栃木県宇都宮市-亀廓&中河原の赤線|遊郭・赤線跡をゆく|

宇都宮遊郭 関東地方(東京以外)の遊郭赤線跡

宇都宮と聞いてまず思いつくのが。

宇都宮健児

宇都宮健児弁護士。

…おっと間違えた。

宇都宮餃子

やっぱ餃子でしょ。

宇都宮がいつから「餃子の街」になったかは不明ですが、駅を降りるとそこは餃子屋だったほどの餃子ラッシュは、餃子で町おこしをして成功した矜持を感じさせます。こんな街、餃子の本場中国にもないぞ。

宇都宮は、日光街道と奥州街道の要衝、そして日光東照宮のお膝元として江戸時代以降重要視され、それだけに徳川家康の腹心本多正信の息子、正純が城主として治めることになりました。歴史、特に江戸時代が好きな人は、宇都宮とくれば餃子ではなく「釣天井事件」を想起する人もいるでしょう。
これにより本多正純は改易となり、その後は譜代大名の持ち回りで治める町になりましたが、彼が築いたまちづくりが現在の宇都宮市の基礎になっています。

今回は、そんな自他共に認める餃子之国、宇都宮にあった遊郭のお話。

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宇都宮の遊郭

近世宇都宮の遊里事情は、時間がなく調べることはできなかったものの、『遊郭をみる』によると安土桃山時代から江戸初期から存在していたようで、幕末には75軒の妓楼があったといいます。
また、明治5年(1872)の「娼妓解放令」で宇都宮県(当時、栃木県とは別)が関連するお触れを出したことから、旅籠にはつきもの「飯盛女」という遊女は存在していたことは明らかです。

宇都宮の遊郭が近代史の表舞台に出てくるのは、明治24年(1891)4~5月に下野新聞に連載された『宇都宮繁盛記』から。
当時の遊郭は町の中心部、池上町、材木町あたりにあったと記載されています。

宇都宮遊郭

統計書には当時の貸座敷数、娼妓数のデータが残っています。
結果から申し上げると、のちに遊郭は「新地」に移転しますが、そこでの貸座敷数は15~6軒で推移しています1。上の数字を見ると移転前の数字はその倍。俗に言う遊女屋の半分が新地に集約と同時に消えたということになります。

 

そして明治27年(1994)。

町の中心部に色街があるのは風紀的によろしくない!

という使い古された理由につき、遊郭は「新地」に移転・集約させられました。

 

大正時代宇都宮市地図

場所は江戸時代の宇都宮城址の南、のちに「新地」と呼ばれる荒蕪地でした。遊郭へ抜ける道もでき、地元の人はそこを「新地通り」と呼んだそうです。

本記事のタイトルにもありますが、宇都宮新地には、「亀廓」という別称があります。
最初聞いた時は、なんで亀やねん!?と思って調べてみると、五角形の廓の輪郭と区画された道筋から亀の甲羅に似ているからとのことでした。
上の地図を見ても、確かに亀の甲羅に見えるっちゃ見えますね。

新地へ移った貸座敷は、以下のとおり。

■大楼:小松楼、尾張楼、谷本楼、福和泉、新川楼
■小楼:佐々木楼、盛水楼、稲尾楼、村田楼、萬年楼、中村楼、現金楼、伊勢楼、初音楼、北越楼

合計15軒。ネットで公開されている統計書が、新地移転後が大正時代まですっぽり抜けており、その間の数字の推移はわかりません。が、大正時代を通して貸座敷15~6軒、娼妓数100名前後で推移しているので、明治後期もさほど変化はなかったろうと推測しています。

その中でも小松楼が宇都宮一の妓楼として有名でした。当然、遊郭の中でもいちばんの大楼で、木造3階建て、最上階は時計台のある展望台になっており、宇都宮市街を一望できました。

宇都宮遊郭小松楼

小松楼の写真は『栃木県史』にも記載されていますが、時計台の部分が確かに展望台になっています。後ほど『ブラタモリ』的に説明しますが、亀廓は高台に作られたため、展望台から市街が一望できたと思われます。
そして、建物自体が洋風とかハイカラを超越した、昭和の別荘のような現代的なデザイン。これはさぞかしお金がかかったと同時に目立ったことでしょう。

昭和5年刊の『全国遊廓案内』には、宇都宮の遊廓について以下のように書かれています。

宇都宮遊廓は栃木県宇都宮市河原町にあって(中略)乗合自動車の便がある。
(中略)貸座敷は目下十五軒あって、娼妓は約百二三十人いるが、栃木、福島、埼玉県等の女が多い。
店は写真店で、娼妓は居稼ぎ制、遊興は廻し制で(中略)費用はお定まりが三円くらいで、(中略)一時間遊びは一円くらいである。

同時期の内務省のデータは貸座敷15軒に娼妓数118人とあり、これも同時期の宇都宮市の遊郭地図の貸座敷数を数えてみると、同じく15軒。貸座敷の数は3つの資料を照合してピタリと一致、娼妓数も10人程度は誤差なので一致しています。

当時の地図によると、貸座敷は以下の通りです。

梅長楼、佐々木楼、錦盛楼、大盛楼、初音楼伊勢楼、清水楼、大海楼、萬年楼、宝来楼、アサヒ楼、博泉楼、姫元楼、小松楼福和楼

太字は『宇都宮繁盛記』に記載の貸座敷にも記載されているもので、明治~昭和初期まで生きながらえた妓楼です。

 

宇都宮の私娼窟

宇都宮には、遊郭の他にもモグリの売春窟が存在していました。遊郭の公娼に対する私娼です。
公娼としての遊郭に対する廃廓運動は、大正時代以降盛んになった人権意識向上からますます盛んになり、遊郭の営業は、特に昭和以降かなり打撃を受けることとなりました。
だからといって、売春自体がなくなったわけではありません。
栃木県ではなく福島県の資料に書いてあった話ですが、公娼が減っためでたしめでたし…と思ったらその分私娼が跋扈し、結果的にやぶ蛇(むしろ増えた)になったという、農作物を食い荒らすスズメを駆除したらイナゴが大量発生して農作物が壊滅した1950年代の中国のような事態になった話もあったそうです。

 

宇都宮私娼窟剣宮町

宇都宮の私娼窟は、資料によると剣宮町にありました。現在この町名はなく、二荒町という名前に変わっています。
地図を見ていただければわかりますが、剣宮町はJR宇都宮駅と東武宇都宮駅の中間点に位置しています。実際に歩いてみると、JR宇都宮駅から徒歩7~8分といったところ。
東武は昭和6年(1931)に開業したのですが、私娼窟の成長はこれも関係しているかもしれません。自家用車なんて夢のまた夢の時代、交通手段はやはり鉄道ですから。

剣宮町私娼窟の数字は以下となっています。

業者数(軒) 私娼数(人)
昭和5年(1930)-① 36 75
昭和8年(1933)-② 95 162
昭和9年(1934)-② 90 165
昭和13年(1938)-② 94 135
昭和14年(1939)-② 95 176

(出典:①内務省警保局内部データ ②業態者集団地域ニ関スル調 内務省衛生局(後に厚生省予防局)編)

ここがいつ成立したのかはわかりません。が、昭和5年の数字を見ると、だいたい大正末年~昭和2年くらい成立かもね!?と見ています。
私娼窟界の巨大惑星、東京玉の井の1,000人超えにはかなわないものの、和歌山連隊の兵隊さんで賑わったはずの天王新地で80~110人、海軍の水兵下士官で賑わった横須賀安浦町で190人前後。

宇都宮の私娼窟は「(宇都宮の)玉の井」と呼ばれたほど賑わっていたそうですが、そのキーを握るのは、やはり「軍」と思われます。

宇都宮は、一大軍都でもありました。

宇都宮軍聯隊師団位置

師団司令部の他、騎兵・輜重兵・野砲兵、そして歩兵連隊(第59聯隊。場所は師団司令部の北)と、一つの都市にこれだけ固まっています。これが大阪になると、司令部と歩兵は大阪市内、野砲兵は信太山、騎兵・輜重兵は堺と場所がバラバラになります。

それを地図に落としてみると、聯隊から遊郭はちと遠い。また、山形の例にあるように、遊郭は下士官などで占領されてペーペーの兵隊は私娼窟へ…ということもあり、地理的要件から私娼窟は日曜日ともなると兵隊さんで賑わっていたのではないかと想像できます。前述の『全国遊廓案内』にも、それを匂わせる記述もありますし。

そして、この私娼窟が次章の赤線の土台となります。

 

戦争と宇都宮の赤線史

そして、日本史を語る上で絶対に避けられない大東亜戦争がやってきます。
昭和20年(1945)7月12日、133機のB29が宇都宮上空に襲来し、焼夷弾により市街地の6割を焼失しました。

市街地から離れた新地こと遊廓はどうだったのか。地元の空襲罹災地図によると、遊廓はギリギリ焼失区域に入っており、おそらく焼けたのではないかと思われます。が、確たる自信はありません。
大阪と違い戦前の航空写真がないので正確な比較はできませんが、昭和23年(1948)の航空写真では下記のようになっています。

1948宇都宮遊郭航空写真

昭和初期の地番図を見ると、遊郭には神社を除きほぼびっしり貸座敷(妓楼)で埋められていました。ところが、航空写真では所々に空き地が。
これだけで判断すると、遊郭は一部焼けたのではないかと推測できます。

そして、時代は戦後に入ります。
戦後の宇都宮の赤線は、上記で述べた貸座敷指定地(遊郭)の他に、中河原町・旭町1丁目界隈が加わりました。商工名鑑によると「特殊喫茶」で営業していた模様です。

昭和30年(1955)前後の宇都宮は、以下のように記しています。

『全国女性ガイド』より赤線は、釣り天井で有名な旧城址のうしろで、中河原新地の2カ所、(中略)剣の宮が分散したもの。合せて百軒に四百名。

 

宇都宮赤線区域
地図のように宇都宮の赤線は上記のとおり二つに分かれます。が、住所別に分けると、

 

宇都宮の赤線区域

①中河原・剣宮・今小路・日野町(現中央5丁目、二荒町、中河原町の一部)
②旭町1丁目(現中央3丁目界隈)
③河原町

事実上3つ(以上)存在しており、上記地図のような分け方をしても良いかと思います。

『全国女性街ガイド』より2年前の昭和28年(1953)、当時の「特殊喫茶」の数は133軒。住所別に分けると

①旭町1丁目:65軒
②中河原町:47軒
③剣宮町:4軒
④河原町:11軒
⑤その他(今小路・日野町):6軒
計:133軒

となり、旭町やや優勢かといったところ。河原町が旧遊郭にあたるので、色街としてのメッカは旧遊郭から旧私娼窟へシフトしていることがわかります。
それにしても、北関東の県庁所在地とは言え、地方都市で133軒とはすごい数です。
当時の東京の主要赤線でこの規模に匹敵するのは、吉原の192軒を筆頭に、玉の井の101軒、鳩の街で99軒2。参考程度に、売春防止法施行前の大阪飛田と松島が共に約200軒、堺龍神が75軒です3。中河原と旭町、そして河原町の旧遊郭を一つの色街として合算すると、大都市並みの規模です。

 

宇都宮の遊郭赤線跡を歩く

実は本来、宇都宮の遊里を調べるつもりは微塵のかけらもありませんでした。
本来の予定がドタキャン(臨時休館)になってしまい、

しゃーない、餃子でも食いに行くか…

と宇都宮へ来る羽目に。
さて餃子は食った。しかし、まだ時間が余る。仕方ない、遊郭赤線のこと調べるか…と県立図書館へ。
それでも、時間的に資料だけ集めて今回はさいならやろな…のはずが、今回は県立図書館のおねーさんが大当たり。嫁…ではなく秘書として雇用契約を結びたいほどの有能っぷりでした。
おねーさんの働きによって、本来は小数時間かかろうかという資料探しが、約1時間半(コピー時間含む)で終了。次回でええやろと思っていた探索の時間が産出されてしまい、今回に至ったわけであります。

 

中河原町&剣宮町

 

宇都宮の赤線区域

まずは、上の地図の①へ。

宇都宮赤線

宇都宮の赤線(特飲街)は、この道の奥を入ったところにありました。住宅地図片手に歩いていると、赤線のエリアが手に取るようにわかります。
予習がてらに他の方のブログを見ていると、けっこう残っているかなと期待大だったのですが、旧赤線区域を歩いていてもこれという建物はありません。取り壊されてしまったのかしらん。

しかし、なかったというわけではありません。

宇都宮赤線

一つの家に扉が二つ…そして2階のバルコニーの形…テンプレ通りの赤線カフェー建築です。こちらは「安積屋」という屋号の店だったようです。

そしてその対面には…

宇都宮赤線台中軒

「台中軒」と書かれた中華・台湾料理のお店です。いかにも中華を主張するよう極彩色に塗られた円柱の濃い赤が特徴の建物です。
最近、中国人による「偽台湾料理」、つまり「台湾料理」と看板に書かれているのに中身は台湾人ではなく中国人スタッフの、ごくふつうの中華料理屋-看板に偽りあり-が地方を中心に出回っています。
今回は本題から外れるので詳細は書きませんが、ここもその一つか!?…と構えたものの、住宅地図を見てみると赤線現役時から存在した老舗。もしかして、日本一古い「偽台湾料理店」か!?(笑

このときは、ただ古い中華料理屋やなと写真を撮っただけでした。探索を終え、宇都宮からの新幹線の中で資料内の「特殊喫茶」を順に見ていたところ…

宇都宮赤線遊郭

なななな、なんですとぉぉぉぉぉぉ!!!

あの台中軒が「特殊喫茶」だったという2021年始まって以来の衝撃。
資料を見た瞬間、目からうろこどころか、新幹線の中で目自体を落っことしてしまいました。

経営者は朱某とあります。看板に「台湾料理」とあるので台湾人と思うのですが、台湾史家(いちおうこれでも主専攻(・・・)は台湾なので…)から見ると、台湾に朱姓は、まあいないこともないけれども…というくらいレア。台湾では陳・林・黄などの姓が多く、朱姓は中国の上海や江蘇省周辺に多い姓です。
ただの推定ですが、おそらく朱某は中国人、あるいは国共内戦で中国→台湾へ逃げた、台湾史の歴史用語でいう「外省人」と推定できます。

おっと、これ以上語ってしまうと本題から外れるので、台湾や香港などの姓については以下のブログをどうぞ。

 

 

何にしても、外国人経営の赤線業者は初見です。
あまりに意外すぎて呆然としてしまうことを、「狐につままれる」と言いますが、台中軒はまさに狐に化かされているような、いやいやこれは夢だ、夢に違いないという感覚です。
宇都宮の遊郭赤線記事は、ググっただけでも何軒もあるだけに、それだけこの「台中軒」を目にした人は多いはず。しかし、ここは全員ノーマーク。そりゃ見た目は、どこをどっからどう見ても「ただの中華料理屋」だから仕方ない。

それを知ってみると、この風貌は…円柱がどことなく赤線カフェー建築に見えてきた…人間の脳とはかくも勝手なものなのです(笑

 

気を取り直して、旧剣宮町を巡ります。

宇都宮赤線剣宮町

こんな細い路地にも、かつては店が何軒も立ち並んでいたそうですが、現在はこのように見る影もありません。が、その奥に「宝石」が眠っていました。

 

宇都宮赤線カフェー建築

現在も当時のまま残っていると思われる建物(旅館 千歳)です。玄関と窓の数から、「特殊喫茶」の中ではかなり大きい部類だったと思われます。

宇都宮赤線千歳

当時の住宅地図にも、同じ場所に「千とせ(千歳)」と記載されています。ここは売春防止法完全施行後、旅館に転業したのでしょう。
なお、実際い泊まった人のレポートによると、記憶は曖昧ながら四畳半の部屋が5部屋、そして六畳が2部屋とのこと。以前突入した貝塚遊郭跡にあるカフェー建築の2階(元接待婦の仕事部屋)も4~6畳の部屋がそれくらいの数だったので、「テンプレ通り」といったところ。
今度日光に行く時、ダメ元でここで泊まってみようかと思います。そろそろただのホテル(・・・・・・)にゃ泊まり飽きた(笑

 

旭町1丁目

住所別で見れば宇都宮、いや北関東最大規模の赤線だった旭町。中河原町でダウトも含めていくつか残っていたので、こちらもかなり期待大。

宇都宮赤線

戦後の一時期、この道の両脇には「特殊喫茶」が何軒も軒を連ね、夜になると赤にピンクのネオンが輝き、男と女の駆け引きが行われていたのでしょう。
しかし、現在その残滓は全くありません。時間の都合でチョー斜め読みで他の方のブログを拝見すると、いくつか残っていそうだったのですが…結論から申し上げて旭町には何も残っていませんでした。静かな住宅街になっており、聞こえるのは接待婦の嬌声ではなく子供の遊ぶ声でした。

 

亀廓跡を回る

次は戦前の遊郭があった「新地」を回ります。
前の中河原・剣宮・旭1丁目は私娼窟からの「グレードアップ組」ですが、新地の方は戦前からの遊郭⇒赤線化という流れ。戦後は後輩にすっかり吸い取られた感がありますが、遊里としてはこちらの方が先輩格なのであります。

中河原町の赤線跡から、宇都宮城址を横目で見ながら南下すると、こんな屋号の店がお出迎え。

宇都宮新地食堂

「しんち(新地)食堂」と書かれた看板のお店。
新地イコール遊郭というわけではありませんが、「そのままやん」と世の遊郭赤線探訪者の目を愉しませている一品です。ただし、外観の荒廃ぶりを見ると既に営業はされていない様子。

しかし!
昭和33年の住宅地図を見ると、この位置に「しんち食堂」は存在いたしません。つまり赤線現役時代にはまだ開店されていなかったことになります。確かに、「新地」の名前はインパクト抜群です。が、店の場所は新地、つまり遊郭から少し離れているので、名前だけで遊郭赤線とは(たぶん)関係ない。
聞いた話によると、宇都宮城址から遊郭にかけての道は、その昔「新地通り」と呼ばれていたようで、屋号もそれにまつわるものだったのでしょうか。

 

宇都宮新地遊郭

現在の新地はこのとおり。東西に延びる、周囲の道と比べて不自然な幅を持つ、遊郭時代の大通りが目印になっています。

遊郭・赤線跡探索は、それがどこにあったのかと特定する作業が一丁目一番地で必要です。
それはなぜかというと、経験値が少ないと知識不足と経験不足からくるバイアスで、すべてが「遊郭建築」「赤線カフェー建築」に見えてしまうから。これは遊郭初心者あるある。私もそうでした。駆け出しの頃、ブログに晒して何度叱られたことか(笑
図書館で資料(特に古地図)を探すのがいちばんの近道ですが、Google mapでも探すことは可能っちゃ可能です。それがこの「やけに不自然な道幅」なのです。

栃木県宇都宮赤線

これが実際の道ですが、やはり広いです。中央線を無視すれば、片道1.5車線分はあるだろう道幅、明らかに違和感ありですが、これも地理でわかる遊郭の残滓なのです。

 

栃木県宇都宮市遊郭

中河原方面から来ると、遊郭の入り口あたりの不自然な曲がり方に気づくことになります。山形の米沢編でも述べましたが、遊里の入口である大門が、見えそうで見えないのです。色里を目の前にしてイノシシ(十円札)を手に握りしめた一匹のオスは、嬌声は聞こえるけれども実体は見えない状態に理性も吹っ飛ぶ…これが遊郭の仕掛け。
パンチラも、見えそうでギリギリ見えないのがいちばんエロを感じるのと同じことです(笑

 

宇都宮遊郭

宇都宮遊里跡探索者が必ず挙げているのがこの建物。場所が場所だけに、これは間違いなく旧赤線の建物に違いない。

 

宇都宮市遊郭赤線河原町

入口を見ると、玄関の屋根を支える円柱の柱といい、建物を覆うピンクの塗装といい、そして玄関の大きさといい、これはかなりの大店だったに違いない。

しかし、誰もがこれが赤線の建物かどうか決めあぐねている模様。状況証拠的には100%どころか250%間違いないのだけれども、「とどめの一撃」がない…ブログに書いている方々の文章にはそんな悔しさを感じます。

そのフラストレーション、今回でGood-bye。
私が解消させましょう!

 

宇都宮赤線幸楽

ビンゴでした。謎の建物は元赤線の建物で確定です。
屋号は見てのとおりの「幸楽」。資料内の「特殊喫茶」一覧にも当然記載があり、当時の住所「河原町1087」を地番表で確認してもぴったしカンカンでした。戦前の遊郭時代には、ここに「福和楼」が建てられていました。

宇都宮遊郭

1948年と2010年の航空写真を比較してみても、上からの構図が変わっていないので当時からの建物かもしれません。「福和楼」の外観を特殊喫茶(カフェー)風に改装したか!?知らんけど。

 

宇都宮遊郭赤線

「謎の建物」と一続きになっているこの建物も、同じ「幸楽」だったことがわかります。壁の赤が、また「赤」線を想起させるのです。

屋号が「幸楽」とわかると、建物のある部分に目がいきます。

宇都宮遊郭赤線幸楽

家の模様かとスルーされがちなこれ、屋号の「幸」でした。ただの装飾にあらず、店のロゴだったというわけですな。
今まで誰もわからなかったことを解明する快感、これも遊郭・赤線跡をゆく醍醐味でもあります。空振りが多い調査研究の爽やかな清涼飲料水です。

さて、「難問」を解決したところで続きいきます。

宇都宮遊郭赤線

「幸楽」の前にある駐車場。ここには戦前の遊郭時代、娼妓用の診療所がありました。
『栃木県統計書』には娼妓の健康診断成績も残っていますが、昭和9年(1934)を例に取ると、宇都宮の新規名簿登録者、つまり新しく遊郭に入った女の数99人、うち性病保有者15人(保有率15.2%)。栃木県全体でも132人中17%が性病持ちとこちらも15.2%。性病は梅毒のように親から子へ伝染することもあるのですが、それにしても保有率の高さよ。
診療所は戦後すぐの航空写真では建物自体がなかったので、空襲で焼けてしまったものと思われます。

 

宇都宮遊郭

そして最後に、「幸楽」の横にあるこの建物。玄関横の出窓がいかにもという建物で他の方のブログでの登場率も100%ですが、私は少し違和感を覚えました。やけに奥まっていないか!?と。昔はこの建物の前に別の建物があったのではないか…
その仮説をもとに航空写真で確認すると。

宇都宮遊郭

やはりあの建物(赤で囲んだ家)の前には別の建物がありました。ということは、「特殊喫茶」ではなく、店の主の居宅だった可能性もありますが、ふつうの居宅にあの出窓は…という引っかかりもあります。
そして、前にあった建物は今となってはどういうものだったのか、想像しようもありません。

遊郭を「ブラタモリ」する

現場を歩くと、いや、現場を歩いたからこそあることに気づきました。

遊郭跡の西の方は、崖になっています。

宇都宮遊郭

ほぼ垂直で高さはざっくりで4~5m、後ろから押されて落ちたらこりゃ死ぬな…というくらいのプチ恐怖を感じる高さです。ふつうならここから飛び降りようにも躊躇(たじろ)うかと思います。

対して東の方は、現在は段差や高低差を感じませんが…

これが遊郭・赤線跡をゆくではなく「ブラタモリ」なら、ここでタモリさんが「?」から「!」となるでしょう。

 

大正時代宇都宮市地図

上にアップした大正後期の地図の「遊廓」の部分を改めて見ると…廓の三方は崖!?
無学ゆえの先入観を排除すべく、地理学専攻の方から確証を取りました。

これで発覚、なんでこんな所に遊廓が作られたのか。それは、ここが三方を崖で囲まれた高台だったからです。
かつての遊郭は、遊女の逃亡防止に四方を掘や塀で囲った廓が多く、吉原の「お歯黒どぶ」(現存せず)や、大阪の飛田新地の「嘆きの壁」が有名です(巻末にリンクを貼っておくので、興味がある方はどうぞ)。
亀廓が旧城址の麓の高台4に作られたのも、ここが崖で囲まれた天然の要害だったからこそだったのでしょう。そう、確か飛田の嘆きの壁も、あのベルリンの壁も、高さは約4mだったのだから。

本当は「ブラタモリ@遊郭址」とばかりに詳しく調べたかったのですが、新地の写真の光加減でお察しできる人はできるように、日没寸前につきタイムオーバー。興味ある方は「自然地理学的亀廓」のブログ記事でも如何でしょ。

 

餃子を食いに来ただけで遊郭・赤線跡探索の予定などなし、「すっぴん」では到底戦えないと、RPGよろしく「武器屋」(翻訳:図書館)で「武器」(翻訳:資料)を手にいれ望んだ今回の探索。まさかまさかの大収穫となりました。

他遊郭の記事はこちら!

 


・『栃木県史 通史編6 近代』
・『宇都宮市史 第8巻 近・現代編2』
・『栃木県警察史 上巻』
・『宇都宮繁昌記』(春圃居士/著 山内港三郎 1898)
・『宇都宮城下史』
・『うつのみやの歴史』
・『宇都宮市住宅明細地図 1958年』
・『最新 宇都宮誌 全』
・『宇都宮市全図(一部)』(大正後期)
・『昭和7年 栃木県地番表(宇都宮市)』
・『栃木県商工要覧 昭和30年』
・『宇都宮市商工要覧 1950年』
・『宇都宮市商工名鑑 昭和28年』
・『遊郭をみる』下川 耿史, 林 宏樹
・『赤線跡を歩く―消えゆく夢の街を訪ねて』 (ちくま文庫) 木村 聡
■Special Thanks
・宇都宮の遊郭史を紐解くため「中河原・亀遊郭跡」を練り歩いた!@知の冒険
https://chinobouken.com/nakagawarayukaku/
・栃木県宇都宮市『餃子の街に眠る竜宮城』@レトロな風景を訪ねて
栃木県・宇都宮市『餃子の街に眠る龍宮城』
崩壊したバブルと命運を共にした、まるでリーサルウェポンのような超有名巨大廃墟物件、クイーンシャトー。脳しんとうでも起こりそうな強烈な余韻を残した納豆の街を後にし、その足で向かったのは餃子の街、宇都宮である。無論、餃子を食べに来たわけではない
  1. 『栃木県統計書』
  2. 『赤線区域の業態実態』労働省婦人局編。数字は昭和26年
  3. 昭和30年代大阪府の資料より
  4. 木村聡『赤線跡を歩く』

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