大阪市立大学秘史 その2-商科大学から市民大学へ

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大阪市立大学の歴史

商業の都大阪には、江戸時代から町人のための学校が数多く開かれていました。有名どころは福沢諭吉などが在籍していた『適塾』ですが、現在なら理系全振りの教養学部か、医学部の教養課程(って今でもあるのかな?)のようなところでした。

また、裕福な商人が金を出し合い、授業料は無料という塾も多数ありました。
そこで学ぶものは観念論的なものではなく、基本的な道徳を除けば実務的な商売のことがほとんど。これが大阪市大を生み出した土壌とも言えなくもありません。

時代は明治になり、財界人の手によって明治13年(1880)に私立の大阪商業講習所が誕生します。これが市大の直接のご先祖様です。
明治32年(1899)、日本初の「市立」高等教育学校として「大阪高等商業学校」と発展させ、商業の高等教育機関としての土台が出来上がります。

そして昭和3年(1928)に大阪商科大学が誕生します。

大阪商科大学は東京商科(現一橋大学)神戸商科(現神戸大学経済学部)と共に「旧三商大」と呼ばれ、スポーツの交流も行われています。

今の市大は市の南部、JR阪和線杉本町駅の前にあります。
が、商大設立当初は市内の真ん中、「烏ヶ辻」(からすがつじ)という所にあり、大阪けいさつ病院の敷地がそのまま旧キャンパスでした。

こんなところにあったんや…

と地元の人はビックリするかもしれません。大阪商大は元から杉本町にあったと先入観を持っていた私も、これは目からなんとかでした。

大阪商科大学と大阪市立大学

Wikipedia先生にもある、杉本町に移る前の大阪商大のキャンパスの写真です。鳥が辻時代の大阪商大の写真は他にあまりなく、残ってそうで案外残っていませんでした。

ところで、烏ヶ辻キャンパスの南に「大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校」というやたら長たらしい名前の学校があります。なんでもカタカナにしたらええっちゅーもんちゃうねんというような専門学校のような名前ですが、高校です。

大阪人ほど、そんなけったいな名前の高校あったっけ?と思うでしょうが、「(元)天王寺商業高校」といえば全員納得するのではないでしょうか。

天王寺商業、そんな名前に変わってたんか!?

調べてみると、3つの市立商業高校を合併させ旧天王寺商業の校舎に集結させた高校です。

そんな旧天王寺商業が高等商業・商科大学の旧キャンパスの隣にある…のは偶然ではありません。
市立だけに商科大学付属学校のような立ち位置として一セット。NTT病院と高校、合わせて「烏ヶ辻キャンパス」だったと言っても過言ではありません。

その伝統が残っているのか、旧天王寺商業高校は商業高校らしからぬ大学進学率の高さ。
私が高校生の時のバイト先に、才色兼備の旧天王寺商業の女の子がいました。私が受験だと慌てふためいていたのを尻目に、鼻歌交じりに推薦で市大に進学して行きましたが、こうして歴史を調べると「事実上の大阪市立大学付属商業高校」として市大とつながってたんだなと。

大阪史最強の市長

大阪商科大学を誕生させた生みの親と言える人物が、

関一大阪市長

関一(1873-1935)という大阪市長です。苗字を書けって?いえいえ、これでフルネーム。「せきはじめ」です。

関は東京商業学校(現一橋大学)を卒業し24歳で大学教授になった秀才で、それだけに将来を嘱望された人でした。が、そんな人が大学教授の職を辞し、都落ちかつ降格人事を希望して大阪市の助役となり、のちに市長となりました。

戦前までのエリートは、大局や長期的戦略、そして自らの志のために、望んで降格人事を申し出る人が目立ちます。ここが戦後~現代エリートとの大きな違い。

戦前の降格人事は、もらえる恩給(年金)に今以上の違いが出てきます。更に露骨な官尊民卑の世間では、周囲の目線や接し方も違ってきます。普段はペコペコしていたご近所さんが、官僚を辞めた途端に付き合いがなくなり、道ですれ違っても無視されたなんてことは、ごく普通にありました。

関一も官立大学教授だったので官僚。今の官僚に、自分の志にウソや言い訳をせず、降格してでも自分の志を成し遂げたいという人はいるのでしょうか。
関一も、東京サイドから見た「志願の都落ち」に、学問の師から学長まで総出で引き留めに入ったという話が伝わっています。

大阪市民や府民に一般的に知られている、関の大阪市長としての主な功績は、

1.御堂筋の建設
2.その下に地下鉄(今の御堂筋線)を作る

でした。しかし、当時は御堂筋一つで

街の真ん中に空港を作る気か!?

と市民から総ブーイング。
その上に、その「滑走路」の下に地下鉄を敷こうとするのだから、この市長は気でも狂ったかと。現代の民選市長なら、たぶん市民に理解されず選挙で落ちていたんじゃないかというほどの猛バッシングでした。

しかし、関には市民に見えなかった、あるものが見えていました。

それは、年後の大阪

御堂筋のあの広さも、百年後には狭くなるほどの交通量になる。御堂筋線のホームも、百年後にはあの長さ(10両分)でも足りなくなる。だったら百人乗っても大丈夫なイナバ物置…ではなく、百年経っても大丈夫な道路にホームを、金があるうちにさっさと作ってしまえ。これが関の、百年後を見据えた都市政策でした。

当時の大阪は、人口は東京を抜いて日本一でした。税収も東京以上でしたが、その豊富な財源をベースに「大大阪(THE GREAT OSAKA)」と呼ばれた大阪市の絶頂期を築き上げました。
その功績と、市長在職中に病に倒れ亡くなった悲劇から、今でも「”史上最強の”大阪市長」という称号付きで呼ばれることがあります。

関が描いた理想の大学

大阪商科大学も、関には100年後の姿が見えていました。
官立の商科大学は、大阪と神戸で壮絶な誘致合戦が行われたそうですが、軍配は神戸にあがりました。煮え湯を飲まされた大阪市は雪辱のため、予算度外視で商科大学の建設にかかります。

しかし、関は冷静でした。

「将来は文理合わせた総合大学へ」

たかが商科大学で終わらせない。これが関が見た100年後の大学の姿でした。

そのコンセプトは、

「専門学校の延長を以て甘んじてはならぬ事勿論であるが、国立大学(筆者註:帝大)のコッピー(筆者註:コピペ)であってもならぬ」

と関本人が述べており、これが建学の精神となります。

今の杉本町キャンパスへは昭和8年(1933)に移転開始、10年(1935)11月に校舎が完成されますが、鳥が辻では必ず手狭になると、100年後の総合大学化まで計算した上でのシナリオでした。

そんな関市長の壮大な計画のもと、できたてホヤホヤの新しい校舎に移転して、学生たちはさぞかし大喜び!…と思いきや、

学生
学生

「鉄筋コンクリートの校舎ばっかりで味気がない」
「周りに何もなさすぎる」
「『学園』と言うけれど、周りは野原で確かに『園』だな」

となかなかの酷評(笑

レンガの赤が目立つ鳥が辻に対し、杉本町校舎はコンクリートの白が際立つ白亜の高層校舎群…と言えば聞こえがいいが、コンクリ打ちっぱなしの校舎は実に殺風景だったそうです。
実は、それが「モダン建築」という、時代を何十年も先取った最先端建築デザインだったんですけどね。

戦前の大阪市立大学(大阪商科大学)の俯瞰図
「戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷(大阪市立大学史紀要第9号)」P18より

これが杉本町キャンパスの全景の俯瞰図です。航空写真ではなくイラストですのであしからず。

大学もない頃によくこんな田んぼの真中に駅なんか作ったなと、阪和電鉄の無謀ぶりに脱帽ですが、さにあらず。大阪商科大学の杉本町移転は阪和電鉄開業時(昭和4年)には決定事項で、大学が移ってくるという前提で作られた駅だと思います。

駅の北数百メートルには、杉本という集落がありました。「杉本町」という駅の名前はそこから取られています。もし杉本町駅がそこの人たちの利用を考えて作ったなら、集落の前に駅を作るだろうと私は考えます。

しかし、今のような状態になるのはそれから数十年後の話。当時は道も舗装されておらず、雨が降ればぬかるんで歩けたものではなくなるひどい状況だった上に、阪和電気鉄道の乗客にも、

間違えて農科大学作ってもーたんか?ww

と笑われる始末。何故こんなところに大学を作ったのか、意味わからんと学生たちは愚痴るしかありませんでした。

しかし、当時の最新の設備で作られたこの校舎、さすがに冷房はなかったものの、暖房はスチーム完備でかなり快適な冬だったそうです。

スチーム暖房は、今は北海道の一部にしかありませんが、威力は強力でした。私も真冬の旧満洲でスチーム暖房を体験したことがありますが、外はマイナス20℃以下なのに中は余裕の半袖。あまりに暑すぎて外が氷点下というのを忘れ、窓を少しだけ開けて寝たら逆に凍死しそうになり、お前はアホかと笑われた記憶があります。

しかし、周囲に何もないということは、勉強に集中するにはうってつけの環境ということ。雨上がりのぬかるんだ泥道をブツブツ言いながら、学生たちは新しいキャンパスへと足を進めました。

大阪商科大学杉本町キャンパス

新しい杉本町キャンパスは、大きく分けて大学本科の赤い部分と、予科・高商科の青い部分に分かれていました。今の生活科学部は、戦前には敷地には含まれていませんが土地はキープしていた模様です。

当時の学費も残っています。

■予科・高商科:
大阪市民80円/年
市民以外は100円/年

■大学本科:
市民120円、他140円

同時期(1935年)の帝国大学の学費も120円、早稲田大学文系が140円だったので、商科大学はまさに相場通り。これは中流以上の家庭であれば問題ないレベルだけれども、それ以下になるとかなり厳しいかもしれません。

大阪商科大学記念スタンプ

別件で『官報』を漁っていたら偶然見つけた、大阪商大の校舎が完成した時の記念スタンプです。郵便局が大学に臨時局を設け、3日間限定でこの消印を使ったと書いています。何せ3日間限定消印なので、もし家の机の奥などからこの消印が押された手紙やハガキなどが見つかると、『なんでも鑑定団』でとんでもない値がつくかも!?

戦後の大阪市立大学の始まりは「亡命先」で…

大阪市大(公立大)は戦後10年間、アメリカ軍に大学まるごと接収されてしまいます。
その時の杉本キャンパスは、以下の記事で説明しています。

大阪市立大学秘史-キャンプ・サカイと杉本町駅の謎の線路【阪和線歴史紀行】
大阪市立大学の戦後史は米軍による校舎接収から始まった。杉本町駅から米軍基地と化した大学へ伸びる一本の線路…そこから明かされる大阪市立大学秘話。

その時の商大はどうなったのか。
結論から述べると、家を追い出されてしまった大学は市内各地の学校を間借りする居候生活を余儀なくされます。

実は大阪商大から新制大阪市立大学に移行する時も、杉本町ではなく、「亡命中」に「亡命先」校舎で引き継ぎが行われました。

その時、現在の理学部・工学部・生活科学部・医学部の母体の学校を合併し、法文・経済・商・理工・家政学部で新制市立大学がスタートします。

■理学部・工学部:
明治40年(1907)創立の市立工業学校(のち市立都島高等工業学校)
■生活科学部:
大正10年(1921)創立の市立西華女学校(市立女子専門学校)

これで現在の市大への土台が作られ、戦前からの念願だった総合大学へ・・・と聞こえは良いものの、如何せん実家が進駐軍にボッシュートされている状態。

仕方ないので各学部とも元の学校の校舎で開講となる、いわゆる「タコ足大学」となりました。

大阪市立大学「タコ足」キャンパス

法文・経済・商学部と大学事務局
:心斎橋の旧道仁小学校→旧靭(うつぼ)商業学校
旧商大・予科・高商科と図書館
:西区の旧靭(うつぼ)商業学校(新制市立大学後は廃止)
理工学部
:北野国民学校(現北税務署)
家政学部
:西長堀の旧西華女学校(現西区民センター)
医学部
:扇町

字で書くとピンとこないので、地図に落とし込んでみました。

大阪市立大学の歴史

こうして見ると、いかにバラバラになっていたかがわかります。

これがどれだけ不便かというと、例えば理工学部の人が何かの理由で大学のハンコをもらわないといけない時、わざわざ靭公園近くまで行かないといけない。図書館で本を借りようと思えば、わざわざ靭公園まで行く必要がある。
電車代だけでもバカになりませんが、その図書館もこんな状態に。

大阪市立大学の歴史

今のように、FAXでピピピと、メールでPDFをホイと送れる時代ならどうということはないですが、この時代なら学生の苦労も甚だしいものに。
もう無茶苦茶でござりますがな(by花菱アチャコ)

大阪市立大学の歴史

その「亡命先」の一つ、市内中心部の「靱(うつぼ)」校舎の一部ですが、敷地に民家が食い込んでいる状態で運動もロクにできませんでした。

無理矢理やろうとしても、ボールがしょっちゅう民家や学長室のガラスを突き破り、お茶を飲んでいた学長の頭に当たるという、二流ギャグ漫画のような展開が何度もあったそうです。

文系各部はまだよかったものの、理系学部の実習は小学生でも50人がやっとの教室に、大学生100人以上が詰め込まれる、人口密度どんなけやねんという状態でした。

当時の様子はこう記されています。

「教室も学童の1クラス50名程度の広さのものばかりで、受講者の数に対応できる体勢がなく、大学の教育施設としては大きな欠陥を持っていた。
スポーツ・更正施設も皆無に等しく、体育の授業は家政学部の運動場を利用するため、各所から出なければいけない始末であった。

他大学が新制大学としてスタートしてから着々と整備されていくのに、大阪市立大学はその本拠を奪われ、借り物の小学校では恒久的な施設の建設は全く不可能であった。
このため、せっかく全国から集められた優秀な研究者たちも、研究は古巣の阪大や京大なりで行って講義にだけ(市大に)出かけてくる人も多く、理工学部などではあまりの悪条件のために流出していったケースも少なくなかった」

『大阪市立大学百年史 全学編』

学生以前に先生が、

こんな大学で仕事なんてイヤだ〜!

と逃げ出してしまうほどの劣悪な環境だったのです。
戦後すぐのこの時代が、大阪市立大学最大の苦難の時代でした。「住所不定時代」と言ってもいいでしょう。

当然、ボッシュート中の杉本町キャンパスを返せと、返還運動が起こるのは自然の流れ。教員や学生が市と掛け合い、国やGHQと交渉しますが、答えはノーでした。
それでも昭和27年(1952)に、粘り強い交渉の結果、今の1号館がある敷地の、1号館・図書館・研究棟だけが返還されます。GHQが「急に気が変わって」接収されてしまった場所です。

それまでは、大学と基地が同じ敷地内にあるという珍現象が起こっていました。
米軍の基地の中に大学があったと言った方が正しい描写かもしれません。米兵と学生の距離が近すぎてトラブルも続発し、女子学生が護身用と、貞操を奪われた時の自決用にナイフをバッグに忍ばせていたというエピソードもあります。

大阪市立大学全面返還式、昭和30年
大学の全面返還式(1955年)

大学が全面返還されるまでにはさらに数年かかり、全面返還されるのは昭和30年のことでした

この流浪時代に大学を卒業したOBは、「大阪商大」「大阪市立大学」卒なのに杉本キャンパスと全く縁がありませんでした。市大の顔である杉本キャンパスを見ても自分の大学だという愛着がなく、同窓会に出席しても杉本町経験者と何か壁がある「ロスト市大世代」だと述べています。

木偶坊伯西
木偶坊伯西

お次は、なぜ!?大阪市大の黒歴史ならぬ「赤歴史」!!

「三商大」に差がついた理由-大阪市大の「赤歴史」

過去の2ちゃんねるに、こういうやり取りがありました。

2ちゃん民
2ちゃん民

同じ旧三商なのに一橋、神戸、阪市どうして差がついた
慢心、環境の違い?

2ちゃん民
2ちゃん民

単純に資金力の差
昔は大阪市が金もってたから教授陣も凄かった
一橋と神戸は国立だからな
でも神戸は微妙だがw

大阪市立大学はその昔、一橋大学、神戸大学に並ぶ「大商大」だったのに、なぜランクやブランド価値に差が生まれてしまったのか。こういう問いです。

上の2ちゃんねるの回答は、間違いではないけれど一面にすぎません。これには大阪商大からの悪しき伝統と、大阪市立大学に移るどさくさが影を落としていると思われます。

「旧三商大」といっても、すべて同じ性格で同じ教育内容というわけではありません。「旧三商大」の性格を解説すると、以下のような感じになります。

戦前の「三商大」の違い

東京商科大学(一橋大学)
経済学でも近代経済学や古典経済学の研究がメインで、さらに神戸・大阪と比べて哲学や歴史など人文学系の教養教育にも力を入れ、「経済バカ」にならない視野の広い人材育成がコンセプト。
左翼組織はあったが、ガッチガチの共産主義者伊藤律が指導していたため1933年に根こそぎ潰され壊滅。

神戸商業大学(神戸大学経営学部など)はというと、経済学より経営学が中心。今でいうMBA大学院大学的な立ち位置。企業経営にイデオロギーなど入る余地はない。
ちなみに、「旧三商大」のうち神戸だけが何故、「商業」と名前が違うのかというと、これには「経済学の理屈より実学重視」という意味が込められている。

対して我らが大阪商大は、学問の自由、つまりリベラルを貫きすぎたがゆえにマルクス経済学者や、当時の法制度では違法の「極左」まで受け容れ、彼らに徐々に侵食されていきました。

大阪商科大学は、学長が急進左派の教授をクビにしてバランスを取ろうとしたものの、それが言論弾圧だと学生たちの反発を呼びました。ついには、「文化研究会」という名の左系組織を作り、堂々と戦争反対・帝国主義反対を唱えるようになりました。
それが特別高等警察(特高)の逆鱗に触れ、教員や学生たち数十人が治安維持法で検挙されました。
それを「大阪商大事件」(詳しくはWikipedia先生参照と言います。

その後、以前に述べたように校舎の一部が海軍に接収されたなどの苦難がありましたが、終戦で再び戻ることとなりました。

しかし、ある意味戻ってはいけないものも戻ってしまいました。
治安維持法などで投獄されたり、言論を封じられていた左派たちが、大学に戻ってきたのです。ただ戻ってきただけならまだマシ。彼らは以前にも増して凶暴かつ先鋭的になって戻ってきたから大変なことに。

彼らは、大学の骨幹である学則も変えてしまいます。
戦前の学則第一条が、商業に関する学術」から政治経済に関する学術」に変更されてしまいます。カリキュラムも必修科目はゼロですべて選択の超自由主義型という、ほぼ大学崩壊のような「改革」を行ってしまいます。

大学は荒れに荒れ、こりゃダメだと大量の教員が大学を去ることとなりました。しかしながら、「去る」と言えば聞こえはいいですが、当時を知る人の回想では追放か、学問から離れた階級闘争に飽き飽きして逃げたという方が正しいようです。

大阪商業大学は新制大阪市立大学になる前には既に、「大阪政治経済大学」と後に揶揄される偽りの看板を背負うこととなりました。

大阪市立大学と学生運動ーあまりに過激すぎて…

1970年代までの戦後日本は、学生運動が盛んな時期でもあったので、どこの大学でも多少なりに運動はあったと思います。しかし、市大は少し極端すぎたようです。

学問的排他主義を続け、実務的とはかけ離れた不毛のイデオロギー論争や大学紛争に明け暮れ停滞している間、良い意味で戦前からの伝統を守り現実を見失わなかった(学生運動がほとんどなかった)東京・神戸の旧商大に差を開けられた…当時の学生や、市大を見限って去った先生たちの手記・回顧録を見ていると、そう見て間違いないようです。

大阪市大の学生紛争のすごさを物語る写真があります。

大阪市大の学園紛争

大阪市大の学園紛争
『温故知新(その2)大阪市立大学に見る伝統の断絶』より)

市大のシンボルである本館1号館が、警察と学生の争いでメチャクチャになっています。
時計台に篭って警察とドンパチする光景は、東大の安田講堂のあれを思い浮かべる人が多いですが、市大でも同じことがあったのです。

学生運動が正しかったのか否かは、私ごときが判断できるものではありません。
ただ、これが「市民のための大学」であった市大を、大学といちばん近い存在である市民にそっぽを向かれる結果になりました。

『朝日ジャーナル』で、1960年代後半から70年代にかけ「大学の庭」「300万人の大学」といった大学に関する連載を行っていました。
その大阪市大のページで市民の声が寄せられていたのですが評判は、「デモだ運動だと、困った連中だ」と最悪の評価でした。
大阪市民の目はすでに商大時代のリスペクトではなく、厄介者を見る冷たい目に変化していたのです。市民からはほとんど見捨てられたと言ってもいい。

公認会計士になりたいと商学部の学生が言えば、

学部長
学部長

お前は資本家の犬になるのか💢

と怒鳴る学部長がいる大学ではさもありなん。

左傾化に嫌気がさして大学を去った先生たちを受け入れたのが、主に関西学院大学商学部でした。
関西学院大学は、1951年の新制大学への移行で商学部が経済学部から分離し、実務志向の研究者を求めていました。そこへ大阪商大から逃げてきた亡命研究者を大量に受け入れ、新しい商学部を作っていくことになりました。

そのうちの一人に、久保芳和という人がいました。彼はかなり優秀な学者だったのですが、

久保は仕事はできるが思想が良くない

と意味不明の理由で左系学者に牛耳られた大学から干され、アホらしくなり関西学院大学に「亡命」した一人。
関学に移ると同時に助教授に昇進、のちに学長になりました。

久保の回想によると、戦後間もなく「シベリア天皇」というあだ名の、その名の通りシベリア帰りの極左教授が商大に復帰、正統派の教授を工作で追放し、主任の座を奪いました。
その権力を使い商大の「クリーニング」を始め、「大物はすべて去り、残るは小物一人のみ」となったそうです。そんな空っぽ状態で新制大阪市立大学がスタートしてしまいます。

結局、久保も上の理由で「辞職するまで干され続けるの刑」を食らい事実上市大を追い出され、学問の師匠の誘いで、上述のとおり1951年(昭和26年)関学に「亡命」することとなります。
旧制大阪商科大学の正統なDNAは市大ではなく、関西学院大学(商学部)が受け継いでいる。このgdgdの歴史を知る人には、そう言う人もいるそうです。

市大は公式史を編纂しているのですが、公式史である『大阪市立大学百年史』は、商大から市大への「左旋風」を擁護しているフシがあります。1980年代発刊なので仕方ない面もあります。
が、2008年から発行されている『大阪市立大学史紀要』では、マルクス主義の呪縛が解け正気になったのか、古き良き商大の原点に回帰しようとしたのか、客観的に批判するアカデミックな姿勢があらわれています。
上の久保の手記も、当時の大学史料室長の論文として『紀要』に記載のものですが、今でも真っ赤っ赤ならこんなもの書けません。

ただ、ただ、「もうかりまっか」が信条の、お金にうるさい分現実主義の大阪の大学が、何故マル経ことマルクス経済学が受け容れられたのか。何故ここまで舵を左に切りすぎたのか。これにはもっと客観的にメスを入れるべきだと思います。

そういう意味では、戦後の市大史は「黒歴史」ではなく「赤歴史」と言ってもいいかもしれません。ないでしょうか。

そして大阪公立大学へ

そして2022年、大阪市立大学と府立大学が合併し、大阪公立大学が爆誕。
大阪市立大学としては、100年の歴史に幕を閉じました。

杉本キャンパスに残る、移転当時の建物はこちらをどうぞ。

モダニズム建築の傑作!大阪公立大学杉本キャンパスの近代建築
1930年代に作られた元大阪市立大学(現在の大阪公立大)杉本キャンパス。登録有形文化財の1号館を始め、旧図書館や2号館、第1体育館が現在も使われています。無駄をそぎ落としたシンプルな美であるモダニズム建築が魅力な建物たち。

大阪市立大学秘史-キャンプ・サカイと杉本町駅の謎の線路【阪和線歴史紀行】
大阪市立大学の戦後史は米軍による校舎接収から始まった。杉本町駅から米軍基地と化した大学へ伸びる一本の線路…そこから明かされる大阪市立大学秘話。

・『大阪市史』
・『大阪市立大学百年史』
・『戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷(大阪市立大学史紀要第9号)』
・温故知新(その2)大阪市立大学に見る伝統の断絶(香川大学解体新書ブログ)
他多数

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コメント

  1. kome より:

    ど真ん中のテーマをこれほど詳細に書いていただきありがとうございます。繰り返し何度も読ませていただきました。
    大学の歴史というところでいくと、杉本キャンパス北側にあった「杉本寮」と、建物自体は現存している「志全寮」の歴史もまた、冊子にまとめられていますのでよろしければご一読ください。
    様々な歴史が刻まれたキャンパスですので、今度お越しになる際は是非ご案内いたします。

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