうか。

境内には、信太山新開地開廓55周年の碑があります。
私が終始「信太山新地」ではなく「信太山新開地」と書いている根拠はこれ。
本記事は風俗街レポートではなく、あくまで暇人歴史家が歴史を深掘りするブログ。
ここに「信太山新開地」と書いている以上、「信太山新地」は俗称であって正式名称にあらず。ここはできるだけ正式名称で記すのが歴史家としての筋。少なくても私はその意思で書いております。
タイトルとか見出しはSEお…ゲフンゲフンな事情で許してほしいけど(笑
それはさておき、私がわざわざこの画像をアップしたのは、前に書かれた「五十五周年」の文字。
つまり、これが造られた時期がわかれば信太山新地ができた明確な年が明らかになる。
裏を覗いてみると…

平成19年(2007)なので、それに55を引くと、1952。
1952年は昭和27年。資料に書かれているここの開廓年と一致します。
さいごに…


新開地の隣には、大きな市営住宅があるのですが、正直、周囲に比べ流れている空気が違う気がします。
この周辺、そもそもは「訳アリ地区」でそれはそれでネタになるのですが、本記事の趣旨はそれではないので、大阪DEEP案内さんあたりにお任せしますか。




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