淳仁天皇陵-淡路島に残る唯一の天皇陵

淡路島

淡路島に住んでいた頃、マクドナルドが家から比較的近かったせいか、よく朝マックとばかりにマクドで食事をしていました。本来はモスバーガー派の私ですが、あいにく淡路島にそんなおしゃれなものはない。モスは都会に出た時の愉しみにとっておき、島流し中は庶民の味方マクドナルドを謳歌しようではないかと。
そのマクドの道を隔てた向こう側に、鬱蒼とした木々が茂った小山があります。

 

淡路島淳仁天皇陵

なんや、ただの小山に森やんと言われればそうなのですが、田園の真ん中にドカンと森が鎮座しておられる光景は、異様とは言わないが違和感はある。私のアンテナは、その違和感に反応したのでしょう。
写真はすべてが入るような遠景で撮っていますが、「ただの森」にしてはデカいし、一体なんなのだろうか。

百聞は一見にしかず、まずは怪しげな小山に近寄ってみることにしました。

 

淡路島淳仁天皇陵

小山の正面あたりまで近寄ってみると、この通り砂利が敷かれた厳かな佇まい。
大は仁徳天皇陵、小は名無しの陪塚まで、古墳ならそこらへんに掃いて捨てるほどある環境で育った私。この光景は幼いころから何度も見ています。これでピンときました。天皇陵やなと。

しかし、ある疑問が浮かびます。私が生まれ育った大阪なら、天皇陵ならそこらへんに転がっているので理解できますが、なぜ淡路島の、それも今でも何もない片隅に?

そもそも、これは誰のお墓なのか?

 

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「淳仁天皇 淡路陵」と書いています。
淳仁天皇?はて、聞いたこともない名前なので、その場でググってみました。

すると、そこには驚愕の天皇の事実が!

 

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淳仁天皇とは?その哀しき生涯

淳仁天皇淡路廃帝

淳仁(じゅんにん)天皇(733-765)は第47代天皇ですが、在位期間は758年~764年とわずか5年間。これでは知名度が低いのもやむを得ない。知名度がいまいちな理由はもう一つあるのですが、それはまたのちほど。

しかしながら、血筋は大変よろしい。

 

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作るのが面倒くさいので、Wikipedia先生から家系図を引っこ抜いてきましたが、淳仁天皇は天武天皇の孫にあたり、父親である舎人とねり親王も『日本書紀』の編さん責任者にして、政治的にもかなりの実力者でした。淳仁帝の即位前の名を大炊王(おおいおう)と言います。

このままだと血筋だけで高位に就け安泰のはずだったのですが、王が3歳の時に父の舎人親王が亡くなってしまいます。血筋よろしき皇族と言えども、後ろ盾がなければただの人。大炊王の幼少時はあまりよくわかっていませんが、かなりの苦労人だったと想像できます。

彼に光が当たったのは、奈良の大仏でお馴染み聖武天皇が亡くなった20歳過ぎの頃だと言われています。皇后光明子の威光をバックに勢力を増していた藤原氏の後ろ盾を得て、24歳で皇太子の地位に就きます。
当時の藤原氏の当主は仲麻呂でした。後に大炊王が皇位に就いた後、(藤原)恵美押勝(ふじわらえみおしかつ)に改名し、この名前で教科書に載っていることも多い人物です。
しかし、ここでは名前を藤原仲麻呂とします。

西暦758年、聖武天皇の娘である孝謙天皇が大炊王に譲位し、事実上の政治的最高権力者である藤原仲麻呂のバックのもと、ここに第47代天皇、淳仁天皇が誕生します。

ここまでは、特に波風が立つこともなく順風満帆でした。

 

権力闘争の果てに

しかし、ここからが泥仕合の始まりでした。

760年、光明子が亡くなります。
そこで本性を表した(?)のが、いったんは譲位して上皇になっていた孝謙天皇。かなり権力欲が強かったらしく、光明子という重しがなくなった後は権力の牙を剥き出しに。そこで、自分に近づいてきた僧、道鏡と組んで権力奪取を目論みます。

この道鏡、伝説によるとイチモツがとてつもなく大きかったと伝えられています。
真偽のほどは定かではないですが、孝謙天皇とはねんごろな仲として今に伝えられ、

道鏡は座ると膝が三つでき

道鏡に根まで入れろと詔

という川柳が江戸時代に作られるほどでした。つまり、道鏡は持って備えた「10インチ砲」(妄想)で天皇をヒィヒィ言わせたということです。
二つ目は傑作ですが、見方によってはかなり際どい、放送禁止コードスレスレの川柳です。
道鏡と出会ったのは孝謙上皇43歳の時ですが、43歳なら…まあそういうこともあるかな!?年齢を重ねた後の恋は、若い頃より燃え上がると言いますし。

淳仁天皇と藤原仲麻呂は道鏡との仲を注意するものの、上皇は言うことを聞かず。
それどころか、

せっかく淳仁に譲位してやったのに、あいつら(天皇と仲麻呂)あたしの言うこと聞かないし、口答えばっかりする。だいいち、道鏡とウフフな仲だなんて、あいつらにどうこう言われる筋合いはないわよ!

わかったわ、あたし出家して道鏡と別居する。これなら文句ないんでしょ!

でもね、あいつらに政(まつりごと)なんか任せてられないから、あたし自らやる。淳仁、あんたは権力没収

と豪快に逆ギレ。
さらに遣唐使の一人で、藤原仲麻呂によって中央から退けられていた吉備真備も上皇側の参謀となり、ドロドロの政治権力闘争となりました。これで、最初は比較的良好だった孝謙上皇と藤原仲麻呂の関係が崩壊。
淳仁天皇はその板挟みに苦しめられたとも、いや、積極的に仲麻呂のフォローに当たったとも伝えられていますが、文献には出てこないので真相はわかりません。

 

藤原仲麻呂の乱

焦った藤原仲麻呂は天平宝字8年(764)、軍事クーデターを起こすべく上皇側に刃を向けることとなります。
しかし、彼が信頼していた家臣に密告され、上皇側は先に手を打ちクーデターは失敗。藤原仲麻呂は逃亡中殺され、残った一族も殺されます。

淳仁天皇は仲麻呂側につくことはなく、かといって上皇側でもない中立でした。その理由は記録にないので定かではないですが、中立なのに乱の平定後、

あんた、仲麻呂とグルになってあたしを貶めようとしたでしょ、わかってんだからね!だから、あんたには天皇辞めてもらうわよ!!

と孝謙上皇に言いがかりをつけられ、退位させられた上「淡路公」として淡路島に流されます。

邪魔者がなくなった孝謙上皇は、第48代称徳天皇として再び即位します。いったん退位した天皇(や中国皇帝)が再び即位することを、「重祚(ちょうそ)」と言います。
これで心置きなく称徳天皇と道鏡は毎晩ムフフな営みを・・・ではなく(あったかもしれませんがw)、事実上の独裁政権を敷くこととなります。

 

と、ここまで書くと孝謙=称徳天皇のわがままっぷりどダメ女ぶりだけが全面に出てしまっていますが、あえて孝謙帝を庇うとすると。
藤原仲麻呂は、淳仁天皇時代に自分の名前を、「恵美押勝」という唐風の名前に変更します。藤原仲麻呂は今風に言えば「親中」で、中国は何でも素晴らしいと権力を使って朝廷を「中国化」しようと画策しました。「左大臣」「右大臣」は「大傳」「大保」となり、年号も「天平神護」など唐風の四文字に変わりました。今の政府組織で言えば、「総理大臣」が「国務院総理」となり、衆議院と参議院が「人民代議員大会」に、大阪府が「大阪省」になるようなものですね。それはちょっとご勘弁いただきたい。

孝謙天皇は、仲麻呂による急速な「中国化」に対し反感を持ち、ストップさせようとした保守派の鑑という見方もできます。事実、孝謙天皇は重祚後すべてもとに戻しています。

その後の淳仁天皇

淳仁天皇は「淡路廃帝」という哀れな呼び名をつけられ、母親の当麻氏と3~4人のお供だけを率いて淡路島に流されます。

「廃帝」とはあまり馴染みがない言葉ですが、日本史で「廃帝」と呼ばれた人は、淡路廃帝の他に2人います。

近江廃帝(大友皇子→39代弘文天皇)

九条廃帝(85代仲恭天皇)※後廃帝とも

しかし、近江廃帝は戦乱のさなかで即位すらしないまま死亡しているので、名誉天皇のようなもの。九条廃帝は4歳で祀り上げられたものの、即位式(即位の礼)も行われないまま78日で退位しています。この78日は、日本一在位期間が短い天皇の記録となっています。
淳仁天皇は少なからず天皇としての体裁は整い、仕事はしていたという意味で、日本史唯一の廃帝という見方をする人もいます。

しかし、天皇の地位は追われたとは言え、淡路公という親王扱いでした。
そこで、異説が出てきます。淳仁廃帝は言われているような流罪ではないと。特に地元の郷土史家の間で議論が活発になっています。
勅撰歴史書の『続日本紀』によると、

『続日本紀』より帝位を退け賜ひ親王の位を賜ひて(中略)淡路国を以て大炊の親王に賜ふ

淡路島ごと与えるということやから、これ流罪ちゃんやん、今風に言えば転勤やんと。

しかし、これは今の日本の組織によくある、「栄転という名の左遷」でしょうね。元とはいえ天皇なので罪人にするには忍びない。本人の名誉のために、淡路島の主として「人事異動」扱いにしてあげると。
その証拠に、淡路に引越しといっても国司の厳重監視付きでした。それも称徳天皇自らの勅令で(勅令なので記録に残っている)。程のいい軟禁だったというわけでしょう。

その頃、奈良の朝廷には反称徳派や道鏡を快く思わない者もたくさんいました。称徳帝政権は今風に言えば独裁政権そのものな上に、称徳天皇が偏屈だったのか周囲の言うことを聞かず道鏡べったりだったので、それなりの不満分子が発生します。そんな彼らは淳仁廃帝を慕い、商人などに化けて淡路参りをする貴族も現れました。そこそこ人望はあったようです。
しかし、

あいつを放置しておけば自分の地位が危うい!

と称徳天皇側は恐れました。これは独裁者によくある思考です。
そして、廃帝は淡路へ流された翌年の西暦765年のある日、突然亡くなってしまいます。この時の淳仁天皇はまだ33歳でした。

『続日本紀』によると、

「淡路公、幽憤に勝(た)えずして垣を踰(こ)えて逃ぐ、(中略)還りて明くる日院中に薨しぬ」

と簡単に書かれています。

簡単に書くと、幽閉先から脱出しようとしたものの、追手に捕まり翌日に死亡したということですが、逃げた際に重傷を負ってそれが原因で死亡したのか、逃亡に失敗して自決したのか、それとも逃亡のどさくさに殺されたのか。

鎌倉時代初期の歴史物語『水鏡』は、「逃亡のどさくさに殺されたんでしょうね」と「暗殺説」を唱えていますが、鎌倉時代初期と言っても淳仁帝が亡くなって400年以上が経っています。真実は鎌倉時代時点で、既にわかんないと片付けられているということです。

淳仁天皇の扱いは、称徳天皇の目が黒いうちはなんとも出来なかったのですが、帝が亡くなり道鏡も追放された772年、第49代光仁天皇(平安京の桓武天皇の父)は僧侶を派遣しその魂を鎮め、778年に山陵扱いとされました。
また、それまで存在した女性の天皇は、その後850年間現れることがありませんでした。女性天皇は江戸時代に二人即位していますが、いずれも男子のセットアッパー(中継ぎ)か上皇のロボット。史料は何も語りませんが、朝廷は孝謙=称徳帝で懲りて、女帝はもうこりごりと学習したのかもしれません。

しかし、だからといって淡路廃帝の名誉が回復することはなく、そのまま数百年、いやさらに時が経ちました。

そして1100年後…

暗殺にしても憤死にしても、淡路廃帝は安らかな死に方をしなかったことは確かです。
非業の死を遂げた淡路廃帝は、本来なら怨霊として鎮魂の対象となるはずです。本当に怨霊となったかはわかりませんが、淡路廃帝という不名誉な名前を引きずったまま、時は流れました。

 

淳仁天皇陵白峯神宮

時が経つこと1100年。明治天皇は流罪先で亡くなった崇徳天皇の魂を鎮めるべく、京都に白峯神宮という神社を造営しました。

その後、淡路廃帝の御霊も明治6年(1873)、淡路から白峯神宮に移され、合祀されることとなりましたが、さかのぼること3年、明治3年(1870)に正式に天皇としての名前が与えられ、淡路廃帝から「淳仁天皇」となりました。

不本意なまま天皇の地位を追われ、「淡路廃帝」という不名誉な呼び名をつけられて1100年、やっとこさ名誉回復したというわけです。近代になって「追加」された天皇なので、知名度がいまいちな理由もこのためなのでしょう。

 

この白峯神宮は現在、2つの意味で有名です。
一つは、蹴鞠の里として。春の大祭や7月7日には奉納蹴鞠が行われますが、前者は淳仁天皇の魂を鎮めるためのものです。そこから「サッカーの神様」となり、特に予選を含めたワールドカップの時期になると参拝者が殺到、絵馬の数がすごいことになるそうです。
サッカー以外でも、武道を含めたスポーツ全般の神様として参拝者が絶えません。

 

もう一つは、京都最大級のパワースポットの一つとして。
白峯神宮は元々、第75代崇徳天皇の魂をお迎えさせるための神社です。この崇徳天皇は当時の後白河法皇に反旗を翻したものの、平清盛・源義朝などによって鎮圧され、讃岐に流されました。これは学校の歴史で、「保元の乱」として必ず出てきます。

学校の授業ではそれから源氏と平家の対立となって・・・と続くのですが、流された天皇のその後はどうなったのか。天皇は恨みのあまり舌を噛み、その血で呪いの言葉を書いていたとも。

ワシは日本の大魔王となって永遠に災いをもたらしてやる!!

と深い怨念を抱きながら亡くなったと伝えられ、死後の棺から血が滴り落ちたとも。
死後も京で天然痘が流行したり、政敵であった後白河法皇が平清盛にクーデターを起こされたりと、京や皇室に不吉なことが連続し、ついには武家に政治権力を奪われることに。
それから明治時代まで、朝廷に権力が戻って来なかったのですが、これも崇徳天皇の呪いだと、「日本で最も恐れられた怨霊」として恐れられていました。
そして幕末の大政奉還で権力が朝廷に戻り、再び奪われるのをおそれた明治天皇が京都に神社を建て、天皇の御霊にお帰りいただいたというわけです。
しかし、怨念のマイナスパワーは健在と伝えられ、すさまじい「魔界スポット」なんだとか。その分、パワーはすごくご利益も強烈だと伝えられています。

淳仁天皇の怨霊伝説は聞いたことがないですが、「怨霊神社」こと白峯神宮に、「大魔王」と一緒に祀られていること、そして他の廃帝や流罪となった上皇などを差し置いているという点を考えると、淳仁天皇も皇族の中では怨霊として恐れられていたのかもしれません。

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