宇都宮亀廓&中河原の赤線|おいらんだ国酔夢譚|

宇都宮の遊郭赤線東京・関東地方の遊郭赤線跡

宇都宮と聞いてまず思いつくのが。

宇都宮健児

…おっと間違えた。

宇都宮餃子

やっぱ餃子でしょ。

宇都宮がいつから「餃子の街」になったかは不明ですが、駅を降りるとそこは餃子屋だったほどの餃子ラッシュは、餃子で町おこしをして成功した矜持を感じさせます。こんな街、餃子の本場中国にもないぞ。

宇都宮は、日光街道と奥州街道の要衝、そして日光東照宮のお膝元として江戸時代以降重要視され、それだけに徳川家康の腹心本多正信の息子、正純が城主として治めることになりました。歴史、特に江戸時代が好きな人は、宇都宮とくれば餃子ではなく「釣天井事件」を想起する人もいるでしょう。
これにより本多正純は改易となり、その後は譜代大名の持ち回りで治める町になりましたが、彼が築いたまちづくりが現在の宇都宮市の基礎になっています。

今回は、そんな自他共に認める餃子之国、宇都宮にあった遊郭のお話。

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宇都宮の遊郭史

近世宇都宮の歴史は、時間がなく調べることはできなかったものの、『遊郭をみる』によると安土桃山時代から江戸初期から存在していたようで、幕末には75軒の妓楼があったといいます。
また、明治5年(1872)の「娼妓解放令」で宇都宮県(当時、栃木県とは別)が関連するお触れを出したことから、旅籠にはつきもの「飯盛女」という遊女は存在していたことは明らかです。

宇都宮の遊郭が近代史の表舞台に出てくるのは、明治24年(1891)4~5月に下野新聞に連載された『宇都宮繁盛記』から。
当時の遊郭は町の中心部、池上町、材木町あたりにあったと記載されています。

宇都宮遊郭

統計書には当時の貸座敷数、娼妓数のデータが残っています。

また、過去に存在した妓楼(女郎屋)のデータも残っています。

結果から申し上げると、のちに遊郭は「新地」に移転しますが、そこでの貸座敷数は15~6軒で推移しています1。上の数字を見ると移転前の数字はその倍。遊女屋の半分が新地に集約と同時に消えたということになります。

そして、宇都宮遊郭史にとっての「その時歴史が動いた」である明治27年(1994)。

町の中心部に色街があるのは風紀的によろしくない!

という使い古された理由につき、遊郭は「新地」に移転・集約させられました。

大正時代宇都宮市地図

場所は江戸時代の宇都宮城址の南、のちに「新地」と呼ばれる荒蕪地でした。遊郭へ抜ける道もでき、地元の人はそこを「新地通り」と呼んだそうです。

本記事のタイトルにもありますが、宇都宮新地には、「亀廓」という別称があります。
最初聞いた時は、なんで亀やねん!?と思って調べてみると、五角形の廓の輪郭と区画された道筋から亀の甲羅に似ているからとのことでした。上の地図を見ても、確かに亀の甲羅に見えるっちゃ見えなくもない。

しかし、異説も存在します。
『宇都宮の百年』などいくつかの書物によると、近くにある宇都宮城にちなんだのではないかと。

宇都宮城

「釣天井事件」で有名になった宇都宮城、別名を「亀ヶ岡城」「亀井城」といいます。なぜ「亀」なのかは不明ですが、

宇都宮遊郭

お城跡と遊郭ってけっこう近くにあるのと、遊郭が宇都宮城趾を参考に作られた関係で、「亀廓」の「亀」は宇都宮城の別名から拝借した…それが廓名の異説です。

ぐぬぬ…これはどちらも捨てがたい。

新地へ移った貸座敷は、以下のとおり。

■大楼:小松楼、尾張楼、谷本楼、福泉楼、新川楼
■小楼:佐々木楼、盛水楼、稲尾楼、村田楼、萬年楼、中村楼、現金楼、伊勢楼、初音楼、北越楼

合計15軒。ネットで公開されている統計書が、新地移転後が大正時代まですっぽり抜けており、その間の数字の推移はわかりません。が、大正時代を通して貸座敷15~6軒、娼妓数100名前後で推移しているので、明治後期もさほど変化はなかったろうと推測しています。

他の遊里の例に漏れず、亀廓の正面玄関には別世界の象徴として大門が作られ、門柱には右より、

「春入翠帷花有色」2
「風來繍閣玉生香」3

と書かれていました。

宇都宮遊郭亀廓配置図

明治40年(1907)の商業地図に書かれた妓楼配置を、現在の地図に当てはめるとこんな図になります。大見世が廓の南北を貫く大通り沿いに並び、小さな店は奥まったところにありような配置になっています。
廓内には、他にも雑貨屋や飲み屋、芸者の検番などがありました。「人力車駐車場」もあり、今で言えばタクシーで乗り付け、帰りも駐車場に控えているタクシーでご帰宅という人が多かったのでしょう。確かに、今でも決して交通至便なところではないですから、人力車は重宝したことでしょう。

亀廓の数ある妓楼のうち、小松楼が宇都宮一の妓楼として有名でした。当然、遊郭の中でもいちばんの大楼で、木造3階建て、最上階は時計台のある展望台になっており、宇都宮市街を一望できました。

宇都宮遊廓小松楼

小松楼の写真は『栃木県史』にも記載されていますが、時計台の部分が確かに展望台になっています。後ほど『ブラタモリ』的に説明しますが、亀廓は高台に作られたため、展望台から市街が一望できたと思われます。
そして、建物自体が洋風とかハイカラを超越した、昭和の別荘のような現代的なデザイン。これはさぞかしお金がかかったと同時に目立ったことでしょう。

昭和5年刊の『全国遊廓案内』には、宇都宮の遊廓について以下のように書かれています。

宇都宮遊廓は栃木県宇都宮市河原町にあって(中略)乗合自動車の便がある。
(中略)貸座敷は目下十五軒あって、娼妓は約百二三十人いるが、栃木、福島、埼玉県等の女が多い。
店は写真店で、娼妓は居稼ぎ制、遊興は廻し制で(中略)費用はお定まりが三円くらいで、(中略)一時間遊びは一円くらいである。

引用:『全国遊廓案内』

引用:『全国遊廓案内』

同時期の内務省のデータは貸座敷15軒に娼妓数118人とあり、これも同時期の宇都宮市の遊郭地図の貸座敷数を数えてみると、同じく15軒。貸座敷の数は3つの資料を照合してピタリと一致、娼妓数も10人程度は誤差なので一致しています。

当時の地図によると、貸座敷は以下の通りです。

梅長楼、佐々木楼、錦盛楼、大盛楼、初音楼伊勢楼、清水楼、大海楼、萬年楼、宝来楼、アサヒ楼、博泉楼、姫元楼、小松楼福和楼

太字は『宇都宮繁盛記』に記載の貸座敷にも記載されているもので、明治~昭和初期まで生きながらえた妓楼です。

宇都宮の私娼窟

宇都宮には、遊郭の他にもモグリの売春窟が存在していました。遊郭の公娼に対する私娼です。
公娼としての遊郭に対する廃廓運動は、大正時代以降盛んになった人権意識向上からますます盛んになり、遊郭の営業は、特に昭和以降かなり打撃を受けることとなりました。
だからといって、売春自体がなくなったわけではありません。
栃木県ではなく福島県の資料に書いてあった話ですが、公娼が減っためでたしめでたし…と思ったらその分私娼が跋扈し、結果的にやぶ蛇(むしろ増えた)になったという、農作物を食い荒らすスズメを駆除したらイナゴが大量発生して農作物が壊滅した1950年代の中国のような事態になった話もあったそうです。

宇都宮私娼窟剣宮町

宇都宮の私娼窟は、資料によると剣宮町にありました。現在この町名はなく、二荒町という名前に変わっています。
地図を見ていただければわかりますが、剣宮町はJR宇都宮駅と東武宇都宮駅の中間点に位置しています。実際に歩いてみると、JR宇都宮駅から徒歩7~8分といったところ。
東武は昭和6年(1931)に開業したのですが、私娼窟の成長はこれも関係しているかもしれません。自家用車なんて夢のまた夢の時代、交通手段はやはり鉄道ですから。

剣宮町私娼窟の数字は以下となっています。

業者数(軒)私娼数(人)
昭和5年(1930)-①3675
昭和8年(1933)-②95162
昭和9年(1934)-②90165
昭和13年(1938)-②94135
昭和14年(1939)-②95176

(出典:①内務省警保局内部データ ②業態者集団地域ニ関スル調 内務省衛生局(後に厚生省予防局)編)

ここがいつ成立したのかはわかりません。が、昭和5年の数字を見ると、だいたい大正末年~昭和2年くらい成立かもね!?と見ています。
私娼窟界の巨大惑星、東京玉の井の1,000人超えにはかなわないものの、和歌山連隊の兵隊さんで賑わったはずの天王新地で80~110人、海軍の水兵下士官で賑わった横須賀安浦町で190人前後。

宇都宮の私娼窟は「(宇都宮の)玉の井」と呼ばれたほど賑わっていたそうですが、そのキーを握るのは、やはり「軍」と思われます。

宇都宮は、一大軍都でもありました。

宇都宮軍聯隊師団位置

師団司令部の他、騎兵・輜重兵・野砲兵、そして歩兵連隊(第59聯隊。場所は師団司令部の北)と、一つの都市にこれだけ固まっています。これが大阪になると、司令部と歩兵は大阪市内、野砲兵は信太山、騎兵・輜重兵は堺と場所がバラバラになります。

それを地図に落としてみると、聯隊から遊郭はちと遠い。また、山形の例にあるように、遊郭は下士官などで占領されてペーペーの兵隊は私娼窟へ…ということもあり、地理的要件から私娼窟は日曜日ともなると兵隊さんで賑わっていたのではないかと想像できます。前述の『全国遊廓案内』にも、それを匂わせる記述もありますし。

そして、この私娼窟が次章の赤線の土台となります。

戦争と宇都宮の赤線史

そして、日本史を語る上で絶対に避けられない大東亜戦争がやってきます。
昭和20年(1945)7月12日、133機のB29が宇都宮上空に襲来し、焼夷弾により市街地の6割を焼失しました。

市街地から離れた新地こと遊廓はどうだったのか。
地元の空襲罹災地図によると、遊廓はギリギリ焼失区域に入っており、宇都宮市が空襲後に調べた罹災状況によると、「河原町廓内」は罹災世帯21軒、罹災人口125人とあり。町内はすべて焼けたと記録されています。しかし、死亡者リストには遊廓内での死亡者はおらず、空襲で亡くなった人はいなかった模様です。

昭和23年(1948)の航空写真では、亀廓内は下記のようになっています。

1948宇都宮遊郭航空写真

昭和初期の地番図を見ると、遊郭には神社を除きほぼびっしり貸座敷(妓楼)で埋められていました。ところが、航空写真では所々に空き地が。特に「小松楼」「新川楼」があった場所はすっかり更地に。空襲で焼けたのか、建物疎開で壊されたのか、それとも戦争前から遊女屋稼業から足を洗ってしまっていたのか…それはわかりません。

そして、時代は戦後に入ります。
戦後の宇都宮の赤線は、上記で述べた貸座敷指定地(遊郭)の他に、中河原町・旭町1丁目界隈が加わりました。商工名鑑によると「特殊喫茶」で営業していた模様です。

昭和30年(1955)前後の宇都宮は、以下のように記しています。

赤線は、釣り天井で有名な旧城址のうしろで、中河原と新地の2カ所、(中略)剣の宮が分散したもの。合せて百軒に四百名。

引用:『全国女性街ガイド』

引用:『全国女性街ガイド』

宇都宮赤線区域
地図のように宇都宮の赤線は上記のとおり二つに分かれます。が、住所別に分けると、

宇都宮の赤線区域
①中河原・剣宮・今小路・日野町(現中央5丁目、二荒町、中河原町の一部)
②旭町1丁目(現中央3丁目界隈)
③河原町

事実上3つ(以上)存在しており、上記地図のような分け方をしても良いかと思います。

また、②は宇都宮城趾の裏側に位置しているためか、「本丸花の街」という名称でした。

宇都宮赤線本丸花の街

当時の新聞にもこのように写真が掲載されており、「本丸花の街」のネオンが艶めかしく、白黒ながらこの色はピンクなんだろうなと容易に想像ができます。そのネオンの灯の下に立つ従業婦、自転車を持って歩く男性…ありふれた歓楽街の風景だったのでしょう。

『全国女性街ガイド』より2年前の昭和28年(1953)、当時の「特殊喫茶」の数は133軒。住所別に分けると

①旭町1丁目(本丸花の街):65軒
②中河原町:47軒
③剣宮町:4軒
④河原町:11軒
⑤その他(今小路・日野町):6軒
計:133軒

となり、旭町やや優勢かといったところ。河原町が旧遊郭にあたるので、色街としてのメッカは旧遊郭から旧私娼窟へシフトしていることがわかります。
それにしても、北関東の県庁所在地とは言え、地方都市で133軒とはすごい数です。
当時の東京の主要赤線でこの規模に匹敵するのは、吉原の192軒を筆頭に、玉の井の101軒、鳩の街で99軒4。参考程度に、売春防止法施行前の大阪飛田と松島が共に約200軒、堺龍神が75軒です5。中河原と旭町、そして河原町の旧遊郭を一つの色街として合算すると、大都市並みの規模です。

そして、昭和33年(1958)4月1日の売春防止法完全施行へと移るのですが、地元新聞によると宇都宮は2月末をもって120軒残っていた全店が廃業。28日に解散式が行われ、190人いた従業婦は全員解雇という形でこちらを去ることになりました。
しかし、4月には否応なく閉業しないといけないのに、その1ヶ月前でも120軒の店があり、約200人の女性が働いていたのには驚きです。おそらくかなり「繁盛」していたのだと思われます。栃木県の赤線・青線がどんどん解散していく中、宇都宮は最後まで残った赤線。新聞記事によると、宇都宮の解散で栃木県の売春クリーン化は完了したとあるので、よほど抵抗したのでしょう。そうでもないと、ギリギリまでここまで残らない…。

NEXT⇒宇都宮の遊里跡を歩く
  1. 『栃木県統計書』
  2. はるはすいにいってははなにいろあり
  3. かぜはしゅうかくにきたってたまこうをしょうず
  4. 『赤線区域の業態実態』労働省婦人局編。数字は昭和26年
  5. 昭和30年代大阪府の資料より
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コメント

  1. MA より:

    宇都宮では、「幸楽」の横にあるこの建物、について。
    見ていただきたいのが、宇都宮近辺の大谷石文化を紹介する以下のサイトです。
    https://oya-official.jp/bunka/culturalassets/watanabeke/
    特にURLで表示される渡邊家住宅の蔵ですが、よく似ていると思います。特に破風の形状が共通しており、その建物が住宅や商店ではなく蔵として建設されたものであることを示しております。大谷石サイトを見ていただければ、あちらに掲載されているその他の蔵の装飾も、亀廓にある建物と共通するところが見て取れると思います。宇都宮近辺の大谷石製の蔵では、特に富豪が建てさせたものは装飾が派手であるようで、それらを遊郭・カフェーに由来する建物を示す記号とみることは出来ないように思われます。
    また、サイトにお示しいただいている航空写真を見ると、この建物は西に隣接する建物と接続されており、さらにこの区画にある瓦葺きの建物はすべて接続されているように見えます。消失したという蔵の北(前)にある赤い屋根の建物はひとまず置いておいて、西に何があるかといえば、幸楽貸席となり、この建物はそれと接続されていることになります。同時に、このページに掲載なさっている古地図を見ると、幸楽貸席の北に隣接する施設は幸楽質店となっております。航空写真を見る限り、幸楽質店と幸楽貸席の間に区切りはなく、おそらく幸楽グループ系列店として一体で運用されている建物群であったと思われます。現状の外観から、ある時期から「この建物」は住宅として使用されていたのは明らかですが、本来は蔵であり、幸楽質店単独で質草を保管する用途で使用されていたか、それに加えて貸席の売上金も保管する用途で使用されていたと推定されます。カジノの中に貸金業があるのはよく知られた事実でありますが、遊郭の中に質屋があるという話は寡聞にして聞いたことがなく、なるほどニーズはあると思われますので、むしろ非常に興味深い事例ではないかと思われます。問題は遊郭時代に福和楼のあったところにあるカフェー建築風建物ですが、昭和22年の航空写真では切り妻屋根になっているため、その後に建て替えられて現状の建物になったと思われます。同時に、南に位置する現存の幸楽貸席までの間に顧客用の立派なしつらえの入口が見当たらないないため、この建物が貸席の入口であったのかもしれません。そうであれば、蔵の前にあった失われた赤い屋根の建物には、質店の接客部門が置かれていたのではないでしょうか。この区画に限っても、瓦葺きの建物と赤い屋根の建物がどう違うのか、興味がわいてきました。

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