神戸駅近くで発見された昭和の遺物-『貯蓄報国』と戦争

貯蓄報国昭和史

2021年、日付が10月に入る頃、Twitterであることがホットな話題になっていました。
JR神戸駅付近、JRの高架下にあった壁が解体されると高架を支える柱が剥き出しになったのですが、そこにはある言葉が書かれていました。

神戸駅の柱貯蓄報国

21世紀の時代には全く似つかわしくない、むしろ物騒ささえ感じさせるこの言葉。

日の丸の下には

「時間励行」

「貯金報国」

違う面には

「祈 武運長久」

と。歴史が苦手でも、

これは戦前の、戦争中の標語か?

と何かピンとくるものがあるかもしれません。歴史がわかると「武運長久」でお察しですが、わからないとオリンピックの標語か?とボケ回答が来るかもしれません。

さて、この標語は一体何なのか。

 

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「貯蓄報国」とは

「貯金報国」は間違いで、正しくは「貯蓄報国」。書き主め、さては書き間違えたな。
といっても、意味は同じなので大目に見ておきます。

 

昭和12年盧溝橋事件新聞記事

昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋での謎の発砲から始まった支那事変(日中戦争)は、同年12月の首都南京陥落でカタがつくかと思いきや、中国側も首都を漢口(現在の武漢の一部)に移し徹底抗戦の構えを見せ、長期化の様相を呈してきました。

戦争はタダではできません。当然お金がかかる。日本軍も短期戦の目論見が外れ、「聖戦完徹」のために戦費が必要となってきました。
そのため、政府は国民に貯蓄を奨励(・・)します。昭和13年(1938)4月16日には大蔵省に「国民貯金奨励局」が設けられ、昭和13年(1938)4月23日付『大阪毎日』では関西の財界人が

貯蓄頑張るぞ!

と出師の表のような長文を残しており、お国のための貯蓄に向けて気合は十分といったところです。
新聞記事によると、

 

政府は一ケ年八十億円を目標として国民貯蓄増進の一大国民運動を提唱しつつある。

引用:昭和13年(1938)4月23日付『大阪毎日』

というノルマを課しており、そのためには贅沢をやめよと国民に呼びかけていたことがわかります。

 

貯蓄報国

おそらく4月から始まった貯蓄報国の運動は、2ヶ月後の6月1日の発表によると郵便貯金が39億円、9月には42億円に達しました。
また、6月21日より「国民貯蓄報国強調週間」というキャンペーンが1週間行われたという記録もあります。
昭和13年当時の日本の人口は71,013,000人1。約7100万人といったところですが、一人当たりの「年間貯蓄額目標」は約114円。月換算で約9.5円ですが、昭和10年(1935)の大工の手間賃が約2円、陸軍下士官(軍曹)の月給が22円50銭(一等)の時代の9.5円はかなりキツい。もし我々がリアルタイムで生きていたら、これはけっこうな悲鳴だと思います。
その上、翌14年になると貯蓄規約例なるものが改正され、扶養家族がある者は給料の3~10%、ない者は15~55%を貯蓄に回せということになりました。そして、ボーナスも10%~75%を強制的に貯金に召し上げられることに。そりゃねえぜと弱音を吐こうものなら、この軟弱者とセ○ラさんに頬を叩かれることになります。

 

貯蓄報国

「貯蓄報国」の運動は、新聞記事の履歴を見ると昭和14年(1939)から15年(1940)にかけて目標額も上がり、昭和15年(1940)には100億から120億円にまで膨れ上がります。
もちろん、「奨励」という名で生活は縮小され、町のネオンの廃止、お歳暮・お中元の廃止、そして忘年会の自粛などが「奨励」されました。宴会やってる場合ならその金を貯蓄(おくに)に回せということです。

昭和15年(1940)1月10日付『神戸新聞』によると、柱の標語のお膝元兵庫県の郵便貯金の貯蓄高は、前年末で約2億5千万円。一人平均の預金高は73円10銭に達しました。

また、「貯蓄」は貯金だけでなく、生命保険の加入も含みます。郵便局の簡易保険、いわゆる「かんぽ」や生命保険会社の保険加入も奨励され、保険外交員はノルマ達成のために尻を叩かれ、国民から保険という形でお金を集めていたのです。

腹が減っては戦はできぬと言いますが、お金もないと戦はできぬ。
学校では中国や米英と戦争しました、すごく多くの死者が出来ました、終わりで淡々と進みますが、その裏にはこのような「貯蓄運動」という、戦費調達の苦い生活史がありました。神戸で「発掘」された柱は、戦争のために国民の貯金が使われていたことを今に語る生き証人なのです。

現在、この柱は工事のための防音カバーが付けられ、全容を見ることはできません。今後これがどうなるかはわかりませんが、昭和の語り部、そして戦争遺産として保存を切に願います。

 

  1. 『昭和国勢総覧 上』(東洋経済新報社 1980)

コメント

  1. 大阪球場 より:

    久しぶりに拝読しました。
    支那事変で思い出しました。
    ある冬の晴れた日、今まで寒かったのがウソのように和らいだ、春のようなポカポカ陽気。高校生だったぼくは、南海電車の普通で難波に向かっていました。1989年ごろだったと思います。平日の昼間の車内はとても空いていて、僕の前には着物を着たいい感じのおばあちゃん(恐らく70-75歳くらい)が座っていました。
    住吉大社駅から、まったく同じような格好をした同世代だと思われるおばあちゃんが乗ってきました。目が合ったおばあちゃん同士、軽く会釈して隣に座りました。他人同士ではありますが、おばあちゃん同士何か話し出す雰囲気でした。
    で、周りにいる誰もが、「今日はいい天気で何よりですなー」で会話が始まるかと思いきや、
    「支那事変の時は大変でしたなー」と話し出しました。
    周りのみんなも、いつの話してんねん、とずっこけてました。
    それ以来、支那事変と聞けばいつもこの時のことを思い出します。
    ネタではなく、本当にあった話です。

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