釜ヶ崎のオカマと男娼の話|おいらんだ国酔夢譚 番外編|

釜ヶ崎の男娼関西地方の遊郭・赤線跡

釜ヶ崎…現在はあいりん地区という玉虫色の名前で呼ばれていますが、あまりに人工的すぎて現在でもその地を釜ヶ崎と呼ぶ人がいます。
日本でも有数の人間の刺激臭を肌で感じることができる場所として全国でも有名となり、存在に蓋をされた「大阪の暗部」として、現在も独特の存在感を示しています。

「あいりん地区」と聞いて、事情がわからない人が真っ先に思いつくイメージが、

怖い、治安が悪い…

だと思います。大阪人として不本意ではありますが、時には大阪の悪いイメージを強調する材料としても、ここが取り上げられることもあります。
確かに、3~40年前は子供が徘徊するような場所ではありませんでした。高校生の頃に友人と夜に徘徊したことがありますが、確かに雰囲気はあまり良くなく、酔っ払っているおっさんが道ばたで横たわり、歩いている人も目つきが異様な光景。
これは怖いなとジャンジャン横町あたりに逃げると、怖いおにーさんに呼び止められ、

ここはガキの来るとこちゃうさかい、早よ帰りや

とやさしく「教育的ご指導」をいただいたものです。一目散に退散しました。

しかし、30年以上の時を経た現在、あれは夢だったのかと思うほどクリーンになっています。数十年前のイメージが先行している人にとっては、なんだつまんないと逆に拍子抜けすると思います。
深夜に一人で丸腰で歩いていても、強盗どころかいるのは酔っ払いだけ。ご心配なく、いきなり後ろから殴られて財布を盗られたなどの経験は一度もございません。

あいりん労働福祉センター

日雇い労働者が24時間昼夜問わずたむろしていた、ある意味あいりん地区の負の象徴であった「あいりん労働福祉センター」も、2019年に閉鎖されました。ヘドロ臭を放っていたどぶ川が、行政の努力と自然浄化により清流になってしまった感すらあります。

釜ヶ崎がいつ「こんな町」になったのか?それは明治時代にさかのぼります。
明治初期の大阪の日本橋には、「明治の日本三大貧民窟」と後ろ指をさされていたスラム街がありました。町名を長町(または名護町)といい、そこは現在、電気屋や萌え萌え店が立ち並ぶでんでんタウンとなっています。
不衛生で悪臭に満ちた犯罪と疫病の巣窟、現在のでんでんタウンからは想像の「そ」もできない貧民窟、今は地元の人でもほとんど知らないと思います。

しかし、その残滓がないこともありません。でんでんタウン周辺をくまなく探索してみると、電気屋とメイドカフェの陰に隠れたあるもの・・・・があります。それは「市営住宅」。詳細は省略しますが、あれが過去に日本橋がスラム街だったことの残滓なのです。

そんな大阪最大の暗部も、明治18年(1885)の大阪コレラ大流行をきっかけに「貧民街クリーン作戦」に乗り出すこととなりました。さらに、隣の地区(現在の「新世界」)で第五回内国勧業博覧会が明治36年(1903)に開かれることが確定。行政・警察が全力を挙げて彼らを強制撤去させ、貧民街を壊滅させました。

しかし、それで貧民窟の貧民が消えたわけではありません。
彼らは次の居場所を求めて大阪のあちこちへ移動、そこに新たな「結界」を作りました。それが今の釜ヶ崎とされています。
が、「名護町」の住民が釜ヶ崎に移住した時には、既に日雇い人夫や遊芸人、そして犯罪者崩れの無法者が住み着く集落が形成されており、そこに「名護町」の貧民が加わり、現在の「釜ヶ崎」のイメージが出来上がったという説もあります。

地元の郷土史によると、

「各地よりの落伍者が集り、風紀衛生は醜汚で、思想も険悪極まり、警察官ですら職務を充分に執行しえない状態である。また行路病人が極あて多く、一般に貯蓄心にかけ、健康なときは酒肉に親しんでいるが、病気になると医療費はむろん、宿泊料にも困り、野宿あるいは徘徊する者、あるいはモルヒネ注射を行って中毒にかかるなど、遺憾に堪えざるものが多く(以下自粛)」

『今宮町史』今宮町編 大正15年

これでもかというほど、コテンパンにこき下ろされています。しかし、これが実態だったのでしょう。

そしてもう一つの謎があります。それが「釜ヶ崎」という地名自体。
古くからありそうな地名ですが、実は「名護町」貧民窟の人が移住してきた時にはこれといって地名はなく、「鳶田(飛田)」「今宮」「天下茶屋近辺の一部落」「関西線ガード下の紀州街道沿い」1と呼び名が一定していなかった上に、範囲もあいまいでした。

『花街――異空間の都市史』(加藤政洋著)によると、「釜ヶ崎」という固有名詞が出てきたのは大正時代に入った1915年からで、1918年の米騒動から定着したとしています。
大正後期あたりからは、「関西線ガード下から南海(本)線より東側にある木賃宿(ドヤ宿)が集まる所」と、我々がざっくりと想像するのとほぼイコールな範囲が明確になりました。

釜ヶ崎の形成の経緯をざっくり頭に入れたところで、ここからが今回の本題となります。

スポンサーリンク

釜ヶ崎-「オカマ」の故郷!?

この釜ヶ崎には、貧民街の他にもうひとつの顔がありました。それが「男娼」のメッカという側面。
「男娼」とは娼婦の男版のこと。いつから男娼のメッカになったのかは不明ですが、明らかなのは関東大震災で焼け出された「上野」の方々がここに多く移り住んだこと。「上野」の方とは東京の同性愛者や男娼のことで、当時は上野公園周辺が男娼のたまり場でした。

昭和11年の文章によると、今宮、つまり釜ヶ崎「男娼の街」っぷりが数字付きで書かれています。

釜ヶ崎の簡易宿に於ける男女の割合は男子が女子の三倍であって、その差は三千に及ぶのである。従って此の三千の過剰男子(下級労働大衆)を相手にする売笑婦の数も亦多いわけである。密淫売の置屋は三二軒にて、売笑婦は約八〇、その看視人は約三〇である。又男娼置屋は九軒にて、男娼は約一三〇人ある。
(中略)
彼等は八時頃から夜の十一時頃まで、絶へず客引に出て居る。昼間は其筋の目の届かない住吉街道の路地の入口や、地下鉄用地、今宮第三小学校を北へ入つた通や、四恩学園の北の通り、関西線の南側、阪堺線と東田交番へ通ずる道路の交叉点等に出没するのである。然し午後十時以降になると街道筋にも路地にも至る処に出没する。

男娼の中には下級俳優崩れや変態性慾者と知らずに遊んで自ら男娼に堕せしものや、又落ち者として拾われた少年が浮気して棄てられ流れ込んだものも多いのである。

男娼の仕込場所は主として天王寺公園の×××であって、次に一心寺裏、茶臼山、日本式公園の東屋等を挙げることが出来る。若し落ちものの少年があれば、京阪神奈良方面の紳士や富豪でその道の猛者が千金を惜まずやって来て、少年を風呂に入れ衣類も新調して白浜や有馬方面に遊湯に出かけ一週間もしてからそろそろ奥の手を出して一人前に仕込むのである。それが一人の主人に飽足らずして浮気をなし主人に棄てられて男妾から男娼に堕し今宮に燻るに至るのである。今宮は男娼と売笑婦の街である。

『売笑婦と男娼』

この文章から、戦前から今宮周辺は玉の井のような私娼窟になっていたことがわかりますが、明らかに違うのは、娼婦だけではなく「娼夫」もいて、しかも「婦」より「夫」の数の方が多い「男娼版玉の井」だったということです。

他にも、こんなことが書かれています。

密淫売、変態性慾者等所謂闇烏の跋扈、之亦(これまた)部落不名誉の一大特色である。
密淫売は大要之を(一)親抱、(二)自前「流し」、(三)美人局の三種に分類することが出来る。
親抱とは親方と称する媒合常習者に抱へられたもの、自前とは主として新世界、飛田筋等の盛場を流して客を曳き、宿屋間借等に連込んで淫行をなすもの、美人局とは夫婦者であり乍(なが)ら妻に売淫を為さしめ、夫が之を見張るものを云ふのである。
淫売は紋日等一日実に数十人の客を取り多額の対価を得てゐるものもあるが、中には親方等に搾取せられて、一日の収入は皆無のもの乃至(ないし)は二十銭のものもあるといふ。

変態性慾者は、俗にオカマと称する男性である。
彼は男性であり乍ら先天的に或は後天的に、女性的心理を有し、立居振舞、言語等全く女型で中には全然女の服装容色を造るものもあり、勿論専ら本能的に同性にのみ愛着を覚えるものであって、更に又一定の夫を持って据養(すゑやしな)ひをしたり、所謂売淫行為を事として暮すと云ふ洵(まこと)に厄介な存在である。

『今宮釜ヶ崎の特異性』(塩井文夫 昭和12 年)

興味深いのは、戦前には既に「オカマ」という言葉があったこと。スラングとしては既に世間で使われていたのでしょう。

釜ヶ崎・阿倍野の男娼

戦後に阿倍野の街角に立つ男娼(1948年1月『奇譚クラブ』より)

釜ヶ崎・阿倍野の男娼
釜ヶ崎の男娼(戦後のもの)

「変態性欲者」は、天王寺駅界隈から「釜ヶ崎」と呼ばれた現在のあいりん地区に集まり、「男娼婦」として春を売っていました。今のあべのハルカスの真下なんぞ、何十年前は男娼が立つ妖しい界隈だったのです。聞いた話ですが、1980年代までの阿倍野界隈の喫茶店は「男娼との待ち合わせ場所」も兼ねていて、コーヒーを飲みながら値段交渉したとかなんとか。

東京のオカマのメッカと言えば、隠語で「ノガミ」と呼ばれた上野でした。昭和初期から戦後すぐの上野公園は男娼のメッカでしたが、「彼女」らが総本山と崇めたのが釜ヶ崎。なぜならば、オカマ=女装した男娼という定義なら、おそらく釜ヶ崎の男娼が間違いなく日本初と言われています。

釜ヶ崎には、12歳からその道一筋、「飛田のエミちゃん」としてその界隈で知らぬ者はいないという上田笑子という人がいました。オカマは古くからいたのですが、「女装したオカマ」第一号と言われています。カルーセル麻紀氏も、その世界で生きるため「彼女」に挨拶に行ったそうです。

「彼女」はまた、「女装して客を取った日本初の男娼」だと自称しています。当時の男娼(≒オカマ)は、紋付袴や背広の男装に口紅を塗ったりして、見た目は明らかに「変態」。保毛尾田保毛男に和服を着せたような感じか、宝塚歌劇団の男役の真逆だったと。
釜ヶ崎のオカマの歴史は1923年の関東大震災後だと言われていますが、昭和のはじめには聖地と崇められるほどの「歴史と伝統」を持つコミュニティが、釜ヶ崎には成立していたのです。

この大阪の「オカマ史」、表の歴史、「A級大阪史」で語られることは絶対にありません。しかしながら、その裏街道に生きた「オカマ」たちも、「B級大阪史」、つまり裏大阪史を刻んだ人たちの一部なのです。

また、「オカマ」の語源はここ釜ヶ崎という説もあります。
オカマという言葉は、尻、または尻の穴という意味で江戸時代から存在していたといいます。車などで後ろから追突されたら

「カマ掘られた」

というのは、もともとの意味の名残です。
それが、いつから「女装する男性」のような意味になったのか。
最下層の労働者は近くの飛田の遊郭や、徒歩で行こうと思ったら行ける難波新地で遊ぶなんてのは金がかかりすぎる。しかい、男である以上性欲は溜まる。最近は「オナ禁」なんて言葉も流行っていますが、定期的に出さないと前立腺ガンの発生率が上がったり、メンタルがやられるといいますからね。

それはさておき、男娼の料金は飛田の半分くらいという話もあり2

しゃーないさかいカマ(釜ヶ崎の男娼)にしとくか…

が「男娼」を「カマ」→「オカマ」というようになったとか。あくまで一説にすぎませんが、「オカマ」発祥の地はここ釜ヶ崎だと「上野の方」も認めていたことなので、俗説乙と捨て置くわけにもいきません。

また、釜ヶ崎には「男の夫婦」もいたそうです。周囲公認の「夫婦」でもカミングアウトすることはなく、そして周りも余計な詮索をすることもなかったといいます。江戸時代から同性愛には比較的寛容だった古い日本文化の背景放射が、戦前まで残っていたのかもしれません。

NEXT:戦後の釜ヶ崎は?

  1. すべて明治後期の『大阪朝日新聞』より
  2. 玉の井私娼窟の料金も吉原・洲崎などの遊郭の半額だったので、私娼のレートはそんなものだったのかも。

コメント

タイトルとURLをコピーしました